« 「自分のただ一つ」 | トップページ | プロフェッショナル 仕事の流儀 木村秋則 »

2006/12/07

不可思議な欠落

都市センターホテルというのは初めて
知った。

 自治体の東京事務所がたくさん入っていたから、
おそらくは総務省(前の自治省)あたりが
つくったのだろう。

 日本経済新聞と横浜国立大学主催の
知財に関するセミナーで
 約50分、脳と知識の探求について
話す。

 近くで広告批評の河尻亨一さん、写真家の
DYSKさん。

 研究所へ。
 須藤珠水と、研究の計画についてブレストを
しながら、ノートをとる。

 コンビニにチロルチョコの「きなこもち」
が45個入りのパッケージで売っていたので、
「大人買い」をして学生たちのいる
スペースに置いた。

 さっそく、柳川透がわらわらと開ける。

 予定されていたミーティングがなくなり、
思いがけず時間が空いた。

 以前から行きたいと思っていた、
森美術館のビル・ヴィオラ(Bill Viola)の
「はつゆめ」を見に行く。

 思っていたのとは違っていた。

 さまざまな場所への光の当たり方や、色の構成、
ひとびとの服や身体の動きに対する
こまやかな配慮を通して、全体として
美しく印象的な「絵」には仕上がっていた。

 しかし、それだけだった。人間のあり方について
深い感情や洞察、連想を感じさせるような
ことは、一つもなかった。

 ヴィオラは、「画家」なのだな、と思った。

 人間性の本質については、あまり
深い考察をもたない、持っていてもそれを
作品に反映させられない(させない)画家なのだと。

 すぐれた名画には、必ず人間というものの
中心への接触がある。たとえ、それが隠蔽
されている場合でも。

 フェルメールは、ただそこに静謐な美が
提示されているように見えて、切れば血が
出るような人間のドラマがある。
 たとえば、画家とモデルとの関係の間に。

 「モナリザ」を初めとするダ・ヴィンチの
絵の数々には、容易にその本質をつかむことが
できないドラマがあることは
言うまでもない。

 ヴィオラは、フェルメールやダ・ヴィンチの
系列につながる画家ではない。

 人種や年齢の異なるさまざま人にいきなり
大量の水が浴びせかけられる。

 立ち話をしている二人の間にもう一人が
やってきて、しばらく無視されたあとに
ようやく紹介してもらえる。

 二人の男女が、暗闇の中、スポットライトに
照らし出されて彷徨うが、ついに出会えない。

 このように文字面で表現すれば、
いかにも人間の深い情動が引き出されそうな
設定であるだけに、
 その作品から受ける感触がフラットで、浅い
ものであることは、ますます不可思議な欠落
であるように思われた。

 森美術館を去りながら想ったのは、ビル・ヴィオラ
の作品のことではなく、改めて認識した
マリーナ・アブラモヴィッチの偉大さだった。

 表参道の「胡月」で平松洋子さんにお目にかかる。
 ブルータスの鈴木芳雄さん、橋本麻里さん。

 はじめて鮒寿司を食べた。瞠目。

 平松さんのいたずら心に満ちた機知に親しく接し、
心おどる夕べだった。

 鈴木さんが言われていたように、
平松さんは料理から文藝全般の方に活動を移されつつ
あるのであろう。

12月 7, 2006 at 03:30 午後 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 不可思議な欠落:

コメント

過去ログへのコメントですみません
アブラモビッチについて検索していてひっかかりました
ビル・ヴィオラ展面白かった
しかし、「謎」「疑問」が浮かばなかった
面白い、綺麗、よくやっている、いいアイデア、あの時間の流れにひきこまれる

しかしそれ以上ではなかった
それはそれでいいのだが

僕は優れた作品は常に見る側に「謎」「疑問」を与えるものだと思う
何だろう、なぜだろう
たぶんフェルメール、ダビンチ、アブラモビッチ、若冲などが人を惹きつけてやまないのは、そういうことではないか
と思ったりしました

お邪魔しました

投稿: 志賀信夫 | 2007/06/20 13:04:46

ヴィオラという作家も、きっと、私と同じように「魂」のこもった絵の描けないひとで、ただ美しくものの表面的なディティールを描くことで満足している人なのだろう。私はそうはなりたくはない!
なんとしても、魂の入った絵を描くことに腐心しなくてはならない。
仮令フェルメールやマリーナ・アブラモヴィッチのようにはなれなくとも・・・。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/07 17:20:46

コメントを書く