An Ode to the Potentially Infinite
An Ode to the Potentially Infinite
The Qualia Journal
31st December 2006
http://qualiajournal.blogspot.com/
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12月 31, 2006 at 12:17 午後 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
An Ode to the Potentially Infinite
The Qualia Journal
31st December 2006
http://qualiajournal.blogspot.com/
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youtubeにThe Qualia Showという
チャンネルを開いた。
Mission Statement:
Mainly funny things that came my way.
Promoting the metacognition of the comic for the betterment of the world we live in.
最初のビデオとして、秘蔵の
「郡司カラオケ」をuploadした。
Gunji Karaoke
00:42
My fellow scientist Prof. Yukio Peggio Gunji of Kobe University has a go at his favorite song.
12月 31, 2006 at 09:41 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
フセイン元大統領は自分は
現職の大統領であると主張しながら
死んでいった
正義だと言って人間がやっていることの
中には、随分残酷なことがたくさんあるんじゃ
ないか。
イギリス、Channel 4のコメディ
Peep Showの
第二シリーズの第二エピソードには、
ナチを信奉する人種差別主義者が出てくる。
主人公である優柔不断のマークは、
最初はふつうの男だと思って仲良くしているが、
そのうち、とんでもない差別意識を持った
男だということがわかってくる。
最後に、マークがチクって、
差別主義者はクビになってしまうのだが、
そのあっさりとした引き際に、
視聴者は、卑劣なのはむしろ「正義の味方」
だったはずのマークの方じゃないかと
思わされる。
フセインや人種差別が良いと言っている
わけではなく、
ある一つの文脈に固執するところからは、
良質のコメディも、本物のヒューマニズムも
生まれないと言いたいだけだ。
ヒューマニズムとは、つまり、人間という
存在が様々な文脈を同時に引き受けられる
ということを直視し、そのことを大切に
することを意味するんじゃないか。
人道に対する罪を犯した者、
人種差別主義者
も、文脈を変えればパパであり、
一人のおびえる若者であり、
気の良いパーティー・アニマルである。
西欧諸国が死刑を廃止している背景には、
ヒューマニズム=多様文脈性
という哲学があるのではないかと思う。
イラクの子どもたちは、どんな
思いで日々のニュースに接している
のだろうか。
乱世には哲学や思想が現れるという。
孔子が登場したのは、中国の内政が
乱れた春秋時代だった。
乱世というのは、別に国だけにある
わけじゃなくて、
一人の人間の中にもあり得る。
デカルト的な「我」の統一など
ないと主張するのが、
ダニエル・デネットを筆頭として
一つのはやりであるが、
それは、別にジェラルド・エーデルマンの
唱える「ニューラル・ダーウィニズム」という
標語を待つことなくても、
有機体としての人間の有り様を
眺めてみれば至極当然のことではないか。
自分の思想、哲学が鍛えられるのも、
内なる乱世を抱えている時である。
そのようなことを年末に思う。
思えば、うだうだぐだぐだして
いた思春期だった。
ボクのひとりの人間としての特徴の
一つは、
「王様は裸だ!」
と言ってしまうことで、
そのせいで、どこにも着地点を
見つけることができなかった青春時代だった。
今だって着地点を見つけたとは思わない。
以前、畏友池上高志に、
「茂木には何にもないからなあ」
と言われたことがある。
一生このスタイルでやっていく、
といったような大地がないという意味か。
池上は大学の先生をやっていくので
とりあえず良いと思っているんだろう。
モーツァルトも、孔子も、
一生宙ぶらりんだったから、
「何もない」ということはむしろ
誇りにすべきことなのだと思う。
それにしても自分の「ギャップ・イヤー」
はなかなかとれそうもない。
内面的には、漂泊の思い止まずである。
12月 31, 2006 at 08:36 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (6)
Sony Design
Key Person Interview
December 2006
http://www.sony.net/Fun/design/activity/interview/mogi_01.html/
12月 30, 2006 at 07:21 午後 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
Aha! experience on Play Station Portable.
The Qualia Journal
30th December 2006
12月 30, 2006 at 06:51 午後 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
大竹昭子のカタリココ 第1回
ゲスト:茂木健一郎
Rainy Day Bookstore & Cafe
2007年1月20日(土) 17:30〜19:00
大竹さんと朗読します。
(要予約)
12月 30, 2006 at 12:48 午後 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
Beyond this linguistic closure
The Qualia Journal
30th December 2006
12月 30, 2006 at 11:30 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
イギリスのコメディも、
以前から今のようにゲイや人種差別や
自分たち自身の傲慢さといった
問題に取り組んでいたわけではなくて、
たとえばボクが時々見る
On the Busesは1970年代の
作品だが、
内容は、バスの運転手や車掌さんたちを
めぐる愛すべきドタバタというような感じで、
セクシャリティに関する言及も類型的で、
それほどの鋭さはない。
"On the buses"
一方、1969年から1974年にかけて
放送されたモンティ・パイソンの方は、
ご存じのように差別意識や
セクシュアリティの問題にもどんどん
切り込んでいく内容になっている。
"Monty Python's flying circus team"
モンティ・パイソンはしばしばコメディにおける
ビートルズにたとえられるが、
一つの革新が別のイノベーションを呼び、
イギリスのコメディを徐々に変えていったのだろう。
そのあたりの機微は、同時代の
イギリスに生活していた人でないと
なかなか判らないところがあるように思われる。
(マスメディアに流れる)
日本の笑いが在日外国人の問題や、
セクシュアリティ、格差といった本当に痛い
ところには突っ込んでいかない、ぬるい
ものであることは以前から指摘している
ところだけれども、
今朝になって
ふと思い出したことがある。
子どもの頃のわたしは本当にあばれんぼう
だったが、
時代の雰囲気もそれに呼応しているところ
があった。
小学校1年か2年の時、民放のゴールデンタイム
(確か7時30分くらいから)に
「野球拳」をやっていた。
まったくあっけらかんとしたもので、
同じころ「モーレツ」のコマーシャルも
流れていて、
私は無邪気に喜んで見ていたが、
大人たちはあきれていたようである。
永井豪の「ハレンチ学園」とか、
「キューティー・ハニー」などもアニメや実写で
地上波で流れていたわけだから、
今の倫理基準で言えば考えられない時代である。
もちろん、「野球拳」も「ハレンチ学園」も
「キューティー・ハニー」も、
セクシュアリティの基準から言えば類型的で
そこにはマイナリティーに対する感受性や
批評性があったわけではないけれども、
少なくともハチャメチャなエネルギー
だけはあったことは事実だ。
コメディにおける、タブーに突っ込んでいく
勇気は、ハチャメチャなエネルギーと連動している
ところがあって、
ひょっとしたら、高度経済成長期の
あの頃だったら、
日本でもスルドイ批評性のある
コメディのスタイルが確立できたんじゃないか。
タブーの様々が温存されたまま、
ヤロウジダイなおじさんたちの声ばかりが
蝉時雨のように高まる時代のありさまを
見るにつけても、
失われた機会を残念に思う次第である。
今の日本のマスメディアがぬるいのは、
つまり時代からエネルギーのようなものが
失われてしまったということとも
関係しているのだろう。
逆に言えば、イギリスはここのところ
経済も好調だったし、基本的に
元気なのだろうなとも思う。
Little Britainの「デブの方」のMatt Lucasを
私が初めてみたのは、95年から97年に
かけてイギリスに滞在していた時に放送していた
Shooting Starというふざけたクイズショウの中で、
時折ドラムを叩いている「へんな大きな赤ちゃん」、
George Dawesという役柄でだった。
その時は「ヘンナ人だなあ」とビールを
飲みながら笑って見ていたが、
Little Britainでコメディの歴史に名を残した
あとで、
彼自身がゲイで(最近パートナーと
civil partnership
の式を挙げた)
「ぼくはこの村で唯一のゲイだもの」
のスケッチも自分自身のパーソナル・ヒストリー
に基づいていることなどを知って、
尊敬する気持ちが高まった。
ぼくは本居宣長とか、小林秀雄を尊敬するけれども、
日本の国柄が大事だとか、伝統的な価値を
大切にしようとか、そういう
エラソーなことを言っているおじさまたちには、
思考停止とか、生命力の欠如とか
しか感じられない。
歌舞伎とか、能とか、茶道とか、
そのような日本の誇る文化は、
エラソーなおじさまたちによってつくられて
きたわけじゃなくて、
イギリスで言えばMatt Lucasのような人たちに
よって生み出されてきたのだと思う。
自己反省のない保守主義者は
過去の異形のものたちがつくってきた文化の
フリー・ライダー(ただ乗り者)に過ぎない。
白洲信哉が企画した「青山二郎の眼」
を見た印象記を、来月発売の「和樂」に書いた。
その中に、こんな一節がある。
青山二郎の箱書きは、デュシャンの「R. Mutt」である。美というものを成立させる文脈についての私たちの理解が深まれば、骨董は現代美術につながり、青山二郎はデュシャンになり、隠されていたものが新たな光を放つだろう。
この話には後日談がある。東京に帰り、「こんな展覧会があってね、面白かったよ」と青山二郎を彷彿させる件の畏友に言ったら、即座に「千利休は朝鮮の便器を茶道具に使っていたそうじゃないか」と返ってきた。
「畏友」というのはおしら様哲学者、
塩谷賢のことであるが、
肝心なのはその点ではなくて、便器のところである。
新しい文化とは、そうやってできあがって
くるものだと思う。
白洲信哉は、来年の芸大の授業に来てくれる
はずだ。
彼はバサラを信奉している男だから、
彼のメールアドレスにはその文字列がある。
12月 30, 2006 at 10:49 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (0)
今年はいろいろな方々にお世話になった。
最後の「はっきりとした締め切り」
がある原稿。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
本の、1月30日発売予定の
第9巻
1月30日発売予定
●楽しんで学べ 傷ついて育て——中学校英語教師・田尻悟郎
●医者は人生を手術する——脳神経外科医・上山博康
●心動かす広告 命宿す写真——写真家・上田義彦
http://www.nhk-book.co.jp/tv_r/document.html
のエッセイを書いて、NHK出版の高井さんと
小林さんに送る。
いつも締め切りぎりぎりで御迷惑をおかけして
きました。
渋谷方面に頭を垂れる。
同じくNHK出版の大場旦(オオバタン)
の本の原稿は、遅れに遅れて一向に進んでいない。
そんなものが沢山ある。
ずっと時間に追われていました。
みなさん、来年はより精進しますぞ。
そろそろ一年を振り返り、
来年の抱負を、というような時期になったが、
実は密かに胸に秘めた思いは幾つかあり。
しかし言葉にすれば陳腐になるので
言わない。
ここにも「無記」はある。
この所気になっているのは「拡散原理」
である。
生命の本質をたった一つだけあげれば、
それは「拡散する」ということではないか。
サンゴが満月の夜に大量の卵を海中に放つ。
もし全てが着生して育てば、幾何級数で
大変なことになるが、
実際には淘汰されて安定した個体数に
落ち着いていく。
そのあたりの事情を、1798年に発行
されたThomas Malthusの
An essay on the principle of population
はとらえた。
そして、チャールズ・ダーウィンに影響を
与えた。
「産めよ増やせよ」は聖書が言うまでもなく
生命の一般原理であって、その点については
進化生物学に詳細な理論的・実験的蓄積が
あるので良いとして、
気になっているのは精神の領域における
それである。
科学でも、芸術でも、審美眼に基づいて
美しいもの、真実に近づけていくという
「収束」(convergence )の原理がある。
ニュートンの力学よりはアインシュタインの相対性
理論の方が、そしてTheory of Everythingの候補
としての超膜理論の方がすぐれている。
アーティストは、作品を「作り込んで」より
高い完成度を目指していく。
これらが、「収束」の原理である。
一方で、「収束」の原理は必ず「拡散」の
原理によってバランスされていなければならない。
なぜならば、それが精神の領域で顕れる
生命一般の性質だからである。
小説家でも音楽家でも、あまりにも洗練された
美意識の下に作品をつくる人は、玄人筋からは
高く評価されつつも、どこか生命力の減退を
感じさせもする。
そこに、「拡散」原理が失われつつ
あるからだ。
乱読、拡散、疾風怒濤、無駄、イミナシ、
ナンセンス。
そのような横溢はもし何らかの美意識という
がともなわなければ空しいだけだが、
ある美意識によって「収束」させられる
ことによって初めて一つの表現行為として
麗しい山脈を築き始める。
作品の整った美しさと、実生活における
あらゆる方向へのエネルギーの放出を
両立させたモーツァルトの人生は、
「収束」と「拡散」の原理を
共存共鳴させた見事な事例だということが
できるだろう。
一つのことばかりにかまけていては
いけないのです。
その一方で、収束も目指さなければならないのです。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の編集で天才的なワザを見せる小林幸二さんが忘年会の
写真を送ってきてくださった。
ぼくとチーフプロデューサーの有吉伸人さん、
カラオケでみんなが騒いでいるのに
全く気付かずにぐっすりと眠っています。
男というものは、実に全く、
明日への英気をこうやって
養うことであるよ。
カラオケで有吉さんと睡眠中。撮影 小林幸二。
12月 29, 2006 at 08:58 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (2)
茂木健一郎 トーク&サイン会
雑誌『BRUTUS』2007年2月1日号
(609号、2007年1月11日発売)
特集「脳科学者ならこう言うね!」
発売記念イベント~
「人生の本当の幸福について ―ロハス、癒し、神経経済学―」
The true happiness in life--Lohas, healing, neuroeconomics--
■日時:2007年1月14日(日) 14:30~15:30(開場14:00)
■場所:HMV渋谷店 3Fイベントステージ
■定員:70名様 先着順で椅子席をご用意いたします。
■ご参加方法:2007年1月11日(木)10:00より、雑誌『BRUTUS2月1日号』をHMV渋谷店6階の「青山ブックセンターHMV渋谷店」店頭にてご購入のお客様に、トークショー参加整理券をお渡しいたします。
*トーク終了後、HMV渋谷店6階「青山ブックセンター内」で茂木先生によるサイン会を予定
■お問い合わせ電話: 青山ブックセンターHMV渋谷店03-5428-1775(10:00~23:00)
(※お問い合わせは店舗の営業時間内となります/3階イベントステージへのお問い合わせはご遠慮ください。)
12月 28, 2006 at 02:09 午後 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
Reflections on the ever-changing
The Qualia Journal
28th December 2006
12月 28, 2006 at 10:16 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
わが青春。
紅顔の高校生だった頃。
生きているとはどういうことか、
努力して、何かを達成したからといって、
死んでしまえば意味がないじゃないか。
人並みに、そんなことを考えていた。
それで、ニーチェにはまった。
『悲劇の誕生』の中の、「世界は美的過程として
のみ是認される」という言葉が
あの頃のわがモットーとなった。
『ツァラトゥストラ』の
中にある「舞踏」(tanzen「タンツェン」)という
概念をわが守護神とした。
問うな。ただ踊れ。
自分のうちなるリズムを宇宙に向かって
開いていけ。
そのような生命哲学が
高校の時の私の気分にぴったりきた。
大学生の頃、「モーツァルト・モード」
というのを発明した。
ある晴れ上がったような気分を表す。
平明さの中に、迅速に全てがなされていく。
様々なことが生起していく。
一種のフロー状態。
思えば、あれは個人思想系列的に言えば、
ニーチェの「タンツェン」の
子孫だったのだろう。
時は巡り、たくさんの水が橋の下を
流れ、
昨今は「変貌」ということに
最も価値を置くような気分が
胸に立ちこめている。
むしろ確信と言うべきか。
どっしり座り、動かない。
一つひとつの何かに取り組んで
行くことで、自分が確実に変わっていく
という感覚。
自分は幼虫であり、サナギであり、
蝶になったとしてもさらには
先の変態がある。
古い自分が死に、新しい自分が再生する。
そのような通過儀礼をどれくらい
持つことができるか。
一方で、受け継がれていくものは
確かにあるはずなのだ。
時々刻々と回路のつなぎ目が
変わっていく。
そのような普遍学習にこそ
最も価値を置くようになった。
つまりは孔子や本居宣長に
共鳴するようになるわけである。
不用意に意味やゴールを持ち込むのでは
ない。
龍門の滝も結局はタンツェンの系列である。
収束に対する、「拡散」の原理をいかに
確保するかということが肝心だ。
だから乱読せよ、走れ。出会え。
このホープフル・モンスターは、
そんな一介の生命哲学を胸に抱いている。
白魔法使いの弟子として、
杖の使い方をいろいろと工夫している。
それにしてもここの所の
乱読は乱脈気味で、
トイレやお風呂やはてまた歩きながら
いろんな本を読んでいる。
活字宇宙の中で永遠の舞踏を続ける
八の手を持つ神にでもなるつもりか。
小俣圭、恩蔵絢子、柳川透の博士論文が
締め切りだった。
三人とも、一生懸命になって
長い文章を書いてきた。
こちらも、一生懸命に読んで
文章を直したり、debuggingをしたりした。
修士一年の頃を知っているから、
成長したなあとしみじみ思う。
みんな、大きくなりました。
博士論文は人に読ませるために
書くものだと現役学生の頃は
誤解していたが、
今では自分が成長するために
書くのだと断言することができる。
もともと、表現というものはすべからくそうだろう。
他人のためにするのではない。自分の
ためにするのである。
どのような表現をするか、
工夫をこらして趣向をきわめることが
美しき変貌を続けるための妙薬なのだろう。
そんな、思い切った小乗的世界観で
さまざまを見てみるのも良いんじゃないか。
朝、モーツァルトをかけながらチョコレートを
食べていると調和が胸を満たしていく。
モーツァルトは、全ての曲を、自分に聴かせる
ために書いていたのだと断言できる。
本当の優れた表現行為は、変貌のマジックとして
自分自身の中で完結しているという
側面があるのだと思う。
作者自身を変貌させてくれるような表現行為こそが、
傑作を生み出すのである。
12月 28, 2006 at 09:37 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (1)
ワイズの服を着た撮影風景 (2006.12.25.)
