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2006/11/30

プロフェッショナル 仕事の流儀 杢尾雪絵

プロフェッショナル 仕事の流儀 第34回

いつも心に青空を
〜ユニセフ タジキスタン代表・杢尾雪絵〜

中央アジア・タジキスタン。この地で、子どもの命と健康を守るため奔走する日本人女性がいる。ユニセフ(国連児童基金)タジキスタン代表・杢尾雪絵(45歳)。 国連機関の現地トップとして活躍する、数少ない日本人である。
タジキスタンは、旧ソビエトから独立後、長い内戦状態が続いた。国土は荒廃し、子どもの13人にひとりが5歳まで生きられないという、きわめて厳しい状態が続いている。杢尾はこの地に5年前に赴任。37人のスタッフを率い、予防接種やエイズ対策など15のプロジェクトを進めている。
杢尾の毎日は、政府の各機関や地方の行政などとの協議の連続。内戦が終結し、経済成長は始まったタジキスタンだが、まだまだ子どもの健康に対する意識は、高くない。予算の確保や行政の支援を思うように得られず、時には絶望的な状況に置かれることもある。そんな杢尾の流儀は、「心のなかにいつも青空を持つ」こと。青空とは未来への「希望」。そして状況を「青空から見るように」俯瞰(ふかん)的に状況を見ることができる目を持つことだ。
今、杢尾は大きな課題を突きつけられていた。根幹をなす事業の一つ「予防接種」が大口の支援を失い、最悪の場合、来年からの予防接種に穴が開く可能性が出てきたのだ。これ以上、大幅に負担金を増やせないというタジキスタン政府を説得し、それをテコに支援の輪を広げていこうと試みる杢尾は、ある作戦を実行に移すことにした。
激動の地・タジキスタンを舞台に、知られざる国際機関の仕事に迫る。

NHK総合
2006年11月30日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

<すみきち、スタジオでぼろ泣きか・・・!?>

11月 30, 2006 at 08:41 午前 | | コメント (6) | トラックバック (3)

横浜国大講演 『脳と仕事力』

Lecture Records

茂木健一郎 『脳と仕事力』
2006年11月29日
横浜国立大学教育人間学部6号館101号室
空白、ポップ、いいわけをしない、
600ノーベル、弱点を克服する、自己批評、
可能無限、質疑応答。

音声ファイル(MP3, 74.5MB, 81分)

11月 30, 2006 at 08:37 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

金曜の朝になってしまうと

たとえ眠くても早く起きて、がーっと英文を
書く。
 終わって、アップロードし、
submitのボタンを押す。

 それから
電車にぱっと飛び乗り、
 混んでいる時間帯なので、
Yes, MinisterのThe Whiskey Priestの
エピソードを聴きながら
 田園都市線を
 がたんごとんと
 すずかけ台に向かった。

 東京工業大学知能システム科学専攻の
専攻会議。

 重要事項の報告。

 さて、これから
 どうやってそこにいくんだろう、と
検索してやっと「あざみ野」という
駅を見つけた。

 おなかが空いていたが、
駅の回りをぐるりとしても、
 お目当てのそば屋も吉野屋も
なかった。

 えいやっと横浜市営地下鉄に
乗り込む。
 
 降りた三ツ沢上町で、
コンビニに飛び込み、オニギリを買う。

 「あのう、ヨコハマコクダイはどちらの
方向でしょうか?」

 「あちらです。歩くと15分くらいです。
向こうに渡ってから行くといいですよ」

 ちょうど食べ終わったところに
タクシーが来た。

 三宅晶子教授のご紹介で、
 「女子体育」のバックナンバーを
前に、
 高橋和子教授とお話する。

 教室に移り、
 「脳と仕事力」というタイトルで講演。

 学生たちは元気で、笑いが絶えなかった。

 タクシーに飛び乗り、横浜駅へ。

 移動中もパワーポイントを作ったり、
文字を並べたり。

 ソニーコンピュータサイエンス研究所の
ミーティング。
 「南の知性」
 や「コミュニケーション」の話題。

 目黒駅に移動し、
コンコースを歩き、
駅前のロータリーの小さな椅子に
腰掛けて
 またもや仕事をしていると、
二度ほど
 「茂木健一郎さんですか」
と声をかけられる。

 こういう時に握手をするのは恥ずかしい。

 目指すアルコ・タワーがわからなかったので、
目黒川沿いの派出所で聴いた。

 西垣通さん、斎藤成也さんと
現代の文化状況なるものについて
アツイ議論を交わす。

 「そうなんですけどね。サブカルというのは、
そう簡単に手を出さない方がいいと思うんですよ。
ジャーナリスティックなスタンスでは、みんな
すでにやっているんでねえ。それを乗り越えて、
茂木さんの言われるようなことをやると
なると、これはかなり大変ですね。」
と西垣さん。

 斎藤さんから、「中立説とネオ・ダーウィニズムは
違う」という興味深い考え方をうかがった。
 これは、少し検討してみなければなるまい。

 西垣さんから、Ernst von Glasersfeld
のなつかしい名前を聞く。
 RepresentationとVorstellung。
 議論をしたあのウィーンの空間がよみがえる。

 そういえば、あの時は、田森佳秀もいたんだっけ。

 宮台真司さんが遅れていらして、
 インターネット上のアグリゲートの話になる。
 SNSはそうであったか。

 ぼくは、先日羽生善治さんにお目にかかったとき、
「奨励会」というかたちで同好の士が集まるという
アレンジメントに現れている叡智について
 考えたのだった。
 そのことについてはまたどこかで書きたいと
思います。

 「「傷だらけのマキロン」こと
「牧野彰久さんの机はどこですか?」
と聞いた。

 不在だったので、ポストイットに
ぽきっと折れた鉛筆の絵を描き、

 「筆を折ってしまいました。でも、
パソコンで書けるからだいじょうぶです
もぎけんいちろう」
とメモを残そうと思ったら本人がきた。

 いたずらというのはだいたい
事前に発覚してしまうものである。
 だから、ぼくは小学生のときから
くやしい思いをしてきたんだなあ。

 夜もふけ、
 眠い、もうだめだ、と思い、
増田健史に電話して、
 「あのう、あの原稿、金曜の朝になってしまうと、
この世界はオソロシイことになって
しまうのでしょうか?」
 とおずおずと聞くと、
 「しょうがいないなあ」
との返事。

 おかげで少しは眠れた。
 おめめパッチリ。
 気分すっきり。
 やがてはかなくなりにけりじゃなくて良かった。

 カール・ベーム指揮の
ブラームスの一番を聴きながらこれを
書いている。

11月 30, 2006 at 08:27 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

2006/11/29

「脳科学の最前線」

茂木健一郎 「脳科学の最前線」

2006年12月2日(土)10時5分〜11時5分
 横浜市立大学福浦キャンパス へボンホール(講義練1F)、第2講義室(講義練2F)

http://www.ilcc.com/ismict/index.html

http://www.ilcc.com/ismict/program/index.html

11月 29, 2006 at 04:47 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

ほどほどにするが良かろう

大阪に日帰りで。

 「あれ、今日、羽生さんといっしょですよ」

 そうだ、忘れていた。

 それぞれの話の接続域に、
 羽生善治さんと20分間対談する。

 何回会っても、話すことが
いくらでもある。

 行き帰りの新幹線。
 ひたすら手を動かす。

 今週は、未曾有の危機なり。

 NHKへ。

 弁当を食べながら、打ち合わせ。

 有吉さんが、「だからこの人は
クリエーターとして偉いのですよ!」
としきりに強調する。

 タクシーの中も、とにかくひたすら
仕事。
 英語と日本語の異種格闘技。

 諸君! こんなことで良いのだろうか。

 打ち合わせ中、有吉さんがもらした言葉。

 「締めきりがある職業はね、ダメなんですよ、
茂木さん」
 「そうなんですか」
 「ロシアでね、一番寿命が長い職業は画家だ
そうです。締めきりがない。」
 「なるほど」
 「ジャーナリストは一番短いそうです」
 「最近は別の理由で、ということもあるようですが」
 「ぼくたちのように、締めきりがある職業は、
ダメなんですよ、茂木さん」
 「ひえええ」

 「ぼくたちのように」
というのが、私も含んでいたのか、良く
わからなかった。

 山を乗り越えたら、ほどほどにするが良かろう。

11月 29, 2006 at 04:43 午前 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2006/11/28

佐藤卓 × 茂木健一郎 水戸芸術館

佐藤卓 × 茂木健一郎 対談
(佐藤卓展 『日常のデザイン』 記念イベント)

2006年12月2日(土)16:00〜17:30
水戸芸術館現代美術ギャラリー内ワークショップ室

http://www.arttowermito.or.jp/satotaku/satotakuj.html

11月 28, 2006 at 04:37 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

横浜国立大学

茂木健一郎 「脳と仕事力」

2006年11月29日(水) 14:40〜16:10

横浜国立大学 教育人間学部 6号館101号室

http://www.edhs.ynu.ac.jp/mt/news/2006/kouenkai2006.html

11月 28, 2006 at 04:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

脳に快感 みんなでアハ体験!

セガ 『脳に快感 みんなでアハ体験!』
(Sony PlayStation Portable用ソフト)

2006年11月30日発売予定

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J49ZTY

http://aha.sega.jp/

前作「脳に快感 アハ体験!」と合わせ、
「日経トレンディー」の記事で高い評価を得ています。

11月 28, 2006 at 04:28 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

最後に目覚めて現実の

最近、ときどき「時代の変化」という
ことを考える。

 かつてあったものがすでにないということは、
悲しいことのように思えるけれども、
 だからこそ時間軸の上で多様性が
実現されるのだとも言える。

 熱帯雨林の中で、同じ種類の木が
近くどうしにはないように、
 気分ががらりとかわるからこそ、
容易には見通せない多様なものたちが
 時間の流れの中で現れては消える。

 変化の波は、個人のライフ・ヒストリーの
中にも訪れる。

 ぼくも人並みに落ち込んだり、
デフレスパイラルに陥ったり
したことも青年期にはよくあったけれども、
 そのような気分も、あっという間に
変わるのだ、という「メタ認知」
が立ち上がってから、精神が強くなった。

 没入し、時が経つのを忘れた
経験は、必ずや消えることなく
伏流して、またふたたびよみがえる。

 インドはすっかり遠くなったけれども、
いつかまた活き活きとよみがえる
ことがわかっているから、
 今は東京での仕事の生活に没入する。

 ある変化のベクトルがあると、
ついついそれを単純に延長して、
未来はそうなると予想してしまいがちだが、
 本当は、志向性などあっという
間にかわる。

 ツバメのようにひらり! ひらり!
 そのリズムこそが人生だし、
 生命体だなあ。

 仕事をしながら、チャイコフスキーの
『くるみ割り人形』のDVDをかけた。

 昔、ロンドンのコベント・ガーデンで
見たことがある。
 
 クララがくるみ割り人形が転じた王子に
いざなわれて、夢の世界に入る。
 とても楽しく美しい「花のワルツ」
や「こんぺいとうの精」の踊り。

 そのファンタジーの時が
blissであることはもちろんであるが、
最後に目覚めて現実のクリスマス・ツリーの
下にかけよるクララも、またとても
幸せなように感じるのだ。

 竜宮城から帰ってきた浦島太郎も、
また、歓喜を感じたのではないか。

 ロンドンに入ればあっという間に
その気分になるし、
 沖縄の島を歩けば、ぼくは永久のゆうなぎを
求めるだろう。

 没入し、変化することを恐れない限り
人生はおそらく大丈夫である。

ロンドンで好きだった科学機器の店、Arthur Middleton。
コベント・ガーデンの近くにあった。
この写真を見るだけで、気分はがらりと変わる。

11月 28, 2006 at 03:50 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/11/27

魂をくすくすと震わせて

一日中ずっとひたすら仕事をしていたが、
終わらず。

 さすがに、やや呆然とする。

 集中すると、当然のことながら
時間の流れは消える。

 充実しているときでありながら、
 意識の神様から時間泥棒に会っている風情も
あり。

 とにもかくにも終わらせなければならない
ことがある。
 果たさなければならない義務がある。
 今日も、研究会で京都に向かうはずが、
どうもむずかしそうだ。

 アインシュタインは、『自分は灯台守
(lighthouse attendant)になりたい』
と言っていた。
 世間から隠遁したいという衝動は、
誰にでもある。

 世界についての真実は、つねに相反する
いくつかの方向性から成り立っていると
考えないと、バランスを欠く。

 たとえば、「脳の本質はコミュニケーションにある」
という命題は真実だが、
 その一方で、「コミュニケーションを断絶しなければ
花開かない課題もある」というのも事実である。

 良い例が「フェルマーの最終定理」を解決した
ワイルズで、
 もっとも本質的な思考を行うために
ワイルズは長きにわたって自宅の部屋に引きこもり、
そのため、同僚の数学者たちは彼は行方不明に
なったと思ったほどだった。

