« Long life | トップページ | Unremembered memories »

2006/12/21

巧みに隠されている

ここのところずっと考えていることの
一つは、「起源問題」で、
 一般的に重要なことは言を待たないが、
特に、なぜそれが「隠蔽」されているのか
ということに関心がある。

 『脳と仮想』でも書いたように、
ハリー・フーディーニが
 脱出マジックを考えたきっかけは、
 精神病院の閉鎖病棟の中で拘禁
された患者を見たことである。

 感動的なエピソードだが、
エンタテンメントという枠組みの
中からは巧みに隠されている。

 起源問題は、私たちを不安にさせる。
 漱石の『門』の中で老師が主人公の宗助に
問う「父母未生以前の面目」。
 自分自身の由来するところは、
もし直視すると
たじろがずにはいられない
なにものかをはらんでいる。

 性的なことがタブーとされるのも、
わいせつということもあるが、
 実は自分自身の起源自体にかかわる
ことだから隠蔽しようとするのではないか。

 起源問題は、もちろん、クオリアにもかかわる。
 そして創造性の本質である。
 この作品の正体は何なのか教えてくれという、
「解釈学」とは違う。

 102スタジオ。
 『プロフェショナル』のホームグランド
であるが、
 いつもと見違えるセットがそこにあった。

作家の島田雅彦とモーツァルトのことを
喋るのを楽しみにしていた。

 假屋崎省吾さんがピアノ協奏曲を弾いた。

 錦織健さんはひげ面のモンスター。

 小米朝さんにお父様のご様子をうかがった。

 モーツァルトについては考えると
いろいろ切ないことがある。

 幼少期、三年半も旅に出ていたこと。
 父のレオポルトが、姉弟を「こんなに小さいのに
巧みに演奏する」という、興味本位を
くすぐるような売り出し方をしていたこと。

 モーツァルトの出発点は、驚くべき
才能をもった幼き子という
「見せもの」としてのまがまがしさに
包まれていた。

 それが次第にほんものの芸術家となって
いくその過程の中にこそ、じっくりと
考えてみるべき様々なことがあるのでは
ないか。

 神童に共通した問題とされるが、
 幼いモーツァルトもまた、
「才能ゆえ」に愛するのではなく、
自分という人間ゆえに愛して欲しいという
願望が強かったという。

 レオポルトとの関係がさまざまな微妙な
ニュアンスをはらんでいたのは周知の通りである。

 やや寒い朝。
 朝のコーヒーがしみじみとうまい。

 大平原でキャンプをし、たき火を前に
コーヒーを啜る。

 いまだ経験したことの
ないことのヴィジョンが、わが人生の
伴奏曲としてふさわしいと感じる。
 その思いの起源は一体何か。

12月 21, 2006 at 07:38 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 巧みに隠されている:

コメント

全ての道は脳に通ず、という感じかしら?

それにしても、私の知る限りですが、茂木先生が、性的な、とか
ワイセツな、とか文字に書かれたのは、初めてのように感じます。

いつもそういったことは避けて書かれているのかな? と思っていました。
変な誤解を招くとかそういったことで、あえて隠蔽しているのかなと。

フロイトの精神分析の本の中で、H・スペルバーという言語学者が言葉の起源について、
性的な欲求は、言葉の成立と発達に最大の役割を果たしていると、書いてあります。
最初の言語音声は、伝達の役目をし、性愛の相手を呼びよせつものであったーと。


投稿: | 2006/12/22 0:06:49

いつも茂木先生の「隠蔽」「起源」の言は、ドキドキしてしまいます。
先生の???は、どこにたどり着くのでしょう。

投稿: | 2006/12/21 23:15:21

かの天才も、子供の頃、才能ゆえの見世物ではなく、一人の人間として肉親に愛して欲しかったのか…。

才能があろうがなかろうが、子供は一人の人間として愛したほうが、子供の将来の為に一番好いはずなのだが…。

モーツァルトの場合、なかなかストレートにそうはいかず、いろいろと微妙で複雑なニュアンスが絡んでしまったのではないか。

それでも彼は大芸術家として大成した。

ひょっとしたら、彼は自分を人間としてなかなか愛しなかった父を乗り越えようとしてたんじゃないか。月並みな意見だけれど。

自己の起源を直視することは大事だ、と昨日のエントリーにコメントしたが、その起源とは直視しようとするとたじろいでしまうものなのかもしれない。

それでも直視しようとした、文学者や芸術家というのは
ある意味、人として超絶している存在なのかも知れぬ。

性的なことがタブーなのも単に「わいせつだから」というだけでなく、自己起源に関わる問題があるからタブーになるというわけか。物事には二重の意味があるものもあるのか。

兎にも角にも起源問題は、なかなかに奥深いものを含んでいるようだ。たじろいだり、眼を反らしたくなる嫌なものも結構含んでいるかもしれない。

自分の起源…脳にある先天的な障害を背負って生まれてきた。これが私の「起源問題」である。

それのおかげで、私はそれをある程度克服でき、いま曲がりなりにも、普通の社会人として生活させてもらっている。

それができたのは、父母だけでなく、周りの私の同志らが、私を何としても、この世でよい人として生きられるように、慈愛を注いでくれたからだ。

私の父母は私の持って生まれた障害を、宿命として受け入れ、その転換の為に仏の教えを信仰した。そして私も仏教者(=正確には創価学会員)となった。いまでもそうである。

起源問題と向き合うことは、自己の宿命を正面から見据えることに繋がる。そしてその宿命と何処まで対峙し、戦うかによって、人生の真価が決まるものと考えている。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/21 21:17:01

コメントを書く