(photo by Tomio Takizawa)
一月発売の
ソニーマガジンズの新雑誌「Re-boot」に掲載
される予定です。
12月 27, 2006 at 10:32 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (0)
My perception is a part of me.
The Origin of Consciousness blog
27th December 2006
12月 27, 2006 at 09:42 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
過去というものは、物理的事実としては
もちろんフィックスされてはいるが、
現在から見てどのような姿で
現れるかということは、
もちろん時々刻々と流動的に変化していく。
「創造する」ということが、
多くの場合に「起源」へと遡る
ことを意味するのは、
「起源」の中にこそ、形が整い、
固定化され、一見不変なものとして
さまざまなものがあるという「現状」
からは隠蔽されてしまっている
もともとの流動性が現れる
からであろう。
起源問題を追究することは、隠蔽されているものを
明らかにすることであり、
そして固定化してしまっているものへと
流動性を再び呼び込むことを意味するのであろう。
『源氏物語』において、光源氏のあまりの
美しさに触れた宮廷の人たちが、
「この、古から見れば堕落してしまった時代に、
なぜこのような美しさが可能なのだろうか」
と驚く箇所がある。
起源にさかのぼる程純粋で、美しい姿が
あるという考え方は、
古代のギリシャや中国にもあり。
低次のものから次第に高次のものが
できあがっていくという進化論的な
世界観とはちょうど眞逆であるが、
いわゆる「堕落史観」は、
起源ということに関する何らかの真実を
表しているのだろう。
『欲望解剖』ができあがった打ち上げで、
電通の佐々木厚さんが元締めとなって
Maxi Vinでワインを飲んだ。
白洲信哉が来た。
いろいろと話した。
彼は、角度によって、モーツァルトの
有名な肖像画に似ている。
前に言われたことがなかったかと聞いたら、
言う人はいたけれども、
お前ほど確信を持って言うやつは
いなかったと信哉が答えた。
「お前があまりそんな風に言うもんだから、
この前ウィーンに行った時、絵はがきをたくさん
買っちゃったよ」
とシンヤが言うので、私はあははははと
笑ってシャンパンを飲んだ。
シンヤがモーツァルトに似ているということは、
きっと何らかの起源問題にかかわっている。
子どもの頃を思い出して、
浮き上がってくることは時によって変わる。
ものごころがつくかどうかの頃、
なぜか赤のものばかり欲しがった時期があり、
帽子も、小物を入れて持ち歩く編みバッグも
何もかもせがんで赤にしてもらっていた。
私が求めていたのは、
とても鮮やかな、深みのある赤だった。
今でも、その幻を心的風景としてはありありと
思い出すことができる。
それが、ある時、赤は「女の子の色」
だということに気付いて、
ぴたっと持たなくなった。
赤というものを好んでいた自分を、
封印してしまって、
他人のような顔をした。
あれは一体何だったのか、
時々思い返してみる。
斎藤英喜さんの『読み替えられた日本神話』
(講談社現代新書)は、『日本書紀』をはじめと
する日本の神話が、中世を通していかにダイナミックに
読み替えられていったかを論じる。
テクストとしてフィックスされた過去が
どのように映るかということも、また流動的に
変わる。
過去には自己像の起源があり、そして
その変化の中に、私たちは現代と未来の自分の
姿を見る。
過去は、私たちに開かれた唯一の未来なのだ。
12月 27, 2006 at 08:50 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (1)
中目黒のスタジオで、
服をたくさん着替えた。
好きな「ワイズ」の服とは言え、
「ためし」の時も入れると、
8回も着替えた。
「モデルの人は何回着替えるんですか」
と聞くと、
「多い時は20回も着替えるんです」
という答えが返ってきた。
不思議なことに、自分が、だんだん透明な
存在になっていくような気がした。
たとえそれがどんなに小さなステップ
でもいいから、
自分が少しづつ変わっていって
いることを自覚できること。
「また次がある」という意味での
可能無限は、学習において最も
純粋な意味で成立する。
しばしば、S字型に飽和する学習曲線が
書かれるが、
それは一つの文脈に関することである。
実際には、人間の脳の学習は「持続可能」
な形でずっと続いていく。
「また次」「また次」というように、
可能無限を続けていくことができるのだ。
身を置くことで判ることが初めてある。
今までにないくらいたくさん着替える
ことで、私の脳の中で新しい
変化の種が出来た。
撮影が終わると、もう移動の時間だった。
おいしそうだったなあ、と
となりのラーメン屋をうらめしく見た。
移動しながら、どこにでも座って
すぐに仕事を始める。
至るところがオフィス。
私のような行動をとっている人は
他に見たことがないから、
かなり希な生物種となってしまって
いるのだろう。
NHKの『プロフェッショナル』チームの
忘年会。
一年間、ご苦労さまでした!
ナレーションを担当している橋本さとしさんも
いらっしゃる。
「俳優は感情を売り物にする商売」
という言い方が印象に残る。
二次会、三次会と行っているうちに、
大分眠ることができた。
それと、何だか良く判らないけれども、
有吉伸人さんや、山本隆之さん、小池耕自さん、
河瀬大作さんとやたらと肩を抱き合った。
「いやあ、ごくろうさん」
とか、
「やるぞ」
とか、
「そうだ!」
とか、
ときの声を上げる。
お互いに
酔っぱらっているから、
わけのわからない感じで
身体を接触させる。
肉や骨の感触で、
子どもの頃よく相撲をとっていたことを
思い出した。
校庭や空き地で、めったやたらと
四つに組んだり、
投げ合ったりした。
くすぐったかったり、
痛かったり。
あのような時の感触は、
「私」の陶冶に何らかの影響を与えているの
であろう。
社会人になり、紳士たるもの、
そうやたらと肉体を触れあわせたりは
しないものだが、
今宵ばかりはと、幼き頃に戻ったようであった。
「同じ釜の飯を食う」とか、
身体を接触させるとか、
そういうプリミティヴなことの
中には、何か重大なことが潜んでいる
ようにも思える。
学習のS字カーブも次から次へと
つながれていく可能無限だが、
考えるべき対象も次々と現れて
くるから、
まったく忙しくてたまらない。
考えるネタを探すために生きているような
ものである。
12月 26, 2006 at 10:06 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (1)
クリスマスイブの日、
ふと耳にした「真っ赤なお鼻のトナカイさんが・・・」
の歌。
ほとんど、日本語の訳詞は原意に
基づいているということがわかったが、
一カ所、
「今宵こそはと よろこびました」
の部分が
you'll go down in history!
だったのには少しびっくりした。
http://www.41051.com/xmaslyrics/rudolph.html
日本の子ども向けの歌の詩で、
「歴史にのこるよ」というエンディングは
ちょっと考えられないのではないか。
このようなちょっとした点に、それぞれ
の文化圏における世界観の違いが出ていて
面白い。
イブだろうが何だろうが、
結局ずっと仕事をしていた。
途中、走った。
意味もなく、めったやたらと走る
のが好きだ。
走りながら、つまりこれは一つの
「状態」なのだと思った。
シャノン的な文脈において、「0」と「1」
が構造化された意味がそこにあるのではなく、
一つのフラットな状態がずっと
続いていく。
そのことに意味がある。
走り続ける。
たとえメリハリがなかったとしても、
そのような継続自体が、人々を惹き付ける。
だから、マラソン中継が高い視聴率を
上げるのだろう。
夜、ちょっとリラックスして、
お酒を飲みながら
『サラリーマンNEO』を見た。
水越伸さんと私が出た場面だが、
あれは台本に大まかな指示が書いてある
だけで、あとは完全なるアドリヴである。
テークには、本当に短い時間しか
かかっていない。
ぱっと来て、ぱっと喋って
そして帰る。
横で見ていたら、そのあっけなさに
びっくりするんじゃないか。
ただ、中田さんと水越さん、そして
私の話が「すれ違う」ところが
面白いことにしよう、という設計や、
カメラ割り、それに編集など、
細かい点において吉田照幸さんを
はじめとするサラリーマンNEOのスタッフの
周到な準備と工夫があったことは
言うまでもない。
BBCのコメディが、その基本に
BBCという局のキャラクターがあって
成立しているのと同じように、
NHKというキャラクターを背景にしなければ
できないコメディというものがあるはずだ。
サラリーマンNEOは、民放で放送しても同じ
味わいになるかどうかはわからない。
NHKは一つの金脈を掘り当てつつあるの
ではないか。
コメディが大事なのは、一つの文脈
だけでなく、複数の文脈が交錯するところに
ダイナミズムが生まれる点で、
成熟した世界観を持つためには
笑いは欠かすことができない。
NEOのようなコメディのさらに先の
発展の果実として望むところは、
身を切るような自己批評の精神。
障害や、セクシュアリティ、人種差別、格差といった
シリアスな問題でさえ笑いに転化してしまう
BBCのコメディの高等技術は、
果たして日本という風土で受け入れられるの
だろうか。
タブーは、単一文脈の
制度的保証の装置である。
だとすると、日本にはまだまだ
単一文脈が多いということができよう。
単一の文脈しか存在しなくなる時、
人々は息苦しさを感じるようになり、
創造性の基礎たるメタ認知が失われる。
やるかやられるか。
それしかなくなる
戦争は、単一文脈支配の最たるものであることを
銘記せよ。
12月 25, 2006 at 08:03 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (6)
ヨミウリ・ウィークリー
2007年1月7ー14日号
(2006年12月25日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第36回
モーツァルトの白魔術
抜粋
いろいろと思い悩む人生の春には、どろどろとした暗い情念が内側からわき上がってくる。そのような心の動きは、モーツァルトの音楽では受け止めることができないように思われた。だからこそ、ベートーベンのドラマ性や、ワーグナーの情熱に惹かれた。モーツァルトを褒めることが、「政治的に正しい」というその雰囲気が、お上品ぶっているようでもあり、何となくイヤだったのである。
その軍門に下ったのは、人生の酸いも甘いもある程度嚙み分けた年齢になってからのことである。モーツァルトの明るさが、人生の様々な哀しみや怒り、不条理を突き抜けた上でのことであるということが心の底からわかりはじめたからである。同時に、否定的な感情と肯定的な感情の関係についても思いをめぐらし始めた。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
12月 24, 2006 at 09:06 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (1)
目覚めるまえの夢の内容
はすっかり消えてしまったが、
視覚と触覚の問題について
考えていたことだけは確かだ。
しばらく、触覚における自己同一性
とは何か、ということを考えていた。
視覚は「パノプティコン」という
考え方にも表れているように
一挙に把握し、分類し、そして
支配することにすぐれている。
一方、触覚や味覚、嗅覚は
一覧性にとぼしい。
宇宙全体さえ見晴るかすか、
それとも、「今、ここ」の個別性に
閉じこめられるか。
いつしか死すべき存在ではないとしても、
「今、ここ」に閉じこめられている
時人間はmortalである。
だから、「神」は「見る」主体
であって、「触る」あるいは「味わう」
主体ではない。
人と人とのつながりにおいては
どうなのだろう?