 もちろん、「引きこもれば独創性を発揮できる」
という命題も単独では真実ではなく、
 実際ワイルズが最終的に難題を解くことが
できたのは、久しぶりにでかけた研究集会で
最新の研究動向に触れることができたのが
きっかけだった。

 単独の志向性のベクトルでは問題が解決
しないことは、
 生命現象というダイナミックな有機的プロセスの
本質を考えれば当然のことである。

 いかに、相反する動きを視野の両端にとらえ、
バランスよく動かしていくか。
 そのような感性がどうしても必要である。

 しばらく前に、池上高志と「純粋さは
生命力の衰えの表れである」
という議論をしたが、
 クリエィティヴな人が
往々にして猥雑なのは、モーツァルトの
例をみるまでもなく当然のことであろう。


 その一方で、ただカオスであれば良いという
わけではなく、
 美しき形而上的結晶世界への志向性も、
また必要なのだ。

アマゾンUKからLittle Britainの
Third SeriesのDVDが届いた。

 イギリスのコメディを見るのが、
わが最大の気晴らしなり。

 英語のネイティヴ化計画の実践という
意味もある。

 眠りに落ちる前のほんのわずかな時間を、
灯台守は魂をくすくすと震わせて過ごした。

11月 27, 2006 at 07:04 午前 | | コメント (6) | トラックバック (1)

2006/11/26

『アハ!体験 4つの間違い探し』

茂木健一郎(監修)
『アハ!体験 4つの間違い探し』
きこ書房

二つの写真のどこが違うのか、時間的に変化するchange blindnessを空間的に展開して
経験できます。

amazon


11月 26, 2006 at 01:17 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

無農薬リンゴの奇跡

ヨミウリ・ウィークリー
2006年12月10日号
(2006年11月27日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第32回

無農薬リンゴの奇跡

抜粋

 アマゾンの中心都市、マナウスのマーケットで飲んだジュースの味が忘れられない。周辺で収穫されたフルーツをミクサーにかけたもの。濃厚な生命の気配に満ちていた。それまで飲んできた「フルーツ・ジュース」が、まがいものに思えるほどだった。
 文明の中に住む私たちがすっかり忘れてしまった生きるということの本来の力が、見慣れぬ魚たちが並ぶマーケットの中で飲んだフルーツ・ジュースの中に感じられたのである。
 あの時の感覚が、NHKのスタジオの中でよみがえった。『プロフェッショナル 仕事の流儀』のゲストにいらした木村秋則さん。・・・・

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


11月 26, 2006 at 12:48 午後 | | コメント (2) | トラックバック (6)

(本日)新日曜美術館

 新日曜美術館 
 果てしなき創造・画家大竹伸朗アートの現場から
 茂木健一郎が作品制作の秘密に迫る!
 
NHK教育
2006年11月26日
9時00分〜10時00分 
20時00分〜21時00分(再放送) 

11月 26, 2006 at 12:00 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

まるで子守歌のようにずっと鳴り響いていた

 空港には森島留美子さんがいらしていて、
タクシーで高速をいく。

 渋滞かと思ったけれども、
案外早く進んで、
 ふと見上げた時には
銀座のあたりを走っていた。

 高速を降り、アークヒルズの横を
抜けて六本木に向かうとき、
 なんてキレイなんだろうと思った。

 日本の街並みが、今までにないくらい
うつくしく油の表面のように光り輝いて
見える。
 テクスチャが洗練され、
心に時々刻々染み入ってくる。

 コルカタの街並みを想い出していた。
 全てがすすけて、土色をしていて、
ぴかぴかやつるつるとはほど遠かった
あの空間。

 テレビ朝日のビルディングに入り、
森島さんと社員食堂でラーメンを食べているとき、
 私はソルジェニーツィンの
『イワン・デニーソヴィッチの一日』
のイワンのような気分になった。

 イワンは、強制収容所の中で
調子が悪いと医務室に行き、
結局はぎりぎりの体温でその日は
働くことになるのだが
 (サボタージュだと判断されると、
営倉入りしてしまうのだ!)
 医務室の中で座っているその時間の
流れを、
 「こんなにきれいなところでじっと
座っていられるなんて!」
と大いに感激して受け止める。

 ああ、インド経由で東京に戻り、
ロシア文学の気分になるとは。

 61会議室。
 松岡修造さんがいらっしゃる。
 
 親子と実験をして、そしてその後
脳のレクチャーをした。

 『修造学園』として近日放送されると
思います。

 松岡さんは本当に丁寧な方で、
最後に、私の荷物を持ってテレビ朝日の
玄関まで見送りに来てくださった。
 
 礼儀は美しき心なり。

 午後11時過ぎに終わって携帯を
見ると中央公論の岡田健吾クンから
「ゲラを持って近くまで来ているんですよん!」
という留守電が入っている。

 こんな所まで追い立てに来るとは!
 さすがのオカダケンゴくん。

 タクシーで途中まで帰りながら、
打ち合わせる。

 明けて今日、重大事項山積し、
やむなく一つ予定をキャンセルする。
 本当だったら、東京駅7時50分の
新幹線で西に向かうはずであった。

 ごめんなさい。

 どこかでナットをゆるめないと、
スットンと倒れるなり。
 ものごとには限界があります。

 インドは遠くなりにけり。
 ただひたすら仕事をする。

 えいえいと目の前の営為に没入しながら、
ときどきふと、
 コルカタの土まみれの街頭に横たわっていた
あの小さな子どもの耳に
まるで子守歌のようにずっと鳴り響いていた
 クラクションの海のことを思う。

11月 26, 2006 at 11:56 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/11/25

物質的アバンダンス

コルカタにはモノはあまりなく、
人の流れだけがあった。
 
 トランジットでシンガポールに来て、
きらびやかな免税店や通路の様子を
後にしてきたコルカタの空港と
比べると目がまわる。

 物質的アバンダンスとは、このような
印象を与えるものであったか。

 すでに文明に包まれつつあり、
いつものように私のモードは
あっという間にかわりつつ。

11月 25, 2006 at 08:30 午前 | | コメント (5) | トラックバック (0)

2006/11/24

網膜に焼き付けておくだけでは足りない気がして

 コルカタ中心街を流れる
 ガンジス川のほとりに立つ。

 泥水の中に入り、浴び、
 歯を木の枝ですすぎ、
 髪を洗い、
 しゃがみこんで
日の光を浴びる。

 遠景の橋の上を、
信じられないほど多くの人が色のあざやかな
流れとなって行き交っている。

 私は沐浴しているひとたちに少しでも
近づきたくて、
 靴をよごして進んだ。
 できるだけ溶け込むように立っていると、
次第にとろけていくように
感じられた。
 しかし、その先にあるのは、
そもそものなにかの崩壊であろう。

 殺菌された真水よりも、
あの泥だらけの水の方が本当は
健康にもいいし、自分の中の生命力を
引きだしてくれるに違いない。

 そして、美しささえも。

 無抵抗な文明の人がいきなり
飛び込めばさまざまなものが
入り込み、
 システムは抗することができないかも
しれない。

 泥にまみれなければ立ち上がらない
ものはあるに相違なく、
 それに賭けることがどうか、現代の
魂の探求はそこにあるんじゃないか。

 ぼくは褐色のかたまりと一体と
なる人びとの群れを心底うらやましいと
思った。


 
 冬が来た、
と私が泊まっているホテルのスタッフは
祝う。
 とはいっても太陽は照り輝き、
その下を貧しき人びとが比喩ではなく
神々しい姿で歩いている。

 おもわず手を合わせておがんで
しまいたくなるような、
 そんな人間のかたちを
私たちは北の国で最後にいつ
見たことだろう。

 三つの目をかっと見開き、
黄金の舌を持つ女神の寺院を参拝する。

 ーここで、毎朝、羊が生贄に
されるのです。
 ーそして、その肉は、貧しきひとたちに
分け与えられるのです。

 すでに人が列をなして待っている。
 カーリーの姿を拝するには、
 夕刻を待たねばならない。

 マザー・テレサの活動は、カーリー寺院の近くで
始まった。
 何もない。
 掃除の行き届いた、静寂の空間。
 
 ー今日はこの病院の休日で、シスターたちはいません。
 ーこちらは、男の部屋で、あちらが女の部屋です。

 整然と並べられたベッドに横たわる
男たちが、身体を斜めに上げて私たちを見た。

 走る。投げる。
 名もなき子どもたちが飛び跳ねている。
 「今、ここ」が、彼らにとっての「全ての世界」。

 もう二度と会うことはないかもしれないけれども、
網膜に焼き付けておくだけでは
足りない気がして、
 消えてしまいそうななにかを
そっと包んで持ち帰る。


 
走る子ども (MPEG movie, 1.3MB, 4 seconds)

投げる子ども (MPEG movie, 3.8MB, 11 seconds)

11月 24, 2006 at 11:44 午前 | | コメント (11) | トラックバック (2)

2006/11/23

プロフェッショナル 仕事の流儀 トークスペシャル

プロフェッショナル 仕事の流儀 トークスペシャル

番組が始まって11ヶ月。脳科学者・茂木健一郎&住吉アナのコンビと、プロフェッショナルたちの丁々発止のスタジオトークをもっと聞きたいという要望が多数、NHKに寄せられている。
そこで、泣く泣くカットした珠玉の未放送トークを中心に、「もっと話を聞きたい」という要望が多かった棋士・羽生善治とカーデザイナー・奥山清行、そして、番組主題歌を歌うシンガーソングライター・スガ シカオのトークを、まとめて放送する。
羽生が語る「勝負所の読み方と迷いをふっしょくする方法」、羽生の質問に茂木が答える「脳の不思議はどこまでわかったか」。そして、スガの曲づくり秘話とkokuaの「Progress」演奏。更に、奥山による世界的名車デザイン誕生秘話や「日本人が世界で通用するための方法」などなど。仕事に、人生に役立つプロフェッショナルのトーク満載の60分拡大版。

NHK総合
2006年11月23日(木)22:00〜23:00
(60分拡大版)

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 23, 2006 at 11:34 午前 | | コメント (7) | トラックバック (5)

『ペンローズの量子脳理論』2刷

『ペンローズの量子脳理論』(Roger Penrose、竹内薫、茂木健一郎)
(筑摩学芸文庫)は
増刷(2刷、累計7500部)と
なりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon

11月 23, 2006 at 11:31 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

『脳内現象』 8刷

『脳内現象』(NHKブックス)は
増刷(8刷、累計28500部)と
なりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon


11月 23, 2006 at 11:25 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

心を生みだす脳のシステム 14刷

『心を生みだす脳のシステム』(NHKブックス)は
増刷(14刷、累計31500部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon


11月 23, 2006 at 11:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Qualia and Contingency

Lecture Records

"Qualia and Contingency"

Ken Mogi
Sony Computer Science Laboratories & Tokyo Institute of Technology

Talk given at
Saha Institute of Nuclear Physics
Kolkata, India

22nd November 2006

audio file(MP3, 44.9MB, 50 minutes)


11月 23, 2006 at 11:15 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

選り分けたかすかな甘み

案の定、講演スライドの準備が終わらずに、
会場に向かうタクシーのバックシートで
パワーポイントを完成させた。

 途中、流れるように左の視野に見えた
鉄道の駅のプラットフォームに、
 ひとびとの山があった。

 茶色を基調として、赤や青、緑が
混ざったそのかたまりは、空間をすべて
埋めつくしていて、
 さらには線路の方まであふれ出しそうであった。

 ため息をつく。車が曲がる。
 道がわからない。運転手が通行人に聞く。
 
 いつの間にか行きすぎて、
昨日Bikasと帰り道に通った橋のところで
あっと気付いた。

 バックして、門に着いたのは、講演開始の
10分前。
 Bikasが心配そうに立っていた。

日本語でも英語でも、トークは即興である。

 Semir Zekiが真っ先に質問して
くれた。
 それで、Zekiがどんな人だったか
想い出した。

 私が引用した、CrickとKoch、さらには
Weiskrantzの考えは間違っているという。
 正しいのはこうだと諭す。
 ありがたく聞いたが、
 sensoryとintentionalの大きな枠組みが
変わるとは思わない。

