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2006/12/30

肝心なのはその点ではなくて、便器のところ

イギリスのコメディも、
以前から今のようにゲイや人種差別や
自分たち自身の傲慢さといった
 問題に取り組んでいたわけではなくて、
 たとえばボクが時々見る
On the Busesは1970年代の
作品だが、
 内容は、バスの運転手や車掌さんたちを
めぐる愛すべきドタバタというような感じで、
 セクシャリティに関する言及も類型的で、
それほどの鋭さはない。


"On the buses"

 一方、1969年から1974年にかけて
放送されたモンティ・パイソンの方は、
ご存じのように差別意識や
セクシュアリティの問題にもどんどん
切り込んでいく内容になっている。


"Monty Python's flying circus team"

 モンティ・パイソンはしばしばコメディにおける
ビートルズにたとえられるが、
 一つの革新が別のイノベーションを呼び、
イギリスのコメディを徐々に変えていったのだろう。
 そのあたりの機微は、同時代の
イギリスに生活していた人でないと
なかなか判らないところがあるように思われる。

 (マスメディアに流れる)
日本の笑いが在日外国人の問題や、
セクシュアリティ、格差といった本当に痛い
ところには突っ込んでいかない、ぬるい
ものであることは以前から指摘している
ところだけれども、
 今朝になって
 ふと思い出したことがある。

 子どもの頃のわたしは本当にあばれんぼう
だったが、 
 時代の雰囲気もそれに呼応しているところ
があった。
 小学校1年か2年の時、民放のゴールデンタイム
(確か7時30分くらいから)に
 「野球拳」をやっていた。

 まったくあっけらかんとしたもので、
同じころ「モーレツ」のコマーシャルも
流れていて、
 私は無邪気に喜んで見ていたが、
 大人たちはあきれていたようである。

 永井豪の「ハレンチ学園」とか、
「キューティー・ハニー」などもアニメや実写で
地上波で流れていたわけだから、
 今の倫理基準で言えば考えられない時代である。

 もちろん、「野球拳」も「ハレンチ学園」も
「キューティー・ハニー」も、
セクシュアリティの基準から言えば類型的で
そこにはマイナリティーに対する感受性や
批評性があったわけではないけれども、
 少なくともハチャメチャなエネルギー
だけはあったことは事実だ。

 コメディにおける、タブーに突っ込んでいく
勇気は、ハチャメチャなエネルギーと連動している
ところがあって、 
 ひょっとしたら、高度経済成長期の
あの頃だったら、
 日本でもスルドイ批評性のある
コメディのスタイルが確立できたんじゃないか。

 タブーの様々が温存されたまま、
ヤロウジダイなおじさんたちの声ばかりが
蝉時雨のように高まる時代のありさまを
見るにつけても、
 失われた機会を残念に思う次第である。

 今の日本のマスメディアがぬるいのは、
つまり時代からエネルギーのようなものが
失われてしまったということとも
関係しているのだろう。

 逆に言えば、イギリスはここのところ
経済も好調だったし、基本的に
元気なのだろうなとも思う。

 Little Britainの「デブの方」のMatt Lucasを
私が初めてみたのは、95年から97年に
かけてイギリスに滞在していた時に放送していた
Shooting Starというふざけたクイズショウの中で、
時折ドラムを叩いている「へんな大きな赤ちゃん」、
George Dawesという役柄でだった。

 その時は「ヘンナ人だなあ」とビールを
飲みながら笑って見ていたが、
 Little Britainでコメディの歴史に名を残した
あとで、
 彼自身がゲイで(最近パートナーと
civil partnership
の式を挙げた)
 「ぼくはこの村で唯一のゲイだもの」
のスケッチも自分自身のパーソナル・ヒストリー
に基づいていることなどを知って、
 尊敬する気持ちが高まった。

 ぼくは本居宣長とか、小林秀雄を尊敬するけれども、
日本の国柄が大事だとか、伝統的な価値を
大切にしようとか、そういう
エラソーなことを言っているおじさまたちには、
思考停止とか、生命力の欠如とか
しか感じられない。