友人同士のスキンシップ、母子間のタッチ、
性愛などにおいて、
「視覚的領域」から「触覚的領域」への移行が
なされる時、
何か重大な変質が起こっている
ような気がしてならない。
一つひとつのものの同一性が
確立している世界から、
境界が溶け合い、判然としない宇宙へ。
ミミズは最初からそのような
世界に生きているのであろう。
泥に身を浸している状態を
「原始的」と表現しても、
精神の底で躍動しているゆらめきの
正体はつかめない。
一つの個体として生き、純然たる
近代的自我を確立する中で
自他の境界が判別としなくなる世界を、
時に経験する、
その往復運動の中にこそ
何か香ばしいものの機微があるように
感じられる。
ユクスキュルの『生物から見た世界』
(日高敏隆 羽田節子 訳)に
マダニの話が出てくる。
マダニが獲物の接近を知るのは、ほ乳類の
皮膚腺から出る酪酸の匂いを通してであり、
「そちらへ身を投げろ」という信号
に従って温かいものの上に落ちる。
マダニには味覚が一切ない。膜に孔をあけた
あとは、温度さえ適切ならばどんな液体でも
受け入れる。
ダニにとってたっぷりの血のごちそうは
「最後の晩餐」である。地面に落ちて産卵し、
そして死ぬ他になにもすることがないからだ。
マダニになってみるわけにはいかない。
仮想の中での追体験も不完全にしかできない。
知性も自我も持った人間がこのような文章を読む
時に立ち上がる何かが大事なのだ。
荒俣宏さんに初めておめにかかる。
巨きな人だった。
畏友の塩谷賢に雰囲気が似ていると以前から
思っていたが、
背の高さだけは、確かに同じように
見えた。
六本木ヒルズにはクリスマスの
イリュミネーションの光が溢れていて、
宮島達男さんの数字を包む白い四角形が
遠い親戚を得た。
12月 24, 2006 at 08:14 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (1)
毎日時間に追い立てられていると、
感覚がまひしてきて、
いつも何かやっているのが当たり前という
感じになってくる。
海に棲んでいるほ乳類は、こんな感じなのか
とも思う。
「はっ、そうか。おれは、定期的に水面に
浮上して、呼吸しなければ死んでしまうのか」
と気付いてしまうと、
そのことが気になって気になって仕方が
ないようにも思えるのだが、
習慣になってしまえば何のことはない。
その空気の中で微睡んで、仮想を
羽ばたかせることができるようになるのだろう。
毎年恒例のThe Brain Club Xmas Special。
ゼミのメンバーが、それぞれ出し物を
持ち寄って、最後に投票で優勝者を決める。
今年は、野澤真一と柳川透の二人が
同点で優勝した。
今年で5回目で、歴代の優勝者は
次の通りである。
関根崇泰 須藤珠水 関根崇泰 田辺史子
田辺が今年は参加できなかったのが残念だった。
優勝者が二人出たので、私が用意していた
ささやかな商品は、とりあえず先輩にということで
柳川に渡った。
優勝して喜ぶ柳川透。後ろにに野澤真一が見える。
クリスマスは、Season of good will。
ちょっと
ほっとして、
ふだんの緊張がゆるむような、
そんな季節。
肝心なのはなんといっても光で、
冬の寒々とした景色の中に、
あるいは夜の暗闇の中に、
明々と光が照り輝く、
そこにこそ「クオリア」
という視点から見たクリスマスの本質がある。
つまりは、光の祭典。
だからモミの木の上にも星が輝く。
クリスマスという風習自体は、
原始キリスト教にヨーロッパなどの
様々な土俗の習慣が寄せ集められて
できあがったものなのだろうが、
それが日本にやってきて、
独自の発展を遂げた。
節操がないという人もいるのかも
しれないが、
それで良いのではないかと思う。
長くなるが、『生きて死ぬ私』から
関係する部分を引用する。
「宗教的感情は、ばらばらの要素から出来ている」
(茂木健一郎『生きて死ぬ私』より)
ヨーロッパの街を旅すると、まず目に付くのは教会だ。教会の中に入ると、美しい深い色にあふれたステンド・グラスが心を打つ。自分の立っている大地自体を揺るがすようなパイプ・オルガンの音を聞いていると、キリスト教徒でなくとも、心が不思議で神秘的な思いに満たされる。
ところで、私たちは、ステンド・グラスの色彩や、パイプ・オルガンの響を「キリスト教」という特定の宗教に結び付けて考えている。このような結び付きは、歴史的、社会的な理由でつくられたものだ。
実際、私たちの頭の中で
ステンド・グラス、パイプ・オルガン ⇔ キリスト教
という結びつきは、あまりにも強いものになっている。そこで、私たちは、ステンド・グラス、パイプ・オルガンが、キリスト教の儀式を助ける道具であるということを忘れてしまっている。キリスト教という宗教の特徴自体が、ステンド・グラスやパイプ・オルガンによって決められているとさえ感じられるほどだ。
だが、本来、ステンド・グラスやパイプ・オルガンがキリスト教の要素として考えられなければならないという理由は何もない。そもそも、キリストが生きた時代には、ステンド・グラスも、パイプ・オルガンもなかった。キリスト教とこれらの「アイテム」の結び付きは、歴史的に形成されたもので、偶然的要素がかなり入っている。別の歴史的展開があれば、仏教と、ステンド・グラスやパイプ・オルガンが結びついていた可能性もあったろう。そのような歴史があれば、木魚の音ではなく、パイプ・オルガンが、仏教という宗教を心に思い浮かべる時に連想されるものだったろう。
(中略)
そもそも、宗教というものは、ばらばらの要素からできているのだ。未来において、人類にとって宗教的なものがどのような意味をもつかを考える時には、宗教というものを縛りつける既成の枠組みをとりはらって、宗教的体験の一つ一つの要素を別々に考えた方がよい。
キリスト教、イスラム教、仏教などの既成の宗教が、堅固な一体性、体系性を持っているように思いがちなのは、これらの宗教が、それぞれ、イエス、マホメッド、ブッダという、一人の個人の具体的な人生の物語に支えられているからだ。私たちは、一人の「私」としてこの世界に生まれ、「私」として成長し、「私」として死んでいく。一つの原子には歴史はないが、「私」というシステムには歴史がある。そして、この、「私」という存在は、時間的、空間的な発展の中で統一された単体として存在し続けるように思われる。恐らくは、「私」という統一体の存在は、フィクションに過ぎないのだろうが、私たちは、とりあえずはそのようなフィクションを信じつつ生きている。
キリスト教、イスラム教、仏教は、イエス、マホメッド、ブッダというという「統一された」個人の宗教的覚醒、伝道、受難、そして死という生涯の物語と絡み合うことによって、それぞれの宗教としての統一性が保たれている。もし、このような個人の生涯との結びつきがなかったとしたら、それぞれの宗教は、その個々の体系性を保つための仕組みを失ってしまうだろう。
正月には初詣でに行き、結婚はキリスト教で、葬儀は仏教でやり、クリスマスを祝うという日本人の宗教習俗は、時には節操がないと批判される。だが、そもそも既成の宗教の体系性がフィクションに過ぎないのだから、このような批判には本当は根拠がない。初詣でには、「清め」、「決意」、「祈り」といった感情が込められている。一方、キリスト教式の結婚には、「誓い」や「絆」といった思いが込められている。そして、仏教式の葬儀には、「解脱」や「極楽浄土」といったイメージが結びついている。日本人は、このような異なる宗教的感情を、それぞれ適したフォーマットで表現しているだけだ。私には、このようなやり方は、既成の宗教のように、本当は存在しない偽りの体系性=フィクションを強制するやり方よりも、ある意味では先進的だと思われるのだ。
そして、このような宗教的な感情を構成する要素も、結局はクオリア=私たちの感覚に伴う独特の質感に帰着できるのである。あえていおう、宗教的感情は、クオリアである。なぜ私たちの心の中に、そのようなクオリアが芽生えるようなメカニズムが用意されているのか、そのことこそが問われるべきなのだ。
まだまだたたかいの日々は続くが、
ほっと一息。
柳川のうれしそうな顔を見て、
私の心にもぽっと光が灯った。
12月 23, 2006 at 10:03 午前 | Permalink | コメント (12) | トラックバック (1)
Waley's translation of Genji
The Qualia Journal
22nd December 2006
12月 22, 2006 at 07:38 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
「秘仏」というのはもったいぶっていると
ばかり思っていたが、
実見して、宗教的一回性に通じると
気付いたのが今年の数々の収穫の一つ。
秘仏は日本特有の習慣で、
そこには神道の影響もあるのだろうが、
何らかの世界観、哲学が反映されている
ことは間違いない。
「絶対秘仏」となると、その寺の
僧侶でさえ見たことがない。
そうなると、本当は空っぽなのでは
ないかと思えてもくる。
長野の善光寺の秘仏については、
「本当は何も入っていないのでは
ないか」と地元の人はささやくという。
実際には、白い布でぐるぐる巻きに
した仏様があって、火事の時に
いつでも運び出せるように背負子が
ついているとされる。
見ることができないとなると、
つまりは、「こういうものが入っている」
という文脈をつけることが
全てとなる。
そのようなプライミングを行う
ことで、どのようなイマージュが喚起されるか。
人間の心も、お互いに見ることなど
できないんだから、結局は絶対秘仏であるしか
ないのだろう。
相変わらず忙しい。
一年を振り返るような時期になったが、
今年は、思い起こすかぎり、ずっと何かに
追われていて、
目の前の仕事を次々と片付けていく、
そんな時間の流れが続いていた。
それでも正気を保つことができていたのも、
自分の芯の部分に開帳されない何ものかが
あったがゆえにである。
善光寺の戒壇巡りにおいて、
暗闇の中で探り当てるのは扉の錠前だが、
あれが錠前であることがオソロシイと
言った人がいた。
錠前の
向こうには何があるのか。
見てはいけない、という禁則は
ギリシャ神話、古事記から綿々と
続く大切なモチーフだが、
見てはいけない、見えない
というのは人間の心というものの
本質であるような気がする。
光の本性は匿名性にある。
空の星は、その正体を声高に
主張することなく
ただ名も無きものとして光っている
からこそ美しい。
12月 22, 2006 at 07:03 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (6)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第37回
医者は人生を手術する 〜脳神経外科医・上山博康〜
北海道旭川市。ここに治療が難しいと他の病院で断られた患者たちが、最後の望みを託す医者がいる。脳神経外科医の上山博康。上山の得意とするのは、脳卒中を引き起こす「脳動脈瘤(りゅう)」の手術。破裂すれば、命に直結する。上山は年間300件もの手術を行う。上山の元には、その腕を見込んで、東京の名だたる大病院からも手術依頼が舞い込む。 脳の手術は、28倍という特殊な顕微鏡を使って行うミクロの世界。一ミリの手先のブレが命取りになる。そんな極限の重圧をはねのけるため、上山は、患者の人生にとにかく寄り添う。外来で、泣きながら不安を訴える患者がいれば、1時間でも、落ち着くまで耳を傾ける。そして患者からの手紙やメールには、多忙な仕事の合間を縫って、自ら返事を書く。 睡眠時間は毎日4時間。365日、患者と向き合う壮絶な上山の命の現場にカメラを据え、上山の仕事の流儀に迫る。 好評に応え、アンコールで放送する。
NHK総合
2006年12月21日(木)22:00〜22:44
12月 21, 2006 at 09:07 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
ここのところずっと考えていることの
一つは、「起源問題」で、
一般的に重要なことは言を待たないが、
特に、なぜそれが「隠蔽」されているのか
ということに関心がある。
『脳と仮想』でも書いたように、
ハリー・フーディーニが
脱出マジックを考えたきっかけは、
精神病院の閉鎖病棟の中で拘禁
された患者を見たことである。
感動的なエピソードだが、
エンタテンメントという枠組みの
中からは巧みに隠されている。
起源問題は、私たちを不安にさせる。
漱石の『門』の中で老師が主人公の宗助に
問う「父母未生以前の面目」。
自分自身の由来するところは、
もし直視すると
たじろがずにはいられない
なにものかをはらんでいる。
性的なことがタブーとされるのも、
わいせつということもあるが、
実は自分自身の起源自体にかかわる
ことだから隠蔽しようとするのではないか。
起源問題は、もちろん、クオリアにもかかわる。
そして創造性の本質である。
この作品の正体は何なのか教えてくれという、
「解釈学」とは違う。
102スタジオ。
『プロフェショナル』のホームグランド
であるが、
いつもと見違えるセットがそこにあった。
作家の島田雅彦とモーツァルトのことを
喋るのを楽しみにしていた。
假屋崎省吾さんがピアノ協奏曲を弾いた。
錦織健さんはひげ面のモンスター。
小米朝さんにお父様のご様子をうかがった。
モーツァルトについては考えると
いろいろ切ないことがある。
幼少期、三年半も旅に出ていたこと。
父のレオポルトが、姉弟を「こんなに小さいのに
巧みに演奏する」という、興味本位を
くすぐるような売り出し方をしていたこと。
モーツァルトの出発点は、驚くべき
才能をもった幼き子という
「見せもの」としてのまがまがしさに
包まれていた。
それが次第にほんものの芸術家となって
いくその過程の中にこそ、じっくりと
考えてみるべき様々なことがあるのでは
ないか。
神童に共通した問題とされるが、
幼いモーツァルトもまた、
「才能ゆえ」に愛するのではなく、
自分という人間ゆえに愛して欲しいという
願望が強かったという。
レオポルトとの関係がさまざまな微妙な
ニュアンスをはらんでいたのは周知の通りである。
やや寒い朝。
朝のコーヒーがしみじみとうまい。
大平原でキャンプをし、たき火を前に
コーヒーを啜る。
いまだ経験したことの
ないことのヴィジョンが、わが人生の
伴奏曲としてふさわしいと感じる。
その思いの起源は一体何か。
12月 21, 2006 at 07:38 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
先日の芸大の忘年会で、
蓮沼昌宏(一時期ハトばかり描いていたので
「ハト沼」、もしくは「ハッシー」)、
杉原信幸(「すぎちゃん」)、
粟田大輔(美術手帖 評論入選)
と喋っていたとき、
自画像の話になった。
ヨーロッパではある時期から自画像を
描く習慣ができたが、
なぜ日本ではそのような動きが起こらなかった
のか。
しばらく議論したあとで、
ちょっと酒を飲んで、ぼんやり
している時に、
そうか、一方で私小説はあるな
と思った。
自画像と私小説の違いは何か?
