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2006/12/23

ぽっと光が灯った

毎日時間に追い立てられていると、
 感覚がまひしてきて、
いつも何かやっているのが当たり前という
感じになってくる。
 
 海に棲んでいるほ乳類は、こんな感じなのか
とも思う。

 「はっ、そうか。おれは、定期的に水面に
浮上して、呼吸しなければ死んでしまうのか」
と気付いてしまうと、
 そのことが気になって気になって仕方が
ないようにも思えるのだが、
 習慣になってしまえば何のことはない。
 その空気の中で微睡んで、仮想を
羽ばたかせることができるようになるのだろう。
 
 毎年恒例のThe Brain Club Xmas Special。

 ゼミのメンバーが、それぞれ出し物を
持ち寄って、最後に投票で優勝者を決める。

 今年は、野澤真一と柳川透の二人が
同点で優勝した。
 
 今年で5回目で、歴代の優勝者は
次の通りである。

 関根崇泰 須藤珠水 関根崇泰 田辺史子

 田辺が今年は参加できなかったのが残念だった。

 優勝者が二人出たので、私が用意していた
ささやかな商品は、とりあえず先輩にということで
柳川に渡った。


 優勝して喜ぶ柳川透。後ろにに野澤真一が見える。 

 クリスマスは、Season of good will。
 ちょっと
ほっとして、
 ふだんの緊張がゆるむような、
そんな季節。

 肝心なのはなんといっても光で、
 冬の寒々とした景色の中に、
あるいは夜の暗闇の中に、
 明々と光が照り輝く、
 そこにこそ「クオリア」
という視点から見たクリスマスの本質がある。

 つまりは、光の祭典。
 だからモミの木の上にも星が輝く。

 クリスマスという風習自体は、
原始キリスト教にヨーロッパなどの
様々な土俗の習慣が寄せ集められて
できあがったものなのだろうが、
 それが日本にやってきて、
独自の発展を遂げた。
 
 節操がないという人もいるのかも
しれないが、
 それで良いのではないかと思う。
 長くなるが、『生きて死ぬ私』から
関係する部分を引用する。

「宗教的感情は、ばらばらの要素から出来ている」
(茂木健一郎『生きて死ぬ私』より)

 ヨーロッパの街を旅すると、まず目に付くのは教会だ。教会の中に入ると、美しい深い色にあふれたステンド・グラスが心を打つ。自分の立っている大地自体を揺るがすようなパイプ・オルガンの音を聞いていると、キリスト教徒でなくとも、心が不思議で神秘的な思いに満たされる。
 ところで、私たちは、ステンド・グラスの色彩や、パイプ・オルガンの響を「キリスト教」という特定の宗教に結び付けて考えている。このような結び付きは、歴史的、社会的な理由でつくられたものだ。
 実際、私たちの頭の中で
 ステンド・グラス、パイプ・オルガン ⇔ キリスト教
という結びつきは、あまりにも強いものになっている。そこで、私たちは、ステンド・グラス、パイプ・オルガンが、キリスト教の儀式を助ける道具であるということを忘れてしまっている。キリスト教という宗教の特徴自体が、ステンド・グラスやパイプ・オルガンによって決められているとさえ感じられるほどだ。
 だが、本来、ステンド・グラスやパイプ・オルガンがキリスト教の要素として考えられなければならないという理由は何もない。そもそも、キリストが生きた時代には、ステンド・グラスも、パイプ・オルガンもなかった。キリスト教とこれらの「アイテム」の結び付きは、歴史的に形成されたもので、偶然的要素がかなり入っている。別の歴史的展開があれば、仏教と、ステンド・グラスやパイプ・オルガンが結びついていた可能性もあったろう。そのような歴史があれば、木魚の音ではなく、パイプ・オルガンが、仏教という宗教を心に思い浮かべる時に連想されるものだったろう。
 (中略)
 そもそも、宗教というものは、ばらばらの要素からできているのだ。未来において、人類にとって宗教的なものがどのような意味をもつかを考える時には、宗教というものを縛りつける既成の枠組みをとりはらって、宗教的体験の一つ一つの要素を別々に考えた方がよい。
 キリスト教、イスラム教、仏教などの既成の宗教が、堅固な一体性、体系性を持っているように思いがちなのは、これらの宗教が、それぞれ、イエス、マホメッド、ブッダという、一人の個人の具体的な人生の物語に支えられているからだ。私たちは、一人の「私」としてこの世界に生まれ、「私」として成長し、「私」として死んでいく。一つの原子には歴史はないが、「私」というシステムには歴史がある。そして、この、「私」という存在は、時間的、空間的な発展の中で統一された単体として存在し続けるように思われる。恐らくは、「私」という統一体の存在は、フィクションに過ぎないのだろうが、私たちは、とりあえずはそのようなフィクションを信じつつ生きている。
 キリスト教、イスラム教、仏教は、イエス、マホメッド、ブッダというという「統一された」個人の宗教的覚醒、伝道、受難、そして死という生涯の物語と絡み合うことによって、それぞれの宗教としての統一性が保たれている。もし、このような個人の生涯との結びつきがなかったとしたら、それぞれの宗教は、その個々の体系性を保つための仕組みを失ってしまうだろう。
 正月には初詣でに行き、結婚はキリスト教で、葬儀は仏教でやり、クリスマスを祝うという日本人の宗教習俗は、時には節操がないと批判される。だが、そもそも既成の宗教の体系性がフィクションに過ぎないのだから、このような批判には本当は根拠がない。初詣でには、「清め」、「決意」、「祈り」といった感情が込められている。一方、キリスト教式の結婚には、「誓い」や「絆」といった思いが込められている。そして、仏教式の葬儀には、「解脱」や「極楽浄土」といったイメージが結びついている。日本人は、このような異なる宗教的感情を、それぞれ適したフォーマットで表現しているだけだ。私には、このようなやり方は、既成の宗教のように、本当は存在しない偽りの体系性=フィクションを強制するやり方よりも、ある意味では先進的だと思われるのだ。 
 そして、このような宗教的な感情を構成する要素も、結局はクオリア=私たちの感覚に伴う独特の質感に帰着できるのである。あえていおう、宗教的感情は、クオリアである。なぜ私たちの心の中に、そのようなクオリアが芽生えるようなメカニズムが用意されているのか、そのことこそが問われるべきなのだ。