 Hakwan Lauも、話し終えた後で
Zekiにお前の引用した
データは間違っているとやられていた。

 意地悪といえばイジワルだが、
ああいう人が会場にひとりいた方が面白い。

 コーヒーブレイク、ランチタイムと、
いろいろな人と話す。

 インドの人たちと喋っていて、
「この人たちはdenseでthick」だと
思った。

 自分の理論を延々と説明するのだけれども、
その概念の置き方が細密充填されたボルトとナットの
よう。

 なるほど、
 九九を十九×十九までやるはずである。

 Kamal Martinという、バンガロールから
来た女性の教授と喋った。

 「昨日、インドの首相が中国の首相と会談した
写真が載っていましたが、なんでああいう
帽子を被っているのですか?」
 「ああ、彼はシーク教徒なのよ」
 「じゃあ、政治家にはシーク教徒が多いのですか?」
 「そうじゃなくて、たまたま彼がそうなだけよ。
インドの北の方の人は、政治的野心がある人が
多いけれども。」
 「じゃあ、南の方は?」
 「南は、インテリジェントな人が多いわね。」
 「えっ、今、南の人の方がインテリジェントと
言いました?」
 「そうよ。」
 「あっ、そうか、ラマヌジャンも南の出身でしたね。
なぜ、皆の人は知的なのでしょう?」
 「気候がのんびりしていて、平和で、人びとが
難しいことをゆったり喋る習慣があるからよ。」
 「そうだったのか!」

 今日は自分でタクシーを拾ってみようと、
原子核研究所の門を出て歩き始めた。

 そこは全くの別世界で、夕暮れをゆったりと流れる
ように人びとが歩き、
 道ばたに、ろうそくの明かりを灯した
屋台があって、前にいた男がこちらを
振り返った。

 すべては次第にぼんやりとしてくる時間帯で、
流れに溶け込んであるけば、私が旅行者である
こともわかるまい。

 突然、たとえようもない安らぎの気持ちが
こみ上げてきて、「ああ、これか」と思った。
 
 タクシーが見つかって、「グランド・ホテル」
と頼む。

 バックシートに揺られながら、
 なおも安寧の気持ちが波打ち、
甘美な胸騒ぎがした。

 人やリキシャやアンバサダーのかたまりが
あちらこちらから飛んでくる。
 クラクションは鳴り、炉端に人がしゃがみ、
犬が歩き、車が斜めに突っ込み。
 風景が茶褐色の万華鏡のように。

 ボンネットのすぐ前を人がぎりぎりに
横切る。
 猛スピードで走る車のすぐ横の道に
野菜をならべて売る人がいる。
 所在なさ気に立つひとは、
そろそろ眠る場所のことを考えて
いるのだろう。

 うねり流れる河のような人いきれの中で、
長く忘れていた生命記憶を呼び起こされる。
 全身を泥の中に浸して、
そのまま眠ってしまいそう。

 塵芥の中に舌で選り分けたかすかな甘み。

  ホテルに戻れば、
 仕事に追われる、
 東京と同じ時間が流れている。

 意識の流れに注ぎ込んだ異分子が、
渦を巻き、次第に溶け込み、それでも
面目を保って、
 伏してはやがてよみがえる。

<音声>

コルカタの通りにて(MP3, 360KB, 22秒)

<引用>

 スピーカーの一人、コルカタ出身の
Partha Mitraが引用していた
 タゴールの詩。

With the colour of my own consciousness
The emerald became green, the ruby became red.

http://www.parabaas.com/rabindranath/articles/kDipali_I.html

<印象>


夜。コルカタ中心街にて。

11月 23, 2006 at 10:51 午前 | | コメント (5) | トラックバック (0)

2006/11/22

人が海をつくっている

滞在しているホテルには、深夜に
入ったから、
 回りの様子がよくわからなかった。

 「このホテルはどれくらい古いのですか?」
 「100年くらいです。インドでも、最も
ヴィクトリア朝の雰囲気を残しているホテルです」

 静かで、優雅な空気が流れている。
 ぐっすり眠って、朝食をとった。

 朝、会場である原子核研究所に向かおうと、
タクシーをお願いした。

 表通りに出たとたん、人と、車と、
騒音と、あらゆるものの衝撃波が
わっ! と一斉に襲いかかってきた。

 優雅なホテルの空間を一歩出ると、
そこは人いきれと埃と犬と排気ガスが
充満した混沌だった。

 コルカタ中心街で車がなかなか動かない。
 ずっと、クラクションが鳴っている。

 歩道でヒゲを剃ってもらっている
男がいた。
 こんな所に! という車が行き交う
道の中央の島に、
 サリーを着た若い女が二人寝ている。

 車が止まった、そのわずかな隙を
縫って男が飛び出した。
 交通の流れが動き出し、男は
あわてて飛び跳ねた。

 11月は乾期。
 空気はいがらっぽく、窓から
勢いよく吹き付ける。

 原子核研究所がなかなか見つからず、
タクシーの運転手が車を止めて何度も聞く。

 もういいよ、と思った頃に、
サハ・インスティチュートと書かれた
看板が見えた。

 会場に入ってしまえばいつもの通りだが、
今まで見てきたものの動揺が胸の中で
うごめいてなかなか収まらない。

 一人づつたっぷり話すスタイルの学会。
 Semir Zeki、Ralph Freemanと続く。

 コーヒー・ブレイクの時に、
主催者のBikasに挨拶した。

 北海道大学からは井上純一さんが
来ている。

 Hakwan Lauは早口で喋る男で、
ずっとUKかと思っていたが、
 香港生まれで、6年前にOxfordに行ったのだと
初めて知った。

 スピーカーのひとりの講演の後で、
Change Blindnessの現象学的分類について
「あなたの紅茶一杯ではないかもしれませんが・・・」
と前置きして聞いたが、
 やはり通じなかった。
 他の質問者も苦労している。

 技術的なことにしか関心がなく、
それ以上の意味合いについて考えないタイプの
研究者は時々いる。

 通じない。そのことを気にしない。
 この点については、インドの同僚たちは
大いに勇気があった。

 次々と立ち上がり、質問するが、
壇上のイギリスやアメリカの英語ネィティヴの
スピーカーたちが、
 顔をしかめ、耳に手を当て、身を乗り出して、
最後に
 「何だって? 何を言っているのか、
全然わからないんだけど」
と異口同音に答えた。

 それが、何度も繰り返されると
次第に演劇性を帯びて、まるで
イギリスのコメディを見ているような気分に
なり、ひとり笑いの爆発を我慢した。

 それでも、インドの同僚たちは気にしない。
エライものである。

 一日の終わりはHakwan Lauの
トークで、意識の時間的次元に焦点を当てた。

 Readiness potentialの問題から始まり、
voluntary actionのintentionを知覚した
時点、action自体を知覚した時点の間の
200ミリ秒の間にTMSを加えると
各時点がそれぞれ前、後ろにずれる
など、興味深い話。

 「だから、意識が本当に随意運動の
コントロールに関わっているのかどうか、
現時点では残念ながらわからないんですよ」
とHakwan。

 結局私がその日の最後の質問者になった。

 「あなたが言ったことは、何人かの論者、
たとえばHorace Barlowや、Nick Humphreyが
主張する、意識は内部状態の他者との共有の
ためにあるという考えとconsistentでは
ないでしょうか。
 たとえ、因果的に能動性を持たなくても、
after the eventで、それを知覚し、
 行動の理由や、動機について、他人に
それをコミュニケートすることはできる
わけですから」

 「そうなんですよ。私の現在のボスの
Frithも似たようなことを考えているんですよ。
 ただ、現時点ではempirical evidenceが
十分にないんですけどね。」

 パーティーは酒もなく、
何となく始まり、食べ終わると自然に終わった。

 となりにいたJonathan(キリスト教徒なので
そんな名前が付いているが、生粋のインド人)に、
 「インドのパーティーはいつもこうなのか?」
と聞いたら、
 「ああ、そうだよ。一時間くらい続くことも
あるけど」
とのこと。
 それから、四方山話をした。

 Bikasがホテルまで送ってくれた。
 
 「もともとコルカタに住んでいるのですか?」
 「私はそうです。しかし、私の両親は、
バングラデシュから来た難民でした。
 独立の時の混乱で、逃げてきたのです。
 そして、ガンジス川の向こうに、家をつくりました。」
 
 ずっといろいろなことを話して、
ホテルに戻る。

 Bikasがとなりにいるので、見つめることは
できなかったが、
 路上には昼間よりも人の数が増えて、
寝支度を始めている人たちもいる。

 きれいな女の人たち。子ども。
所在なさげな男たち。
 皆、歩道の上で、路肩で、そこに
いるのがこの世の宿命であるかのように、
たむろし、寝転がり、うずくまっている。

 再びホテルのヴィクトリア朝の優雅な空間に戻り、
 キング・フィッシャーを飲んでため息をついた。

 wikipediaなどで調べる。コルカタの路上生活者は
推定200万人。バングラデシュ独立時に
大量の難民が流入し・・・とある。

 Bikasの家族の物語は、息子が原子核研究所の
教授になり、孫も出来て・・・という
幸せなものになったが。

 人が海をつくっている。その中をかき分けて、
泳いでいる。
 哀れみとか、そのようなことはしずく一滴を
前に立ち上がるものなのであって、
 海を前にして、どうすることもできずに
ただ呆然と立ちつくすだけ。

 そのような場所から、なにかを考えるしか
ない現実が、地球の上にあった。


コルカタ郊外で。撮影の動画からの切り出し。

11月 22, 2006 at 09:36 午前 | | コメント (8) | トラックバック (1)

2006/11/21

その間合いの不思議さに

インドなんて巨大な存在は、
どうせわかりっこない。

 だから、気楽な気持ちで来た。

 シンガポールでトランジットし、
E04搭乗口へ歩いていくと
次第に気配が濃くなって、
 機上のひとになると
どんどんその場所へ近づいていった。

 飛行機を降り、入国審査を抜けて
たくさんのひとたちが待っている
風景を見ると、
 ああ、来たなあという思いが強くなった。

 コルカタの闇は濃く、スパイスの
香りがした。

 ホテルの人が名前の書いたカードを持って
立っていてくれた。

 はにかみ気味に水とおしぼりは
どうかと聞き、
 いいです、と断ると、
白い立派な帽子をかぶって、
 車が動き始めた。


 「何分かかりますか?」
 「だいたい30分くらいです」

 それが、交わした唯一の会話である。

 あとは、ずっと車窓から見ていた。
 午後11時だというのに、人が歩いている。
 人力車が走り、
 斜めにカットインしてくる車がある。 
 その度に、制帽をかぶった運転手さんが
こともなげにスピードを落とす。

 そうか、さっきからずっと、
信号がないんだ、と気付いたのは
しばらく経ってからだった。

 犬が多い。あちらこちらを歩いている。
 そういえば、空港の荷物受け取り場には
白黒のぶちの猫がいた。

 かがんでやっと入れるくらいの、
背が低い小屋がたくさん並んでいる場所が
あった。

 どうして信号がなくても皆ぶつからずに
走っているのだろう。
 その間合いの不思議さに、すでに
魅せられている自分に気付く。

 途中、黄色い光が点滅している場所は
あったが、
 とうとう一回も信号待ちをしないで
ホテルに着いた。

 キングフィッシャーを飲み、
ちょっと仕事をしてから眠ってしまったので、
自分がどこにいるのかよくわかっていない。

 窓の外をのぞくと、ちょうど赤い太陽が
昇るところで、
 下の通りを人びとが行き交っている。

 おばさんが、何に腹を立てたのか、
茶色い野犬に、こら、こら! とばかりに
棒のようなものを振り回しているのが見えた。

 インドに来て、初めて見たあからさまな
人間のパッションであった。

11月 21, 2006 at 10:21 午前 | | コメント (7) | トラックバック (4)

2006/11/20

人生は「ある」ではなく、「なる」

 この5年間くらい使っていた
リュックが壊れてきたので、
買いにいった。

 島田雅彦さんの『彗星の住人』を読み返しながら
行った。
 文庫化に当たり、解説を書かせていただく。
 人間の恋の偶有性と、
国家の成り立ちのそれが共鳴する。
 
 青年期は誰にも負けないくらい
歩くのが速かったが、
 最近は追い抜かれることも多い。
 ぼんやりと考え事をしている
からだ。
 風景がゆったりと流れる中を、
 昨日、丸山健二さんがチェックインするのを
お見送りしたホテルのロビーを通った。

 同じ空間なのに、昨日は丸山さんという
肉体がそこに息づいていて、
今日はいない。
 そのことを、不思議に寂しい、それでいて
慰安される思いで振り返った。
 久しぶりの雨がしっとりとややうすら寒く
降っていたことにもかかわるのかもしれない。

 人生は「ある」ではなく、「なる」(werden)
である。
 生命は、常になりつつある。
 そのようにして組織体は維持されているので
あって、
 だから、死ねばすぐに解体が始まる。

 一見同じ肢体で変化なく存在し続けている
ように見えても、
 それは散逸構造であって、能動的に
その姿が維持されている。
 一つの奇跡である。
 「ある」は実は「なる」だから、
そこから、新しいものが生み出されるという
創造性は、生命の根本的な成り立ちの
「写し」に過ぎない。