そして、なぜ日本では後者の方が
発達したか。
自分たちのことをありのままに見つめることは
案外難しいものだ。
漱石の「吾輩は猫である」は、私小説とは
少し違う。
それは、明治を背負った知識人の
猫の目を通した自画像ではなかったか。
自分の由来するところ、その起源をまっすぐに見るの
は案外難しいものだ。
私小説は、ヘタをすると白日の下にさらす
よりは、やんわりと隠蔽することに寄与する。
讀賣新聞。
ヨミウリ・ウィークリーの二居隆司さんが、
「今年もお世話になりました」
と大好物のピエール・マルコリーニを下さった。
お世話になったのは、こちらの方である。
読書委員会。本を眺めていると、
米本昌平さんがいらした。
これから、いろいろと
お話するのが楽しみである。
以前米本さんとお目にかかった時、本当に面白かった。
おじいさんが、役者を歓待するのが好きで、
最寄り駅から家まで、くる時にわかるように
道ばたに桜を植えていたという話をうかがった。
本についての議論。
発言してから座ったら、
鵜飼哲夫さんが
「お話されるときは、茂木さんのようにわざわざ
お立ちになる必要はありませんので」
と言った。
恥ずかしかった。
話す時にはどうしても立ってしまうというのは、
ボクの中に何か起源問題がある。
力動として、足がかってにすくっとなってしまう。
こうやって日記を書きながら、
さっそくマルコリーニを三粒食べた。
その後柿を口にする。
子どものとき、母親が、チョコレートと果物を
食べる時は、果物を先にしろと言って
いたのを思い出す。
漱石が、まずは自画像から始めたのは
芸術家として正しい態度だったのだろう。
東京芸大は卒業制作と同時に自画像を描き、
それは学校に残す。
12月 20, 2006 at 08:17 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (0)
Lecture Records
池上高志 東京芸術大学講義
「意識とクオリア 一回性の問題」
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第7講義室
音声ファイル(MP3, 86.1MB, 94分)
池上高志 東京芸術大学 2006年12月18日
12月 19, 2006 at 08:29 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
東京芸術大学の図書館で
江村哲二さんと
音楽の話をした。
西洋音楽には、対位法や和声法
など、
さまざまな音楽理論があるが、
肝心な音楽の美しさや魅力についての
理論はなかった、と江村さん。
その美しさは、神からの贈りものであると
考えられてきたと。
解き明かすことが不可能がゆえに、
強く惹きつけられる、そのミステリー。
池上高志が、授業の中で
「科学の深遠な理論は、たいていの場合
不可能性の証明である」という趣旨の
ことを言っていたことに重なった。
「偶有性を作り込む」という大切な
キーワードが立ち上がった。
ゲーデルの不完全性定理、
すなわち、自然数論を含むような公理系が
もし無矛盾であれば、その中に証明も反証も
できない命題が存在するという定理も、また、
不可能性を突きつける。
筑摩書房の伊藤笑子さんや
サントリー音楽財団の佐々木さんを交えて
のランチ、
白のグラスワインの銘柄をソムリエが
教えてくれたが
そのときのふわっとした感じに、
「知ることと知らずにいることのバランス」
を思った。
空気がO2であることを知らずに
いた時に、その隠蔽ゆえに人類の
中に立ち上がっていた志向性を時には
思うべきなのではないか。
起源が隠蔽されているがゆえに
創発することがある。
どんなワインかわからずとも、
とりあえず飲んでしまえ。
創造の方法論は、実は起源にさかのぼる
ことなのではないかと思えてならない。
そのうちの一番大切な営為のひとつは、
「私」の世界観や感性が由来する、
その起源に立ちかえることである。
江村さんと話し続けながら、
歩く。
空気の冷たさが心地よい。
上野公園の紅や黄色の葉っぱが目に染みる。
授業のあと、美術解剖学教室で
忘年会。
「おしら様」塩谷賢や、
理化学研究所の谷淳さん、岡ノ谷一夫さん
も来て、大盛況。
布施英利さんは最近アルタミラの洞窟に
行ってきたという。
「鍾乳洞が、まるでガウディの大聖堂の
ようでした。
楽器の起源は、上から下がっている鍾乳石を
叩いたことだと言うのです。」
粟田大輔が、デュシャンについて
論文を書いている。
「缶けり」における、缶の中に広がる
暗闇の問題。
P植田こと植田工が来年は就職してしまうというので、
みんなさびしがる。
電通の佐々木厚さんもさびしがる。
通常は、美術解剖学の授業は12月で終わり
だけれども、
植田の「卒業記念」で、年明けに
もう一度授業をやろうかしらと考える。
人生において大切なことは、大抵「不可能」
なことである。
植田が人生を前に進み、しかもずっと芸大の
美術解剖学教室に居続けることは不可能だ。
「ここ」にいて、同時に「あそこ」に
いることは両立できない。
いかにこの世が愛しくても、
ずっと生きていることはかなわない。
不可能こそを思い、そして人生を
抱きしめなさい。
この世を生きる上でもっとも大切な
真実(まこと)は、「不可能」の由来するところを
知ることではないか。
不可能なるがゆえに、我愛す。
江村哲二、茂木健一郎 2006年12月18日 上野公園にて
(伊藤笑子 撮影)
12月 19, 2006 at 08:03 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
東京芸術大学講義
池上高志(東京大学・複雑系研究)
「意識とクオリア」
池上ファインマン高志
科学と芸術の融合などと、がたがた
言ってるんじゃねえ。
もともと同じもんじゃないか。
そんなこともわからないのか!
と、きっと池上は言っているんだと
思います(茂木談)
2006年12月18日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第7講義室(2F)
!通常と講義室が違います。中央棟の表示を
参照にいらしてください!
12月 18, 2006 at 08:22 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (1)
Lecture Records
茂木健一郎
個別と普遍の関係を求めて ー白魔術の手ほどきー
徳間書店『やわらか脳』刊行記念トークショウ
2006年12月17日 丸善 丸の内本店
音声ファイル(MP3, 51.9MB, 56分)
12月 18, 2006 at 08:20 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (3)
イギリスBBCのコメディ、
Little Britain
は以前から
好きだったが、
しばらく前にイギリスのアマゾンから
届いたLittle Britain liveを見ていて、
最後のシーンのところで
はっとした。
車いすに乗った青年と、それを押す親切な
ボランティア、「肥満との闘い」のインストラクター、
女装趣味の男ふたり、「村でただ一人のゲイ」、
ゲイの首相側近、店に来てへんな買い物をする
コートの男・・・・
この番組には、数々のキャラクターが出てきて、
同じ人が何役もやっているんだろうと
なんとなく思っていたが、
劇場でのライブ公演の記録を見ていて、
カーテンコールで二人の主役、
Matt Lucas(太っちょの方)と
David Williams(細い方)が「素」
で出てきたときに、
「なんだ、全部こいつらがやっているんじゃ
ないか!」
と気付いて、
驚愕するとともに、限りないリスペクトを
感じた。
役柄から受ける印象がぜんぜん違うので、
同じ人がやっているとはとても信じられず。
しかし、実際には間違いなくそうなんだから、
とにかくすごい。
人間には、自分の中に無限のキャラクターの
可能性が潜んでいるのだと思う。
いわゆる「多重人格障害」(解離性同一性障害)
のことを言っているのではない。
自分の過去を振り返っても、そう思う。
中学校のとき、ぼくは普通の公立に行っていたから、
「ピア・プレッシャー」に悩まされた。
勉強は苦労しなくてもできたけど、
それがかえって「ガリ勉」とかそういう
イメージに結びつきそうで、
むしろ不良達としゃべったり、バカ話を
して溶け込むのにそれなりに必死だった。
あの頃の自分のキャラクターは、吉本の
芸人に近かったと思う。
冗談ばかり言っていたし、道化のようでも
あった。
高校のときは、逆に、とてもマジメで
文化的な志向の高い青年となっていた。
中学と高校では別の人間のようだった。
これからだって、どんなパーソナリティーの
種が自分の中に宿っているかどうかわからない。
そのことを、大いに勇気を与える
考えとして、私は受け止める。
Little BritainというのはもちろんGreat Britainの
パロディーである。
かつては七つの海に冠たる存在
だったかも知れないが、
今はただの「小さな」国。
David Williamsが演ずる、
優雅に着飾った夫人が、
クッキーを食べて、
Who made this?
誰が作ったの?
と聞く。
それで、答えがインド風の名前だったり、
ゲイの人が作ったり、黒人と結婚した
女の人が焼いたとわかると、
夫人が、急に吐き気をもよおして、
「ウェー」
といいながらすごい勢いで吐いて、
他のひとたちがゲロまみれになる。
自分たちの中の差別意識、尊大な部分を茶化して
カリカチュアとして描く、その切り刻むような
自己批評性はさすがだ。
夜郎自大と暗い自負心ばかりが増大する
どこかの国には、ツメノアカが必要だろう。
自分で自分のことを美しいとか、
偉大だと言うのは、
インテリジェンスの欠如に過ぎない。
Little Japanと言えるようになった方が、
きっと日本は大きくなれる。
日本のアマゾンでも買えるLittle Britain
日曜日の午後、
小石川植物園から、東大博物館の分館に向かった。
ブルータスの鈴木芳雄さん、橋本麻里さん、
和楽の渡辺倫明さん、写真の森本美絵さんと
豪華メンバーがそろい踏み。
東大博物館助手の藤尾直史さんが
たいへん興味深いお話をいろいろして
くださった。
東京駅に移動。
徳間書店「やわらか脳」刊行を記念して
丸の内丸善でのトークショウとサイン会。
思ったより大変で、サインだけで二時間かかった。
新しいキャラクターが誕生した。
帽子をかぶって、白魔術を使うキリンさん。
気に入って、何匹も何匹も描いた。
うれしいことがあった。
打ち上げに、静岡の河村隆夫さん
(冑仏研究家)がいらした。
河村さんはしばらく前に胃の手術をされて、
無事完治された。
しかし、もうお酒を3ヶ月も口にされていないと
言う。
少しだけ、と禁を解いた。
一口含んで「いやあ、うまいですねえ」
その様子を見て私もうれしかった。
ほっとして温まる
ビールを手にちょっと苦み走った河村さんの
笑顔が、
心の一頁にしっかりと刻み込まれた。
元気になってビールと再会の河村隆夫さん
12月 18, 2006 at 07:51 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (4)
『やわらか脳』(徳間書店)刊行記念
トークショー&サイン会
2006年12月17日(日)
15:00〜
丸善・丸の内本店 3階 日経セミナールーム
1. トーク(1時間)
「日常の個別の中にしか普遍は宿らないという決意を抱いて」
2. サイン会
定員150名様
要整理券(電話予約可)
http://www.maruzen.co.jp/home/tenpo/maruhon.html
12月 17, 2006 at 09:12 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (2)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年12月31日号
(2006年12月18日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第35回
青山二郎の「箱書き」と現代美術
抜粋
何十倍という難関を突破して入学してきた東京芸大油絵科の学生たちも、卒業制作では油絵を描かないことが多い。ビデオ作品をつくったり、様々なものを配置したいわゆる「インスタレーション」を展示したり。新しい表現の形を求めて苦闘する若き芸術家の卵たちの姿には共感できる。
そんな「何でもあり」の現代美術の世界に大きな影響を与え続けているのが、1887年にフランスに生まれ、主にアメリカで活躍した芸術家、マルセル・デュシャンである。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
12月 17, 2006 at 09:11 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
オレのやるのは白魔術(white magic)
だという確信がますます強まりつつある
朝。
世の中には、なにかいやなグルーヴが
漂っているが、
そんなものにまともに付き合っていると
自分自身が黒魔術に巻き込まれてしまう。
藤原定家がその日記「明月記」に記した
世上の乱逆・追討、耳に満つといえどもこれを注せず。
紅旗征戎わが事にあらず。
の矜恃。
「紅旗征戎わが事にあらず」
というのは軟弱なのではなくて、むしろ
よほどの決意がなければ書けない言葉だ。
五反田の研究所のすぐ近くで
ロレアル主催のシンポジウム。
色覚の研究で大きな成果を挙げた
ロンドン大学のセミール・ゼキ教授を
中心に、
生理学研究所の小松英彦さん、定藤規弘さん
の二人の色覚の大家、
それにオーガナイズをされてきた
永山国昭さんと小林康夫さんが
集って、
とても面白い会になった。
会場には、佐藤雅彦さん、
港千尋さんのお二人の姿も見え、
また酒田英夫さん、岩村吉晃さん、臼井支朗さん
らの脳科学の大家もいらしていて、
とても濃い議論を行うことができた。
小林さんの「脳には限界があるのでしょうか」
という問いかけに対して、ゼキが
いやあ、最近数学者の会合に出席するはめに
なってね、その時「超ひも理論」の話になって、
あれは経験的な事実とは遠く離れたところでの
議論になっているけれども、
経験に依拠しないことを人間が思いつくことが
できるということそのことが、
脳の限界についてなにか興味深い事実を
提示しているんじゃないかと思う。
と答えているとき、「ああそうか!」
というインスピレーションが訪れた。
脳科学の実験データを収集するのは
大変な苦労で、
その結果は脳のミステリーを理解する
上で大切なヒントを提供してくれる。
その一方で、実験的手法の制約もあって、
現在のところ測ることができるのは
主に外界の刺激に対して脳がどのような反応を
みせるかという
「反応選択性」(response selectivity)
だけであり、
そのことが意識の問題を解く上での
大きな障害になっている。
このあたりのことは『脳とクオリア』
や『クオリア入門』に書いた。
実験的な脳科学に付き合いすぎると、
意識の本質の解明からは遠ざかる。
もちろん、実験データに寄り添った
理論的試みも大事であるが、
その一方で、「超ひも理論」に相当する、
本質学に寄り添って「暴走」する理論的
活動があって良い。
そのような活動がなければ、意識のミステリーは
解けないだろう。
そのことを自覚した。
私が「不確実性の役割はどう思うか?」
と問うたのに対して、
ゼキは最初は「それは困った質問だなあ」
ととまどっていた。
その後、小林さんがコメントしていると、
ゼキの表情がぱっと明るくなった。
今の話でわかった。私はこのインスピレーション
のために東京に来たのかもしれない。
カントは、unknown unknownについて
思考し、
「知り得ない知り得ないもの」
の端的な例として「神」の存在を措定し、
それを信じる、という決断をした。
不確実なものの究極として、
「知り得ないもの」について考えられる
ということが、
進化の過程で大きな意味を持ったのではないか。
そんな風に、セミール・ゼキさんは言いました。
ところで、wikipediaのblack magicとwhite magic
の間の関係についての議論が面白い。
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_magic#Black_and_White_magic
否定的感情と肯定的感情の間の関係についても、
同じような議論がなりたつ。
ボクは今、肯定的な感情の豊かな人は、
潜在的には否定的感情のエネルギーもまた
強く、
ただ、否定を肯定に変える「精神の錬金術」
に長けているのではないかという
仮説を持っている。
その達人がモーツァルトであり、
和歌のエッセンスを完成した
藤原定家ではなかったか。
雨模様の空。
しかし揺るがない事実として、
厚い雲の上には太陽が輝いている。
12月 17, 2006 at 09:02 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
Lecture Records
黛まどか × 茂木健一郎 対談
「ことばと脳」
2006年12月15日 新宿住友ビル
12月 16, 2006 at 11:40 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (1)
取材を受けていて、
写真家の方と雑談していたら、
取り出されたパンフレットに
俄然興味を持ってしまった。
北野謙さん。
Our faceというプロジェクトで、0歳から
100歳までの2424人を重ねた
肖像写真を作成している。
デジタル処理をしているのではなく、
あくまでも銀塩写真で少しずつ露光を重ねて
焼き付けている。
「あのう、平均顔が美人である、という知見は
ご存じですよね」
「ええ」
「うゎあ、これなんか、身体の部分がまるで
鉛筆画のように見えますね」
「これは、小学校で撮ったものなんですけどね。
ちょっと少なくて、二十数名くらいかなあ」
北野さんが以前に撮られたという、
駅の雑踏を行く人の重ね合わせ写真も
面白かった。
まるで、メッカのカアバ寺院の周囲を
へめぐる人たちのよう。
このような写真が私たちの心を
惹き付けるのは、
世界が実際にそのように見えることが
あるからではないか。
脳研究グループの会合(ゼミ)
まずは、ヘライトモミツがTMSの
論文を紹介する。
以前は自分でぱっと論文を読んで、理解する
というスタイルだったが、
最近は「教育的配慮」
から、いかにいろいろと質問して
紹介者の理解(とその欠如に対するアウェアネス)
を促すかということを心がけている。
学問には終わりがないから、いくら
勉強しても、それで十分ということはない。
もちろん、それは私も同じこと。
近頃つくづく思うのは、独創性などということは
最後の1%くらいあれば良いのであって、
99%は過去の巨人たちの肩に上る
作業となる。
この99%をきちんと積み重ねないと、
ろくな1%が生まれない。
目指すのは、「圧倒的な知的卓越」である。
柳川透が研究についてプレゼンテーションし、
その意義について議論する。
evokedとspontaneousの差異を、
個体を前提に考えるのではなく、
むしろ回路網の内部的なトポロジー、
コネクティヴィティに基づいて
定義すること。
その際、どのようなコントロール・パラメータ
が現れるか。
制御理論の本質的発展と脱構築を望む。
朝日カルチャーセンターは、
黛まどかさんとの対談。
黛さんとならば、と打ち合わせを
一切しないで本番に入った。
あっという間の90分+質疑応答30分。
ちょっと趣向があった。手元に、
黛さんの最新句集
『忘れ貝』を置き、
ときどきおもむろに取り上げて
朗唱したのだ。
つひの色得て紫陽花の揺れやまず
それからはとめどもなしに女郎花
さうしなければ凍蝶になりさうで
イントネーションを直されたり、
読み方を間違ったり、
散々なり。
本職が朗詠すると、空気が一瞬にして
変わった。
質疑応答の最後に、「5年後、10年後の
目的は何ですか」と聞かれた。
黛さんが話しているうちに、うまい
答えを思いついた。
あひみての のちのこころに くらぶれば
昔はものを 思はざりけり
という歌があるでしょう。
もともとは恋の歌だが、人生全般そうだと
思う。
クオリアに気付いたとき、それまで何も
考えていなかったんだと思った。
気付きの階段を上るたびに、
昔は世界の深さや豊かさを知らなかった
と感じる。
5年後、10年後に、「なんだ、2006年の
もぎけんいちろうは、何にも考えていなかった
じゃないか」と自分で思えるような、
そんな人生を送りたい。
まるでラジオのスタジオにいるようだった。
言葉に集中していると、
視覚というものはあんがい削ぎ落ちていくものである。
忘年会をする。今年も新宿住友ビルに
お集まりいただき、ありがとうございました。
来年は中沢新一さんや盟友竹内薫との
対談などもあります。
6月にはサプライズも。
神宮司さん、宣伝いたしましたゾ。
12月 16, 2006 at 11:30 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (0)
東京芸術大学講義
池上高志(東京大学・複雑系研究)
「意識とクオリア」
池上高志
科学と芸術の融合などと、がたがた
言ってるんじゃねえ。
もともと同じもんじゃないか。
そんなこともわからないのか!
