« Magnets and the car park | トップページ | モーツァルトの白魔術 »

2006/12/24

境界が溶け合い、判然としない

目覚めるまえの夢の内容
はすっかり消えてしまったが、
 視覚と触覚の問題について
考えていたことだけは確かだ。

 しばらく、触覚における自己同一性
とは何か、ということを考えていた。
 
 視覚は「パノプティコン」という
考え方にも表れているように
 一挙に把握し、分類し、そして
支配することにすぐれている。

 一方、触覚や味覚、嗅覚は
一覧性にとぼしい。

 宇宙全体さえ見晴るかすか、
それとも、「今、ここ」の個別性に
閉じこめられるか。

 いつしか死すべき存在ではないとしても、
「今、ここ」に閉じこめられている
時人間はmortalである。

 だから、「神」は「見る」主体
であって、「触る」あるいは「味わう」
主体ではない。

 人と人とのつながりにおいては
どうなのだろう?

 友人同士のスキンシップ、母子間のタッチ、
性愛などにおいて、
 「視覚的領域」から「触覚的領域」への移行が
なされる時、
 何か重大な変質が起こっている
ような気がしてならない。

 一つひとつのものの同一性が
確立している世界から、
 境界が溶け合い、判然としない宇宙へ。

 ミミズは最初からそのような
世界に生きているのであろう。

 泥に身を浸している状態を
「原始的」と表現しても、
 精神の底で躍動しているゆらめきの
正体はつかめない。
 
 一つの個体として生き、純然たる
近代的自我を確立する中で
 自他の境界が判別としなくなる世界を、
 時に経験する、
 その往復運動の中にこそ
何か香ばしいものの機微があるように
感じられる。

 ユクスキュルの『生物から見た世界』
(日高敏隆 羽田節子 訳)に
マダニの話が出てくる。

 マダニが獲物の接近を知るのは、ほ乳類の
皮膚腺から出る酪酸の匂いを通してであり、
 「そちらへ身を投げろ」という信号
に従って温かいものの上に落ちる。

 マダニには味覚が一切ない。膜に孔をあけた
あとは、温度さえ適切ならばどんな液体でも
受け入れる。

 ダニにとってたっぷりの血のごちそうは
「最後の晩餐」である。地面に落ちて産卵し、
そして死ぬ他になにもすることがないからだ。

 マダニになってみるわけにはいかない。
 仮想の中での追体験も不完全にしかできない。

 知性も自我も持った人間がこのような文章を読む
時に立ち上がる何かが大事なのだ。

 荒俣宏さんに初めておめにかかる。
 巨きな人だった。

 畏友の塩谷賢に雰囲気が似ていると以前から
思っていたが、
 背の高さだけは、確かに同じように
見えた。

 六本木ヒルズにはクリスマスの
イリュミネーションの光が溢れていて、
 宮島達男さんの数字を包む白い四角形が
遠い親戚を得た。

12月 24, 2006 at 08:14 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 境界が溶け合い、判然としない:

» リカピンとサラリーマンたかし トラックバック リカピンとサラリーマンたかし
ハゲに悩むサラリーマン「たかし」がブログに初挑戦!初心者のためどうやったらいいのかいまいちわかりません。どうぞお許しを。 [続きを読む]

受信: 2006/12/24 16:50:22

コメント

今日の日記の文章の謎を一日中考えていました・・。
花を銜えたフラワーピッグは、なんとなくマダニと姿が似ていますね。
地下の闇に住むオペラ座の怪人、ファントムを思い起こしました。
それにしても、境界が解け合って、判然としない宇宙へ、とは
何と素敵な表現! 

投稿: tachimoto | 2006/12/25 1:24:24

           

 99%装い 1%の欺瞞 より

          泥中の清が 見抜けない 人の目

   神は、見る主体   質感をも知る

      潔く 天の裁きに任せる という  平等
   
      

投稿: 一光 | 2006/12/24 19:40:44

ダニには味覚がない!オドロキです。

匂いセンサーのみで獲物のありかを知ってしまう、味覚がないからどんな液体でも温度さえ適切なら受け入れる…。

ほとんど触覚と嗅覚だけで生きているダニやミミズにとって、世界はどの陽に感じられているのだろう?きっと、視覚が伴う世界よりも、繊細で実感のともなった世界を彼等は感じているのだろう…。

眼が不自由な人が感じる世界も、そんな繊細で実感の伴ったものなのかもしれない…。

スキンシップや性愛など、
視覚的領域から触覚的領域への
移行が行われる時でも、

相手の肉体の手触り、匂い、
体温の温かさ具合など、
視覚だけよりも実感を伴うセンシティヴな世界に、
自分と相手のまわりの全てが変わっていくのではないか。

つまるところ、我々はお互いにタッチする時、
視覚と嗅覚、触覚が伴った豊かな
クオリアの世界に投げ出されるのに違いない。

そこで人は、お互いをかけがえのない存在だと、
より強く感知することができるのだろう。

ヴァーチャルの世界にばかりこもっていては、
豊かなクオリアの経験も出来ないし、他者をかけがえのない存在と
思うことも出来ぬまま、死ぬまでミーイズムの殻に閉じこもって
居なくてはならないだろう。

自他の境界が判別しないほどの宇宙にとけあうことで、人の場合はかえってお互いを強く認識するのかもしれない。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/24 11:44:13

神の存在の由来って、視覚~触覚の往復運動の中で生まれたと思う。

それを人間は知性をもったから、説明しないと納得できないから見るものにしたんだろうと思う。

へんな霊能者とか超能力といったものでなく、
神社やお寺いって、「あれ、うさんくさい。ここ仏はおらんのちゃう?」

と感じることもあれば、、ぴりっとくる空気の中に「絶対いてはるわ。」と神の存在を感じるのはなんだろう。

その空気は住職のつくりだす知性?

自然の気配、空気に触覚が研ぎ澄まされた瞬間?

投稿: 平太 | 2006/12/24 10:15:14

コメントを書く