 島田さんの本を読みながら、どうしても
三島由紀夫の『豊饒の海』4部作の完結編、
『天人五衰』というタイトルが
一つのイメージとして響き続けた。

 衰えるということも、「なる」という
ことの一つの様相であるならば、
 それは生命というものの一つの積極的な
機能でもあるのだろう。

 なんだか、出来上がってエスタブリッシュ
されちまったものは、魅力がないなあ、
などと思うことがあるが、
 あやうさこそが「なる」という
ことの一つのメルクマールなのであって、
 青年期の恋というものはつまり
お互いに「なりつつ」あるあぶなっかしい
ものどうしの共鳴現象なのである。

 なり終わちまった精神はすでに腐敗を
始めていて、
 その腐り行く匂いを味わうチーズ愛好家でも
なければそんなに親密に近づいて行けるものでも
ない。

 ボクは服を選ぶ時は売り場をぐるりと
一周すればあっという間に決まって逡巡しない。

 それこそ、売り場に着いて一分で決まってしまうが、
リュックはいつも悩む。
 学生時代からそうだった。
イメージするものが製品化
されていないからだろう。

 クリスマスちっくな商品が並んで、
人びとがごったがえす「ハンズ」の売り場で
案の定ぐるぐると回って、
 疲れ始めた頃にやっと決めた。
 
 包装してもらい、
歩き始める。

 成功とか失敗とか、そんなこと知って
たまるか、と思う。

 パリでシンポジウムをやった時に、
Marleen Wynantsが、「脳科学をやっていて、
philosopherで」と紹介したのでびっくりしたが、
 考えてみると自然哲学ということで
全く構わないと思う。

 『生きて死ぬ私』は哲学書でいいし、
これから解明しようとしている
 心脳問題も、脳科学という「ある」を「なる」
に接続すれば、
 とびっきりの哲学問題であろう。

 科学革命は、哲学的「なる」と接続しなければ
「なる」ものではない。

 『彗星の住人』はカバーをとると漆黒で、
それが手になじんで、
 雨の新宿を歩くに本当にふさわしかった。

11月 20, 2006 at 04:07 午前 | | コメント (7) | トラックバック (2)

2006/11/19

総合的な教養が生み出すノーベル賞

ヨミウリ・ウィークリー
2006年12月3日号
(2006年11月20日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第31回

総合的な教養が生み出すノーベル賞

抜粋

 しかし、理論物理の天才を育成するためには「鉄は熱いうちに打て」を実行するのが良いかというと、事はそんなに単純ではなさそうだ。幼少期から数理系の専門的な訓練をするいわゆる「英才教育」を行った事例が知られているが、若くして大学に進むなどの成果はあるものの、その後伸び悩んでしまうことが多い。なぜ、英才教育による「早熟の天才少年・天才少女」はその後才能を伸ばせないことが多いのか、湯川博士の生涯にこの疑問に対する答えのヒントが隠されているように思う。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


11月 19, 2006 at 11:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

インド

International Workshop on
Models of Brain and Mind :
Physical, Computational
and Psychological Approaches
に出席するために、
2006年11月20日(月)から
2006年11月25日(土)まで
インドに出張いたします。

この間、メールは読めると思います。

http://www.saha.ac.in/cs/mind.brain/speakers.html

11月 19, 2006 at 10:54 午前 | | コメント (5) | トラックバック (0)

脳の中の人生 10刷

中公新書ラクレ
茂木健一郎 『脳の中の人生』
は増刷(10刷、累計57000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121502000 

11月 19, 2006 at 10:29 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

 雪囲いも終わって

遠くにありて思うもの。

 大町から作家の丸山健二さんが
講演とサイン会のためにいらした。

 文藝春秋の山田憲和さんに、
あずさでいらっしゃいます、と聞いて
新宿駅のホームでお待ちした。

 山田さんの御愛息、大氣くんが
好奇心にかられて目をきょろきょろ
動かすので、ボクの魂もふらりと動く。

 黒い鞄をひとつ提げて、ふらりと
現れた。
 「あれっ、なんでいるの?」
と丸山さん。
 実に、二年ぶりくらいである。

 「今度、庭に来てよ」
 「はい、今はどんな様子ですか」
 「雪囲いも終わってね。これがたいへん」

 丸山さんの庭の風情は、いつも心のどこかに
しまい込まれている。
 たとえ、それとして明示的に思い出さない時でも、
私の脳の回路の中には、過ごした時間の記憶が
くっくりと刻み込まれている。
 それが、記憶というものが私たちの
存在を下支えするときの形式であり、
 だから、過去はないがしろにできない。

 丸山さんをサザンテラスまでお見送りして、
渋谷に向かう。
 しっかりと握った手は、大地からにょきっと
出た新芽の感触がした。

 『科学大好き土よう塾』の収録。
深海の不思議な動物たちのことをさまざまに。

 ディレクターの近藤浩正さんの考えは、
普通の生物概念からすると「ヘン」な生きものを
見ることによって、
 好奇心を喚起するとともに、
生態系の多様性の恵み、その豊かさに目を開かせよう
というもの。

 深い海のことなど、ふだんは考えることが
ないけれども、
 サケガシラや、ホウライエソ、チョウチンアンコウ、
フクロウナギなどの不思議な生きものたちの
姿を見ると虚を突かれる思いがするのは、
 文字通り海と無意識がつながっている
からであろう。

 痕跡は、それを意識しない時でも実は私たちの
存在を下支えしている。
 三木成夫がかつて考えた「生命記憶」の
思考の周辺に、一人称で生きるときに
私たちを支えてくれるさまざまな心の脈動
のひな型がある。

 放送は2006年12月9日の予定。

 朝日カルチャーセンター
『プロフェッショナル 番外編』
 
 出色の出来であった。

 佐藤可士和さん、住吉美紀さんと
3人で「コラボ」でサインした本30冊は
あっという間に売り切れた。


 佐藤可士和、住吉美紀、茂木健一郎のサイン本

 創造するということを、
私たちはついつい「未来に向かってなにかを
開いていく」というイメージでとらえ勝ちだが、
 実は「昔にさかのぼり、隠されていた過去を
よみがえらせる」というメタファーの
方が適する場合も多い。

 フロイトによる「無意識」の発見はまさに
そうだし、
 ダーウィンの進化論もまた同じではないか。
 だからこそ、真実というものはそれが目の前に
置かれた時に何やらなつかしい風情をしている。

 山本隆之さん、小池耕自さんが
NHK組を代表して打ち上げに来てくださった。

 普段会っている人でも、文脈を変えて
語らうとまた違った味がする。

 その時に立ち上がった感触が、「新発見」
というよりも、「ああ、やっぱりそうだったか」
という懐かしい気がするのは、
 「思い出す」
ということの持つ不思議な現象学的
次元だろう。

 遠くにあるものが気になる。
それを想起することで未来を手元に引き寄せられる
気がする。

 登龍門の鯉は、過去にさかのぼることで
龍になる。
 水の流れが由来する「起源」へと
さかのぼって行こうとする。

 丸山さんの大町の庭の上の空気は、
凛と張り詰めていることだろう。

11月 19, 2006 at 10:25 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/11/18

(本日)プロフェッショナル 番外編

朝日カルチャーセンター
「プロフェッショナル 番外編」

茂木健一郎 住吉美紀 佐藤可士和

2006年11月18日(土)18:15〜20:15
新宿 住友ホール

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/index.html#

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0102.html

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 18, 2006 at 09:21 午前 | | コメント (1) | トラックバック (2)

やわらか脳ー茂木健一郎 「クオリア日記」

クオリア日記が本になりました。
2004年、2005年のクオリア日記から、
テーマ別に編集、加筆をしました。

『やわらか脳』ー茂木健一郎 「クオリア日記」ー
徳間書店

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11月 18, 2006 at 09:18 午前 | | コメント (3) | トラックバック (3)

笑みを浮かべているような

鴨川シーワールドの勝俣悦子
さんに聞いた、
 最後はおぼれて沈んでいく、
 シャチの巨大な死について
考えていて、
 生が最後に苦痛を伴うのだとしたら、なぜ
それはそこにあるのか、などということを
思っていると、
 ふと、ワグナーが久しぶりに聞きたくなった。

 ジークフリート3幕、ブリュンヒルデが
「かがやく愛よ! こうして、笑いながら死んでいく!」
(Leuchtende Liebe Laughender Tod!)
と叫びながら英雄の胸に飛び込んでいく場面を
かけた。

 シャワーを浴びて外に出た時、
「ああ、そうか」と思った。
 精神運動の負が、正に転化するような
魂の錬金術がある。

 「負」は、私たちを打ちのめすだけではない。 
むしろ、計り知れない暗黒がなければ
生まれない白日の輝きというものがあるの
であって、
 その意味で、創造性といものは
優等生的ではなく、必然的に危険思想を
含んでいる。

 上田義彦さんのスタジオで、
写真を 住吉美紀さんと一緒に撮っていただく。
 本間一成さんと山口佐知子さんが
「ディレクター」として同行。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』に
上田さんが出演された縁で、
 番組用の正式のポートレートを
お願いしたのである。

 上田さんがシャッターを押すと、
ぽん! と音がして、
 光がまたたく。

 ポラロイドを見る。
 「上田調」と呼ばれる眺めの中に
定着された自分の姿に、
 環境からまわりまわって無数の光子を受けている
身体の息づきが感じられた。

 終了後、私服に戻って上田さんと三人で
記念撮影。


茂木健一郎、住吉美紀、上田義彦

 上田義彦さんのやわらかな表情そのものが、この
世に満ちあふれている光を思い起こさせる。

 ソニーコンピュータサイエンス研究所へ。

 「アハ体験」のひとつである
「隠し図形」(アハ・ピクチャー)についての
あるブレスト。

 綾塚祐二さんが、「試作」を50持ってきた。

 「綾塚さん、本当にうまくなりましたね!」
 「いやあ、もうノウハウは確立しましたよ。」
 「傑作の隠し図形が、4つしかなかった時を
考えると、夢のようだなあ」
 「ははは。茂木さん、ぼくは、アハ・ピクチャー
作成の『暫定世界チャンピオン』を名乗ることに
しましたよ」
 「いや、間違いなく現時点での世界チャンピオン
だと思います。そのうち、アハ・ピクチャー
作成のいろいろな流派ができて、「統一世界戦」
が行われたりして。」

アハ・ピクチャー作成 暫定世界チャンピオン 綾塚祐二

 ゼミ。
 関根崇泰が、アダプテーションの論文をやる。

 「その、lag adaptationというのも、bayesian integration thoery
の範疇に入るの?」
 「いやそうではなくて、bayesianとは別に
lag adaptationがあって、それが競合するのです。」
 「そうか、でも、ぼくは、bayesianというのは
つまらないなあ、と思っていたんだけど、
adaptationの説明原理としては使えるんじゃないかと
今思ったんだ。prior distributionが変わるわけだよね。
それで統一的に行けたら美しいじゃないか。
lag adaptationも、その広義のモデルのセットに
入るんじゃないの?」
 「それとは別なのです。」

 最近、「教育的効果」を考えて、
自分で論文を読んじゃうよりも、あくまでも
説明させて理解しようとしているので、
 著者たちがどのように書いているのか
確認していない。

 中沢新一さんと新宿でお話しした。
 「ブルータス」の鈴木芳雄さんの
アレンジ。

 暗黒を明に変える魂の錬金術のことを
話したら、
 中沢さんが、
 「茂木さん、ぼくのこと、ダークサイドが
あると思っているでしょ」
と言った。

 「いや、(しどろもどろ)
そのですね、やはり人間は暗黒面
がないと、創造のエネルギーが生まれないと
思っているわけでして」
 「ぼくは暗黒面ありますよ。坂本龍一も
かなりダークなところがあるね。ある意味では
ぼく以上かな。ははは」

 中沢新一、坂本龍一両巨頭の
「ダークサイド」とはなにか。
 詳しい話は聞かなかった。

 ダークサイドが、暗黒のまま現れるんじゃ
ダメで、ポジティヴなものに転化して
始めて当人にとっても世にも恵みをもたらすの
であって、 
 暗黒はあくまでも秘されたものであって良い。

 モーツァルトは人生で様々な悲嘆を
経験したであろうが、
 彼の音楽のほとんどはプラトン的な明るさを
示している。

 どんなに人生の苦労をしても、
しわだらけの顔に笑みを浮かべているような。
 そんな人のささやかな歓びにこそ、
魂の錬金術の驚くべき力が顕れる。

11月 18, 2006 at 09:10 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/11/17

いずれにせよ、お元気で

イギリスのコメディの金脈のひとつは、
「みじめさ」(misery)の中に
「栄光」(glory)を見るという
ことだろうか。

 Ricky Gervaisが描いたThe Officeの
中のボス、David Brentの矜恃は、
そのみじめさの中の栄光にこそある。
 
 それは、ソルジェニーツィンの
『イワン・デニーソヴィッチの一日』
に似ているが、どこか少し違うもの。
 不幸と幸運の間の相対論。
 持つものと、持たざるものの
立場の力動的変化。