と、きっと池上は言っているんだと
思います(茂木談)
2006年12月18日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
12月 15, 2006 at 02:23 午後 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
朝日カルチャーセンター講座
対談 黛まどか × 茂木健一郎
「17音の交響曲 脳と俳句」
(脳とこころを考える ー脳とことばー 第4回)
2006年12月15日(金)18:30〜
朝日カルチャーセンター(新宿)
言葉は大切な宝物。感情や記憶の脳システムの絶妙な協調作業で、人間は言葉を生み出し、伝え、受け取っています。俳句の魅力や、日本語の美しさ・楽しさをうたう俳人の黛まどか氏と、気鋭の脳科学者・茂木健一郎氏が、脳とことばについて語り合います。
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0102_html/A010204.html
12月 15, 2006 at 08:52 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (1)
さいきんはメールの返事さえろくに
できない状況で、
いくつか、「お返事しなければ」
と心にかかっている仕事上のメールもあり。
どうかひとつ、寛容の精神でお待ちいただければ
と思います。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録。
カメラリハーサルの合間に、
「生放送をやりたい」
という話を住吉美紀さんとしていた。
「生放送だったら、編集で落ちてしまう
ということもないしなあ。でも、
いろいろなことを言い過ぎて、
「しばらくお待ちください」の画面に
なったりして。」
「今、有吉伸人さんが降りてきています、
って視聴者の前に真実が明らかになってしまったり
するかもしれませんね」
「有吉さんが降りてくる」というのは、
収録の節目、最後の「プロフェッショナルとは?」
の質問の時などに、特に指示が必要な
ときに「上にある」副調整室から
階段を駆け下りてくること。
トントントントン
という音がすると、「ああ、有吉さんが
降りてきた」
と思うのである。
ゲストの
村松謙一さんは企業の私的再建を
専門に手がける弁護士の方。
ディレクターは、久保健一さん。
年間1万3000件の企業倒産があり、
その大半が中小企業。
大切な仕事の場を失うだけでなく、
家や土地といった生活の基盤を奪われる
こともある。
その結果、自殺してしまう人があとを
経たない。
村松さんは、そんな現状に強い問題意識を
持ち、倒産させずに債務者と交渉して
企業をよみがえらせる「私的再建」に
日々取り組む。
担当していた会社の社長さんが
自殺してしまったことで、
「救うことができなかった」と
いう悔悟の念にさいなまれる。
しかも、その後、最愛の娘さんを
亡くしてしまう。
自分にとって大切なものを守りきる
ことができなかった。
その思いが、村松さんを突き動かす。
「板子一枚下は地獄」というが、
極限を見てしまったものは強い。
収録を終え、いつものように
日経BPの渡辺さんの取材を受ける。
それから、
五反田に向かう。
「アハ体験」関係者の大忘年会が
開かれたのである。
セガのPSPのゲーム。
ソニー・エクスプロラ・サイエンスの展示。
ソニー・エリクソンの携帯への搭載。
ポストペット10周年のイベントのコンテンツ。
その他、未公開プロジェクト。
乾杯の発声! と夏目さんが言うので、
「みなさん、アハ元年ありがとうございました」
叫んだ。
たくさんバカ話をした。
しかし、そのうちのいくつかは、プロジェクト
になるかもしれない。
「アハ体験」
は今青年期なり。
なんだか、本当に楽しい時間だったことだなあ。
雨の中を傘を差さずに走ったり、タクシーを
とめたり、廊下を歩いたり、コーヒーを飲んだり、
ひたすらキーをたたいている中で
時々ふと考えていたのは、
モーツァルトの弦楽四重奏曲(K465)『不協和音』
のこと。
モーツァルトが、なぜこのアダージョを
書いたのか。
考えると心の暗がりの中底光りして満ちてくる。
人生の滋味を増すのは、容易にはその本質を
見極めることのできない「エニグマ」である。
地獄と天国の間には、きっと本当に薄い
一枚の皮しかなくて、
生きとし生けるものの喜びもかなしみも
その皮一枚に由来する。
12月 15, 2006 at 08:01 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (2)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第36回
かあちゃん、命と向き合う 〜海獣医師・勝俣悦子〜
イルカ・シャチ・アシカなどの「海獣」を専門に扱う獣医師として、世界的に注目を集める一人の女性がいる。海獣医師・勝俣悦子(53)。勝俣は、千葉県鴨川にある水族館で海獣の治療に当たりながら、不可能といわれたイルカの人工授精を日本で初めて成功するなど、海獣医師の先駆者として走り続けている。 水中で生活する海獣には、レントゲン検査や外科手術を施すことが難しく、病因が分からないことも多い。一瞬一瞬の判断が生死を分けるギリギリの現場で、勝俣は常に「攻め」の姿勢を貫く。なぜなら、イルカやシャチは具合が悪くなるとあっという間に死んでしまう繊細な動物だからだ。症例が乏しく、歴史が浅い世界において、勝俣は攻めつづけることで、道を切り開いてきた。 水族館の舞台裏で繰り広げられる、知られざる「生命のドラマ」に密着する。
NHK総合
2006年12月14日(木)22:00〜22:44
12月 14, 2006 at 08:32 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (3)
東京電機大学の小林春美さんとお目にかかり、
お話する。
「日経サイエンス」の連載のための
対談。
とにかく面白かった。
幼児の言語発達は、私の研究室では
須藤珠水がやっており、
私もいろいろ考えてきたが、
さらに深く思索したくなってきた。
小林さんが研究されているのは、
人間の志向性と名付けの間の関係で、
指し示しがどのように名付けの認知過程に
影響を与えるかという点。
幼児の発達においては「この月齢で
この能力が現れてくる」というような
データが得られる。
そのような知見を並べた時に、
どのような能力がどのような順番で生まれて
くるのか、
その時系列の中に人類の知性の
起源を解明するための
重大なヒントが隠されている。
小林さんとの対談は日経サイエンス
3月号(1月発売)に掲載される予定。
二つの場所で話をする。
サインを求められると、
私は、「お買い上げいただいた方には
もれなく」
とちいさな絵を描く。
なぜ筆跡に魅せられるのだろう。
ある人のことを思い浮かべると、
そこには生き生きと世界とわたりあう
能動的な姿が立ち現れる。
かつて、確かにその人の手が動いて描かれた
跡には、なまなましい生の躍動の
残滓が感じられる。
だから、その人を思い出すよすがとして
筆跡を求めるのだろう。
意識は、脳の中の神経細胞の
ネットワークのダイナミクスから
立ち現れる、世界とありありと
わたりあう能動性と関係しているが、
同じような姿は細胞一つの中にも
あるように知覚される。
狭義のメタ認知や言語、自己意識といった
属性が欠けていたとしても、
一種の原始的な意識は細胞にもあるだろうと
私が考える理由はここにある
ここに言う「能動性」は、必ずしも
外形的な運動として表出されるものに
限らない。
「見る」ということが、志向的なプロセスと
感覚的なプロセスとのマッチングで起こるように、
細胞内のメタボリズムが、何らの外形的
運動を起こさなくても能動性を担っている時、
そこにはひとつの原始的な意識が宿っている
のであろう。
もしそうであるならば、意識は生命とほとんど
同義であるということになる。
私がはじめて多くの人の前でトークを
したのは、小学校5年の時だった。
校歌制定発表会でOHPを使って
10分間、「蝶の研究」について
話したのである。
人口が増え、新しい学校が出来て、
私たちはそちらに移った。
あの時は緊張した。半ズボンの足が
がくがくとなった。
今となっては、このテーマで
これだけの時間話してください、といきなり
言われても、
すぐに話し始めてぴたりと終えるような、
そんな手練れのおやじになってしまった。
それでも、魂がガクガクすることは
ときどきあって、
そんな時階段をひとつ上っている手応えを
確かに感じる。
人前で話して、足がガクガクとなった頃。
12月 14, 2006 at 07:54 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (0)
ボクの通ったのは、学芸大学付属高校といって、
東横線の学芸大学にあった。
毎年、「辛夷祭」という学園祭でオペラを
上演するのが習わしで、
ボクが一年の時には『マルタ』をやった。
二年がウェーバーの『魔弾の射手』で、
三年が『カヴァレリア・ルスティカーナ』だった。
ボクは魔弾の射手の照明を担当した。
まだ、オペラの演出というものが
どんなものかよくわかっていない中で、
ずいぶんめちゃくちゃなこともやったが
最後は何とかかたちにした。
最後に、アガーテがスコアよりも
高い音を出して、それで拍手喝采になったなあ。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
のゲストに指揮者の大野和士さんがいらした。
道具のコーナーでスコアを見ているときに、
過ぎ去った昔を思いだして胸がきゅんとなった。
音楽部の人たちが、スコアを広げ、
ひとつになって調べをつくりあげる。
多くの人がかかわって一つの幻想
世界ができあがる。
どこか白熱電灯のようなあたたかさを
持つあの共同作業が、しみじみなつかしくなった。
夜、オペラ劇場に灯りが入ると、
そこは現実の社会とは異なる、ふしぎな空間。
竜が空を飛び、
英雄が炎につつまれた美女を目覚めさせ、
人が憎み合い、慈しみを分かち、
そして思わぬ伏線が大団円を迎える。
大野さんは、ずっとあの世界の中に身を置き、
タクト一つで音を奏でている。
大野さんの胸に、ずっと、あたたかな
白熱電灯があかあかとともっている。
感動の強度を保っていたいと思う。
尋常ではない、存在の根幹を揺るがされるような
そんな心の中の波動。
オペラ劇場の中で時折訪れる、あの
奇跡のような時間は間違いなく一つの福音であり、
古代ギリシャへとつながる精神の道である。
「古代ギリシャには、専門という概念はなかった」
ボクの好きな言葉。確かニーチェ。
スタジオでは、住吉美紀さんが一般的な
質問をしてくださったので、
ボクは思う存分飛ばすことができた。
「住吉さんがいるから、ボクはオタクな
質問ができるんです。」
「じゃあ、私がいなければ、ちゃんと
配慮して一般的な質問もできるということ
ですか?」
「いや、それは、その・・・」
打ち上げに、大野さんの友人の島田雅彦
が来た。
ボクはやることが山積していて、
本当は一次会で帰らなければならなかったの
だが、
島田が来てしまっては仕方がない。
運の尽き。
引きずられるようにしてカラオケに行った。
マエストロを初めとして、皆うまい。
ボクはそれを聴きながら仕事をしていた。
「なんで茂木さんそんなに忙しいんですか」
と大野さんの回がディレクターとしての
「卒業作品」になるかもしれない河瀬大作
さんが言うと、
私の隣りにいた島田雅彦が
「貧乏暇なしなんだよ」
と言って、みんながガハハとわらった。
島田め、相変わらず憎まれ口を叩きやがって!
