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2006/11/23

選り分けたかすかな甘み

案の定、講演スライドの準備が終わらずに、
会場に向かうタクシーのバックシートで
パワーポイントを完成させた。

 途中、流れるように左の視野に見えた
鉄道の駅のプラットフォームに、
 ひとびとの山があった。

 茶色を基調として、赤や青、緑が
混ざったそのかたまりは、空間をすべて
埋めつくしていて、
 さらには線路の方まであふれ出しそうであった。

 ため息をつく。車が曲がる。
 道がわからない。運転手が通行人に聞く。
 
 いつの間にか行きすぎて、
昨日Bikasと帰り道に通った橋のところで
あっと気付いた。

 バックして、門に着いたのは、講演開始の
10分前。
 Bikasが心配そうに立っていた。

日本語でも英語でも、トークは即興である。

 Semir Zekiが真っ先に質問して
くれた。
 それで、Zekiがどんな人だったか
想い出した。

 私が引用した、CrickとKoch、さらには
Weiskrantzの考えは間違っているという。
 正しいのはこうだと諭す。
 ありがたく聞いたが、
 sensoryとintentionalの大きな枠組みが
変わるとは思わない。

 Hakwan Lauも、話し終えた後で
Zekiにお前の引用した
データは間違っているとやられていた。

 意地悪といえばイジワルだが、
ああいう人が会場にひとりいた方が面白い。

 コーヒーブレイク、ランチタイムと、
いろいろな人と話す。

 インドの人たちと喋っていて、
「この人たちはdenseでthick」だと
思った。

 自分の理論を延々と説明するのだけれども、
その概念の置き方が細密充填されたボルトとナットの
よう。

 なるほど、
 九九を十九×十九までやるはずである。

 Kamal Martinという、バンガロールから
来た女性の教授と喋った。

 「昨日、インドの首相が中国の首相と会談した
写真が載っていましたが、なんでああいう
帽子を被っているのですか?」
 「ああ、彼はシーク教徒なのよ」
 「じゃあ、政治家にはシーク教徒が多いのですか?」
 「そうじゃなくて、たまたま彼がそうなだけよ。
インドの北の方の人は、政治的野心がある人が
多いけれども。」
 「じゃあ、南の方は?」
 「南は、インテリジェントな人が多いわね。」
 「えっ、今、南の人の方がインテリジェントと
言いました?」
 「そうよ。」
 「あっ、そうか、ラマヌジャンも南の出身でしたね。
なぜ、皆の人は知的なのでしょう?」
 「気候がのんびりしていて、平和で、人びとが
難しいことをゆったり喋る習慣があるからよ。」
 「そうだったのか!」

 今日は自分でタクシーを拾ってみようと、
原子核研究所の門を出て歩き始めた。

 そこは全くの別世界で、夕暮れをゆったりと流れる
ように人びとが歩き、
 道ばたに、ろうそくの明かりを灯した
屋台があって、前にいた男がこちらを
振り返った。

 すべては次第にぼんやりとしてくる時間帯で、
流れに溶け込んであるけば、私が旅行者である
こともわかるまい。

 突然、たとえようもない安らぎの気持ちが
こみ上げてきて、「ああ、これか」と思った。
 
 タクシーが見つかって、「グランド・ホテル」
と頼む。

 バックシートに揺られながら、
 なおも安寧の気持ちが波打ち、
甘美な胸騒ぎがした。

 人やリキシャやアンバサダーのかたまりが
あちらこちらから飛んでくる。
 クラクションは鳴り、炉端に人がしゃがみ、
犬が歩き、車が斜めに突っ込み。
 風景が茶褐色の万華鏡のように。

 ボンネットのすぐ前を人がぎりぎりに
横切る。
 猛スピードで走る車のすぐ横の道に
野菜をならべて売る人がいる。
 所在なさ気に立つひとは、
そろそろ眠る場所のことを考えて
いるのだろう。