 まだまだたたかいの日々は続くが、
ほっと一息。

 柳川のうれしそうな顔を見て、
私の心にもぽっと光が灯った。

12月 23, 2006 at 10:03 午前 |

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世間ではクリスマス・イヴでもうクリスマスは終わり、飾りもすっかり取り払われたりし [続きを読む]

受信: 2006/12/27 17:28:40

コメント

だれかのうちのひとりです。
人生の一瞬。そうですね。
不思議なご縁に感謝します。

サラリーマンNEOで茂木さんが、素晴らしいことおっしゃってました。

いろんなことを引き受けて生きること。

どこかで皆つながっていることを信じつつ。

どうかみなさまよいお年をお迎えください。

投稿: 平太 | 2006/12/26 10:29:44

             書けばいい

   何処でもいいから 書けばいい  だれかが  見てる

      同じ 時を生きる  不思議な 縁

            千年も生きられない

投稿: 一光 | 2006/12/26 6:09:14

        

偶然    今年もあと一週  ずっと気になってた名前  ちとせ 。☆

  

投稿: 一光 | 2006/12/25 12:40:07

柳川さんいいですねぇ~!!お見受けするところ商品はズバリ!ipodでしょう。。? 私も欲しかった!(無関係者でずうずうしいですけど。)nanoはバッテリー切れ早くて参ります。メンテ?無料期間もまだまだ先のお話なのに、もう片足棺桶状態です。ちょうど新しいnanoも出ましたし、買い替え時かと?(半年未満なんですけど)自分で納得している真っ最中です。ん~、ここ最近の私!ハガキ沢山出しましたから懸賞で当てたりして勝ち取り!

投稿: abekaori | 2006/12/25 9:17:07

つまりは、光の祭典。
 だからモミの木の上にも星が輝く。

今回「武士の一分」をみていて「そのうまさゆえ」光が馴染まないということにクオリアしたとうな気がしました。メリークリスマス。

投稿: 飯嶋 | 2006/12/25 9:14:08

東京にきて渋谷の町を何度か行き来した。神様(?)があーでもない、こーでもないと街頭演説を横目に歩く。横断歩道を渡るとそこにはその神様の事を謳うプラを持った子供。ただ只、悲しくなった。