とひとつこづく。
「面白い。茂木さんと島田さんは、一体
どんな関係なのですか」
「いや、まあ、そのね。」
「大野さんと三人で、悪の三人衆ですね」
ボクはててへと笑いながら、それでも手元は
仕事を続けた。
そのうちバッテリーがなくなってきた。
ちょうど一つ仕事が終わったタイミングだったので、
蓋を閉じ呆然としていると、
有吉伸人チーフプロデューサーが
「茂木さん、やっと終わりましたか! 良かったですね。
何か歌ってください!」
と言うので、
「じゃあ、短い歌をひとつ歌います!」
と言って、
井上陽水のアルバム『氷の世界』の
最後にある「おやすみ」を歌った。
あやとり糸はむかし 切れたままなのに
おもいつづけていれば こころはやすまる
もう、すべて終わったのに みんなみんな終わったのに
いつわりごとの中で 君をたしかめて
泣いたり笑ったりが 今日も続いている
もうすべておわったから みんなみんな終わったから
深く眠ってしまおう 誰も起こすまい
あたたかそうな毛布で からだをつつもう
もうすべておわったから みんなみんな終わったから
正確ではないかもしれないが、上のような
歌詞をおぼえている。
それで、リュックを背負ってひとりかえった。
「おやすみ」一曲を歌って、さっと帰った。
タクシーの中で、バッテリーが尽きた。
こうなると時にもう抵抗できない。
流れていく夜景を眺めながら、
ボクもあの暖かな光をともし続けたいと考える。
アインシュタインは言った。
人は、感動することを忘れたら、死んだも同然だ。
12月 13, 2006 at 08:03 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (3)
おじさんというのは人に言われる
前にという諧謔の精神であって、
本当にそうだと思っている
わけではない。
筑摩書房の増田健史、NHK出版の大場旦
と行き始めて、おそらく3年目になる。
今年は塩谷賢が加わった。
日曜の午後だったら空いているだろうと、
ロマンスカーに乗って、箱根湯本に向かう。
ビールを開け、さっそく議論を始める。
何しろ話すのが三度の飯よりも
好きな面々だから、話題は尽きない。
John RawlsのTheory of Justiceを、
増田健史は大学院の時に原著と
日本語訳を対照して読み込んだのだという。
誰にでも青春の書はあるものだ。
ぼくは、1989年に出た
PenroseのThe Emperor's New Mindを
読んだことが脳科学を志す一つの
大きなきっかけとなった。
状況論と本質論。
その狭間で、一体どのように生きて
いくか。
そんなこんなを語り合っているうちに、
電車は湯本へ着く。
赤い顔をしている私たちを見たのか、
おばさまたちが、
「忘年会に来る人たちが多いんじゃないの」
「ああ、それで」
と噂しあう。
くわばらくわばら。
紳士たるものが、これではたまらない。
足早に改札を通り抜ける。
部屋でも当然のように飲み続ける。
うとうとしていると、「茂木さん
笑点の時間ですよ」と増田健史が起こす。
そこに仲居さんが来て、「お風呂に入られたら」
と言う。
「笑点はいいんですか」「いや、いいんだ」
と殿方浴場に向かった。
さてさて、風呂から上がると、
楽しみな食事。
その前に、ドンペリを開け、
キャビア(最高級のベルーガ!)を
皆で食べた。
何も私の手柄ではない。静岡の
河村隆夫さんがご親切にもお送り下さった
ものである。
「これからいただきます」と河村さん
にお礼の電話をする。
おしらさまもことのほか
ご満悦のようだった。
「オソロシイことだけど、金さえあれば、
毎日でもやってしまいそうだなあ。」
世が世なら、おしらさまは
シャンパンとキャビアを毎日楽しまれるので
ありましょう。
ご満悦の塩谷賢(おしらさま)(左。念のため)と増田健史
御馳走でおなかがふくれると、普段の激務の疲れも
出て、自然にまぶたが重くなる。
大場旦がまっさきに枕のともだちになった。
涅槃を夢見る大場旦
将棋をさしたり、談笑したりしているうちに、
増田健史がカラオケに行こう、と言い出した。
「いやあ、最近、茂木さんのやっている番組の
主題歌が耳に鳴って仕方がないんですよ。
みんなでカラオケに行ってProgressを歌いましょうよ。」
ボックスは空いていなかったので、ラウンジの
方になった。
他のお客さんもたくさんいる。
私は何となく恥ずかしかったので、
ワンコーラスだけ背中を見せて歌って、
それから席に戻って帰ってくると
隣りの席に座っていたひとが
「テレビに出る人でしょ、ほら、なんと言ったっけ」
などと話しかけてくる。
「ほら、なんと言ったっけ」は、
「いやいや、まあ、その」と
手を振ると、
二人のカリスマ編集者がProgressを歌い上げて
いるのを眺めて、ビールをぐびりと飲んだ。
増田健史と大場旦が、みごとにProgressを歌い上げた。
いつの間にか眠り込んでいた。
はっと気付くと、塩谷と増田健史が車座になって
はなしこんでいる。
それがまぼろしのような残像となって、
目が覚めたら一番乗りの風呂だった。
連中は朝5時までやっていたらしい。
一体何を話していたことやら。
おしら様と話し込むと、長くなることは
学生時代から良く知っている。
ロマンスカーで帰りながら、
大切な未来の話をした。
結局、どこでも本質論のことを話している。
そういうヘンなおじさんたちの温泉でした。
NHKで打ち合わせ。
局内のばらえ亭で
わんたん麺を食べる。
しみじみとおいしい。わんたんは
いいやつだなあ。
電通の佐々木厚さんと名古屋へ日帰り。
帰路、ビールを飲みながらみそカツを
食べて、ああ、本当に歳末になっている
んだなあと感じた。
そんなことをしている間も
ずっと手は動いている。
働いてもはたらいても、
残りの仕事の量は一定、もしくは増加する。
これが人生の法則なり。
思いでのひととき。
おじさん温泉で盛り上がっているとき、
大場旦が突然、「ひらめき脳でアハ体験!」
と叫び始めた。
いつもはクールダンディーなオオバタンが
そんな宣伝をしてくれて、
ぼくはとてもうれしかった。
12月 12, 2006 at 08:37 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (1)
箱根湯本にておじさん温泉決行
塩谷賢、増田健史、大場旦、茂木健一郎
詳報を待て!
12月 11, 2006 at 08:22 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (1)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年12月24日号
(2006年12月11日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第34回
同好の士が集まるよろこび
抜粋
私は、子ども時代は蝶の採集が趣味だった。近所の大学生のお兄さんに導かれて、セミプロのような意気込みで蝶影を追いかけた。お兄さんを除けば、周囲にはそこまで入れ込んでいる人はいなかったから、思うような蝶の話をすることがなかなかできなかった。
「日本鱗翅学会」という、蝶や蛾に関する研究団体があるということを、お兄さんに教えてもらった。門戸が開かれた組織で、子どもで入会することができた。初めて、関東支部の集会に行った時の感動は忘れられない。
上野の国立科学博物館の一室に、大人たちが集まって、蝶の話をしている。一般の人が耳にしても何のことかわからないような専門的な用語でも、使い放題である。
「今年は、あそこのゼフィルス類の
発生は少し遅いね。」
「ヒサマツは出ているようだけど、案外ハヤシやメスアカが少ないなあ」
「ナガサキアゲハのすごい雌雄同体が採れたってね。」
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
12月 10, 2006 at 10:40 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
NHKラジオセンターには、
ゆったりとした空気が流れている。
夏目房之介さんとは以前からお目にかかりたかった
ので、
ラジオでご一緒できてうれしかった。
緒川たまきさん、内藤啓史アナウンサー
と4人で話していると、
なんだか現代というものから遠く離れた
場所にいるようだった。
今日の時代精神をつくりだしているものは
多くあるが、そのうちの大きいものは
視覚的イメージの操作ではないか。
松山からの中継に耳を澄ませていると、
温泉宿の間取りや、坊っちゃん列車の様子を
音声から再構成せねばならず、その不自由さが
かえってこみ上げる喜びにつながるということが
ありありと実感できた。
時には、視覚を遮断してこそ。
汐留の日本テレビへ。
「世界一受けたい授業」の収録。
登場は死に神の恰好をさせられた。
『世界一受けたい授業』セットの横で、出番直前。
広報の中谷由里子さん撮影。
つつまれる、というのは心地よいもので、
カウントダウンをされていても、
どこか落ち着いてしまっている。
胎児の時に見える世界は無明だったの
だろう。
見えないということは、生きることの
始まりの、生命の泉の源へと私たちを
誘うのではないか。
打ち上げで、うつらうつらした。
ここの所、飲み会で眠っていなかったので、
久しぶりだった。
先日ワイズで手に入れたジャケットが
暖かく、心地よく、包まれているうちに
ついついうとうととした。
新潮社の町井孝さんになぜ「夏目賞」
がないのでしょう、と聞くと、
シャレにならないからでしょうと言う。
名前が大きすぎると、かえって賞の
冠としてはうまくいかないという不思議な
ことに気付いた。
芥川はともかくとして、直木三十五は
あまり読まれていない。
しかし、賞は言うまでもなく大きくなっている。
放送作家の富樫香織さんが、チョン・ミュンフンは
素晴らしかったと言った。
倉田忠明さんは、最近はアキバ系のリサーチを
続けているらしい。
ああ、そうですかと言っているうちに、
再びうとうとする。
目が覚めると、ワイズのジャケットに
ぽかぽかと包まれていて、
「それはそうでしょう」
とずっと聞いていたようなふりをする。
でも、ばれているに決まっている。
みんな、やさしいなあ。
佐々木厚さんに頼まれて書いた
「欲望解剖」の一冊が富樫さんに渡った。
最近のサインには竜やキリンが出てくることが
多いが、即興で文章を書くこともある。
文字も絵だということが、最近気になって
しかたがない。
目を閉じて、世界の全てを遮断したときに
みえてくるものは何?
原生林が消え、ビルが立ち並び、
風景がすっかり変わってしまったとしても、
目を閉じて見えてくるののうち、
ずっと同じものがあるはず。
それがユングの言った集団無意識だとすれば、
人間の本質はそこにこそあるはずだ。
だから、酒場でうつらうつら。
つつまれると昔に帰れる。
12月 10, 2006 at 10:34 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (0)
12月 9, 2006 at 11:33 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
NHKラジオ第一
拝啓・漱石先生〜没後90年夏目房之介 森まゆみ 緒川たまき
嵐山光三郎 茂木健一郎 多胡吉郎
2006年12月9日(土)13時05分〜17時
(私が出るのは16時台です)
12月 9, 2006 at 09:11 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
NHK教育 科学大好き土よう塾
ヘンな生きものスペシャル(2)
ヘンだ! 深海の生き物
2006年12月9日(土)9時15分〜10時
http://tv.yahoo.co.jp/bin/search?id=64133008&area=tokyo
室山哲也、中山エミリ、茂木健一郎
12月 9, 2006 at 09:11 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
竹内薫の日記を読んで、イラン人の親子の
退去の問題について、何かコメント
しようと思ったが、やめた。
竹内薫が、怒りを表明する。
わが親友に対する信頼が深まる。
最高裁判所、および件の法務大臣の判断は
私のコモン・センスと違う。
しかし、日本の法の実務家にはそもそも
コモン・センスを尊重する風土がない。
それにしても、最近の政治状況はどうか。
小泉純一郎首相の時には、
インテリの間でも支持する声が
聞こえたが、
今の首相を支持する人は周囲には
ほとんど見られない。
政権から
伝わってくるのは、弱者や少数者に
対する想像力ではなく、
傲慢さと無知と偏見のいやなグルーヴ
だけである。
これでは、まともな感性を持った
人が離れていくのは当然だろう。
ボクは白魔術の人間でいたいと思う。
モーツァルトのように、あくまでも
ポジティヴな感情、志向性を発して
行きたいと考える。
Steve Jobsのスタンフォード大学の卒業式での
スピーチStay hungry, stay foolishは
素晴らしいが、
なぜ、このような話を出来る大人が
日本にはいないのだろう。
国を代表する知性と見なされるような人でも、
その話は後ろ向きで、愚痴ったり、
政治的な正しさへの配慮がなかったり、
総合的判断に欠けていたり、
聞いて未来へのヴィジョンに
駆られて元気になる、というよりは、
どちらかと言えばうさを晴らして
すっきりした、というような
黒魔術に属することになってしまう
のはどうしてなのだろう。
愚痴吐きおじさんばかりが
しゅっしゅぽっぽ、しゅっしゅぽっぽと行くよ。
ボクは白魔術の人間でいたい。
Jobsのスピーチのようなグルーヴで、
あくまでも人間の可能性や、美しさや、
すばらしさを称揚したい。
もちろん、誰にでもうらみや、ねたみ、
嫉妬といったネガティヴな感情はある。
ただそれをそのまま出してしまっては、
本人にとっても世間にとっても迷惑な
だけなのであって、
それを魂の錬金術により
ポジティヴな感情へと転化して、
初めて表現者としてこの世になにがしかの
メリットを与えることができる。
そう信じて微笑み続けることこそが、
モーツァルトや、今日90回目の命日を
迎えた夏目漱石の精神を引き継ぐこと
になるのだろう。
Steve Jobsのスピーチ
"Stay hungry, stay foolish"
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
12月 9, 2006 at 09:10 午前 | Permalink | コメント (11) | トラックバック (6)
『やわらか脳』(徳間書店)刊行記念
トークショー&サイン会
2006年12月17日(日)
15:00〜
丸善・丸の内本店 3階 日経セミナールーム
1. トーク(1時間)
「日常の個別の中にしか普遍は宿らないという決意を抱いて」
2. サイン会
定員150名様
要整理券(電話予約可)
http://www.maruzen.co.jp/home/tenpo/maruhon.html
12月 8, 2006 at 09:03 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
『プロフェッショナル』の打ち合わせが行われる
「社会情報番組」の会議室は、
資料がテープが整然と並べられ、
けっしてキレイとは言えないものの、
なんともいえない「ここで仕事をする」
という雰囲気が漂っている。
片隅にはソファーが置かれている。
「いやあ、おかげで目覚めたときの
疲れがぜんぜんちがうんですよ」
とうれしそうに言う
有吉伸人チーフプロデューサー。
「意味がよくわからない」と思う
人もいるだろうが、
私も大学院生のときは
椅子を三つ並べて眠っていて、
そのあと「床の上に寝袋で」
という技を編みだし、
「目覚めが違う!」
と喜んでいた。
ふかふかのヘブンリーベッドとか、
そういうこととは遠い世界である。
私がいつも見ている光景。左から
山本隆之さん、山口佐知子さん、河瀬大作さん。
河瀬さんは指揮者の大野和士さんを
ブリュッセルで取材してきたが、
最後の最後に、びっくり!