 うねり流れる河のような人いきれの中で、
長く忘れていた生命記憶を呼び起こされる。
 全身を泥の中に浸して、
そのまま眠ってしまいそう。

 塵芥の中に舌で選り分けたかすかな甘み。

  ホテルに戻れば、
 仕事に追われる、
 東京と同じ時間が流れている。

 意識の流れに注ぎ込んだ異分子が、
渦を巻き、次第に溶け込み、それでも
面目を保って、
 伏してはやがてよみがえる。

<音声>

コルカタの通りにて(MP3, 360KB, 22秒)

<引用>

 スピーカーの一人、コルカタ出身の
Partha Mitraが引用していた
 タゴールの詩。

With the colour of my own consciousness
The emerald became green, the ruby became red.

http://www.parabaas.com/rabindranath/articles/kDipali_I.html

<印象>


夜。コルカタ中心街にて。

11月 23, 2006 at 10:51 午前 |

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コメント

僅か22秒のコルカタの通りの音が
全てを物語る力を持っている,,ような,,,

200万の路上生活者が創る海の波間に鋭い眼光が,,,
無数に無数に..
この無数の人生も「ある」ではなく「なる」のでありましょう.

哀れみはいらない.「所得移転」が何時起こるやもしれない危うい地球の上なのだから,,,
と思うこの頃です.

投稿: choshi choshie | 2006/11/24 11:52:28

音声を聞きました。なんかNHKのドキュメンタリーで見たインドの映像が頭に浮かんできました。茂木先生という一人の人物を通して、世界のさまざまな地域のことを感じられて、このブログを読んでいて、(そして、聞いていて)とてもよかったと思います。
とてもお忙しいとは思いますが、お体には、お気をつけくださいませ。

投稿: サイン(koichi1983) | 2006/11/23 17:06:23

あー、きょうの日記はとくべつすてきです。。
いつも以上に
なんとなく、こころがほっ…と、なごみました。

インドはテレビで見たことしかないけれど
塵芥の中の微かな甘味…
というところが、なんとなく、わかるような気がしました。

タゴールの詩は、クオリアのことですか。
 街の喧騒
22秒なら大丈夫と思うので、のちほどPCで聞いてみたいと思います。
楽しみです。

投稿: M | 2006/11/23 15:12:02

フラワーピッグこと茂木先生は、リキシャとアンバサダー、サリーの極彩色、様々なるスパイスの芳香、野良犬たちの匂いと人いきれと塵芥が一体となっておりなすたかたまりとぶつかり、そのなかに忘れ去られた生命の記憶を呼び起こされたのだろう…。その中で舌にて選り分けた微かなる甘味…それは、甘露の甘味なのか、醍醐味なのか、よくはわからないが、遠い生命記憶と深く繋がっているのだろう。

コルカタの夜の風景の写真は、妖しさと不思議な奥の深さを秘めた闇の中で、人々が日々のささやかなる生活を生きる為に蠢いている姿を映し出している。

とにもかくにも、この地球には、一筋縄の思考では理解しきれない世界が広がっている。

九九を19×19までやってしまう、印度の人の底が知れない数学的センス。円周率(π=3.14159……)の桁も無量大数まで言え得る人もきっといることだろう(いないかもしれないが)。英米風の思考になれきったほかの研究者には到底、真似ができないだろう(僭越ですが)。

ところで私事なのですが、アラベスク模様の茶褐色になった木の天井をもつ、中東風だか印度風だかの建物に入った夢を見た。

底が知れないカオス的な世界のなかで、異邦人達は立ち尽くし、時には安寧に身を委ねながら、忘れられた生命の記憶に思いを馳せるのだろう。

フラワーピッグもこのコルカタの地で、そんな異邦人の一人になっているのに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/11/23 12:46:45

おつかれさまです。

世界、空間、涅槃、絵巻、天空、どれもあてはまらない印象ですね。
インド。

駅前、夕暮れ時、ねぐらを探して、旋回続けるムクドリの群れより、
今日の寝床を探すのが難しいのですね。
幸せをどんなとき、どういうことを幸せと皆は言うのだろう。
きっと、贅沢や贅肉から離れたことでしょう。

溶け込みと孤独。
ご無事でお元気で。

投稿: 平太 | 2006/11/23 11:27:54

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