投稿: abekaori | 2006/12/25 9:00:42

to-平太様
私は子供の頃、嫌な事を勉強のできる人からされて、それ以来勉強をする時、その人たちと同じ様になってしまうという脅迫観念にとらわれ、少しでも、分らない事があったりすると、必要以上に後悔と自責と怒りの感情が出てきて、体が硬直してしまったことがあり、手が震えて、心身にてんかんのような症状が出ました。中学の数学を一切勉強しませんでした。もちろん、それ以外の勉強も出来ませんでした。健康状態を崩し、学校に行くのがとても辛くなったことがあり、部活動も出来なくなって、緊張のあまり、姿勢が悪くなったのです。なので、デザインの勉強と映画を見ることを変りにしていたのです。最近やっと、自分は生真面目だから、このような無神経な勉強する事を正しく行わず、人に対する嫌がらせや存在否定の道具、また、勉強を積極的にする姿勢をみせて、どんどん間接的に歪んだ価値観の仲間の輪をつくって、よく発言していた、私が生意気だと陰口を広めて友達とも影でうるさいなどと意気投合しあう人間に手を使わない暴力をよく受けます。今の父親も数学的思考には優れていますが、それを八つ当たりや言葉を点でばらばらにまとまりのないように組み立てて、質問や何で屋とこれ以上否定できない事を私に、問い詰めて、説明できなくなって、それが出来ない私がアタマが悪いんだという風にして、私をさげずみ、話を聞かないようにしたり、これ以上しゃべったことについて説明できな所まで問い詰めて、問い詰めても結局その答えが分ったところではじめの話と完全にかけ離れた、事をしゃべらせるので、ほんとうに父と私のやるべきことについて、相談すると、お金がかかるだの、めんどくさいだの、なんでや!だの、問題解決と実行に写ることを徹底的にしたくない気持ちをぶつけてきます。わたしは、たたかれたり、する暴力もよく受けましたが、言葉の機知を使って、答えられない事まで無駄に考えさせられて、答えさせられて、結局ストレートに私の言ったことを考えれば、すぐ解決できる事を数学的な定義や、鉄則や普遍の答えを、日常の些細ではあるが、単純に考えればいいだけのことを父は、行わせてくれません。結局、めんどくさいということや、父は陰気な性格でずっと一人ぼっちで少し心の病気を持っていること、また、知力は高いが言葉に頼らないで自分で他人の生活スタイルを歌が得る日常や服をきるとか物を整理するなどの思考能力が極めて確立されていない。とにかく、物を片付けられないし、掃除が出来ない。何でも、お金で解決しようとして、自分の失敗を私になすり付ける癖、質問攻めにして自分で他人の問題を解決しようという
余計な損失感情がしつこくあります。一度老人科に見てもらいましたが、平気で嘘をついてしっかりしているフリをしたので、お医者さんも様子を見ようと正常であると診断されました。ただ、怒らないで下さいねといわれたので、やっぱり嘘は見抜いてらっしゃるようです。今日も車のなかで、お金の問題や私に関するシビアな話について、ふざけすぎていました。怒ると、急になんでだ、とか話が飛び飛びに質問されて、結局、車を降りろとかいわれて、「なんで、私が悪いように言われないといけないの、八つ当たりをするから、神経がものすごく辛い、おかげで顔が引きつってひどくゆがんでしまった。」まえから、気になっていたが、顔面麻痺に近いぐらい、顔が引きつってしまってもともとのブリティッシュショートヘアーみたいなにこっとした顔じゃなくなってしまったのです。すると、父親はじりじりと八つ当たりをしていたのに、とっさに、我に返って「すまんかった。わかった、パンを買いにいくからな。ちょっと寝なさい。」といって方に手をやって私を見送ったのです。やはり自覚しだしました。ボケを突き止めて本人をののしろうといいうわけではないです。しかし、このボケ症が一家の行動指針をになっているので判断がとっても怖い。数学的鋭利な知性が病むととっても神経にキヅを付けられたように痛みます。穏やかな人がぼけると、まだましですが、口の立つアタマのいい人がボケたら、とっても手が付けられない。ものすごくきつく神経に当たられるひどい状態です。とっても辛いです。顔が引きつって姿勢が元に戻りにくいです。口の閉まりが悪くなって勉強や思考することがとっても嫌になるアタマのいい人にボケられました。勉強が得意な人が悪い事をすると勉強をする気が一気にうせます。余計に、生きていくための教養が身に付けられなくなって、自分の考える力がなくなっていってしまいます。
「人の財産は心とアタマだけだ」とピー太さんのお父さんはいわれましたが、私の父は心がなくなっていっているようです。
「アタマで全てを行われると、こっちの神経が振り回されて酷使するので健康に悪いです。とても辛いですが、ピー太さんのソフトな思考を真似て、どうにかやってみますね。」
from-titose.