のシーンを撮影できた。
有吉さん「いやあ、かわせ、ディレクター
を一生やっていても、出会えるかどうかわからない
シーンを撮れてよかったなあ。これで、
思い残すことはないだろう。卒業制作にふさわしい
なあ」
河瀬さん「いや、それは、そのですね、ガンジーの
不服従なわけで(笑)」
果たして河瀬さんがディレクターとしての
最後の番組になるかどうか。
人生、前に進むということは何かを得る
ことであるとともに、失うことでもある。
住吉美紀さんは小布施名物の「栗鹿の子」
を前に置いて、余裕の表情だった。
しかし、なかなか食べない。
いつ食べるんだろう、と気になって、
そっちをちらちら見るが、
手をつけない。
結局、打ち合わせ中に、「栗鹿の子」
が開けられることはなかった(気がする)。
それとも、私が気付かないうちに
こっそり食べてしまったのだろうか。
研究所へ。
石川哲朗、野澤真一のふたりが研究の
構想について発表。
石川は神経経済学まわりのさまざまを
良くしらべてきた。
よくまとまっている。
ただ、英語のつづりをよく間違える。
大物なのか、英語力がないのか。
いまから少しずつ修正していかないと、
論文を書くときにたいへんなことになる。
野澤の発表。
「だから、ぼくは、ずーっと不作為の時間が
続いて、突然行為を始める、そのときの
メカニズムが知りたいわけです。」
じっと聞いているうちに、野澤は、つまりは
暇な人の生活行動パターンのことを言っている
ような気がしてきた。
そのことを言おうと思ったら、
須藤珠水に先を越された。
「野澤くんの言っていることは、茂木さんの
ような多動症のひとには当てはまらないわけで」
ギャフン。
「野澤さあ、betするか、しないとか、そういう
問題設定がなされがちな時に、actionをするか
しないかという一つ引いた設定をしたのは良い
と思うんだよね。あとは、ラットを使うか、金魚を
使うか。人間だとすると、行為のcodingについて
真剣に考えないとダメだよね。タッピングよりは
複雑で、制約のない日常の行動よりはシンプルな、
できれば01でコーディングできるような
文脈をうまく設定できれば、面白い問題になる
んじゃないだろうか。」
野澤は後半は遺伝子の話をしたが、こっちは
どうもまだ茫洋としている。
有楽町のマリオンへ。
椎名誠さんとのトークセッション。
最近文庫化された
『ぱいかじ南海大作戦』
の解説でも書かせていただいたが、
私は椎名さんの本質は「批評性」だと思っている。
日本の自然について、世界の自然について、
生き方について。人工というものについて。
縦横無尽にお話しし、時間があっという
間に過ぎた。
またお話したいと思う。
文庫本解説から引用。
ところで、私は学生の時から、「椎名誠さんに似ていますね」と言われることが時々あった。天然パーマのもじゃもじゃ頭がどうやらそんな印象を与えるらしい。ある時、街を歩いていて、見知らぬおじさんにいきなり「あんた、シイナマコトによく似ているねえ」としみじみ言われたこともあった。しかし、その後が余計だった。「もっとも、あんたは少し肥えとるけど」
(茂木健一郎 『ぱいかじ南海大作戦』解説より)
えーい、見知らぬおじさんよ、うるさいうるさい。
怒濤の腕立て腹筋ヒンズースクワット攻撃を
するから見ていろ。
セッションの後で椎名さんと。
12月 8, 2006 at 08:49 午前 | Permalink | コメント (9) | トラックバック (1)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第35回
りんごは愛で育てる 〜農家・木村秋則〜
インターネットで売り出すと、10分で完売。そして、腐らない。そんな「奇跡のりんご」を作るのが、青森・弘前の農家・木村秋則(57)。そのりんご作りは、化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない。 りんごは病害虫に弱く、農薬なしでは収穫量は10分の1になるといわれる。そのなかで、農薬に頼らないリンゴ作りを日本で初めて本格的に成功させたのが木村だ。業界では「不可能を可能にした男」と呼ばれ、全国の農業生産者や消費者、研究者までもが木村の畑を視察に来る。木村自身、全国各地から請われて、農業指導に出かける、という「カリスマりんご農家」だ。 木村が独自のりんご作りを実現したのは22年前。しかし、成功するまで8年もの間、りんごは全く実らず、収入もゼロ。サラ金から借金をし、夜はキャバレーでアルバイトをしながら食いつないだ。りんごが実らないまま、6年目を迎えたとき、「家族に迷惑をかけた」と自殺を決意。首をくくろうと登った山で、栽培のヒントをつかむ。 木村のりんご作りの哲学は「育てない、手助けするだけ」。りんごの生命力を引き出すために、畑をできるかぎり自然の状態に近づける。そこには、人と自然の魂の対話がある。 今年、岩手に住む60歳の土木会社元社長が、木村の弟子となり、初めて本格的なりんご栽培に挑んだ。果たして、りんごは実を結ぶのか。 農業、そして人間に対する、木村の静かで強い愛情と情熱を追う。
NHK総合
2006年12月7日(木)22:00〜22:44
12月 7, 2006 at 03:31 午後 | Permalink | コメント (14) | トラックバック (9)
都市センターホテルというのは初めて
知った。
自治体の東京事務所がたくさん入っていたから、
おそらくは総務省(前の自治省)あたりが
つくったのだろう。
日本経済新聞と横浜国立大学主催の
知財に関するセミナーで
約50分、脳と知識の探求について
話す。
近くで広告批評の河尻亨一さん、写真家の
DYSKさん。
研究所へ。
須藤珠水と、研究の計画についてブレストを
しながら、ノートをとる。
コンビニにチロルチョコの「きなこもち」
が45個入りのパッケージで売っていたので、
「大人買い」をして学生たちのいる
スペースに置いた。
さっそく、柳川透がわらわらと開ける。
予定されていたミーティングがなくなり、
思いがけず時間が空いた。
以前から行きたいと思っていた、
森美術館のビル・ヴィオラ(Bill Viola)の
「はつゆめ」を見に行く。
思っていたのとは違っていた。
さまざまな場所への光の当たり方や、色の構成、
ひとびとの服や身体の動きに対する
こまやかな配慮を通して、全体として
美しく印象的な「絵」には仕上がっていた。
しかし、それだけだった。人間のあり方について
深い感情や洞察、連想を感じさせるような
ことは、一つもなかった。
ヴィオラは、「画家」なのだな、と思った。
人間性の本質については、あまり
深い考察をもたない、持っていてもそれを
作品に反映させられない(させない)画家なのだと。
すぐれた名画には、必ず人間というものの
中心への接触がある。たとえ、それが隠蔽
されている場合でも。
フェルメールは、ただそこに静謐な美が
提示されているように見えて、切れば血が
出るような人間のドラマがある。
たとえば、画家とモデルとの関係の間に。
「モナリザ」を初めとするダ・ヴィンチの
絵の数々には、容易にその本質をつかむことが
できないドラマがあることは
言うまでもない。
ヴィオラは、フェルメールやダ・ヴィンチの
系列につながる画家ではない。
人種や年齢の異なるさまざま人にいきなり
大量の水が浴びせかけられる。
立ち話をしている二人の間にもう一人が
やってきて、しばらく無視されたあとに
ようやく紹介してもらえる。
二人の男女が、暗闇の中、スポットライトに
照らし出されて彷徨うが、ついに出会えない。
このように文字面で表現すれば、
いかにも人間の深い情動が引き出されそうな
設定であるだけに、
その作品から受ける感触がフラットで、浅い
ものであることは、ますます不可思議な欠落
であるように思われた。
森美術館を去りながら想ったのは、ビル・ヴィオラ
の作品のことではなく、改めて認識した
マリーナ・アブラモヴィッチの偉大さだった。
表参道の「胡月」で平松洋子さんにお目にかかる。
ブルータスの鈴木芳雄さん、橋本麻里さん。
はじめて鮒寿司を食べた。瞠目。
平松さんのいたずら心に満ちた機知に親しく接し、
心おどる夕べだった。
鈴木さんが言われていたように、
平松さんは料理から文藝全般の方に活動を移されつつ
あるのであろう。
12月 7, 2006 at 03:30 午後 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
大学院生のときから博士号をとって
しばらくの間、
私は猛烈なスピードでノートをとり続けた。
アイデアや、図、計算式をだーっと
書いて、その間は自動書記のように
ほとんど休むことが
なかった。
1994年2月、脳科学に転じて
2年が経とうとしていた時に、
電車に乗っていて「がたんごとん」
でクオリアに目覚めた日も、
研究所からの帰りにノートを書いている
最中だった。
自宅に帰り着くまでに、
10頁書いたように記憶する。
ところが、この記念すべきノートが
ずっと行方不明で、
その時に何を書いたのか、再現することが
できない。
どうも、最後に、「世界よ、ありがとう」
といったようなことを書いたような気がする。
ノート魔といえば、親友の「おしら様」哲学者、
塩谷賢もそうで、こまかい字でびっしりと
書いていたものである。
今でもそうしているのかしら。こんど聞いてみよう。
このところ、ノートを取らずに、いきなり
仕事をする、というスタイルになった。
アイデアが脳の中で半ば無意識のうちに
醸成されて、
机に向かった瞬間に一気に吹き出すという
感覚でいた。
ところが、どうもノートの病気がぶりかえしたのは、
いよいよ本丸に行こうという気持ちがあるのと、
少し世間から見えないムダなことを
やってみようという雅気のなせる
わざであろう。
柳川透の論文を読み、
ひたすらノートを書きまくりながら
東海道線を移動し、
畏友、白洲信哉が心血を注いで実現した
青山二郎展をMIHOミュージアムに
見に行った。
最初の2、3点を見ているうちに、
「あっ、書けた」と思った。
和樂の原稿のことである。
信哉が酔っぱらって道路に寝転がると、
それを背負ってホテルまで届ける
役回りの編集部の渡辺倫明氏によると、
文字数はまだ決まっていないのだという。
しかし、書けたことは書けた。
青山二郎展をMIHOミュージアムで
開催した意味もわかった。
あとは机にすわって流れ出るのを眺める
だけである。
見に行かないと、信哉になぐられ
そうだったので、
これで助かった。
それと、
深いインスピレーションを
得られて良かったと思う。
昨日(2006年12月5日付)
の朝日新聞朝刊の丸谷才一氏の
「袖のボタン」は素晴らしかった。
『坊つちゃん100年』と題して、
論ずるが、普通に読めば「これは差別の小説」
であり、
「そんなえらい人が月給四十円で遙々こんな
田舎へくるもんか」
「こんな所に住んで御城下などと威張っている
人間は可哀想」
「田舎者はけちだから、たった二銭の出入でも
頗る苦になると見えて、大抵は下等に乗る」
などと
「何もこうまで言わなくてもいいだろう
とたしなめたくなるほどの言いたい放題である。
第三者であるわれわれは笑っていればいいが、
当事者である松山の人びとはずいぶん腹が
立つのじゃないか。」
と丸谷さん。
ところが、
「松山に人びとは、大いに喜び、
誇り、坊っちゃん電車、坊っちゃんスタジアム
などと命名している。坊っちゃん文学賞
もあると聞いたし・・・一体どうしてこうまで寛大
なのか」
丸谷さんの謎解き。
「『三四郎』は現代日本文明批判という性格が
強い小説で、端的に現れているのが(広田先生の)
「亡びるね」という予言だが、ここで漱石が
熊本を借りて日本人の自己満足を批評している
ように、『坊つちゃん』では松山を拉し来たって
日本人の島国根性を非難している。識見の低さ、
夜郎自大、洗練を欠く趣味、時代おくれを咎めるの
に、日本の縮図として四国の一都市を用いた
のだ。そんな風に一国の代表として自分たちの町が
選ばれ、その結果、名作が成ったことを
松山の人びとが光栄に感じているとすれば、その
読解力は大いに評価しなければならない。」
今の日本はそれでも随分良くなったけれども、
「世間」というものの作用には、ここで
言う「松山」に通じるものが
まだまだずいぶんたくさんある。
青山二郎は、一万の焼きものを見ていいものは
一つだ、というような言い方をしているが、
同じことはあらゆるものに当てはまる。
選り分けて、かきわけて、
「自分のただ一つ」を見いださねばなるまい。
12月 7, 2006 at 03:28 午後 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
長時間のメンテナンスにより、
二日にわたり日記の更新が遅れました
ことをお詫びいたします。
12月 7, 2006 at 03:25 午後 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
Lecture Records
江村哲二 東京芸術大学講義 「内なる音に耳を傾ける」
2006年12月4日
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第3講義室
講演、対話、質疑応答
音声ファイル(MP3, 73.8MB, 81分)
12月 5, 2006 at 08:50 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
渋谷で、
サントリー音楽財団の佐々木さん、
江村哲二さんにお目にかかっていた。
「
ぼくは、ネガティヴな感情はそのまま
出してしまうのでは本人のためにも世界の
ためにもならないと思う。
脳の中には、黒魔術を白魔術に変える
魂の錬金術がある。
モーツァルトの中にも、暗い感情、
黒い思いがあったに違いないが、
それを正に転化するおどろくべき術を
持っていた。
母親がパリで
死んだときに作曲した交響曲31番『パリ』
は、突き抜けるように明るい。
」
そんなことを言ったら、江村さんが
ちょっと言いよどんで、そして座り直した
「これは、言うつもりはなかったのですが、
実は、昨晩母親が亡くなりました。」
「えっ。」
「前から療養はしていたのですが、
急なことで。」
「江村さん、こんなところにいていいんですか?
