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2006/11/25

物質的アバンダンス

コルカタにはモノはあまりなく、
人の流れだけがあった。
 
 トランジットでシンガポールに来て、
きらびやかな免税店や通路の様子を
後にしてきたコルカタの空港と
比べると目がまわる。

 物質的アバンダンスとは、このような
印象を与えるものであったか。

 すでに文明に包まれつつあり、
いつものように私のモードは
あっという間にかわりつつ。

11月 25, 2006 at 08:30 午前 |

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コメント

もう、お帰りになられたのでしょうか…

私も(?)昨日の夕方、渋谷の交差点あたりを歩いたので

もしかしたら、少し似たような…

人の波と騒音の渦のなかで、めまいがしそうでした。

人の感覚って不思議なものですね…

投稿: 風待人 | 2006/11/26 6:35:10

           Cosmos


   調和のとれた世界     カオス 混沌  おさらばじゃ

投稿: 一光 | 2006/11/26 6:31:01

物の在り様に慣れてしまうのは
人間としての甘えなのでしょうか?

物ほど厄介な物はないと思いたい
この頃です

投稿: プラチナ | 2006/11/26 5:35:59

先生は距離の移動もさることながら、
時空や次元をも飛び越えていらっしゃるように感じます。
様々な場所での先生のクオリアを、お分けいただけることに感謝いたします。

投稿: クオリア・ファン | 2006/11/25 21:25:19

極彩色のカオスに満ち満ちた、印度を後にされ、いつもの“mogi"式モードに戻られたフラワーピッグこと茂木先生。
この一週間ほど、先生の日記に記されたコルカタの情景が、印度亜大陸の精神世界の奥深さを、これまで以上に我が脳裏に印字することができたと思う。

リキシャや犬や車や人が乱雑にバンバンとクロスしながら行き交うコルカタの雑踏、ガンジス(恒河)の流れに身を任せ沐浴する人々、路上生活者のものとおぼしき背の低い家、そして身なりはまずしいながらも、楽しそうに道ばたで遊ぶ子供たち、カーリー神への信仰とマザーテレサの偉業・・・。すべてが、北の先進国がどこかにおいてきてしまった光景に思える・・・。

このような情景は、少なくとも、もう東京ではよみがえることはあるまい。東京はなぜかコンクリと鉄骨とガラスとプラスティック、といった人工のもので出来上がった、無機質な町になっている・・・。NYやベルリン、ロンドンは違うようだが。

コルカタの街でフラワーピッグが遭遇した、豊かなカオスは、北の先進国では過去のものになったのだ。モノがなくとも人のパワーでむせ返るような、そんなパワーを秘めたカオスが。

話は変わるが、西銀座通り沿いに「BAGUS QUALIA」(バグース・クオリア)という名の店がオープンしたそうだ。さっき通りを歩いていて、偶然そう書いている開店祝いの花輪を発見した。

「質感」という、QUALIAという語の意味をふまえた上での命名なのだろうが、何故か腑に落ちないものを感じるのは私だけか。

QUALIAという言葉が、本来の意味を離れて“ポップ”なかたちで流布しているような、そんな危惧すら覚える、寒い初冬、土曜の昼下がり。言葉だけ一人歩きしてしまって、本当にいいのか。まぁいいや、と思いたいのだが、やっぱり腑に落ちない。

それはさておいて、今度の印度出張は、茂木先生のライフワークにも、当然大いなる示唆と影響を与えてくれるはずだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/25 12:52:44

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