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2006/11/02

 自分自身の感情のマグマの方を

 天野祐吉さん。高橋源一郎さん。倉田真由美さん。
 桑原茂一さん。ヒロ杉山さん。吉村栄一さん。

 昨日も様々な方にお目にかかり、いろいろな
こと、大切な出来事があった。
 
 一日のイベントを時系列で追っていくと
眼が回る。

 編集方針を変更して、時には思い切って絞って
書くことにしたい。

 朝、ジョギングをしていると、
10月21日10月22日の日記で
書いた、
 財務省 江古田合同住宅の森の横に
パトカーが一台止まっていた。

 警察官が二人立ち会って、
ホームレスの方々が住んできたブルーテントを
撤去している。
 中野区職員らしい人たちが、
手際よく荷物をトラックに運んでいた。

 感情というものは、人生で何が起こるか
わからないという不確実性への適応戦略であるが、
 もう一つ、爆発性のあるマグマという
側面を持っている。

 このような光景を目撃した時に、
法律論、規則というもの、近隣住民の迷惑、
社会福祉制度、職権と義務、その他諸々の
状況を考えて対処するのが大人の態度
というものなのだろう。

 その一方で、抑え切れない感情という
ものもある。
 それは時には秩序を破壊する衝動にさえ
つながるもので、
 原始的で、切なく、
 うまく御さなければならない猛獣であり、
 しかし使い方を誤らなければ
この世に大いなる変化の福音をもたらす
原動力となる。

 今年度のノーベル平和賞の受賞が決まった
ムハマド・ユヌスが、アメリカの大学に留学
して博士号を取得し、故郷のバングラデシュに戻った
時に目撃した貧困。
 その時にユヌス博士が感じたであろう感情
の真摯さにこそ、
 後に「マイクロ・クレジット」運動を推進する
グラミン銀行へとつながるエネルギーの源泉があった。

 バングラデシュの社会の構造、法律、現実、
困難、自身の保身。グラミン銀行を設立できない
理由は、それこそ100以上挙げることが
できただろうが、
 ユヌスさんは自分自身の感情のマグマの方を
信じた。

 住宅の周囲の本当に美しい
森の中のスロープに「意味のない」(としか
私には思えない)フェンスが突然できた
時に感じた感情は、少なくとも私にとっては、
財務省の担当者が振りかざす法律論とか、
規則とか、慣習とか、そういったものよりも
信用できるものであって、
 また、昨日ホームレスの方々の住居が
排除されている光景を見た時にわき上がって
きた感情もそれに身を託すことができるもので、
 だからこそ、私はそれらの感情を決して
忘れないでいたいと思う。

 たとえ、取りあえず私に出来ることは
こうしてブログにその感情を記録することだけだと
しても、
 生命の営みを支えるものは規則や法律
などではなく、
 生々しくも鮮烈な感情なのだということを
これからも忘れないでいたい。

 ユヌスさんは先日来日していたようだ。

 昨日、talk dictionaryでヒロ杉山さんと
話していた時に、
 「ユヌスさんと、武富士の会長との会見を、
是非実現したかった」
と言ったら、会場の皆がどっと笑った。

 もし、自分自身が消費者金融の会社を経営して
いたり、
 あるいは自分の親戚が働いていたり、
 自分が仕事がなくなって、求人広告の
中に消費者金融の営業の仕事があったとしたら、
その時どうするか、ということはちゃんと考えるべきだ。

 その上で、多重債務で苦しむ人たちがいる
一方で、多額の経常利益を上げ、自らは富豪の
暮らしをしている会社の経営者が、
 貧しき者を助けるためにマイクロ・クレジットの
銀行を設立したユヌスさんと会った時に
どんな反応をしてどんなことを話すもののか、
 それが見たかった。

 ちゃんと相手の目が見つめられるか。
 省みて、恥じるところはないのか。
 そこに人間性が表れる。

 人間性を信じたい。

11月 2, 2006 at 06:48 午前 |

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» さようなら、ギャングたち トラックバック 多くの祭りのために ‐素晴らしき本☆との日々‐
ぼくは、この小説の内容を端的に述べることができません。でも、不思議に感動してしまう。どうしようもなく、感動してしまうんです。 絶版にならないうちに、みなさん、ぜひ手にとってみてください [続きを読む]

受信: 2006/11/23 6:14:37

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受信: 2006/11/23 6:26:19

コメント

車椅子の方と一緒に黒部ダムの上の大観峰まで
行ってきました。
ケーブルカーに乗るとき、
傾斜が強く、長い階段がありました。
自分が昇るだけでもしんどい階段を
係りの人が4人がかりで持ち上げて昇らせてくれました。
たぶん、小さくて軽い方だったからあげてくれました。
大観峰までついて、
最後、展望台までが階段で、
そこは狭くて人もたくさん通るところでした。
無理を承知で係りの人に上がりたいと伝えましたが
やっぱり行けませんでした。

