いずれにせよ、お元気で
イギリスのコメディの金脈のひとつは、
「みじめさ」(misery)の中に
「栄光」(glory)を見るという
ことだろうか。
Ricky Gervaisが描いたThe Officeの
中のボス、David Brentの矜恃は、
そのみじめさの中の栄光にこそある。
それは、ソルジェニーツィンの
『イワン・デニーソヴィッチの一日』
に似ているが、どこか少し違うもの。
不幸と幸運の間の相対論。
持つものと、持たざるものの
立場の力動的変化。
黒々とした雲の間から、一筋の光が差す。
周囲が暗いからこそ、その光の輝きが
意識の中で鮮烈に印象づけられる。
ノアールの中のルミナンス。
みじめさの中の栄光の本質はそこか。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』には、
鴨川シーワールドの怪獣医、勝俣悦子
さんがいらした。
シャチの死は、壮絶であるという。
水中に暮らすとは言え、肺呼吸をする
ほ乳類である彼らは、
衰弱し、最後におぼれ死ぬのだ。
「呼吸が、水面に出てぷしゅーとそれから
潜るのが、ぷしゅーぷしゅーと二度続くように
なって、ああ、これは、イルカが死ぬ時と
同じだなと思って」
大切に育んできた愛するシャチの死の
様子を、勝俣さんはそのように語った。
「巨大な死」というメタファーが浮かんだ。
宇宙全体が、深遠に沈んでいく。
その時の、空間自体が悲鳴を上げるような
悲惨さの中にも、おそらくは侵すべからざる
尊厳があるのではないか。
「イルカの表情ってわからないでしょ。
ほら、顔が、プラスティックで出来ているみたい
じゃないですか。
だから、痛がっているとか、苦しんでいるとか、
そういうことは、身振りや行動で読み取る
しかないんですよね。」
永遠の道化師として仮面をかぶることを
運命付けられた生物。
その運命を惨めと思うか、それとも
そこに神の沈黙にも通じる厳粛な真理を見るか。
最初にシャチを見たのは、カナダのヴァンクーバー
だった。
スタンレーパークの中で、巨大な白と黒の
身体が浮かび、そして水面にたたきつけられた。
巨大は相対的なもので、私たちの身体も
またアリから見れば大山のごとく。
スケールと同じ相対が質にもあるとすれば、
悲惨が歓喜に通じる錬金術はきっとあるのではないか。
島田雅彦から留守電が入っていた。
「ほら、あのクオリアなんとかの件で、
12月に一度お会いします。二度になるかもしれないね。
いずれにせよ、お元気で」
背後から酒場のさざめきが聞こえた。
ぷしゅーっと弾けるような歓喜をもって
酒を飲み談笑するという時間を最後に持ったのは
何時だろう。
塩谷賢と、隅田川のほとりでマグロのごとく寝て、
缶ビールを飲んでいると、
カップルたちがボクたちの周囲を
半径10メートルくらいの軌道で避けて
歩いていった。
あの時間に栄光あれ。
11月 17, 2006 at 08:08 午前 | Permalink
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「甲冑武具研究」153号に、拙著『冑佛伝説』の書評が掲載されています。
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また目次にも、「新刊紹介 『冑佛伝説』」と記されていて、
35ページの下段に、西岡文夫常務理事の書評が掲載されているのです。
「甲冑武具研究」は(社)日本甲冑武具研�... [続きを読む]
受信: 2006/11/18 8:33:23
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コメント
スケール 相対 質 = クオリアの純度
一雫 神水となれ 。 。 。
投稿: 一光 | 2006/11/19 9:40:56
悲惨が歓喜に通じる錬金術はきっとあるのではないか。
悲惨な中に一瞬の歓喜。
まずそれを歓喜であると認識して欲しい。
すぐに悲惨に包まれても、
次の歓喜をまた認識して欲しい。
歓喜を受容する場所が眠りから覚めて、
ひとつひとつの歓喜をキャッチして欲しい。
少しずつ歓喜の貯金ができて、
悲惨な暗闇も、恐るるに足りないものになればいいのに。
まわりの人がまず信じることだと思う。
「いつかこの人にも光が見えてくる。」
投稿: おか | 2006/11/19 1:28:57
>スケールと同じ相対が質にもあるとすれば―――。
このことばは、ダイヤモンドみたいですね。。
驚きました
投稿: M | 2006/11/18 0:01:35
惨めさの中の栄光の光、暗黒の中にさすひとすじの、希望の光明…。
出口がないように見えるトンネルを歩いている苦しみの日々にも、やがて「夜明け」がくる。
まさに「朝の来ない夜はない」というのはこのことだろう。
シャチやイルカの死と宇宙の死。個物の死と巨大な死はその尊厳性においては等価なのではないか。
「永遠の道化師として仮面をかぶることを運命付けられた生物。その運命を惨めと思うか、それとも神の沈黙にも通ずる厳粛な真理をみるか」
死ぬときにも「死ぬ」ということが言えず、顔の表情にも表すことも出来ず、身振り手振りでしか死を訴えられない生き物たち。そこに厳粛な真理を見出していかずば、如何して、死の「悲惨」に「尊厳」を見出すことが出来ようか。
個物の死も、巨大な死も、次の「生」へと繋がる厳粛な通過儀礼のような気がする。
仏教の教えでは、生命は、死と生とを繰り返して続いていくという。そこに悲惨が歓喜に転ずる錬金術というよりは「法則」も含まれている。
さらに仏教では、我々生物を含めて、この宇宙は生命を貫く大きな法則に貫かれていると説く。そこに生死の厳粛さも、悲惨も、栄光もすべて備わっているという。
インターネットが覆い尽くして行く、文明世界に生きる我々は、生死の尊厳、ひいては生命に備わる厳粛な法則について、思いを致せなくなっているのではないか。ダカラ簡単に、命を自ら絶つようなことをしてしまうのではないか。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/17 20:17:06
先日の森村泰昌さんのセルフレポートの作品と、語ったことについて少し考えていました。
森村さんは「私とは何なのか?を探している」のだとおっしゃっていました。
私は、常々自分が女であるからなのですが、何故、人はお化粧をするのだろう? 何故、人は着飾るのだろう? と街行く人を眺めては考えるのです。
もし、この都会のビジネスマンやOLのすきっとオシャレした人々が真裸だったら可笑しいだろうな、と思って、5年ほど前に「デジタルファッション」というお話を作りました。
未来社会は全てのものがデジタル化されて、ファッションもデジタルで選択できるシステムが開発され、人々は便利さを求め、その会社と契約します。大半の政治家や国民もデジタルファッションを使用するようになった時、システム会社のコンピューターが故障して、皆裸になってしまう、というお話です。
でも本人は気が付かず他人だけが裸に見える、というもの。そんな中ひねくれ者で契約しなかったものは、それみたことか、と人々の右往左往を見て呆れる、というお話。
ちょっと、イギリス的、ブラックユーモアでしょ!
森村さんの作品には、化粧やファッションで私というものを作り上げる人間の可笑みとか、人間の悲しさが感じられ、人間とは如何なるものか深く考える楽しみをもたらしてくれる作品だと思いました。
答えは分かっているのです。化粧やファアッションは、異性がいるからこそのものだと言うことは。
投稿: tachimoto | 2006/11/17 10:27:52