 黒々とした雲の間から、一筋の光が差す。
 周囲が暗いからこそ、その光の輝きが
意識の中で鮮烈に印象づけられる。
 ノアールの中のルミナンス。
 みじめさの中の栄光の本質はそこか。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』には、
鴨川シーワールドの怪獣医、勝俣悦子
さんがいらした。

 シャチの死は、壮絶であるという。
 水中に暮らすとは言え、肺呼吸をする
ほ乳類である彼らは、
 衰弱し、最後におぼれ死ぬのだ。

 「呼吸が、水面に出てぷしゅーとそれから
潜るのが、ぷしゅーぷしゅーと二度続くように
なって、ああ、これは、イルカが死ぬ時と
同じだなと思って」

 大切に育んできた愛するシャチの死の
様子を、勝俣さんはそのように語った。
 
 「巨大な死」というメタファーが浮かんだ。
 宇宙全体が、深遠に沈んでいく。
 その時の、空間自体が悲鳴を上げるような
 悲惨さの中にも、おそらくは侵すべからざる
尊厳があるのではないか。

 「イルカの表情ってわからないでしょ。
ほら、顔が、プラスティックで出来ているみたい
じゃないですか。
 だから、痛がっているとか、苦しんでいるとか、
そういうことは、身振りや行動で読み取る
しかないんですよね。」

 永遠の道化師として仮面をかぶることを
運命付けられた生物。
 その運命を惨めと思うか、それとも
そこに神の沈黙にも通じる厳粛な真理を見るか。

 最初にシャチを見たのは、カナダのヴァンクーバー
だった。
 スタンレーパークの中で、巨大な白と黒の
身体が浮かび、そして水面にたたきつけられた。

 巨大は相対的なもので、私たちの身体も
またアリから見れば大山のごとく。
 スケールと同じ相対が質にもあるとすれば、
 悲惨が歓喜に通じる錬金術はきっとあるのではないか。

 島田雅彦から留守電が入っていた。

 「ほら、あのクオリアなんとかの件で、
12月に一度お会いします。二度になるかもしれないね。
いずれにせよ、お元気で」

 背後から酒場のさざめきが聞こえた。
 
 ぷしゅーっと弾けるような歓喜をもって
酒を飲み談笑するという時間を最後に持ったのは
何時だろう。

 塩谷賢と、隅田川のほとりでマグロのごとく寝て、
缶ビールを飲んでいると、
 カップルたちがボクたちの周囲を
半径10メートルくらいの軌道で避けて
歩いていった。

 あの時間に栄光あれ。

11月 17, 2006 at 08:08 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

2006/11/16

「天才脳」の育て方

DVDブック
養老孟司&茂木健一郎の「天才脳」の育て方
養老 孟司 (著), 茂木 健一郎 (著), NHK科学大好き土よう塾 (編集)

アマゾン

11月 16, 2006 at 08:16 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

プロフェッショナル 仕事の流儀 高野進

プロフェッショナル 仕事の流儀 第33回

ゴールにいるのは、新しい自分
〜 陸上コーチ・高野進 〜
日本人初のオリンピック400m走競技のファイナリスト。そして、日本陸上界のエース・末續慎吾を育てあげた名コーチ、高野進(45)。選手時代から築き上げた独自のスプリント理論で選手を鍛え上げ、日本の陸上短距離界をけん引する。
その指導の根本にあるのは、選手に乗り移って教えることだ。 自分自身がその選手になったつもりで、修正点を見つけ出し選手に伝える。 その伝え方も、手取り足取り教えるものではない。要点だけを伝え、後は、選手自身に考えさせる。 
そして、高野は選手たちに繰り返し伝える言葉がある。「スタート地点に立つ時、新しい自分に出会うつもりで臨め」。レースは常にプレッシャーとの戦い。それを乗り越えた時、成長した自分に出会うことができる。今、高野が指導に力を入れているのが、将来、末續に続く逸材と呼ばれる21歳の塚原直貴。その育成の現場に密着し、陸上を通じて、自分の壁を乗り越え飛躍する人材を育てようという高野の流儀に迫る。

NHK総合
2006年11月16日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 16, 2006 at 07:30 午前 | | コメント (1) | トラックバック (3)

「10ドルになります」

梅田望夫さんにお目にかかる。

 山の上ホテルに向かって歩いていると、
「あっ、茂木さんが見えますよ。トラックの横」
と筑摩書房の増田健史が耳元でささやく。

 ふりかえると、手を挙げる
男がいた。

 たけちゃんマンの登場である。

 梅田さんがちょうど部屋から出てきた。
 「どうも、お久しぶりです。」

 福田恭子さんはタケシのことを
「増田クン」と言う。
 それがちょっと新鮮である。

 しゃべり初めて2時間経った時、
福田さんが「そろそろいったん休みますか?」
と言った。
 ボクと梅田さんは、ほとんど同時に
「いや、いいです。まだダイジョウブです」
と言って、
 そのまましゃべり続けた。

 終了後、たけちゃんマンが
「いやあ、茂木さん、今日は燃えてましたね」
と言った。
 それで気付いた。ボクは、きっと、
ウェブの問題については
 かなり熱い思いを持っている。

 インターネットが切り開いた、
誰でも知を得られるという状況の向こうに
見えているもの。
 それは、今までだったらunderdog(負け犬)
だったものたちにとっての逆襲のチャンスである。

 梅田さんは「反エスタブリッシュメント」
とか、「未来への明るい希望」と表現した。
 梅田さんのおかげで、思考がより立体的に
なった。

 「茂木さん、リアルな世界における満足度と、
インターネットに対する関心は、反比例している
んですよ」
 「えっ」
 「茂木さんの言われる談合的世界で
自分の権益が確立している人たちは、ネットに
関心を持たなくても済みますからね」
 「あっ、そうか、そういえば、ネットを見ないし、
メールは他の人に読んでもらう、とか
いう人が時々いますね」
 「リアルな世界で満足していない人が、
ネットに関心を持つのですよ」

 そうだったのか!

 新世界飯店への道は、私が
先導した。

 「このあたりには、私の青春が埋まっている
んですよ」
と言うと、たけちゃんマンが、
 「茂木さんの青春はいろいろなところに
埋まっているんですねえ」と言った。

 「いもや」には、何回通ったことだろう。
カウンターに座り、てんぷらが揚がっていくのを
待つ。
 そうだ、確か、最後に海苔を揚げて
ごはんに載せてくれたのではなかったかしら。

 あの頃は、一緒にビールを飲む、などという
こともせず、
 ただ目の前の天丼を、親の敵にでもあった
かのように
 一気に食べた。

 それから古書店をぶらつく。あの頃の
時間の流れを思い出すと、夢のようだ。

 たけちゃんと一緒に帰った。

 「茂木さん、梅田さん、いい人ですねえ」
 「そうだねえ」
 「おもしろい対談だったね」
 「そうだったねえ」
 「そういえば、茂木さんが中華料理屋で
言ったジョーク、面白かったですねえ」

 梅田さんと知識が「無料」であることの意味を
語り合おうと思って用意していて忘れ、
 中華料理屋でビールを飲んでいて
思い出したのである。

クリントン元大統領は、講演で高額の報酬を
もらうことにすっかり慣れているので、
 ついついその癖が出てしまう。
 この前空港であったので、
 「ハロー、ビル」
と言ったら、向こうも
 「ハロー」と言って、
それから、
 「10ドルになります」
(That will be ten dollars)
と言ったよ。

 会話は無料だからこそ、人びとは
自由に楽しむことができる。
 いちいち課金していたのでは、
自由な流通が妨げられる。

 インターネット上に、ようやく、知識が
無料である環境が整いつつある。
 いよいよ、アツイ。

11月 16, 2006 at 07:22 午前 | | コメント (3) | トラックバック (6)

2006/11/15

(今週土曜日) プロフェッショナル 番外編

朝日カルチャーセンター
「プロフェッショナル 番外編」
茂木健一郎 住吉美紀 佐藤可士和

2006年11月18日(土)18:15〜20:15
新宿 住友ホール

斬新な発想で時代を切り開く仕事師たちの今と未来を描くTV番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK総合木曜22:00)の番外編です。

数々のヒットデザインを世に送り出す、アートディレクター佐藤可士和氏。既存の枠組みにとらわれず多方面にアートディレクションの力を発揮するプロジェクトを進行中。 関心のない人のバリアを破ってその心に飛び込む広告や商品を創る。そのためには何が必要か。困難なハードルを乗り越えるにはどうすればよいか。 最新の研究をふまえて、“こころ”に迫る、気鋭の脳科学者茂木健一郎氏。 佐藤氏と、番組の進行を務める茂木氏ほか、今もっとも注目を集める3人が、プロの生きざまに迫り、明日への元気をお届けします。
(技術的問題により、朝日カルチャーセンター関係の
ウェブサイト等には「その他一名」と書かれていますが、
実際には住吉美紀さんが参加されます)

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/index.html#

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0102.html

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 15, 2006 at 08:47 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

『クオリア入門』4刷

ちくま学芸文庫 『クオリア入門』は、増刷(4刷、累計20500部)
が決定いたしました。

ご愛読に感謝いたします。


11月 15, 2006 at 08:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

ひるがえり ひっくり返って かけて行く

 取材の最後に、
「なにか俳句を書いてください」
と言われてこまった。

 とっさに、「ひるがえる」という
イメージが浮かんだので、
それを追った。

 応募するとプレゼントになるそうである。


 ひるがえり ひっくり返って かけて行く

 つまりは、自画像であり、
自分の人生はこのカエルのようなものだと
思っている。

 昨日芸大の授業の後で
学生たちと上野公園で飲んでいると、
 NHKのありきち(有吉伸人チーフプロデューサー)
から電話があった。
 
 「もしもし茂木ですけれど」
という声を聞いたとたんに、
 「ああ、茂木さん、だいぶ声が良くなりましたね」
と言って、二言三言で切れた。

 ありきちは、探りを入れてきたのである。

 先週声をつぶして御迷惑をおかけした。
 その声も、かなり良くなって、
そうだ、今は「かけて行く」のだ。

 いやあ、諸君、声が出るというのが
こんなにうれしいことであるとはねえ。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録。
 ゲストでいらしたのは、ユニセフの
タジキスタン事務所で働く
 杢尾雪絵さん。

 すみきち(住吉美紀さん)が泣いた。
ぼろぼろ泣いた。
 第二のVTRの後の、杢尾さんの
話にうゎーっと泣いた。

 ハンカチをちょっと目に当てる、
なんてものではなかった。

 雪解け水のようにあふれ出た。

 収録後、すみきちが、ありきちに
「有吉さん、プロにあるまじきふるまいをして
すみませんでした」
と言った。
ありきちが、
 「いやあ、人間が、本当にはげしく泣くところを、
久しぶりに見たねえ」
と言った。

 「それにしても、あの時の茂木さんは、
男というものがあのような状況に置かれた時に、
どうしたら良いかわからない、という
いい感じが出ていたねえ」
とありきち。

 杢尾さんとすみきちの濃密な世界の
横で、たたずむしかなかった。

 杢尾さんのお仕事は、子どもたちを
助けることである。
 戦争や政情不安などで国のかたちが
壊れると、
 まっさきに犠牲になるのが弱い立場の子どもたち。

 コソボ紛争、そしてタジキスタン。

 「戦争を起こす人間の後始末をやらされている
わけですが、彼らに責任を取らせようとは
思いませんか」
 「いや、戦争を起こすような人間に、そもそも
後始末などできないと思います」

 杢尾さんの現状認識はリアルで暖かい。
そして、杢尾さんは愛に基づいて行動しているのだ。

 口先だけ勇ましい男たちは信用できない。後始末
などする気がないからだ。いざとなったら
真っ先に逃亡する。

 本当に身を投じる意味のある戦場は、
貧困との闘い、虐待の防止、啓蒙活動、
より良き人間性への接近。

 ミサイルがどうしたこうした
などと言っているうちは、
 自我の肥大した子どもの成熟した大人への
なり損ないに過ぎない。

 国家とか、地球とか、
 そんなに大きなスケールでなくても、
生きているとへんなやつ、いやなやつに
出くわすけれども、
 そんなやつらに生命の歓びを台無しに
されてたまるか。
 こちとら、
ひるがえり ひっくり返って かけて行く。

 そして、時には、春の日だまりのなかで、
ぬくぬくとのびのび背伸びをしたいなあ。

11月 15, 2006 at 07:49 午前 | | コメント (7) | トラックバック (0)

森村泰昌 東京芸術大学 講義

Lecture Records

東京芸術大学 美術解剖学 講義
森村泰昌
2006年11月13日(月)

東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室

音声ファイル(MP3, 80.6MB, 88分)


11月 15, 2006 at 07:22 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2006/11/14

訂正

今朝のブログで、森村さんの音声ファイルのURLが間違っていました。
訂正しましたので、現在はダウンロードできる状態になっております。

11月 14, 2006 at 01:58 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

森村泰昌 東京芸術大学 講義

Lecture Records

東京芸術大学 美術解剖学 講義
森村泰昌
2006年11月13日(月)