大観峰のロープウェーのホームから山々を眺めました。
「きれいな景色が見たい。」介助者2人と自分の、多額の旅費を工面して来たその人に、一番上からの眺めを見てもらいたかった。

でも、その人が刻んだ足跡が、
関わってくれた全ての人が、次の人への道を開いてくれればと思う。
マグマのかけらを残して。

投稿: おか | 2006/11/07 1:02:21

江古田の合同住宅に隣接するところに住む我が家の娘は、江古田の森と合同住宅のみどりを勝手に「ゆうの森」と称して親しんでいます。
突然フェンスができてしまったことは残念でなりません。
合同住宅が廃止されて民間に売却されてしまうときに、隣接している私たちもホームレスの人たちと同じような目に合わされてしまうのではないかと、とても不安に感じます。

投稿: ゆうの森 | 2006/11/03 8:48:29

感じるところがあっていつも茂木さんのブログを見させて
いただいております。
人の感情は見世物ではないと思いますが
茂木さんはどういったものが人間性だと思われますか?

投稿: anokokara | 2006/11/03 4:04:06

感じることがあっていつも茂木さんのブログを
読ませていただいております。
人の感情は見世物ではないと思いますが
茂木さんは人間性ってどういうものだと
思われますか?

投稿: anoko | 2006/11/03 4:00:53

茂木先生、
あのう・・・・朝に良いモーツアルトの曲を間違えて失礼致しました。そそっかしいのは直らないものですね。お恥ずかしいで~す。

所で、今日の日記のムハマド・ユヌス博士についての番組を先日テレビで見ました。
バングラデッシュで働いても働いても貧しさから抜け出すことが出来ない貧しい人たちが多くいる現実。せっかく女性たちが籠を作って稼いだ僅かな生活費も搾取されたり、騙されたりしていたこと。それらの人は貧しいがゆえに教育を受けるチャンスさえなかったとー。

そこで、ヤヌス博士は、教育をうけていない貧しい女性達を対象にお金を貸す銀行を作ったんですよね。男に貸すとよけいなものに使ってしまうから女性が良いのだ、と語っていました。

借りたお金を元でに、洋服屋を始めて夢を語る女性が紹介されていました。
確かに、ユヌス博士と消費者金融では、根本が違っています。
ユヌス博士は、バングラデッシュの人々の人間としての尊厳と幸福を根底に考え、人間は希望を持って生きる権利があるのだと語っていました。

中野の公園の排除されたホームレスも、ホームレスになりたくてなった訳ではないでしょう。

私は、昨年、大雨の翌日、下着のパンツ姿(上はTシャツ)のホームレスの方に、余りに気の毒に思い、1000円札を一枚渡したことを思い出しました。(その時オサイフに2000円しか入っていなかったので)青山の歩道橋の下に突っ立っていたんです。

私はそれ以来、ホームレスが気になってしょうがありませんでした。
ある時、ホームレスのことを書いてある劇団ひとりの「陰日向に咲く」を中央線の電車の中で読んでいましたら、私の隣の席にホームレスの方が座ったのでビックリしました。
その時、私は余り良い気分ではなかったのです。私は、自分の身勝手さを感じました。

だから、ユヌス氏のように困難と思える理想を現実のものとした勇気と行動力と情熱、人間に対する愛がすばらしいと思いました。

今、思い付いたのですが、役所はホームレスに僅かな利息でお金を貸し
出すシステムを作ったら良いかもしれないですね。

投稿: tachimoto | 2006/11/03 0:37:21

 朝、クオリア日記を読んで、涙がでそうになり、急いでコメントを書きました。仕事に行く前に息子を作業所に送らねばならず、急いでいるのに当の息子はゆっくり朝食を食べていて、「はやくー」と言いながら、それでも書こうと思った気持ちに従おうと思ったのです。でも、ちょっと怒りの感情が溢れ過ぎていたかも知れません。
 自分にできることは何なのか。たとえそれがどんなに小さな石だとしても、私が投げ入れてできた漣が、ほかの漣と出会い、思わぬ波ができるかもしれない。そこから始まる何か。出会える人に出会い、つながり、変わっていく。そんなことができたらと、ライブや講座や食事会などをやってきました。そこで、大切な人たちに出会い、自分が封印していた自分にもう一度出会い、様々なことを実感することができました。
 けれど、「権力」はそんな実感など簡単に踏みじれるからこそ「権力」なのだなぁ、と、怒りの感情が溢れたように思います。
 ちゃんと、相手の目を見つめられる人になれるよう、心に刻みます。

投稿: まゆさん | 2006/11/02 22:42:46

発売予定の「やわらか脳 茂木健一郎「クオリア日記」に
今日の内容は掲載して欲しいと強く思いました。

私は、いつでも気に入った読みたい部分が読めるように、
クオリア日記から文章を抜粋して貯金箱のようなテキストファイルに
気に入った文章をコピペして貯めているのですが、
今日のブログは全文貯金しました。

