コップは放物線を描いて飛んだ
ある時から、クリエーターというものは
言い訳をしないものだと悟った。
創造という文脈は、人生のあらゆる
場面で現れるから、生きるということは
言い訳をしないこと、だと言い換えても良い。
芸大の授業の後、大竹伸朗さんを囲んで
上野公園で飲んだ。
なぜこのようなことをやっているのか。
一年目、狭い8番教室で
やっていた時に、
帰りに自然発生的に
「ここで飲もう」と思ったのでは
なかったか。
もう忘れてしまったが、
とにかく、教室の中では絶対に起こりえない
インタラクションが起こる。
投入堂からの帰りの車で、
ふと見上げた夜空に、ああ満月か、
と思った。
雨が降るのを心配していたくらいだから、
上野公園に月はなかった。
私は教室で大竹さんを紹介している
時から何だか声が変で、
マイクなしに大声を出していたら、
すっかり声をつぶしてしまった。
いろんなことを考える。
資本の論理の前に、科学や芸術の
細かなニュアンスなど、ちょうど
衝突する小惑星にとっての地球上の
生きものたちのようなものだな。
悪意とか善意とか、そういう問題では
ない。
ダイナミクスを記述する
パラメータの存在平面が違うのだ。
クリエーターとして成功するか
どうかで心を煩わせるのは
若き野心の自然な作用だが、
とにかく、生きるということが
それだけですごいんだから、本当は
四の五の言うべきではない。
言い訳しない、ということは、
たとえ自分が凡人で無事だけが取り柄の
人生を送ったとしても、
それでいいと覚悟を決めることで、
そうすれば人生の全ては
大したことじゃない。
そうじゃないと、クリエーターとしても
本当は生きられないだろう。
杉原信幸が大竹さんに食ってかかった。
大竹さんが、杉原の持っていた
コップを見事に蹴って、
コップは放物線を描いて飛んだ。
授業で大竹さんが見せてくれた
「ドリャーおじさん」と
同族の、
放物線を描いて飛んでいった。
もっとも、ドリャーおじさんは
放物線の中でも限りなく直線落下に
近い線を描いて、
東尋坊の海の中に落ちていくわけだけれども。
とにかく、大竹さんは杉原の
コップを見事に蹴った。
男、大竹伸朗ここにあり。
植田工が杉原を上野駅の方に連れていって
そこで話し込んでいたらしい。
「スギちゃん、あのなあ」
などと言っていたのだろう。
帰ってくるんだったら、来いよ。
大竹さんが暗闇の中でしゃがんで
凄む。
それは一つの見事な型であって。
芸大美術解剖学の授業の歴史に
また一つ伝説が付け加わった。
それは、上野公園で飲み会を
しなければ、
決して起きえない相互作用で、
ぼくはどんな説明もしないけれども、
上野公園で飲み会をやっていて良かったと思った。
果たして、
ボクの喉は治るだろうか。
11月 7, 2006 at 06:27 午前 | Permalink
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茂木健一郎氏 クオリア日記の中に
放物線という二文字がありました。
その文字をみた瞬間・・・ 「ああ、これ!」
*
放物線はとても美しいし、安定感があって。
それは左右対称であることもあるでしょう。
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エネルギーとベクトルに応じて描き出されるのですが。
時々... [続きを読む]
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懸賞:東京都現代美術館で開催中の「大竹伸朗 全景展」のチケットが当たる懸賞 [続きを読む]
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» ブリッジ(2007) 〜「ドリャーおじさん」って今何してるのかなぁ トラックバック EncycRopIdia 〜漫画・映画・書評・グルメなどなど
概要
観光客でにぎわい、マリンレジャーを水面で楽しむ人々も多い、サンフランシスコ、ゴールデンゲートブリッジ。
霧の中に浮かび上がるその赤い姿は、建造して半世紀以上経った、今もなお、世界でも美しい橋として有名である。
しかし、そこは別の要素でも有名だ。
これまで1300人以上がそこで自殺を果たした、アメリカ屈指の負の名所でもある。
カメラはそこから飛び降りる人々や、残された家族を映し出して..... [続きを読む]
受信: 2007/06/20 0:03:55
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コメント
僕は死後、自分が凡人で無事だけが取り柄の人生を送ったせいで、子孫からも忘れられるような、自慢にならない人間になるのが嫌で、科学を始めたと言っても過言ではないわけで。
そんな覚悟は断固お断りな訳であります。
お陰で日々大した事でもない事が、「大した事」になり、振り回されては疲れる日々です。
でも、考え方を変えることが出来れば、日々些細な事が、大きな喜びとなる人生を送れる可能性を信じているわけで、断固、「大した事」の中で生きる事を望むものであります。
投稿: cosmosこと岡島義治 | 2006/11/08 20:13:38
秋の宵のハプニングですね!