東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室

音声ファイル(MP3, 80.6MB, 88分)

11月 14, 2006 at 08:40 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

「クオリア」の「クオ」のあたりが

先日の日本現象学会の会場で、
演壇のテーブルに張られている
「茂木健一郎」という文字を
ぼんやり見ていたら、
 ゲシュタルト崩壊が起こった。

 文字が奇妙に思える
だけでなく、
 そもそも、なぜ、この文字列が
私という人間を指し示しているんだろうと
思った。

 なんでもよかったはずじゃないか。

 いつの間にか、自分という存在を
この文字列を通して認識している。
 その不思議さに心がふるえた。

 松岡正剛さんと那須で対談して
いた時、
 松岡さんの前の卓上に
『クオリア入門』が置いてあった。

 その「クオリア」の「クオ」のあたりが
解けていって、
 この文字列がいつの間にか
 私のライフワークを指し示している
ことが不可思議に感じられて
ならなかった。

 美術解剖学の授業で、森村泰昌さんが
「私」の話をした。
 「セルフ・ポートレート」
というテーマを追求してきた森村さん。
 デュシャンの「レディ・メード」
がペインティングの技法における
革新であったとすれば、
 森村さんは選択することのできない
自分の肉体というマテリアルを
用いて
 レディ・メードを新展開させている。

 人間はひょっとしたら
出来損ないかもしれず、 
 その「理由」は「私」などというものを
確固として持ってしまった
ことにあるのかもしれないと
森村さんは言った。

 できそこないかもしれぬ「茂木健一郎」
を抱えて、「私」は「クオリア」の問題を
考えている。

 先日ロシアに行った時、国家というものは
偶有的な存在だと確信した。

 ロシア一国がさらされてきた、
さまざまな事態。国境のゆらぎ。
 異物の侵入。

 「茂木健一郎」や「クオリア」
がほどけゆらいだのは何らかの良き兆しだと
思いたい。

11月 14, 2006 at 08:30 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2006/11/13

(本日) 東京芸術大学 美術解剖学 森村泰昌

東京芸術大学 美術解剖学 
森村泰昌
『森村泰昌による森村泰昌』

2006年11月13日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

聴講歓迎!

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

<関連情報>

森村さんは、11月11日より
個展を開かれています。

http://www.shugoarts.com/jp/morimura.html

http://www.morimura-ya.com/infomation/index/

森村さんは、現在発売中の中央公論新社『リクウ』
誌上でも作品を発表されています。

http://d.hatena.ne.jp/Ri-ku-u/searchdiary?word=%2a%5bokada%5d

11月 13, 2006 at 01:24 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

 松岡正剛さん

 松岡正剛さんと那須で対談。
 やっと電波の届くところにやってきました。

11月 13, 2006 at 01:24 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/11/12

羽生将棋が教える失敗に学ぶ大切さ

ヨミウリ・ウィークリー
2006年11月26日号
(2006年11月13日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第30回

羽生将棋が教える失敗に学ぶ大切さ

抜粋

 羽生さんに、もっと凄まじい話を聞いた。羽生さんが最大のライバルと見なしている谷川浩司さんとの対局について聞いた時である。今まで百六十局くらい打っているが、二人とも、お互いの対局が棋譜として後世に残るということを意識しているので、「谷川さんとの対局で一度現れた局面は二度と出ないように気をつけて打っている」というのである。
 「えっ、それは、つまり、谷川さんとの百六十局を、全て覚えていて、指しながらその記憶を参照しているということですか?」
 私は驚いて羽生さんに聞いた。 
 「それはそうです。」
 羽生さんは、事も無げに言う。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


11月 12, 2006 at 09:51 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

クオリアと偶有性 日本現象学会

Lecture Records

茂木健一郎 『クオリアと偶有性』
上記講演に関する質疑応答
会場との議論 (茂木健一郎、河村次郎、谷口純子)


日本現象学会全国大会シンポジウム
2006年11月11日(土)
(慶応大学 三田キャンパス)

音声ファイル(MP3, 88.5MB, 96分)

11月 12, 2006 at 09:38 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

いわゆる消去主義です

なんとなく疲れていて、
土曜の午前中はソファに寝転がって
 金曜日に宝島社の田畑博文さんにいただいた
宝島新書 門倉貴志著『ワーキングプア』
を一気に読んだ。

 支度をして、家を出て、
 慶応大学に行こうと、地下鉄のエスカレーターを
上がっていると、青い作業服を着たおばさんが
ぞうきんを持って、ベルトをぬぐいながら
上がっていった。

 時給がいくらでも、人は働いている時には
充実感を感じて没入してしまうものである。

 大学院生の時、アルバイトで塾講師をした。
 時給は悪くはなかったが、塾全体の収入に
比べてつりあっていたのかどうか、
 そんなことは実は余り考えなかった。

 小学校の時には奇妙な思い出がある。
 何かが欲しくなって、
お金を貯めようと、
 母親の知り合いの八百屋さんで
もやしを詰める仕事をしたのだ。

 どれくらいもやしを詰めたのか
覚えていないが、
 とにかく、終えると「はい、けんちゃん」
と100円くれた。
 ぼくは、濡れた手をズボンで拭いながら、
「ありがとう」
と受け取った。

 今考えてみると、小学生一年生の男の子が
小さな手でもやしをつめているのは
どうにも不思議な光景だが、
 当時の本人には、そんな自覚はなかった。

 そもそも、八百屋さんにしてみれば、
「100円」は労働の対価
というよりも、迷惑だけどかわいいから
お小遣いをあげよう、という感じだったかもしれない。
 
 飽きずに一週間くらいは通った。
 貯めたお金で何を買ったのか、覚えていない。

 目の前の労働に、充実感を感じる。
 それは人の美質だが、
経済システム全体から考えると、
 それゆえにかえって隠蔽されてしまう
問題もあるのだろう。

 IT長者が次々と誕生していく。
 ネット上のサービスが、一年足らずの
うちに一千億円単位の時価総額に化ける。
 新しい時代の息吹であることは
間違いないが、
 そのことによって得られる「創業者利益」
の一部分は「新しい価値」
が生み出されただけでは説明できない
「所得移転」なのではないかと
疑う。

 みんなが一億、十億という金をつかんだら、
それこそ天文学的な経済成長になるか、
 ハイパーインフレーションになるはずだ。

 経済成長率も、インフレもそこそこで
一部の人がIT長者になっているということは、
つまりは所得移転なのではないか。

 それでもあまり文句を言わないということは、
つまりITによって気付かないうちに
 「広く薄く」事態が進行している
ということなのだろう。

 現象学会のシンポジウムは、大いに楽しんだ。

 オーガナイザーの河野哲也さんと、
終了後お話する。

 「いやあ、楽しかったです。」

 「現象学者たちは、分析哲学者とはまた違います
からね。」

 「M先生は、分析哲学だと思っていましたが」

 「いや、M先生は現象学ですよ。もっとも、分析
もできてしまうのですが。」

 「N先生はどうですか?」

 「あの人は、完全な分析哲学ですね。いわゆる
消去主義です。自然言語で記述されるものの実体は
最終的には消えてしまうという立場ですね。」

 「ああ、そうか。デネットと同じだ」

 N先生もM先生も東大の駒場の科学史・科学哲学に
いらっしゃる。

 難しい問題について、
さまざまなアプローチから考え抜くのは本当に
楽しい。
 自分が考えたことを、興味を共有するひとたちと
分かち合うことはさらに楽しい。
 お金はまあ、そこそこにもらえればいい。
 
 何の因果か、近所の八百屋の店先で
せっせともやしを詰めていた小学一年のあの頃と、
 気分はあまり変わっていない。

11月 12, 2006 at 09:30 午前 | | コメント (4) | トラックバック (4)

2006/11/11

ココロのタテカン

相変わらずツナワタリの一日だった。

 榊原英資さんがホストをされる
料理番組の収録で、
 嵐山吉兆の徳岡邦夫さんに再会した。

 カニがおいしかった。
 
 竹内香苗アナウンサーと、
「朝ズバッ!」の話をした。

 ゼミ。
 柳川透、小俣圭が追い込みに入っている。
 関根崇泰にふざけて英語で話しかけたら、
ボウゼンとしていて、
 周囲のひとたちの方がわかって
笑っていた。
 関根くん、英語をしっかりやらんと
いかんぜよ。
 
 朝日カルチャーセンターの後の
飲み会で、話の流れの中にああそうだと
思い出した。

 この前京都大学に行った時に、
湯川秀樹、朝永振一郎生誕100年
記念シンポジウムがあった会場の
 百周年時計台記念館の
前に、立て看板があったのだ。

 幻冬舎の大島加奈子さんと
筑摩書房の伊藤笑子さんに見せたら、
「デザインを考えていますね」
「配列がいい」
「文字の形がうまいです」
などと、編集のプロらしい
感心をした。

 なるほど、そのまま本の帯にでもなりそうだ。

 ボクが大学に入学した頃は、駒場
キャンパスを歩いていても
 タテカンの類がたくさんあったものだが、
今や多くの大学で絶滅危惧種になってしまった。
 
 しょせん蟷螂の斧だろうが、
全部なくなったら寂しい。

 ボクは「何が改憲だ、ふざけるな」
という表現が面白くて笑ってしまったのだ
けれども。

 誰かが、「年内に葬ろう」
という「具体的な行動計画」が書かれているのが
いい、とコメントしたが、
 本人たちにもさすがに安倍内閣を
年内に退陣させる算段がついている
わけではあるまい。

 いずれにせよ、学生諸君、一つ大いに
青春を燃やしてください!

 いろいろな政治的立場があって
良いと思うが、
 私が気持ち悪いと思うのは
みんなが同じ意見になることで、
 社会の中には当然異論反論があって
良い。

 タテカンを見て眉をひそめる
良識派のおじさまがいてもいいし、
 いいぞもっとやれと拍手喝采
するお調子ものがいても良い。

 日本は特定の問題については
みんな同じ意見になったりしやすい
国だから、
 心の中にタテカンの一つや二つ立てておいた
方が健康にいい。

 ボクの今朝のココロのタテカンは、

「何が確率だふざけるな
機能主義を年内に葬ろう!」

にでもしておこうか。

 文学でも人生でも、そしてもちろん政治でも、
 大切なのは「多声性」である。

11月 11, 2006 at 09:02 午前 | | コメント (9) | トラックバック (2)

2006/11/10

(本日)脳とこころを考える ー脳とことばー 第2回

朝日カルチャーセンター講座

脳とこころを考える ー脳とことばー 第2回

2006年11月10日(金)18:30〜
朝日カルチャーセンター(新宿)

人間にとって、言葉は大切な宝物です。感情や記憶の脳システムの絶妙な協調作業により、人間は言葉を生み出し、伝え、受け取っているのです。時には一つの言葉を発見したり、新しい言葉の組み合わせを思いつくことは、他の何よりも脳を活性化させます。本講座では様々なことばの営みを参照し、最先端の脳科学の知見を紹介しながら、イメージを言葉に置き換えていく脳の働きに迫ります。講座の第4回目は、俳人の黛まどかさんをお迎えして、脳と俳句について語り合います。

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0301_html/A030101.html 

11月 10, 2006 at 08:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

東京芸術大学 美術解剖学 森村泰昌

東京芸術大学 美術解剖学 
森村泰昌
『森村泰昌による森村泰昌』

2006年11月13日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

聴講歓迎!

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

<関連情報>

森村さんは、11月11日より
個展を開かれています。

http://www.shugoarts.com/jp/morimura.html

http://www.morimura-ya.com/infomation/index/

森村さんは、現在発売中の中央公論新社『リクウ』
誌上でも作品を発表されています。

http://d.hatena.ne.jp/Ri-ku-u/searchdiary?word=%2a%5bokada%5d

11月 10, 2006 at 08:33 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

疾走学派

できる限りの手は尽くしたが、
のどは全快しなかった。
 
 「風邪というより、蓄積疲労ですよ」と住吉美紀さん。

 「アナウンサーの中にも、一週間声が出なくなって、
レギュラー番組を休まなくてはならなくなる
人もいます」

 低い声は出るのだが、高い声になると
かすれる。
 それで、
 冒頭の「茂木健一郎です」と言うところは、
トーンが上がっていることがわかった。

 高野進さんの現役時代のレースは、
夢中になって見た。
 比較にはならないが、私も小学校の時
400メートルをやっていたから、
 どんなに無酸素運動が苦しいか知っている。

 競技者としては引退した後も、
指導者として、人間として、さらに進化を
続けている高野さん。
 指導している末續慎吾さんとの「かけ算」
に意味があるのは、
 アスリートとしての闘いを
終えた視点から見て初めてわかることが
あるからだと高野さんは言う。

 面白かったのは、「行き詰まった時は
走る」
 ということで、
 「学生の就職相談も走りながらやるんですよ」
と高野さん。

 「ギリシャに逍遙学派というのがありましたが、
高野さんは疾走学派ですね」
 「いや、そんなに速くは走りませんよ。はははは」

 世のみなさま、走りながらの経営会議、
かけっこしながらの人生相談はいかがで
しょうか?

