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2006/12/26

次から次へとつながれていく可能無限

中目黒のスタジオで、
服をたくさん着替えた。

 好きな「ワイズ」の服とは言え、
 「ためし」の時も入れると、
8回も着替えた。

 「モデルの人は何回着替えるんですか」
と聞くと、
 「多い時は20回も着替えるんです」
という答えが返ってきた。

 不思議なことに、自分が、だんだん透明な
存在になっていくような気がした。

 たとえそれがどんなに小さなステップ
でもいいから、
 自分が少しづつ変わっていって
いることを自覚できること。

 「また次がある」という意味での
可能無限は、学習において最も
純粋な意味で成立する。

 しばしば、S字型に飽和する学習曲線が
書かれるが、
 それは一つの文脈に関することである。

 実際には、人間の脳の学習は「持続可能」
な形でずっと続いていく。
 「また次」「また次」というように、
可能無限を続けていくことができるのだ。

 身を置くことで判ることが初めてある。
 今までにないくらいたくさん着替える
ことで、私の脳の中で新しい
変化の種が出来た。

 撮影が終わると、もう移動の時間だった。
 おいしそうだったなあ、と
 となりのラーメン屋をうらめしく見た。

 移動しながら、どこにでも座って
すぐに仕事を始める。
 至るところがオフィス。

 私のような行動をとっている人は
他に見たことがないから、
 かなり希な生物種となってしまって
いるのだろう。

 NHKの『プロフェッショナル』チームの
忘年会。

 一年間、ご苦労さまでした!

 ナレーションを担当している橋本さとしさんも
いらっしゃる。

 「俳優は感情を売り物にする商売」
という言い方が印象に残る。

 二次会、三次会と行っているうちに、
大分眠ることができた。

 それと、何だか良く判らないけれども、
有吉伸人さんや、山本隆之さん、小池耕自さん、
河瀬大作さんとやたらと肩を抱き合った。

 「いやあ、ごくろうさん」
とか、
 「やるぞ」
とか、
 「そうだ!」
とか、
 ときの声を上げる。

 お互いに
 酔っぱらっているから、
わけのわからない感じで
 身体を接触させる。

 肉や骨の感触で、
 子どもの頃よく相撲をとっていたことを
思い出した。

 校庭や空き地で、めったやたらと
 四つに組んだり、
投げ合ったりした。

 くすぐったかったり、
 痛かったり。
 あのような時の感触は、
「私」の陶冶に何らかの影響を与えているの
であろう。

 社会人になり、紳士たるもの、
そうやたらと肉体を触れあわせたりは
しないものだが、
 今宵ばかりはと、幼き頃に戻ったようであった。

 「同じ釜の飯を食う」とか、
 身体を接触させるとか、 
 そういうプリミティヴなことの
中には、何か重大なことが潜んでいる
ようにも思える。

 学習のS字カーブも次から次へと
つながれていく可能無限だが、
 考えるべき対象も次々と現れて
くるから、
 まったく忙しくてたまらない。

 考えるネタを探すために生きているような
ものである。

12月 26, 2006 at 10:06 午前 |

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コメント

  考えるネタを探すために生きているようなものである 

        嘆き含み 疲れ含む 


           除夜まで


 

投稿: 一光 | 2006/12/27 21:02:27

中目黒のスタジオでマヌカンになったフラワーピッグこと茂木さん。

自分が段々透明になってゆく感覚…。
それは、自身が空気のような存在になって行くという事なのか。

自分の場合、じっとしている時、
手足が着いている、という感覚が薄くなり、自分が空気になった気分になることがある。

自分が少しずつでも変わっていくという事は、まだ次がある、次があるという「可能無限」を生きている、ということ。

そして、次がある、次が、次が、と
可能無限を繰り返して変化を続けていくうちに
ある日、寿命がきて、人生の幕がストンと降りる。

可能無限の中で脳が「持続可能」なかたちで学習を
続けていく、ということを知ることは、人間は
無限の可能性を持つということを知ることだ。

それがあるからには、人間、
生きることを諦めてはいけないんだ。

最近流行りの「脳年齢」などという概念は、
あれは、脳が年をとるにつれて学習能力が衰える、
という前提で造られたものだと思う。
ところが、実際は茂木先生のいうように、
人脳は次から次へと可能無限をつないでいって、
一生涯、成長をつづけるものなのだ。

だから、本当は脳に年齢限度はない。
「脳年齢」という概念は誤りくさいと思う。

フラワーピッグもそうだったろうけれど、
我々が子供の頃はけっこう、
おしくらまんじゅう、おされてなくな、とか
〇〇ちゃん、たっち!とか、
けっこう沢山スキンシップな遊びをした。

いまの子供はおしくらまんじゅうとか、
たっち!あそびとか、いっぱいするのかな?

ゲームばかりに夢中になっているとよく言われるが、
そういう子供ばかりじゃあないはずだ。

子供のころのスキンシップの体験が、
大人になった時、シャカイに順応できる
基礎になるのかもしれない。

日々変わっていくことを自覚することは、
自分が成長していくことを実感することにつながる。

人生がストンと終わるまで、私達は無限の可能性を生きていることを自覚していきたい。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/26 20:31:52

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