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2006/12/22

自分の芯の部分に開帳されない何ものかが

 「秘仏」というのはもったいぶっていると
ばかり思っていたが、
 実見して、宗教的一回性に通じると
気付いたのが今年の数々の収穫の一つ。

 秘仏は日本特有の習慣で、
そこには神道の影響もあるのだろうが、
 何らかの世界観、哲学が反映されている
ことは間違いない。

 「絶対秘仏」となると、その寺の
僧侶でさえ見たことがない。

 そうなると、本当は空っぽなのでは
ないかと思えてもくる。
 長野の善光寺の秘仏については、
「本当は何も入っていないのでは
ないか」と地元の人はささやくという。

 実際には、白い布でぐるぐる巻きに
した仏様があって、火事の時に
いつでも運び出せるように背負子が
ついているとされる。

 見ることができないとなると、
つまりは、「こういうものが入っている」
という文脈をつけることが
全てとなる。

 そのようなプライミングを行う
ことで、どのようなイマージュが喚起されるか。

 人間の心も、お互いに見ることなど
できないんだから、結局は絶対秘仏であるしか
ないのだろう。
 
 相変わらず忙しい。
 
 一年を振り返るような時期になったが、
今年は、思い起こすかぎり、ずっと何かに
追われていて、
 目の前の仕事を次々と片付けていく、
そんな時間の流れが続いていた。

 それでも正気を保つことができていたのも、
自分の芯の部分に開帳されない何ものかが
あったがゆえにである。

 善光寺の戒壇巡りにおいて、
暗闇の中で探り当てるのは扉の錠前だが、
 あれが錠前であることがオソロシイと
言った人がいた。

 錠前の
 向こうには何があるのか。

 見てはいけない、という禁則は
ギリシャ神話、古事記から綿々と
続く大切なモチーフだが、
 見てはいけない、見えない
というのは人間の心というものの
本質であるような気がする。

 光の本性は匿名性にある。
 空の星は、その正体を声高に
主張することなく
 ただ名も無きものとして光っている
からこそ美しい。

12月 22, 2006 at 07:03 午前 |

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コメント

自分の芯の部分に開帳されない何ものか…。

その「正体」についてこの場で問うことはやはり野暮なことかもしれない。

心は見ることは出来ない。と同じように、その本質も見ることは出来ない。しかし、必ず存在し、我々を動かしている。

人の意識・無意識の向こうにある開帳されない芯のような本質とは、人間の芯にある最も大切なものかもしれないし、きわめて根源的なものかもしれない。

いずれにしても、心は見えないし、本質も見えない。しかし、その動きは必ず行動として眼前に現われる。

また、見えないからこそ、心は大切なものなのだ。

因みに、仏教のある一派では、心と身体はふたつで一つととらえている。(色心不ニ)心は見えないだけでなく、身体と分けることが出来ない。

心と身体とは一つと捉えていかないと、人間の本質も見えてこない。

今年もいろいろありました。昨年8月からこの「クオリア日記」へ拙いコメントを書き続けて、一年半が経とうとしている。

私がこれまで持っている心の洞察以外にも、所謂脳科学的洞察がこの「日記」のお蔭で多少ナリとも身につけられ、三次元的にもの・ことをみる癖がついた、と自負している。


意識・無意識の向こうに広がる壁は厚く、容易には開かれない。

おそらく茂木さんは、その壁を突き崩すべく、我々の想像以上の苦労を厭わず、これからも血の滲むが如く、挑戦を続けるのに違いない。

それにしても、今年は茂木さんにとってあまりにもいろいろなものが降り掛かり過ぎて、忙しくなってしまった年だった。

来春こそは本丸の研究に没頭できる日が、茂木さんのもとに訪れてほしいものだ。


投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/22 20:33:42

「人が視たら蛙に化れ」と青山治郎は
大事にしていたものに言っていたそうだが。
秘仏にはもっと強烈ないわれがあるのかもしれない。
いずれも想像力や好奇心をかきたてられる。

投稿: | 2006/12/22 11:30:14

錠前の向こう 考えると怖いですね。。

芯の部分をあたためて。
がんばってください

投稿: | 2006/12/22 9:56:02

「絶対秘仏」となると、その寺の僧侶でさえ見たことがない。
見てはいけない、という禁則は
ギリシャ神話、古事記から綿々と
続く大切なモチーフだが、
 見てはいけない、見えない
というのは人間の心というものの
本質であるような気がする。

コンサルタントをしていると相手のことを知らないとはじまらないのですが・・・。クライアントの「心の中」の・・・「開けてはいけない箱」を開けてしまって、(鬼の首でもとったがごとく)バシバシ指摘するヒトがいます。茂木先生のクオリアには大いに賛同するのですが、「開けてはいけない箱」を無理にこじ開けようとしても、それは開けないからこそ・・・そのイマージュにこそ・・・価値があるのであって。決して開けて「いいこと」はないかもしれません。
クオリアの研究には大いに賛成ですが、ホントにクオリアがクリアになったとしたら、研究に価値はなくなりそうな気がします。クオリアは哲学の範疇を超えず、もし単なる脳科学になってしまったら・・・もうそれはクオリアではないと思います。

投稿: 飯嶋 倫 | 2006/12/22 9:48:15

糠星っていうことばがあることを昨日、知りました。
いつごろできた言葉か知らない。

名も無き星たちの総称。
この言葉にものすごい愛を感じました。だってそのものたちの存在を意識しているようだから。

名も無きものとして、光っている存在、静かに思ってみよう。

投稿: | 2006/12/22 9:28:53

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