今日の芸大の授業も、本当に予定通りで
いいんですか」
「ええ、お通夜は、今日のはずが明日に延ばしました。
大切な予定なので、母親も、そうしなさいと言って
くれるような気がします。」
「・・・・ありがとうございます。・・・・」
NHKへ歩きながら、
去年、母親が胆石で入院した時のことを
思いだしていた。
あの時のさまざまは、
今も渦としてうごめいている。
いつかは終わると思うからこそ、
このふしぎな地上のありさまは
ありがたくも感じられ。
「サラリーマンNEO」のスタジオを
初めてみる。
12月24日放送予定の
「クリスマス・スペシャル」の収録。
東大の水越伸さんが
さすが! のトークを繰り広げていた。
私は、「脳科学」から見たNEOの魅力に
ついて語った。
専門用語を駆使して、NEOのすばらしさを
語るのだが、
中田有紀さんが、「あのう、もう少しやさしく
ご説明いただけませんか?」
と困った顔をする。
「きみぃ、こまるねえ。これ以上やさしくは
せつめいできないよ。つまりだねえ、エッジ・オブ・
カオスの上においてだねえ・・・」
とさらにジャーゴンを駆使して暴走するという次第。
ついにはとなりの中田さんが、「はあ?」
あきれる絶妙な掛け合い。
演出の吉田照幸さんが、
「いやあ、中田さんが、ここでいって欲しい、
という絶妙なタイミングでいってくれて
良かったです!」
とにこにこしながらやってきた。
『プロフェッショナル』からは、有吉伸人さんと
河瀬大作さんが「見学」に来ていた。
東京芸大の美術解剖学の授業。
江村さんが、すばらしいお話を
してくださった。
自分のうちなる音に耳を傾けること。
ジョン・ケージの「偶然性の音楽」の意味。
表現者として成長するために必要な、孤独な魂の
修業。
根津の車屋に赴き、江村さんはしばらく
ご歓談くださり、そして新幹線の上のひととなった。
今は亡きお母様のご冥福をお祈りいたします。
もう公園で飲むには寒い。
今年はあれが最後だったのだな、と
思い返しているうちに、
はっと、植田工がいっしょに公園で飲むのは
あれが最後だったのだと気がついた。
就職してしまえば、なかなか来れないだろうし、
来たとしても意味が変わってしまう。
私たちはついつい油断して、あとづけでなければ
人生の一回性を認識できないが、
その一方で、油断しているからこその
あのゆったりと味わうべき時間の流れでも
あったのだろう。
子ども時代のこがねのかがやきは、
いつかはそれが去ってしまうということを知らぬ
没入があるからこそ、深みを増す。
12月 5, 2006 at 08:37 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (2)
東京芸術大学 美術解剖学
江村哲二
作曲家の江村哲二さんをお招きし、音楽を初めと
する芸術における創造性について
語っていただくと共に、
音楽とクオリアについて熱い対論を
繰り広げます。
私と江村さんは、サントリー音楽財団
主催による「トランスミュージック2007」
へ向けて、現在コラボレーションを展開中でも
あります。
聴講歓迎!
2006年12月4日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
12月 4, 2006 at 08:55 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (1)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年12月17日号
(2006年12月4日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第32回
生命力を引き出す沐浴
抜粋
シンガポールで乗り換え、目的地であるコルカタに向かう機内で、中学校の時のY先生のことを思いだしていた。
Y先生は、英語を担当していた。夏休み明けの教室で、「実は、インドに行って来たんだよね」と言った。「いや、女の人がみんなきれいでねえ」と、インドの土産話でその授業は終わった。何だか随分遠くを見る眼をしているなあ、と思ったら、それからしばらくしてY先生は学校を辞めてしまった。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
12月 4, 2006 at 08:55 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (1)
黒板の前に立って
さまざまなことを教えていたはずが、
なぜかいつの間にかクラス全員で
なわとびを始めて、
私は二重回しをした。
昔取った杵柄で、
小学校のとき校内大会で優勝をしたこともあって
なわに覚えがあるのだが、
飛んでもとんでも息が切れないのは
やはり夢の愛敬か。
137回でひっかかって、
それで覚めた。
1/137.03599911。
微細構造定数がさかさまになって
つまづくとはこれいかに。
それから、横になったまま
しばらくBBCのコメディをLittle Britain
を見て呆然を癒した。
昨日の目覚めは、よほど違っていた。
NHKのクルーが来ていて、
目覚めてすぐ仕事をしている
ところを撮影されていたのだ。
ホテルのガウンを着ているところに
いきなりピンポーンと来たので、
くつしたは床の上に脱ぎ捨ててあるし、
ズボンは財布とかが入ったまま椅子の
上にどしーんだし、
うひゃあと思ったが、
嵐山吉兆の徳岡邦夫さんの回で
お風呂に入って髪の毛を切っていた
のがおもしろかったから、
きっと見る側は楽しいだろうとおもって
気にせず仕事をつづけた。
昨日アップした日記は、撮影されながら
書いたものである。
途中で話しかけられたりして、
気も散る目も散るそんな中で急いで
jolt downした。
そんな味わいが出ている。
年末収録の『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の「仕事術スペシャル」の中で「時間活用術」
として使われる予定。
あまりと言えばあまりの、
このところのマッドな
ハードスケジュールに、
身体が音を上げたらしく、
スーパーひたちで
東京に戻り、
シンポジウムに向かう頃には風邪の
症状が出ていた。
有楽町で降り、東京フォーラムの外を
「さむいなあ」と思いながら
風にぴゅうぴゅうと押されるように、
とぼとぼと東商ホールにたどり着いた。
シンポジウムでご一緒した
辻省次先生はとてもあたたかいお人柄で
おっしゃることが一々身に沁みて
共感できた。
朝日新聞の田辺功さんの名コーディネート
もあり、
「脳医学の進歩を考える 〜医学と科学の融合〜」
のパネルディスカッションも
充実して楽しい時間になった。
オンタイムが続くかぎり超高速で回転させるのが
私の矜恃であるが、
終わると当然のことながら急降下する。
朝日新聞の車で家までもどりながら、
「もうだめだ」と思った。
ごはんを食べて、すぐに眠る。
それから、「寒いなあ」と珍しくトイレに
何回か起きた、微細構造定数のなわとびの
夢に至った。
素電荷、真空の誘電率、光速度、プランク定数から
なるこの自然定数が
ゆめのなわとびのつまづきをもたらした
という含意にはなにかspecificなものが
本当はあるのだろう。
無意識の用意してくれるさまざまな素材を、
私たちの意識は時に驚き、時にあくびをしながら
受け取り、その本当の意味を知らないままに
時は過ぎていってしまう。
意識にはそれをもたらす物質的プロセスの
範囲に明確な区切りがあるが、
無意識においては、本来脳とその他の区別すらなくて
つながっている。
その重大な含意を追いかけていくと、
いつか虹のかけ橋の下にたどりつくのだろうか。
12月 4, 2006 at 08:35 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
果たして、時間通りに到着できるか、
とても心配だった。
ぎりぎり5分前に会場に着いた。
横浜市立大学の門の前にタクシーが近づくと、
心配そうに立ってこちらを眺めている
人がいた。
ゲートを開け、タクシーが構内に滑り込むと、
次からつぎへと人が現れて、
誘導してくださった。
まるで、タクシーの進路をガイドするために
一列に並んでいるような気配。
これは心配をかけてしまったなと、
申し訳ない気持ちがした。
講堂の中をみると、どうも言われていたような
一般市民というのとは様子が違う。
あわてて、パワーポイントを調整して、
やや専門的な内容が反映されるようにした。
講演を始めてしまえば、時間はあっというまに
経つ。
時間が流れて、やがて終わって
拍手がなる。
そんなことを、今年は一体何回繰り返したことだろう。
タクシーで横浜へ。
乗り継ぎ、上野へ。
弁当を買い、スーパーひたちに乗る。
仙台行きで、果たして寝過ごさないか心配になる
ところだったが、
電通の佐々木厚さんと、ブルータスからの
若林さん、本田さんのふたりがいたので
安心だった。
水戸芸術館の浅井さんにご挨拶。
佐藤卓さんとお目にかかるのは久しぶり。
ついつい、実質的な話が始まってしまいそうになって
いけない、と席を立って歩き始める。
展覧会場に移り、
展示を見ながら、
佐藤さんの作品の本質は何だろうと考える。
なにか重大なことが隠蔽されているように
感じる。
それは何だろう。
サトウタクというと、キシリトールガムや
おいしい牛乳のすっきりしたかたちが
思い浮かぶが、
その背後になにかが隠蔽されているようにも
思われて。
1時間30分の対談中、いろいろな気付きがあった。
「ぶたいっぴき」という焼き肉屋で
打ち上げ。
佐藤さんと肉をぱくぱくとほおばりながら、
さらに話す。
なにごとであれ、もっとも肝心なことは
大抵隠蔽されている。
そのような、隠された起源をいかに
白日のもとに引き出すか。
そのような作業が、多くの思想、科学の
命題となる。
良いデザインは、ものごとの本質を
とらえ、
しかしそれをむき出しにするのではなく、
美しいフォルムへと昇華させる。
サトウタクさんの仕事の背後に隠れているように
感じられたのは、結局はそのようなことだと
気付いたのが、水戸での収穫だった。
少し北に移動しただけで、
寒い。
ぶるぶるとふるえながら、
思いのほか大きく広がった
空を見つめ、月を探した。
すぐれたデザインの背後には、
必ずなにかが隠されている。
夜空をデザインしたのは誰なのだろう。
その向こうには、何が隠蔽されているのだろうか。
12月 3, 2006 at 07:41 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (2)
あんまりいろいろな
ことがありすぎて、
一日ひと昔、
なんだかぼうっとしている。
テレビの仕事をしていて、
「編集で落ちる」
ということばを学んだ。
なんだか、切なく、そして厳しい。
この日記も「編集で落ちる」
ことがたくさんある。
すべては私の人生のかけがえのない
瞬間なのだけれども。
有吉伸人さんから、
メールをいただいた。
残すか落とすか、ぎりぎりの
判断の結果かたちになったものたち。
私たちのからだのかたちも、
また、分子の反応の気が遠くなるほどの
積み重ねの末に、
「いま、ここ」にある。
「編集で残った」ものの
すぐ横に、
「編集で落ちた」
ものたちの存在がうらめしくも
潔く、そしてひそやかに息づいている。
椿の花が落ちる瞬間を、一度だけ
見たことがある。
垣根のある道を歩いていた。
事が起こり、そのあと、巻き戻した
ようにそのことが
繰り返しくりかえし見えた。
カタストロフィに大きいも小さいもなく、
その時、小惑星がぶつかる音がはっきりと
聞こえた。
12月 2, 2006 at 09:39 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (1)
朝日カルチャーセンター講座
脳とこころを考える ー脳とことばー 第3回
2006年12月1日(金)18:30〜
朝日カルチャーセンター(新宿)
人間にとって、言葉は大切な宝物です。感情や記憶の脳システムの絶妙な協調作業により、人間は言葉を生み出し、伝え、受け取っているのです。時には一つの言葉を発見したり、新しい言葉の組み合わせを思いつくことは、他の何よりも脳を活性化させます。本講座では様々なことばの営みを参照し、最先端の脳科学の知見を紹介しながら、イメージを言葉に置き換えていく脳の働きに迫ります。講座の第4回目は、俳人の黛まどかさんをお迎えして、脳と俳句について語り合います。
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0301_html/A030101.html
12月 1, 2006 at 07:34 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録。
漫画家の浦沢直樹さんとスタジオで
じっくりお話した。
浦沢さんは、
毎週締めきりに追われるというような
生活をもう二十年も続けている。
漫画の連載をするということは、
他のどのような表現ジャンルと比べても、
格段に人生への負荷が高い。
いったん連載を始めてしまえば、
およそ5年、毎週原稿を入れなければ
ならない生活が続く。
ちょっと試してみる、というわけには
いかない。人生のその時期が、作品一色に
染め上げられてしまうのだ。
「ネーム」と呼ばれる、
コマ割りとラフな絵とせりふを
書き入れたレイアウトを作っている時が、
もっとも苦しく、密度の高い
時間だという。
普段はボブ・ディランなどの音楽をかけながら
仕事をしている浦沢さんだが、
「ネーム」を描くときは音楽を止める。
それだけ脳への負担が重いのだろう。
アイデアを練り上げるとき、浦沢さんは
「レム睡眠」のような状態に入る。
「半眼」になり、夢とうつつの間を
彷徨っているうちに、
一連のイメージのシークエンスとして、
ストーリーがばーっとあふれ出てくる
というのだ。
アイデアに行き詰まったとき、
しばらくソファに横になって眠り、
目覚めたとき、「あっ、できた」
ということがしばしばあったという
浦沢さん。
その方法論が、いつの間にか、
ある程度意識して遂行できるノウハウになって
いったのであろう。
『MONSTER』のような人間の暗黒部分を
掘り下げたシリアスなものを含めて、
自分の作品に一貫して流れるモチーフは
「ユーモア」だという浦沢さん。
「ユーモアに通じるような余裕がないと、
殺人とか戦争とか、そういうことになるんじゃ
ないですか」
人とひととが憎み合い、傷つけ合いという
修羅場も、その中に没入してしまえば
悲劇となるが、
距離をおいて、そのような人間の営みを
遠くから
眺めることで、そこはかとない
ユーモアの視点が漂ってくる。
その境地は、なかば狂気の世界に近づいた、
「半眼」ならではの現実把握に感じられた。
ビートルズの「アビーロード」を久しぶりに
聴いて、
アラカルトではなくやはりアルバムで聴く
べきだと思ったことがある。
浦沢さんは、漫画を単行本で読むのと、
連載で読むのは意味が異なるという。
次の連載を読む一週間の間、読者の中では
次はどうなるのだろうというさまざまな
イメージが立ち上がる。
それが掛け替えのない時間になるというのである。
「コミックだと、受け身になりすぎるんじゃ
ないでしょうか」
と浦沢さん。
有吉伸人(ありきち)さんが副調整室から降りてくる。
「いやあ、茂木さん、今日は入っていましたね」
と有吉さん。
荘厳なバロックの森の中に分け入り、
ときが経つのも忘れて浦沢さんと語り合った
思いがした。
杢尾雪絵さんの放送。
杢尾さんの話を聴いて、
住吉美紀(すみきち)さんが号泣する
場面があった。
デスクの山本隆之(タカ)さんによると、
編集段階、最初はもっと入っていたのだが、
有吉さんが、「こういうのはちょこっと
使うのが効果的なんだ!」
といって、カットしたという。
それでも、随分印象に残るくらい、
すみきちの号泣の場面は残っていた。
サタジット・レイ監督の三部作のDVDが
届いていて、
『大地のうた』の冒頭、
ベンガル語の文字がいったいどのように読まれるのか
見当がつかず、
そのようなものが豊かな意味のダイナミクスを
生み出す
人びとの内面との絶望的で秘儀に満ちた
乖離を思い、
ひとり呆然とした。
遠く隔たった、しかし親密な美しき意識の流れよ。
生きて死ぬ私』でも
引用した、清少納言の「枕の草子」の一節。
職の御曹司にいらっしゃるころ、八月十日過ぎの月の明るい夜、中宮は、右近の内侍に琵琶を弾かせて、端近な所にいらっしゃる。女房たちの誰彼は話をしたり笑ったりしているのに、私はひさしの間の柱に寄り掛かって、ものも言わずにはべっていたところ、(宮)「どうして、そうひっそりしているのか。何か言ったらどう。座がさびしいではないか」とおっしゃるので、(清少)「ただ秋の月の風情をながめているのでございます」と申し上げると、(宮)「なるほど、この場にはふさわしいせりふね」と、おっしゃる。
(新版 枕草子 上巻 石田穣ニ訳注 角川文庫)
犀の角のように走り回る東の大都の
日常の中でも、
いにしえのひとびとの息づかいのことを、
ときどき思いだして半眼に入る。
12月 1, 2006 at 07:28 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (4)
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