昨日、芸大の聴講に行ってみようかと思ってウキウキしていたのですが、
難しくなってしまい断念しました。
でも、音声ファイルを聞かせて頂きました。
ありがとうごさいました。
途中そんな時に電話が掛かってきて、
一部なにやら分からなくなって、その後、不協和音が鳴り響くようになって・・・。
あれは、映像の音声ですね。
一月くらい前に芸大生の二人展を観に行ったのですが、純粋で、静かな感情だったり、
ひらめきの実現だったり、作品が少し未熟さを湛えて、
だからそこの生命力が感じられるのだなぁ、とー。
色々な経験を積んでからのアートと、未熟さを含んだアートの魅力があって、
むしろ完璧過ぎるものよりも、ほんの少しだけ、何かしら欠けているのものほうが魅力があるのかもしれないなぁ~、なんて思いました。
迸るエネルギーみたいな。
けれど、年輪を重ねた芸術は、不要なものをそぎ落としてある崇高なスピリットに到達するのかな。
投稿: tachimoto | 2006/11/07 21:23:37
クリエイターは言い訳をしない…。創造するということは生きること、生きることは言い訳をしないこと…。そうだ、言い訳ばかりの人生よりも、そんなことをしない人生のほうが潔い、と銀鏡子も思うのだ。
フラワーピッグこと茂木先生は、咽喉をいためてしまったそうだが、きょうは少しはよくなったかな?咽喉はゆっくり暖めてジックリ治してください。
あの杉原さんが大竹伸朗さんに食って掛かった時に放物線を描いてコップが飛んでいった光景、私も眼にしたかったなァ。う~ん行けばよかったなぁ。でも、家のこともやらなきゃならないってのもあるしなぁ…。
何はともあれ、面白い伝説がまた生まれてきたのは面白いことだ。
美術解剖学の講義を、茂木先生が何時まで続けられるのかわからないけれども、万障繰り合わせて、行ける時に行きたいと、我思う初冬の風が吹きすさぶ午後。
ところで、今度の朝カルの日(11/10)は私の誕生日なのです。きょう、TV番組を観ていたら、糸井重里氏が出ていて、なんと私と誕生日がいっしょなのです!これは初耳だ!
フラワーピッグは昨日おとといの京都の旅路で咽喉をやられてしまったのかもしれない。暖かい日が続くとは言え、京都の晩秋は油断すると風邪をひくし、咽喉もやられます。
クリエイターに話を戻すと、思えば岡本太郎も決して言い訳じみた言説を言わなかったし、小林秀雄も、坂口安吾も、自分の文学人生、あるいは評論人生のなかで、言い訳じみた言説を述べてはいない筈だ。
歴史に足跡(フットプリント)を残す芸術家というものは、言い訳などしないで自分の道をすすむものだ。
フラワーピッグも言い訳しないで、ご自分の行くべき道を行かれるが好いだろう。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/07 19:02:10
覚悟決めたら
言い訳した自分を憎悪するぐらいになるのではないだろうか。
経験、体験、実践の場に身どれだけ置いたかも大きいと思う。
逃げないで繰り返すうち、お腹って脂肪がつくだけじゃなく、きちんと据わってくるんだと思います。
めげないでがんばってね~学生のみなさま。
そして、おいぼれないでね~先生方。
投稿: 平太 | 2006/11/07 7:35:09
誰かが どこかで コップを 投げろ
自分がコップを投げたい気分の時
誰かが コップを投げてくれて 完
投稿: 一光 | 2006/11/07 7:18:11
そこまで真剣なぶつかり合いあるのか!!!
素晴らしい!!!
生まれてきて、生きていて、そこにいて、良かったですね!
それ以上の幸せは簡単に出会えないです!!!
乾杯!!!
おつかれさまでした。
おだいじに。
投稿: 平太 | 2006/11/07 7:11:12