 ハスキーでなんとか4時間の
収録を切り抜ける。
 声が自然に出ることのありがたさを
痛感いたしました。

 有吉伸人さま、ご心配と御迷惑を
おかけしましてすみません。

 このところ、多様性の問題ばかりを
考えている。
 
 多様性に必然的に付随するのが
「見通しの悪さ」 

 ひとり一個の意識の中に
閉じこめられ、
 容易に隣人を預かり知らぬ私たちは
制度的に心的多様性を保証され、
強制されている。

 意識の中で感じられるさまざまな
「クオリア」も、そのユニークさにおいて
本質的多様性の構成員となっている。

 色は波長の(非局所的)関数としてとらえられる
にもかかわらず、
赤と緑と青が共通のパラメータ空間に
写像されるとはとても信じられぬ絶対的個物性を
見せるように、
 意識の中で一覧されるクオリアは
絶対的に孤立することで豊饒の構成員となる。

 ここでポイントとなるのが、そのような
個物性をいったん経由してはじめて可能になる
ダイナミクスの様相とは果たして何か
ということだが、
 このあたりが複雑系のアプローチと
再び関連してくるのであろう。

 複雑適応系としての脳にとっての、
かろうじて一覧できる多様性の持つ意味。

 さてさて。
 高野さんにならって、というわけではないが、
今日もまた走りながら考えることと致しましょう。

 走るのは大好きで、約束の時間に遅れそうに
なったときなど、リュックを背負って走る走る。

 そうでなくても、とにかく、めったやたらに
走る走る。

 そのリュックが、壊れかけている。
荷物をぶちまけないように気をつけて、
今日も走る走る!

11月 10, 2006 at 08:23 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)

2006/11/09

プロフェッショナル 仕事の流儀 輿水精一

プロフェッショナル 仕事の流儀 第32回
NHK総合 2006年11月9日(木)22:00〜22:44

優等生では面白くない

〜ウイスキーブレンダー・輿水精一〜

世界的なコンクールで最高賞を3度受賞するウイスキーブレンダー・輿水精一(57歳)。
ブレンダーとは、樽(たる)ごとに熟成するウイスキーの「原酒」を組み合わせ、一つの理想の味に仕上げていく職人のこと。原酒は、長いものでは30年以上樽の中で熟成されることで、無限に味が変化する。その原酒を数十種類、1%単位で組み合わせ、複雑で深い香りと味を生み出す。輿水は日本のトップメーカーでただひとりの「チーフブレンダー」。市場に出すすべての商品の味と香りに責任を負う。
多い日で300ものティスティングに挑むという輿水の信念は、味は「優等生では面白くない」。バランスよくブレンドされた「優等生」の酒よりも、時にやんちゃな個性を伸ばし、強い個性をもった味であることが、長く記憶に残るウイスキーとなるとは信じる。
9月、は来年発売予定の25年物の最高級シングルモルト・ウィスキーのブレンドに没頭していた。過去の偉大な遺産に敬意を払いつつ、まったく新しい個性を生み出さねばならない。だが、はかつてない苦闘を強いられる・・・。
大阪府・山崎の蒸留所を舞台に、奥深き味と香りの世界に密着する。

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 9, 2006 at 07:40 午前 | | コメント (2) | トラックバック (4)

日本現象学会 シンポジウム

日本現象学会 シンポジウム 
「クオリアの問題:脳科学と現象学」

谷口純子
河村次郎
茂木健一郎
河野哲也

2006年11月11日(土)
14時45分〜17時30分
慶應義塾大学三田キャンパス 517教室

http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/

http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/taikai/paj-28.pdf

11月 9, 2006 at 07:34 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

それこそがSturm und Drangの徴表となる

朝からずっとのど飴をなめたり、
シュッシュしていたりしていたので、
 すっかり口の中が甘くなった。
 
 「アナウンサーが喉をいためた時には、
砂糖水を飲むんです。大分違います」
 とのことで、
 砂糖水も頂いた。

 やはり、ハスキーボイスでは、
エネルギー
全開というわけにはいかない。

 パッションで話す方だから、
ヴォリュームが出ない分、
 身振りや前傾姿勢で
何とか伝えようとする。
 
 そのうちに、「この声が所与」
と思えるようになってきて、
板についてきた。

 これやそれやで、やっとこさ
90分の話を終えた。
 
 やれやれ、と飛行機に乗り、
 羽田空港に降り立ち、
歩いている時に、ふと、そうか
ボクは新生児になったのかと思った。

 身体が自由にならない。
 喋りたくても、話せない。 
 自分の欲動と、できることの間に
乖離がある。
 これは、つまり新生児の状態ではないか。

 生まれたばかりの赤ん坊は、
まだまだ
できることは少ないが、
 自他未分離の宇宙で、
方向性の定まらない欲動に駆られて、
 魂を動かし、
 身体をバタバタさせて
 周囲の大人たちを瞠目させる。

 やりたいこととできることの
間に差があるという乖離の傾向は、
 青年期になってもなおも顕著であり、
 それこそがSturm und Drangの
徴表となる。
 「大きなことをやるぞ。それが何だか
わからないが」
 それが青年だ。

 ボクは声が出なくなって、
 新生児や青年期の
甘酸っぱい切なさを思い出したよ。

 『プロセス・アイ』の川端武志の声が
出ないのは、彼が新生児だからだったのか。

 明けて今朝、声はまだ完全ではない。
とにかく喉を休めておくしかない。
 今日の収録の長丁場、うまく乗り切れると
いいのだけれども。

11月 9, 2006 at 07:20 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/11/08

「時計ぐるぐる」

声が出なくなった。

 打ち合わせや対談などが入っていた
ため、本当に困った。

 でも、なんとかかすれ声でがんばった。

 高野進さんが末續慎吾さんをいろいろと
指導しているビデオを見ながら
 ぼくは声の出し方をいろいろと
工夫していた。

 「それにしても、何故、末續さんたちは
上半身裸で走っているのでしょう」
 ぼくは素朴な疑問を持った。

 「上半身の筋肉の動きを観察して、
コーチングに役立てるためかな」

 住吉美紀さんが「女子的には・・・」
と言って、それから「うふふ」と笑った。

 ジョシというのは便利な言葉だ。

 有吉伸人さんは、徹夜明けである。

 密息や循環呼吸を使って
超絶技巧で尺八を吹く
 中村明一さんと
お話しする。

 尺八は、西洋楽器とは異なる
ベクトルの方向に進化してきた。
 複雑系の制御力学はより高度なものになる。
 
 要素還元主義というのは、科学的な世界の理解
の文脈においてよりも、
 構成論においてよりエッジが立つのではないか。

 西洋音楽はまさに要素還元主義だ。
 音を定義し、それを組み立てる。
 だから、楽譜が書ける。

 一方、尺八は、音のさまざまな
ニュアンスをそのまま生かそうとする。
 整数倍の倍音だけでなく、
 非整数倍の音も奏でる。

 生命現象は勝手に起こってしまう
のであって、
 まずは要素を用意し、それを組み立てるのではない。
 だから、尺八は生命により近い。
 しかし、それを制御することは
容易ではない。

 先日の京都大学の湯川秀樹、朝永振一郎
の生誕100年記念シンポジウムが
きっかけで、総合的知性と専門性の
関係が気になっている。

 湯川秀樹の中間子論は、むろん数理物理学の
業績だが、
 湯川は同時に子どもの時から論語などの
漢籍に親しむ、教養の人であった。

 物理や数学は専門性が高いものと
思われているが、
 そこに総合的知性がどうかかわるか。
 中間子のポテンシャルを思いつく
際に、湯川の広い教養がそれを後押し
したことは疑いない。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの業績で
最後まで残るのはおそらく「絵」だが、
 ダ・ヴィンチは、総合的教養を持ち、
人間性について深い洞察を抱いていたから
こそ「モナリザの微笑」を描けたのではないか。

 札幌に来た。相変わらず声は出ない。
 夜の会食で、部屋に入っていくとき
張り上げなくてはならない場所か、気になった。
 
 「なかなかハスキーなのもいいですよ」
と慰められる。
 やや低音気味に発声すると、ましらしい。

 うとうととするのが、いつも心地よい。

 明けて、
 今朝は一言も発していないので、治っているか
どうかわからない。
 ヴィックス・ドロップは二つなめた。

 狭い場所でもできる、「時計ぐるぐる」
という遊びを思いついて、「これだ!」
と思った。

 ところが、夢から醒めてみると、
どうもそう簡単ではない。
 ホテルの部屋は、それなりに大きいのだが、
 夢で思いついた「時計ぐるぐる」が
できそうではない。
 そもそも、「時計ぐるぐる」は、正午のところで
身体を反転させる時に足が絡んでしまいそうだ。

 ぐるぐるしているのは、時計ではなく
人生か。

 部屋にドリップコーヒーがないので、
お茶でがまんした。

 できるだけ声を出さないようにして
研究会に備える。

11月 8, 2006 at 07:45 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/11/07

大竹伸朗 東京芸術大学 講義

Lecture Records

東京芸術大学 美術解剖学 講義
大竹伸朗
2006年11月6日(月)

東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室

音声ファイル(MP3, 90.5MB, 98分)

11月 7, 2006 at 08:29 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

コップは放物線を描いて飛んだ

ある時から、クリエーターというものは
言い訳をしないものだと悟った。

 創造という文脈は、人生のあらゆる
場面で現れるから、生きるということは
言い訳をしないこと、だと言い換えても良い。

 芸大の授業の後、大竹伸朗さんを囲んで
上野公園で飲んだ。
 なぜこのようなことをやっているのか。
 一年目、狭い8番教室で
やっていた時に、
 帰りに自然発生的に
「ここで飲もう」と思ったのでは
なかったか。

 もう忘れてしまったが、
とにかく、教室の中では絶対に起こりえない
インタラクションが起こる。

 投入堂からの帰りの車で、
ふと見上げた夜空に、ああ満月か、
と思った。
 雨が降るのを心配していたくらいだから、
 上野公園に月はなかった。

 私は教室で大竹さんを紹介している
時から何だか声が変で、
 マイクなしに大声を出していたら、
すっかり声をつぶしてしまった。

 いろんなことを考える。

 資本の論理の前に、科学や芸術の
細かなニュアンスなど、ちょうど
衝突する小惑星にとっての地球上の
生きものたちのようなものだな。

 悪意とか善意とか、そういう問題では
ない。
 ダイナミクスを記述する
パラメータの存在平面が違うのだ。

 クリエーターとして成功するか
どうかで心を煩わせるのは
 若き野心の自然な作用だが、
 とにかく、生きるということが
それだけですごいんだから、本当は
 四の五の言うべきではない。

 言い訳しない、ということは、
たとえ自分が凡人で無事だけが取り柄の
人生を送ったとしても、
 それでいいと覚悟を決めることで、
 そうすれば人生の全ては
大したことじゃない。
 そうじゃないと、クリエーターとしても
本当は生きられないだろう。

 杉原信幸が大竹さんに食ってかかった。
 大竹さんが、杉原の持っていた
コップを見事に蹴って、
 コップは放物線を描いて飛んだ。

 授業で大竹さんが見せてくれた
「ドリャーおじさん」と
同族の、
 放物線を描いて飛んでいった。

 もっとも、ドリャーおじさんは
放物線の中でも限りなく直線落下に
近い線を描いて、
 東尋坊の海の中に落ちていくわけだけれども。

 とにかく、大竹さんは杉原の
コップを見事に蹴った。
 男、大竹伸朗ここにあり。
 
 植田工が杉原を上野駅の方に連れていって
そこで話し込んでいたらしい。
 「スギちゃん、あのなあ」
などと言っていたのだろう。

 帰ってくるんだったら、来いよ。
 大竹さんが暗闇の中でしゃがんで
凄む。
 それは一つの見事な型であって。

 芸大美術解剖学の授業の歴史に
また一つ伝説が付け加わった。

 それは、上野公園で飲み会を
しなければ、
 決して起きえない相互作用で、
 ぼくはどんな説明もしないけれども、
上野公園で飲み会をやっていて良かったと思った。

 果たして、
 ボクの喉は治るだろうか。

11月 7, 2006 at 06:27 午前 | | コメント (6) | トラックバック (3)

2006/11/06

(本日)東京芸術大学 美術解剖学 大竹伸朗

東京芸術大学 美術解剖学 
大竹伸朗

 東京都現代美術館で「全景展」を
開催中の
 大竹伸朗さんをお招きしました。
 聴講歓迎!