クオリア日記が発売される事実を知ってショック!でしたが、
(ずっと録画していた番組がDVDでおまけ映像が付いて発売されてしまうのに似ています)「食のクオリア」も本で読んでもぐっとくるので、「クオリア日記」も楽しみです。

お仕事頑張ってください。応援しております。

投稿: ota | 2006/11/02 20:53:04

生命の営みを支えるものは法律や規則ではなく、自身の生々しくも鮮烈な感情のマグマである…。言いかえればそれは「義憤」というものであり、使いみちを過たなければ「正義の怒り」に通ずるものである。

グラミン銀行をムハマド・ユヌス氏が創立できたのは、故国バングラデシュを覆う貧困をもたらす「悪と不平等、不公平をもたらす要素」への義憤と貧困に苦しむ人々を救わんとする愛=慈悲と正義があったからである、と銀鏡子も思う次第です。

武富士の会長(今は死んでいないのだが)とユヌスさんが対談する様子、どのようなものになるのか、私も見たかった。

多重債務に苦しむ人がいる一方で、その人達から“巻き上げた”売り上げ金で、大邸宅を建て、貴族の如く一族郎党、贅沢三昧の生活を送っているサラ金の経営者は、ただ貧困に喘ぐ人々を救うために、その人達の為の金融機関をつくったユヌス氏と対談したとき、どんな顔をするのか、1度見てやりたいと、このエントリーを見て思った。

日本にも、グラミンのような銀行が出来れば、ホームレスの人々も、少なくとも金銭的には助かるのではないだろうか。すでに、そのような金融機関をつくっているところもあるそうだが、世間一般的にはあまりにも無名だ。

ともあれ、世の中に迎合するよりも、法が如何のこうのよりも、自分自身に沸き上がる、慈悲と正義を秘めた、義憤の真摯なマグマのほうを大事にしたい、と私も思う。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/02 19:00:46

人間性って深い、と最近思いました。さみしかったり、かなしかったり、うれしかっやり、くやしかったり、間違いじゃない。だからです。

投稿: abekaori | 2006/11/02 12:47:29

 僕は消費者金融のように他人の不幸に漬け込んで法律ぎりぎりのことをする人たちに、ユヌスさんのように善意の塊のような人と話をしても、大して面白くもなんともないと思う。彼らの主たる関心事は金であり、それ以外のことはperipheralなことにしか過ぎないから。
 消費者金融やホリエモンに代表されるような法律を犯さなければ何やってもいいという人(ホリエモンは捕まったけれど)に、いくら礼節や倫理の価値を説いたって意味がないというか、時間の無駄ではないか?
 彼らも人間だから、そういった自分のモラルの低さを恥じる気持ちがないわけではないと思うが、彼らが行動として取るのは、モラルの劣る行為であり、それは詰まるところ、法律のあり方に根ざしている。
 本当にこういった人々をなくして、いい社会、正直で倫理観が高く、善良な人々だけが報われる社会を作るには、犯罪者に対し厳しく接し、高いモラルを反映した法律を作るしかないと思う。

投稿: naoki | 2006/11/02 9:18:24

何を選び、何を選ばないか。

 仕事の関係で、私は市民運動や市民活動をしている人たちが発行されている通信などを読んでいる。先日、「人権センター・とちぎ」の方たちが作られた「未来を紡ぐ大地―'05インド訪問の記録」というものを読んだ。
 アウトカーストのダリットの人々、ヒンズー教とは違う価値観の中に生きてきた先住民のコーブレスと呼ばれる人々。激しい差別を受けている人たちが、さらに差別を繰り返す。そのどちらもが厳しい貧困の中にあり、非識字の人たちが多い。それなのに。同じ食器を使う、ということさえもままならない現実の中で、一緒に食事を作り、同じ食器を使うことから始める活動の覚悟。胸を衝かれた。
 同じ価値観の中で何とか変えていこうとする選択、違う価値観を得るために改宗する選択、もちろん今までのように、ボスのもと今までのように生きる選択。そのどれもがそこに生きる人々の手の中にある。そして、それは、私たちの選択でもあるはずだ。
 一昨日のニュース。障害者自立支援法に反対する集会が開かれた。集まった人数は一万人、と伝えられていた。主催者発表は一万五千人。障がいのある人たちが、一万人以上も集まることの凄さ。どんな珍道中を繰り広げながらそこにいったのだろうと考えると、胸が熱くなる。私も行きたかった!長男の作業所の職員も行きたい、と言っていた。託した思い。あそこには、自分の思いや、託されたたくさんの思いを持った人たちが集まったのだ。それほど、「これでは生きてはいけない」という切実な生活があるのだ。
 ・・・でも、それは「出来事」として伝えられる。「まるでベルトコンベアーだね」そばで見ていた娘が言う。何を選択し、何を選択しないか。たくさんの「ニュース」の中で、取り上げるものは限られる。全てを伝えることなどできるはずも無い。けれど・・・。
 プロは刹那だ。アマチュアの私は、いつも、引かれている線のどちら側に立つかにこだわっている。

投稿: まゆさん | 2006/11/02 8:26:54

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