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2006/11/24

網膜に焼き付けておくだけでは足りない気がして

 コルカタ中心街を流れる
 ガンジス川のほとりに立つ。

 泥水の中に入り、浴び、
 歯を木の枝ですすぎ、
 髪を洗い、
 しゃがみこんで
日の光を浴びる。

 遠景の橋の上を、
信じられないほど多くの人が色のあざやかな
流れとなって行き交っている。

 私は沐浴しているひとたちに少しでも
近づきたくて、
 靴をよごして進んだ。
 できるだけ溶け込むように立っていると、
次第にとろけていくように
感じられた。
 しかし、その先にあるのは、
そもそものなにかの崩壊であろう。

 殺菌された真水よりも、
あの泥だらけの水の方が本当は
健康にもいいし、自分の中の生命力を
引きだしてくれるに違いない。

 そして、美しささえも。

 無抵抗な文明の人がいきなり
飛び込めばさまざまなものが
入り込み、
 システムは抗することができないかも
しれない。

 泥にまみれなければ立ち上がらない
ものはあるに相違なく、
 それに賭けることがどうか、現代の
魂の探求はそこにあるんじゃないか。

 ぼくは褐色のかたまりと一体と
なる人びとの群れを心底うらやましいと
思った。


 
 冬が来た、
と私が泊まっているホテルのスタッフは
祝う。
 とはいっても太陽は照り輝き、
その下を貧しき人びとが比喩ではなく
神々しい姿で歩いている。

 おもわず手を合わせておがんで
しまいたくなるような、
 そんな人間のかたちを
私たちは北の国で最後にいつ
見たことだろう。

 三つの目をかっと見開き、
黄金の舌を持つ女神の寺院を参拝する。

 ーここで、毎朝、羊が生贄に
されるのです。
 ーそして、その肉は、貧しきひとたちに
分け与えられるのです。

 すでに人が列をなして待っている。
 カーリーの姿を拝するには、
 夕刻を待たねばならない。

 マザー・テレサの活動は、カーリー寺院の近くで
始まった。
 何もない。
 掃除の行き届いた、静寂の空間。
 
 ー今日はこの病院の休日で、シスターたちはいません。
 ーこちらは、男の部屋で、あちらが女の部屋です。

 整然と並べられたベッドに横たわる
男たちが、身体を斜めに上げて私たちを見た。

 走る。投げる。
 名もなき子どもたちが飛び跳ねている。
 「今、ここ」が、彼らにとっての「全ての世界」。

 もう二度と会うことはないかもしれないけれども、
網膜に焼き付けておくだけでは
足りない気がして、
 消えてしまいそうななにかを
そっと包んで持ち帰る。


 
走る子ども (MPEG movie, 1.3MB, 4 seconds)

投げる子ども (MPEG movie, 3.8MB, 11 seconds)

11月 24, 2006 at 11:44 午前 |

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» 残すこと… トラックバック なんでもあり! です 私の日記!! 
   今日という一日、とても心が温かい一日だった。    その時々の瞬間を、忘れずにいたいと思う私がいる。    (「種の保存」的?…)    そんなことも含めて、私には「書く」ということが意味がある。    *       本日の茂木健一郎氏のクオリア日記に、      網膜に焼き付けておくだけでは   足りない気がして、   消えてしまいそうななにかを   そっと包んで持ち帰る。    という文章とともに、    インドでの「走るこども」「投げるこども」... [続きを読む]

受信: 2006/11/24 18:44:34

» 図書館にて・・・ トラックバック Little Tree
さて、先日お話いたしました、オープンカレッジの特典といいましょうか 私にとっては、ほんとうにウレシイおまけがついていました。  それというのは… [続きを読む]

受信: 2006/11/24 23:30:51

コメント

泥の中に身を沈め溶け込んでいけたら、今日、何曜日とか、人間としていきているとか、そんなことその瞬間、考えてなくなるだろう。
このまま、どこかへ帰り着きたい、たどり着きたいと願うと思う。

