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2006/12/27

とても鮮やかな、深みのある赤

過去というものは、物理的事実としては
もちろんフィックスされてはいるが、
 現在から見てどのような姿で
現れるかということは、
 もちろん時々刻々と流動的に変化していく。

 「創造する」ということが、
多くの場合に「起源」へと遡る
ことを意味するのは、
 「起源」の中にこそ、形が整い、
固定化され、一見不変なものとして
さまざまなものがあるという「現状」
からは隠蔽されてしまっている
 もともとの流動性が現れる
からであろう。

 起源問題を追究することは、隠蔽されているものを
明らかにすることであり、
 そして固定化してしまっているものへと
流動性を再び呼び込むことを意味するのであろう。

 『源氏物語』において、光源氏のあまりの
美しさに触れた宮廷の人たちが、
 「この、古から見れば堕落してしまった時代に、
なぜこのような美しさが可能なのだろうか」
と驚く箇所がある。

 起源にさかのぼる程純粋で、美しい姿が
あるという考え方は、
 古代のギリシャや中国にもあり。

 低次のものから次第に高次のものが
できあがっていくという進化論的な
世界観とはちょうど眞逆であるが、
 いわゆる「堕落史観」は、
 起源ということに関する何らかの真実を
表しているのだろう。

 『欲望解剖』ができあがった打ち上げで、
電通の佐々木厚さんが元締めとなって
 Maxi Vinでワインを飲んだ。

 白洲信哉が来た。
 いろいろと話した。

 彼は、角度によって、モーツァルトの
有名な肖像画に似ている。

 前に言われたことがなかったかと聞いたら、
言う人はいたけれども、
 お前ほど確信を持って言うやつは
いなかったと信哉が答えた。

 「お前があまりそんな風に言うもんだから、
この前ウィーンに行った時、絵はがきをたくさん
買っちゃったよ」
とシンヤが言うので、私はあははははと
笑ってシャンパンを飲んだ。

 シンヤがモーツァルトに似ているということは、
きっと何らかの起源問題にかかわっている。

 子どもの頃を思い出して、
浮き上がってくることは時によって変わる。

 ものごころがつくかどうかの頃、
なぜか赤のものばかり欲しがった時期があり、
 帽子も、小物を入れて持ち歩く編みバッグも
何もかもせがんで赤にしてもらっていた。

 私が求めていたのは、
 とても鮮やかな、深みのある赤だった。
 今でも、その幻を心的風景としてはありありと
思い出すことができる。
 
 それが、ある時、赤は「女の子の色」
だということに気付いて、
 ぴたっと持たなくなった。

 赤というものを好んでいた自分を、
封印してしまって、
 他人のような顔をした。

 あれは一体何だったのか、
時々思い返してみる。

 斎藤英喜さんの『読み替えられた日本神話』
(講談社現代新書)は、『日本書紀』をはじめと
する日本の神話が、中世を通していかにダイナミックに
読み替えられていったかを論じる。

 テクストとしてフィックスされた過去が
どのように映るかということも、また流動的に
変わる。
 
 過去には自己像の起源があり、そして
その変化の中に、私たちは現代と未来の自分の
姿を見る。

 過去は、私たちに開かれた唯一の未来なのだ。

12月 27, 2006 at 08:50 午前 |

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人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、 また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、 アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。 ********************************************** 宛 先 ... [続きを読む]

受信: 2006/12/28 6:20:24

コメント

赤色で自分の内面を表す場合、ビビッドな赤は健康的で内面からの溢れるエネルギーの表現とか。私は水色と薄いピンクの配色がすきでした。
子どものころ好きだった色って、その人の本質の表現だったりするかもしれないですね。

投稿: | 2006/12/28 0:04:22

出来上がったなもの、既成のものの奥底にそれらの起源のようなものがある。それは何処にでも、どんなものにでもある。それは真の流動性を秘めているという。

もろもろのものの中に潜む起源を辿っていけば、そこに何故か純粋で美しいものの気配が隠されている。それは譬えて言うなら水のような流れやすいものだろう。それはたとえば、茂木健一郎という個人がこの世に生まれて来る以前の母の胎内での「記憶」かもしれない。

茂木先生が小さい頃に求めていたといわれる、トテモ鮮やかな、深みのある赤は、先生がまだ母上の胎内にいたころに感じていた、安らぎと暖かさをともなう赤だったかもしれない。

人が胎児の頃に、いわゆる色覚が目覚めるかどうかは専門外なので分からないが、ひょっとしたら、肌の感覚で色を感じていたのかもしれない。飽くまで仮説ですが。

茂木先生が幼少の頃赤を欲しがったのは、多分、その胎内での記憶がまだ残っていたからかもしれない。

小さい頃は赤が好きだったフラワーピッグは、おとなになって学者になったら、白や黒や茶色の似合う、ダンディーでキュートな紳士になりました。

しかしフラワーピッグの心にはいまでも、鮮やかな深みのある赤を欲しがった、小さい頃の風景が幻のように浮かんでくる。それは、ひょっとしたら、母の胎内に彼が居た時感じていた、暖かい「赤」だったのかもしれない…。

そしてそれが茂木先生にとっての「色覚の起源」なのかもしれません…。
…いや、ついこんなコメントになってしまいました。失礼しましたm(_)m

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/27 18:44:52

固定と流動、閉鎖と開放、既成と起源のあいだを行き来するのが意識や言葉の姿なんでしょうか。固定の最たるものは言葉による表現でしょう。しかし、言葉で表現しようとしているものは意味といううごめくもの。流動する意味を言葉でなんとか縫い付けようとするのですが、どっこい意味はするりとすり抜ける。言葉を言葉だけで理解しようとすると見落としてしまうものが出てくる。コトバ主義はコトバだけで飛ばすことも自己回転することもできる状況ですが、自分がコトバ主義であることすら感覚できないところに陥る。意味は流動し、意味は流出し、意味は浸透し、意味は自由に気化する。言葉と意味、固定と流動の両方の存在を見つめ、その境界を自由に行き来することが聡明ということのように思えます。

投稿: | 2006/12/27 9:33:51

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