投稿: titose | 2006/12/24 13:14:15

こんばんは。

クリスマスプレゼントを先生がご自分で用意されるとは、お優しいですね~。
11月頃から、街はクリスマスの飾り付けで、夜街路を歩くと、
夢の仮想世界に誘われていくかのような錯覚を起こしました。
光は、たとえ人工の光といえ、心の奥底に差し込んでくるクオリアがあるように思えます。
今年の、8.9月頃「生きて死ぬ私」を読みました。とても分かりやすく、茂木先生の純粋な思いが伝わってくる本だと思いました。心地よい感動がありました。

宗教については私も素人ながら、何故人間は宗教を必要としてきたか、ということを一時よく考えていました。そんなこと考えていて、ある時、ぴ~んと、あっ、そうか、
と思ったときが喜びになるんですよね。
カラスもビルの上で何か考えている風ですが、
さすがに宗教について考えるのは人間くらいのものですね。

投稿: tachimoto | 2006/12/23 23:54:41

岡山の三日月51さんは、同じロータリークラブに所属しています。

茂木様のブログの事が書かれていて、早速訪問いたしました。

私は、臨済宗東福寺派の岡山県総社市の寺院の役員をしております。

私ども、禅宗では、坐禅と問答を通じて、二元対立の向こう側へたどり着こうと、修行しています。

もっぱら私の修行は、昆虫などとの交流を通じてですが。

今年もお疲れ様でした。

番組を楽しく拝見させていただいています。

ご健康にはご留意下さい。

素晴らしき新年をお迎え下さい。

投稿: フリーマインド | 2006/12/23 18:12:52

日本人の「異なる宗教的感情をそれぞれ適したフォーマットで表現する」という方法は、フィクションの押し付けよりある意味先進的という、茂木さんの意見は、思想の多様性、自由性からみれば、合理的かもしれない。

なんてったって思想は自由だから。信じたいものをそれぞれ信じて、よい行いをするのがよい。ちなみに私は法華経のフォーマットで宗教的感情を表現している。

ところで、仏教には、争いの歴史というのがないらしい。キリスト世界とイスラム世界が戦った、所謂「十字軍時代」のような、そういう戦争の歴史は、仏教史にはないという。

2007年こそは争いや嘆きの無い、本当に平和な世界が実現するといいな。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/23 14:52:38

柳川さんの表情がとってもうれしそうですね。
やはりクリスマスは、このように喜びがあったほうがいい。

クリスマスは日本ではキリスト教の宗教行事というよりは、宗教に無関係の、一種のイヴェントと化した感がある。

街を彩るキラキラした電飾、ジングルベルなどのクリスマスキャロル、真っ赤な服のサンタクロース、真っ赤なお鼻のトナカイさん…。それらが合間って華やかに光に満ちたクオリアを形成する。

うちではサンタクロースが来ないことになっているし、ツリーも飾らない。もっとも私が幼少の頃はツリーを飾っていた。

クオリアの一種に過ぎない、宗教的感情を其々違ったフォーマットで表現しているのは思想の自由だからいっこうに構わない。固有な宗教を信仰したい人はそうすればいい。既成宗教の押しつけは、精神の多様性を殺す。

ただ、人々を分断するドグマ的な宗教は人々を自他ともに幸福にはしない。

そもそも、宗教の目的とは何か??それは人々を自他ともに幸福にすることである、と少なくとも私は思う。

その目的に合致した宗教が、人々を豊かにし、幸福をにするのに違いない。

それが多分、21世紀に相応しい宗教のモデルとなるのかもしれない。

ともあれ、クリスマスぐらいは、善意で満ち溢れて欲しいと祈りたい。
無事故、無悲惨でいてほしい。みんなが暖かく幸福な思いでいてほしい。

何時か世界が、クリスマスだけでなく、毎日が善意で満ち溢れるように…。


投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/23 12:59:08

昨日、日本のある地域に残る、「洗骨」の儀式について、知りました。
葬儀のあと、土葬して、何年かのち骨を掘り返し、その骨がミイラだったらこの世に未練があるとして、埋めなおし、白骨化していたら骨を洗って、皆で成仏を祝う儀式。

この地域の老人たちは自分達がなくなったとき、今の時代はこの一連の儀式は無理とあきらめており、洗骨を希望しながらも、葬式は簡素に火葬でいいといってるらしい。現に火葬場ができたらしい。

「本当は、孫や次の世代の人たちに、自分の骨を抱いてもらいたい。」
「文化でめしは食えねんだ。」

という言葉がささったままです。

習俗、特に葬式について 土葬、鳥葬、火葬、ミイラ、etc・・

私にとって衝撃的光景が、日常的感覚でとらえてる人もいる。
クオリアの世界は広いなあ。

投稿: 平太 | 2006/12/23 12:01:08

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