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2006/12/01

半眼に入る

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録。

 漫画家の浦沢直樹さんとスタジオで
じっくりお話した。

 浦沢さんは、
 毎週締めきりに追われるというような
生活をもう二十年も続けている。
 漫画の連載をするということは、
他のどのような表現ジャンルと比べても、
 格段に人生への負荷が高い。

 いったん連載を始めてしまえば、
およそ5年、毎週原稿を入れなければ
ならない生活が続く。

 ちょっと試してみる、というわけには
いかない。人生のその時期が、作品一色に
染め上げられてしまうのだ。
 
 「ネーム」と呼ばれる、
コマ割りとラフな絵とせりふを
書き入れたレイアウトを作っている時が、
もっとも苦しく、密度の高い
時間だという。

 普段はボブ・ディランなどの音楽をかけながら
仕事をしている浦沢さんだが、
 「ネーム」を描くときは音楽を止める。
 それだけ脳への負担が重いのだろう。

 アイデアを練り上げるとき、浦沢さんは
「レム睡眠」のような状態に入る。
 「半眼」になり、夢とうつつの間を
彷徨っているうちに、
 一連のイメージのシークエンスとして、
ストーリーがばーっとあふれ出てくる
というのだ。

 アイデアに行き詰まったとき、
しばらくソファに横になって眠り、
 目覚めたとき、「あっ、できた」
ということがしばしばあったという
浦沢さん。

 その方法論が、いつの間にか、
ある程度意識して遂行できるノウハウになって
いったのであろう。

 『MONSTER』のような人間の暗黒部分を
掘り下げたシリアスなものを含めて、
 自分の作品に一貫して流れるモチーフは
「ユーモア」だという浦沢さん。

 「ユーモアに通じるような余裕がないと、
殺人とか戦争とか、そういうことになるんじゃ
ないですか」

 人とひととが憎み合い、傷つけ合いという
修羅場も、その中に没入してしまえば
 悲劇となるが、
 距離をおいて、そのような人間の営みを
遠くから
 眺めることで、そこはかとない
ユーモアの視点が漂ってくる。

 その境地は、なかば狂気の世界に近づいた、
「半眼」ならではの現実把握に感じられた。

 ビートルズの「アビーロード」を久しぶりに
聴いて、
 アラカルトではなくやはりアルバムで聴く
べきだと思ったことがある。

 浦沢さんは、漫画を単行本で読むのと、
連載で読むのは意味が異なるという。

 次の連載を読む一週間の間、読者の中では
次はどうなるのだろうというさまざまな
イメージが立ち上がる。
 それが掛け替えのない時間になるというのである。

 「コミックだと、受け身になりすぎるんじゃ
ないでしょうか」
 と浦沢さん。

 有吉伸人(ありきち)さんが副調整室から降りてくる。

 「いやあ、茂木さん、今日は入っていましたね」
と有吉さん。

 荘厳なバロックの森の中に分け入り、
ときが経つのも忘れて浦沢さんと語り合った
思いがした。

 杢尾雪絵さんの放送。
 杢尾さんの話を聴いて、
 住吉美紀(すみきち)さんが号泣する
場面があった。

 デスクの山本隆之(タカ)さんによると、
編集段階、最初はもっと入っていたのだが、
 有吉さんが、「こういうのはちょこっと
使うのが効果的なんだ!」
といって、カットしたという。

 それでも、随分印象に残るくらい、
すみきちの号泣の場面は残っていた。

 サタジット・レイ監督の三部作のDVDが
届いていて、
 『大地のうた』の冒頭、
ベンガル語の文字がいったいどのように読まれるのか
見当がつかず、
 そのようなものが豊かな意味のダイナミクスを
生み出す
 人びとの内面との絶望的で秘儀に満ちた
乖離を思い、
 ひとり呆然とした。

 遠く隔たった、しかし親密な美しき意識の流れよ。

 生きて死ぬ私』でも
引用した、清少納言の「枕の草子」の一節。

  職の御曹司にいらっしゃるころ、八月十日過ぎの月の明るい夜、中宮は、右近の内侍に琵琶を弾かせて、端近な所にいらっしゃる。女房たちの誰彼は話をしたり笑ったりしているのに、私はひさしの間の柱に寄り掛かって、ものも言わずにはべっていたところ、(宮)「どうして、そうひっそりしているのか。何か言ったらどう。座がさびしいではないか」とおっしゃるので、(清少)「ただ秋の月の風情をながめているのでございます」と申し上げると、(宮)「なるほど、この場にはふさわしいせりふね」と、おっしゃる。

(新版 枕草子 上巻 石田穣ニ訳注 角川文庫)