 歌舞伎とか、能とか、茶道とか、
そのような日本の誇る文化は、
 エラソーなおじさまたちによってつくられて
きたわけじゃなくて、
 イギリスで言えばMatt Lucasのような人たちに
よって生み出されてきたのだと思う。

 自己反省のない保守主義者は
過去の異形のものたちがつくってきた文化の
フリー・ライダー(ただ乗り者)に過ぎない。

 白洲信哉が企画した「青山二郎の眼」
を見た印象記を、来月発売の「和樂」に書いた。

 その中に、こんな一節がある。

 青山二郎の箱書きは、デュシャンの「R. Mutt」である。美というものを成立させる文脈についての私たちの理解が深まれば、骨董は現代美術につながり、青山二郎はデュシャンになり、隠されていたものが新たな光を放つだろう。
 この話には後日談がある。東京に帰り、「こんな展覧会があってね、面白かったよ」と青山二郎を彷彿させる件の畏友に言ったら、即座に「千利休は朝鮮の便器を茶道具に使っていたそうじゃないか」と返ってきた。

 「畏友」というのはおしら様哲学者、
塩谷賢のことであるが、
 肝心なのはその点ではなくて、便器のところである。

 新しい文化とは、そうやってできあがって
くるものだと思う。

 白洲信哉は、来年の芸大の授業に来てくれる
はずだ。

 彼はバサラを信奉している男だから、
彼のメールアドレスにはその文字列がある。

12月 30, 2006 at 10:49 午前 |

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コメント

思想とか、理想とか言う前に、皆、木村さんの林檎になればいいと思う。あの木に。

動物のくせに、生き物のくせに、最近皆そこからずれていってるように思う。

思想や思考って生命維持のための観察力や洞察力の進化形だと思うのだけどそこからずれたら、生命自身、痩せてしまったら太い幹のような
たくましい精神なくて、いろんなことを受け入れることできなくなるんだと思う。

肩にふけいっぱいたまってる人とか、あぶらてっかてかの青年とか
そういうむ~んとした人少なくなった。
個性っていうものと異なるそれぞれの生命の源みたいな。
なんていったらいいんだろう。生命の源、消されつつあるように思うんです。

あの、木を木村さんを見習いたいなあ。。。。
木村さんの価値観を見習いたいなあ。。。結局それが優しい世界だと思うのだけど。

投稿: 平太 | 2006/12/31 20:31:41

NHKの番組 サラリーマンNEO 出演おめでとうございます。
やられました。「サラリーマンNEOが放送されているな~」と見ていたら、
テレビに茂木健一郎さんが映って、「あれ?違う番組になったのかな?」
と、ジーっと見入ってから、コントと気づいた時には笑ってましたw
その後、その番組を見る ではなくて、観るにかわってからは、
笑いがとまりませんでした。
人が興味を持って「なんだろ?」っと、その世界に入り込んだあと
の脳の働きは違いそうですねw
 いつも、わかりやすいコメントありがとうございます><;
ある意味・・難しい事を早口でいう茂木健一郎さんは新鮮でした。
人々が新しい物 事 好きなのは「なんだろ?」と興味を持ちアハ体験
をすることが好き?と一緒なのかも???

 最近のNHK深夜番組は癒される(´ー`)
サラリーマンNEOの後に放送される番組で「町にこどもたちがあふれていた」
という番組は、団塊世代向けに作られた番組なのかもしれませんが、
私は団塊の世代という歴史を知るために見ている気がします。
団塊世代と言われる親の子供なので、親の子供時代をテレビで間接的に
知ることによって、親との会話も増えてます。
深夜番組なので寝不足気味ですが・・・(;´∀`)
 日本の少子高齢化は困った問題ですが、減った労働力の補いにより、
産業、経済面で他の国との交流が生まれるということにつながるのなら、
発展途上国の有益なパートナーとして日本人の安全が確保でそうですね。
日本は狭いしパートナーとしての国際化が日本の道なのかな。。。

