MAXは売りに来ない
三連休の最初ということからか、
新幹線が全指定席満席で、
デッキに座って仕事をしていた。
最初はおしりは着けていなかったけれども、
隣りの女性を見ると、床に座ってメールを打って
いたので、
私もあぐらを組んで、パワーポイント
をつくった。
お陰で、「透明ランナー」の絵が描けた。
仙台に着くまで、
時々立ち上がって車外の風景を見た。
美しい。稲の穂が光に揺れ
黄金色に輝いている。
河川敷を虫網を持って歩く兄弟が見えた。
トンボやバッタと遊んでいるのだろう。
席があれば座るが、別に立っていたって
床に座っていたってなんてことない。
昔、小倉の親戚と一緒に鹿児島の霧島に登りに
行った時は、夜行列車に乗って、
座席の下に新聞紙を敷いて、その上で眠った。
ヒーターがぬくぬくと暖かく、心地よく幸せだった。
今ならばビールを飲むところだろうけれども、
子どもの時の眠りはビールなしでも甘美で
そして魔力的だった。
鹿児島に着き、
高千穂峰山頂登山の前日、石がごろごろしている
原っぱでキャンプした。
時々眼が覚めると、背中にゴツゴツと当たっている
のがわかって、それがむしろ気持ちよかった。
大地の上に横たわっている、そんな実感が
あった。
贅沢って何なんだろう、とこの頃つくづく
思う。
セレブがどうのこうのとか、
贅を尽くしたナントカとか、
ばからしいなあというのが実感。
野山の中で、たき火をして、
芋を焼く。
枝にマシュマロを刺してジュッと溶かして
熱々を食べる。
あれほど贅沢なことはない。
しかし、都会ではたき火そのものが
もはやできないのだ。
アリゾナのツーソンの近郊の
サボテンがにょきにょきしているところで
ビールを飲んでいると、
もう他には何もいらない。
人工的なしつらいなど、必要ない。
あれが本当のラグジュアリーだなあと思う。
新幹線の席がいっぱいだったので、
デッキの床に座って、
だから
そんなことを考えたのだろう。
自然の中で岩の上に座ることが幸せなんだったら、
別に席など要らない。床の上にペタンでいい。
都会だったら、おにぎりでも買って
公園のベンチで食べればいいんだよ。
仙台で降り、
近くの会場まで歩いた。
チャイルド・ライフ・スペシャリストとは、
病院で子どもが安寧のもとに医療を受けられるように
様々な配慮をする人たちのことなり。
その研究会で喋る。
お腹が空いてカツ丼を食べたので、
ぎりぎりになった。
目黒実さんが、隣りの人に「茂木さん、カツ丼を
食べてたんだって」と言っているのが聞こえた。
「遊び」の分科会を覗く。
病院の中に、その中では絶対に医療行為を
しない空間をつくるべきである。
なぜならば、そうしないと子どもは
安心して遊べないからである。
なるほど、と思う。
帰りの新幹線の中、今度は座る。
このところの疲れが溜まっていて、
あっという間に睡魔に襲われる。
缶コーヒーが飲みたいと思ったが、
そうか、MAXは売りに来ないのである。
我慢してただ睡魔に包まれて
そのまま上野、東京と。
夢は野原をかけめぐる。
自由に森の中を歩いていた少年時代は遠く。
新幹線の中からかいま見た、
河川敷を虫網を持って歩いていた
兄弟が、しみじみとうらやましい。
11月 4, 2006 at 05:29 午前 | Permalink
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コメント
極上の贅沢
立て込む時間の隙間 一縷の好み 一瞬の通い
無のなかでの
空のなかでの 瞬きの無い時間
投稿: 一光 | 2006/11/04 18:32:02