投稿: 平太 | 2006/11/26 9:14:32

         一緒に  生きる


走る  こども      投げる  こども


              喧騒のなか  共に  活きて

          

投稿: 一光 | 2006/11/26 6:19:50

         ガンジスに集う

河の流れは、濁れども   川面にうつる瞳 にごらず

投稿: 一光 | 2006/11/26 6:06:48

「今、ここ」を生きている彼らには写真さえ必要ないのでしょう。
写真から、この儚いものを留めておきたいという欲求と、撮った瞬間に過去になってしまう切なさを感じました。なんて理屈くさいですね。

インドに行ったことはありませんが、こちらを拝読して
清々しい気持ちと、ふと、自分の毎日を見つめ直す視点を頂きました。

投稿: momo | 2006/11/25 19:27:11

 心に焼き付ける情景は、その人の心のありようを写すのですね。マザー・テレサも、そこに住む人々を憐れみの目で見てはいらっしゃらなかったと思います。
 裸足で走る幼子たちを、優しく抱きとめる腕がありますように。そう願わずにはいられませんでした。

投稿: まゆさん | 2006/11/25 2:18:18

茂木先生の日記を読んでいると、全ての子供は神の子なのだと
思えます。
日本では自殺の報道が毎日ですが、インドでは命を全うするのが自然なのだと
乾いた空気とカンジスの水が語っているような・・。

その国の習慣に交じ入らなければ、意識の交流も確かに出来ないのだと思います。
茂木先生のお体が少し心配ですが・・。

投稿: tachimoto | 2006/11/25 1:39:08

動画をみました。
なんか、独特の雰囲気が漂ってますね。
そこにしかない、においのようなものを感じました。
なんか、日本に閉じこもってもんもんとしている自分が、小さく感じられます。
ぼくも、一生に一回は日本から出てみたいです。

投稿: サイン(koichi1983) | 2006/11/24 21:02:55

路地を走る子、何かを投げようとする子…コルカタの子らの姿を見ていると、この島国をはじめ、先進国では失われつつある(あるいは、失われてしまった)心和む光景が、地球上にまだ残っていたのだと、ホッとする。

ガンジス(漢語で「恒河」と書く)の褐色に濁った水に、現代文明の中で育ったフラワーピッグの心が融けていく。コルカタの街のカオスと同様、恒河は、茂木先生に、多くの得るものを与えてくれたようだ。

「泥まみれにならなければ立ち上がらないもの」が、恒河の水で沐浴する人々の姿に垣間見えるような気がする。

ネットに覆い尽くされている、21世紀の「時代の先端を行く」とうたう、現代文明の中で整理整頓されすぎた、鉄とコンクリとガラスと、プラスティックでできたような世界の中にいるだけでは、精神的に深い深いものはいかんせん、得られないのかもしれない。

茂木先生は、今回、印度に出かけて極彩色のカオスの海に遭遇し、ガンジスの水にも浸かり、カーリー(日本でいう鬼子母神のことか)を訪れ、そこにあったマザーテレサの偉業の痕跡をその目で見て、多くの、簡単に言葉にする事が出来ないほどの、深い深いものを得られたのではなかろうか。

ところで、今夜、シンガポール経由で御帰りの途につかれるとのこと。

私がこうして長いコメントをかいているいまは、茂木先生は機中の人であられましょうや。御無事のご帰国を待っています。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/24 18:26:28

choshiは,第三の目を見開けるのか〜〜
課題であります.

投稿: choshi choshie | 2006/11/24 15:28:49

あなたの書かれた様々な文章と常に共におります。

こんなにも美しい文章と日々過ごす事が出来、本当に幸せです。

いつも大切に読んでおります。どうかお体に気をつけて。

投稿: icons | 2006/11/24 15:10:54

ありがとう,茂木さん,,,

投稿: choshi choshie | 2006/11/24 13:30:29

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