投稿: 私とNEO@アハ体験 | 2006/12/31 2:20:23

「英国の“ゲバゲバ90分”」ことモンティ・パイソンに出ていた面々のただものでない面構え。
ハチャメチャで猥雑なエネルギーを
秘めた眼差しがそこにあった。

以前、私は「日記」へのコメントに、
自己批評のないぬるいお笑いばかりの
流行るいまの日本は
1930年代のそれに似ている、
といった内容を含んだことを書いた。

もっとも、その年代後半、
戦争が始まる直前までは
ハチャメチャエネルギーを発揮していた
ギャグ集団(例えば「あきれたぼういず」など)
もいた。

しかし言われて見れば、戦後の日本にもハチャメチャで
猥雑なエネルギーが横溢していた
お笑いやアニメが受けた時代があった。

1969年から70年代いっぱいにかけて「ゲバゲバ90分」を始め、エントリーで紹介された「野球拳」や「キューティハニー」「ハレンチ学園」、
そして
「金曜10時!うわさのチャンネル」
などといったハチャメチャでバカ丸出しの番組が
民放各局で放映されていた。

あのハチャメチャで猥雑なエネルギーを、もし
(高度経済成長時代であってもなくっても)
タブーにツッコミ、鋭く切りこんでいく方向にもって行くことが
できたなら、
日本でも多分自己批評性のある
鋭いコメディーやギャグが確立できたんじゃないか。

それができなかったのは、
おそらくマスメディアの怠慢と、
それを許してしまった視聴者側なんだろう。

時代にエネルギーがなくなった、ということは、やはり我々の生命力の減退と関係があるにちがいない。

そこへもってきて、夜郎自大で思考停止したオヤジたちがみんなして声高に「日本の国の素晴らしさ」「日本の伝統大切に」云々とステレオタイプなことをがなりたてている。やっぱり1930年代に似ているなァ。

日本は基本的に国も人も元気がなくなったから、
そんなオヤジ連中の言辞にずるずるりんと引きずられてしまっている。

そして引きずられた先に待っているものは、
「やるかやられるか」という単一文脈の支配する
息苦しい「戦争」の時代である。

1980年代初頭にタモリ
(茂木さんのご友人の田森佳秀さんではなく、
あくまで芸人のタモリのほうです、為念)が
差別に関するタブーに切りこんだお笑いを
ライヴハウスでやっていた、という話
(佐野山寛太著「透明大怪獣時代の広告」広松書店刊・1982)があるが、

そのタモリも「笑っていいとも!」など、
マスメディアに露出するようになってからは、
だんだんそういうことを
しなくなっていったように思える。

この国のマスメディアは「公序良俗」をたてまえに、
そういう芸人達の、差別などのタブーに切り込む
コメディをする意欲を奪ってきたのではないか。

この国の伝統文化だって、
茂木さんのいうように、
えらい人が始めから創ったのではなくて、
異形の者達が長い年月をかけて
つくりあげてきたものだった。

その積み重ねの上にただ乗りし、
「伝統分化を大切に」などと声高に叫ぶ
夜郎自大、思考停止、生命力欠如の
「3重愚」
に取りつかれたフリーライダー達のいうままに
なっていていいのだろうか。

新しい藝術は、便器の如き猥雑なものから
生まれることを彼らは覚知するべきではないか。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/12/30 13:48:40

 通りすがりのものの不躾な投稿をお許しください。
デュシャンの便器には「on n'a que:pour femelle la pissotiere et on
en vit」「人がこれしか持っていないものと言えば、つまり雌としての男性用
公衆便所であり、そして人はそれを糧として生きる」と言う地口が添付され
ています。
便器は女性器のメタファーです。国営放送という公器を陰で支配している便器とか
非道配管とか女性器にまつわるきついコメディーを期待しています。
(国民がNHKに正当に受信料を請求できるような)。

投稿: YM | 2006/12/30 12:04:55

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