疾走学派
できる限りの手は尽くしたが、
のどは全快しなかった。
「風邪というより、蓄積疲労ですよ」と住吉美紀さん。
「アナウンサーの中にも、一週間声が出なくなって、
レギュラー番組を休まなくてはならなくなる
人もいます」
低い声は出るのだが、高い声になると
かすれる。
それで、
冒頭の「茂木健一郎です」と言うところは、
トーンが上がっていることがわかった。
高野進さんの現役時代のレースは、
夢中になって見た。
比較にはならないが、私も小学校の時
400メートルをやっていたから、
どんなに無酸素運動が苦しいか知っている。
競技者としては引退した後も、
指導者として、人間として、さらに進化を
続けている高野さん。
指導している末續慎吾さんとの「かけ算」
に意味があるのは、
アスリートとしての闘いを
終えた視点から見て初めてわかることが
あるからだと高野さんは言う。
面白かったのは、「行き詰まった時は
走る」
ということで、
「学生の就職相談も走りながらやるんですよ」
と高野さん。
「ギリシャに逍遙学派というのがありましたが、
高野さんは疾走学派ですね」
「いや、そんなに速くは走りませんよ。はははは」
世のみなさま、走りながらの経営会議、
かけっこしながらの人生相談はいかがで
しょうか?
ハスキーでなんとか4時間の
収録を切り抜ける。
声が自然に出ることのありがたさを
痛感いたしました。
有吉伸人さま、ご心配と御迷惑を
おかけしましてすみません。
このところ、多様性の問題ばかりを
考えている。
多様性に必然的に付随するのが
「見通しの悪さ」
ひとり一個の意識の中に
閉じこめられ、
容易に隣人を預かり知らぬ私たちは
制度的に心的多様性を保証され、
強制されている。
意識の中で感じられるさまざまな
「クオリア」も、そのユニークさにおいて
本質的多様性の構成員となっている。
色は波長の(非局所的)関数としてとらえられる
にもかかわらず、
赤と緑と青が共通のパラメータ空間に
写像されるとはとても信じられぬ絶対的個物性を
見せるように、
意識の中で一覧されるクオリアは
絶対的に孤立することで豊饒の構成員となる。
ここでポイントとなるのが、そのような
個物性をいったん経由してはじめて可能になる
ダイナミクスの様相とは果たして何か
ということだが、
このあたりが複雑系のアプローチと
再び関連してくるのであろう。
複雑適応系としての脳にとっての、
かろうじて一覧できる多様性の持つ意味。
さてさて。
高野さんにならって、というわけではないが、
今日もまた走りながら考えることと致しましょう。
走るのは大好きで、約束の時間に遅れそうに
なったときなど、リュックを背負って走る走る。
そうでなくても、とにかく、めったやたらに
走る走る。
そのリュックが、壊れかけている。
荷物をぶちまけないように気をつけて、
今日も走る走る!
11月 10, 2006 at 08:23 午前 | Permalink
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» 茂木健一郎先生序文『蒼天のクオリア』 トラックバック 御林守河村家を守る会
拙著『蒼天のクオリア』への書評として、
「入手極めて困難な名著です!」と、Amazonのユーズド商品のサイトに書かれています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/offer-listing/-/478389597X/used/ref=sdp_used_b/249-2157088-9769113
これは著名な脳科... [続きを読む]
受信: 2006/11/11 8:16:42
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コメント
茂木先生のいつも背負っておられるリュックは、見た所10kgの目方はありそうな感じがする。MacBookなどの他に、いろいろ沢山いれているから壊れそうになる…。そんな重いリュックを背負って走ったりしている。徳川家康ではないが、まるで重荷を背負って人生を歩んでいるようではないか。
自分も、愛用しているバッグの中に沢山のものをいれていることがある。それも右肩だけでそれを背負うから、そのうち、肩を壊すかもしれない。用心しなきゃ。でも自分のは茂木先生のリュックよりはまだ軽い。
複雑適応系である脳の問題に取り組んでいるフラワーピッグが、この国で多様性の問題を云々しなければならないのは、いまだに単一性の幻想にとらわれているこの国を、多様性を許容できる世界に変えるためには、非常に大事なことのように思える。
単一民族、単一文化、日本は素晴らしい、中・韓くたばれ…。そんなに日本というこの島国は、単一というのが好きなのか知らん。そんなに多様な個性、多様な文化の許容が苦手なのか知らん。
この「日記」にコメントを書くずっと以前から、この島国では政治といい、教育といい、ほとんど全てのジャンルでモノカルチャー化が進んでいるという感じが抜けない。ここ最近連日のように報じられる「いじめ」「自殺」の問題も、実は教育現場や職場の「モノカルチャー」化に遠因があるような気がしてきている。要するに単一的なアプローチで生徒や社員をコントロールしようとしているのだ。
個性というのは、制御不能で勝手に成長するものなのだ、ということを今夜の朝カルで再確認できた気がする。
子供の個性は少しは手入れして、あとは放任すればよいものなのだ。それを徹頭徹尾管理しよう…つまりトコトンいじくろう、とするから、子供がおかしくなる。挙句、いじめや自殺に走る。
教育現場や企業の関係者の多くは、口では生徒、社員の個性を尊重する、なんていいながら、その実、子供や社員を画一なうつわにはめて管理しようとしている。そんなことを続けている限り、教室や職場から、いじめや自殺は無くならない。このように多様性を殺す教育は、もはや教育とはいえない。
何時になったら、多様性を大事にする教育が確立するのだろうか。多様性を尊重できる世の中になるのだろうか。ネットの世界ではもう様々な個性が花開いて、その個性の花園が無限に広がっているというのに…。
長い駄文、お許し下さいませ。それでは。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/10 23:41:23
おはようございます。
喉、お大事にして下さいね。
一番良いのは、風邪薬を飲んで、喉を温めて、声を出さず休ませるのが良いのでは?
と思うのですが・・。いろいろ手は尽くされたのですね。
失踪するって、まるで、あるアジアの山岳民族が病気で熱のある人に
水をぶっかける荒療治みたいですね。
休む訳にはいなかないんですね。私も嘗て、一月全く声が出なくなったことがあります。
完全に音を発することが出来きなくなったんですよ。
喉に大きな口内炎が出来て、シックハウスが原因だったのですが。
あの時の苦しみは、当たり前のことが出来ない苦しみを体験しました。
聾唖者の方はこんなんだ、と思いました。
茂木先生は、発想がすごいな~と思いました。赤ちゃんを発想するんですから・・。
でも、きっと、そのような体験から、新たな美しいクオリアの色を発見したのでしょう。
投稿: tachimoto | 2006/11/10 9:08:59