 犀の角のように走り回る東の大都の
日常の中でも、
 いにしえのひとびとの息づかいのことを、
ときどき思いだして半眼に入る。

12月 1, 2006 at 07:28 午前 |

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コメント

 この日、知り合いの方が企画された講座に出席した。
 終了後、その方と寒い外の駐車場で話し込んでしまった。その方は、在日の方。「北」の政府に批判的な方だが、政府への批判と、国への思いは違う、ということを話された。自分のルーツであるところへの思い。親族への思い。そして何より、かの国で生きているたくさんの子どもたちへの思い。心へ、身体へ、子どもたちが育つために必要なものを少しでも送りたいと思う気持ち。けれどそれは、今の日本では厳しいバッシングにあう。そんな日本でさえ、その方には生きている場所であり、愛しい場所なのだ。複雑な思い。運転しながらの帰り道、涙がこぼれてしかたがなかった。人は、単純な感情などで生きてはいない。
 そうして、帰ったら、住吉さんが泣いていらした。住吉さんの、涙。杢尾さんの表情。
 そして、金曜日。朝日カルチャーの講座の中で、茂木先生が話された、「実験の結果から、どんな文脈をつくるか」ということ。
 不安を掻き立てて、恐怖や憎しみをつくる人たち。その人たちが起こす「戦争」。そのことに対抗するのは、「希望」や「信頼」でつながる関係なのではないか。それが、どんなに弱々しいもののようにみえても、信じあう関係がつくる強さを、信じたい。

投稿: まゆさん | 2006/12/03 9:05:26

<ユーモア>創作は、本当に困難なものです。
自分がそのようなものをマンガで表現できたと
思ったことが有りません。
日本のマンガ界の戦いの激しさは、世界でも
稀にみるものかと思います。

赤塚不二夫との共同作業では「ギャグ」という
ある意味、激しさを持って戦ってきました。
戦うという意識を持ってしまった瞬間、
真のユーモアは逃げていってしまうのかも
知れません。

でもいつかそうしたものを自分が表現できるかも
と思っていないと「ギャグ」も「ナンセンス」も
生まれてきません。
いくら皆で考えても浮かばなかったアイデアが、
顔を洗っている瞬間に、全て浮かんでくる。
ここまでの時間の謎!
それは単に「耐える」「待つ」(編集者にとっても)で
あったりします。脳の不思議さが、創作のスリルと
つながっています。

投稿: 長谷邦夫 | 2006/12/02 23:57:35

    半眼 (皆まで 言うな)


  すべて知る必要もなく すべて知らせる必要もなし

底まで見ると 誰の中にも   花底蛇が

           ☆ ほどほどにするが良かろう ☆    問答

投稿: 一光 | 2006/12/02 5:58:05

このエントリーにて紹介された漫画家・浦沢直樹氏の語られていたことについて、いまこの島国、いな、世界全体に起こっている、いろいろの不幸な出来事のことを思う。

いじめから戦争、紛争に至るまで、全ての「いびりあい・殺し合い」の根源は、人間が「憎悪」というマイナスの世界に完全に没入し、ユーモアの一欠片も感じる事無く、互いのほどよい距離感が無くなってきていることなのかもしれない。

人間が互いに「人とひととが憎みあい、傷つけあいという修羅場」に没入せずに済む方法は「修羅場」から「距離をおいて、そのような人間の営みを遠くから眺めること」なのかも知れない。

そうすれば、ユーモアに通ずる余裕というものがおのずから生まれてきて、下手ないじめ、憎悪や紛争に巻きこまれずに済むだろうし、また、互いにそういう悲劇的な事態を引き起こさなくても済むだろう。

日本にはそもそも、井原西鶴、十辺舎一九など、江戸の戯作者の作品に見られるような、愉快なユーモアがあったはずなのに、何故か明治以降の「国家の歯車に、人間を“教育”(=厳密にいえば“調教”)する」ことによってそれが失われてしまったのではないか。昭和初期にわずかに残っていたユーモアの“残照”も戦時中の弾圧で、ほとんど無くなってしまった。

そして日本は、文化的にはユーモアの感じられない国土世間になってしまった…。

しかし、おおまかにみてはそうであっても、個人的に豊かで愉快なユーモアの持ち主はまだまだ沢山いる(中にはブラックユーモアの持ち主もいる、が、ブラックユーモアも世の中には必要だ)。
浦沢さんや茂木先生は、そういう「人の営み」を適度な距離感を持って眺められる「ユーモリスト」たちの中に入る人たちなのだと思う。

そしてそういう人達の言動が、人とひととの憎悪の連鎖をゆるめ、やがては断ち切り、いじめも、殺し合いも、少なくなっていくだろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/01 23:30:28

住吉さんが号泣しているとき、その姿をやさしくながめている杢尾雪絵さんの、やわらかいまなざしを忘れることができません。

投稿: 河村隆夫 | 2006/12/01 10:16:54

そうですか。
 夢とうつつのあいだ
あのストーリーは半眼で生まれるんだ。

ユーモアも茂木さんとの共通項ですねえ。

わくわくと次を待つ間にいろいろなことが起こるって
言われてみればたしかにそうですよね。

プルートウ読まなくちゃ。

投稿: M | 2006/12/01 8:07:12

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