2006年11月6日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

11月 6, 2006 at 08:06 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

仏像で測れる人生の成熟度

ヨミウリ・ウィークリー
2006年11月19日号
(2006年11月6日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第29回
仏像で測れる人生の成熟度

抜粋

 時は流れ、大学院生になって広隆寺を訪れた時には大分眼が出来ていたように思う。体重が「0.1トン」を超える親友の哲学者が一緒だった。
 「おい、茂木、知っているか。かつて、大学生がその美しさに魅せられて思わずこの仏像に抱きついて、指が折れてしまったんだぞ」
 博識の彼はつぶやいた。なるほど、いくら拝見しても飽きない、美しく神々しいお姿をしている。ありがたく、もったいない。中学生の私はこの弥勒菩薩半跏像の前に立ち、一体何を見ていたのだろう。何という大切なものを見逃していたことか。
 そこの君、もっとしっかり見なさい! 
 タイムトリップして、制服姿の私自身をどやしつけてやりたくなった。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


11月 6, 2006 at 08:05 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

『ひらめき脳』15刷

新潮新書 『ひらめき脳』は、増刷(15刷、累計81000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。


11月 6, 2006 at 07:48 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

振り返ってみれば奇跡の力によるとしか思えないような

投入堂に行った。

 ブルータスの鈴木芳雄さんから、
「倉吉」まで来てくださいと指示されて、
 それがどこなのかわからないまま、
京都から特急に乗った。

 なぜか、終点だった。

 駅で鈴木さんが待っていた。

 「茂木さん、革靴ですね。ちょっと裏を
見せてください。うっ、これはちょっと」

 「日本で一番危険な国宝」と言われる
投入堂。

 その足下に行くには、険しい山道を
登っていかなければならない。
 時折、転落して命を落とす方がいる。

 「二十日前に、一人亡くなったばかり
なんですよ」
と鈴木さん。

 近くのショッピング・モールに行き、
「三徳山に登るのですが」
と言って、いつもより真剣に靴底を見た。

 これなら大丈夫だろう、という靴を買うと、
防水スプレーをしてくれた。

 「良くお話しになりますよ」
と事前に鈴木さんに「警告」されていた
住職の米田良中さん。

 破顔一笑、豪快で勢いがある。

 精進料理を食べ、登り始めると
どんどん先に行く。

 木の根を伝い、鎖にしがみつき、
ぐんぐん登る。

 カメラを撮る都合上、先に行かせて
ください、
 と頼まれても、
 米田さんはついつい先に行ってしまう。

 米田さんの身体の勢いと、
山の気配に、
 次第に、投入堂もそうだが、修験道のことが
気になり始めた。

 文殊堂の狭い回廊に立って下を見ると、
そのままふわっと行ってしまいそうで怖い。
 猿は、こんな風景をいつも見ているのだろう。

 ここで落ちた、という岩の背を通る。
 「左側は通らないでください」という
板が置かれているが、その向こうの断崖を
思うと思わず身がすくんで、
右側をそろりそろりと這った。

 このような時、想像力というのは
案外邪魔なものである。
 老若男女、小さな子どもも歩いて、
注意をすれば無事行って帰れるんだから、
大丈夫なはずだ。

 「ちょっとしたことで」と想像して
しまうとうまく猿になれない。
 しかし、私は山道が好きなので、
楽しみながら登った。

 子どもの頃を思い出す。
 最近は山に登る暇もないが、
 確か小学校3年の時に英彦山に登頂した
はずだ。
 山猿としての基礎的な勘のようなものはある。
 ただし、この所使っていない。

 胎内潜り、のような暗い洞を抜けると、
そこに投入堂はあった。

 「法力によって投げ入れた」
という印象は、なるほど相応しい。
 岩のくぼみに、一体どうやって
というような形で建築されている。
 しかも、美しい。
 非対称の魅力。

 厳島神社の様式に先んじているという。
 投げ入れられたお堂が、海の上にのびのびと
広がっていったか。
 力動的なこと甚だしい。

 米田住職が、登ってくる人に次々と
解説を始める。
 疲れることを知らない。エネルギッシュな
人である。


 投入堂の前で説明する米田良中住職

 今運動を進めているという
世界遺産登録も、投入堂の美しさと、
山岳信仰の蓄積を考えれば大いにあり得る
ことだろう。

 山道を下りながら、修験には心を惹かれる、
と思った。
 大峯山にも行ってみたい。

 「室内でマシーンをやるような、
あんなのよりこっちの方がよっぽどいいですね」
と鈴木さんに行った。

 途中で、小学生1、2年と思われる
数人と一緒になって降りた。
木の根につかまってキャーキャー叫んでいる。
 その女小猿たちが、米田住職が
「何か書いてください」と持ってきた
タイミングでちょうどやってきた。
 
 まいった、「行くまで書かないよ」と言ったら、
一番小さな子が舌足らずにしかし頑固に
「いやだ。絶対に見る! 書くまで行かない!」
と言い張った。

 見ると言ったら絶対に見るのだろう。

 仕方がないので絵と短文を書いた。
 十の小さな瞳が見つめる。

 「あれ、木かなあ」
 「ねえ、あの文字なんて読むの?」

 やりにくいこと甚だしい。


 小学生に見つめられて書きました。

 米田住職が、泡般若を振る舞って
下さった。
 「三徳山開山1300年を記念して造りました。
これが本当の寺ビール(じびーる)です。」

 謝して別れる。
 握った手が、力強く、大きかった。

 山岳で鍛えた信仰と体力は侮れない。
 織田信長が、比叡山を恐れたのも
むべなるかな。

 たまには山に入り、体力と胆力を
鍛えたい。

 そこに信仰のかたちがあるならば、
法力も付くのであろう。
 まさか投げ入れたのではないにせよ、
あの建物を造ること自体が、
 尋常の業ではない。
 その精神を育んだお山。

 生涯に誇るべき業績とは、
確かに日常の中で生まれているものの、
 振り返ってみれば
奇跡の力によるとしか思えないような、
 そのようなことを指すのだろう。

 だとすれば、投入堂は全ての創造者に
とっての鏡になるはずだ。

11月 6, 2006 at 07:12 午前 | | コメント (6) | トラックバック (2)

2006/11/05

四門出遊

京都大学の湯川・朝永シンポジウムは、
記憶に残るすばらしさ。

 フィールズ賞の森重文さんご自身に、
難解な森理論の概略を説明いただく。

 深谷賢治さんの
 「くりこみ理論、もう一度読んで見たんですけど
ねえ、数学者の目から見ると、あれは数学ではない。
キタナイんですよ」
との爆弾宣言から
 盛り上がった、
 数学と物理学の違いについての議論。

 なぜ、先行波の解は捨てられ、
遅延波だけが「物理的」だと
されるのか?
 
 超関数(distribution)の理論で
整備されるまでのディラックのデルタ関数の
存在論的意義とは何か?

 京都大学における「自由」の問題。
 「自由」ゆえの要求水準の高さ。

 湯川秀樹さんのそばに10年間いたという
米沢富美子さんによる、心のこもった言葉
 「先生は、「物理学はひとつ」とおっしゃって
いました」
 「先生は、学問は「混沌」の時期が一番
面白い、といわれました」

 聴衆からの発言も大変レベルが高く、
心に残る議論となった。

 最後に、米沢さんが、湯川さん、朝永さんの
平和運動への取り組みに触れられ、
 平和のありがたさ、それを守る大切さについて、
ご自身の空襲体験を交えて話された。

 湯川・朝永生誕100年
シンポジウムに相応しい締めくくりとなった。

 自分の人生のことを考えた。
 ボクは、「古典的な科学」の世界から
四門出遊したような気がしている。

 最初は、バブル経済の中で生き方に
悩んで法学部に行った。

 次に、クオリアの問題に目覚め、それが
全てを数量化する通常の科学の方法では
扱い得ないことを知った。

 それから、芸術とか、文学とか、
他の活動分野と比較しての科学の立ち位置、
原理的な位置づけについての思索が始まった。

 釈迦は東の門から出て「老い」に出会い、
南の門から出て「病気」と遭遇し、
 西の門から出て「死」に向き合った。

 釈迦は、北の門から出た時に、修行者たちと行き違って
自分の道を見つけるが、
 私にとっての北の門は果たして開いているのか。

 京都は、どこに行っても人がいっぱい。
 しかし、今年は暖かくて紅葉はまだまだで、
 23日のあたりがピークでしょう、
と運転手さんが言った。

11月 5, 2006 at 05:56 午前 | | コメント (7) | トラックバック (2)

2006/11/04

(本日)世界一受けたい授業 ひらめき脳

世界一受けたい授業
日本テレビ系列
2006年11月4日(土)
19:57〜20:54

http://www.ntv.co.jp/sekaju/

http://tv.goo.ne.jp/contents/program/008/0004/20061104_1957/index.html

11月 4, 2006 at 07:36 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

湯川秀樹・朝永振一郎 100年記念シンポジウム

湯川秀樹・朝永振一郎 100年記念シンポジウム
2006年11月4日(土)
13時〜
京都大学百周年時計台記念館

http://www.kyoto-u.ac.jp/notice/05_event/2006/061104_2.htm

11月 4, 2006 at 05:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

MAXは売りに来ない

三連休の最初ということからか、
 新幹線が全指定席満席で、
デッキに座って仕事をしていた。

 最初はおしりは着けていなかったけれども、
隣りの女性を見ると、床に座ってメールを打って
いたので、
 私もあぐらを組んで、パワーポイント
をつくった。
 お陰で、「透明ランナー」の絵が描けた。

 仙台に着くまで、
時々立ち上がって車外の風景を見た。

 美しい。稲の穂が光に揺れ
黄金色に輝いている。
 河川敷を虫網を持って歩く兄弟が見えた。
 トンボやバッタと遊んでいるのだろう。

 席があれば座るが、別に立っていたって
床に座っていたってなんてことない。

 昔、小倉の親戚と一緒に鹿児島の霧島に登りに
行った時は、夜行列車に乗って、
 座席の下に新聞紙を敷いて、その上で眠った。
 ヒーターがぬくぬくと暖かく、心地よく幸せだった。

 今ならばビールを飲むところだろうけれども、
子どもの時の眠りはビールなしでも甘美で
そして魔力的だった。

 鹿児島に着き、
 高千穂峰山頂登山の前日、石がごろごろしている
原っぱでキャンプした。

 時々眼が覚めると、背中にゴツゴツと当たっている
のがわかって、それがむしろ気持ちよかった。
 大地の上に横たわっている、そんな実感が
あった。

 贅沢って何なんだろう、とこの頃つくづく
思う。

 セレブがどうのこうのとか、
贅を尽くしたナントカとか、
 ばからしいなあというのが実感。

 野山の中で、たき火をして、
芋を焼く。
 枝にマシュマロを刺してジュッと溶かして
熱々を食べる。
 あれほど贅沢なことはない。

 しかし、都会ではたき火そのものが
もはやできないのだ。

 アリゾナのツーソンの近郊の
サボテンがにょきにょきしているところで
ビールを飲んでいると、
 もう他には何もいらない。
 人工的なしつらいなど、必要ない。

 あれが本当のラグジュアリーだなあと思う。

 新幹線の席がいっぱいだったので、
デッキの床に座って、
 だから
 そんなことを考えたのだろう。

 自然の中で岩の上に座ることが幸せなんだったら、
別に席など要らない。床の上にペタンでいい。
 都会だったら、おにぎりでも買って
公園のベンチで食べればいいんだよ。

 仙台で降り、
近くの会場まで歩いた。

 チャイルド・ライフ・スペシャリストとは、
病院で子どもが安寧のもとに医療を受けられるように
様々な配慮をする人たちのことなり。

 その研究会で喋る。

 お腹が空いてカツ丼を食べたので、
ぎりぎりになった。
 目黒実さんが、隣りの人に「茂木さん、カツ丼を
食べてたんだって」と言っているのが聞こえた。

 「遊び」の分科会を覗く。
 病院の中に、その中では絶対に医療行為を
しない空間をつくるべきである。
 なぜならば、そうしないと子どもは
安心して遊べないからである。
 なるほど、と思う。

 帰りの新幹線の中、今度は座る。
 このところの疲れが溜まっていて、
あっという間に睡魔に襲われる。

 缶コーヒーが飲みたいと思ったが、
そうか、MAXは売りに来ないのである。

 我慢してただ睡魔に包まれて
そのまま上野、東京と。

 夢は野原をかけめぐる。

 自由に森の中を歩いていた少年時代は遠く。

 新幹線の中からかいま見た、
 河川敷を虫網を持って歩いていた
兄弟が、しみじみとうらやましい。

11月 4, 2006 at 05:32 午前 | | コメント (6) | トラックバック (0)

MAXは売りに来ない

 三連休の最初ということからか、
 新幹線が全指定席満席で、
デッキに座って仕事をしていた。

 最初はおしりは着けていなかったけれども、
隣りの女性を見ると、床に座ってメールを打って
いたので、
 私もあぐらを組んで、パワーポイント
をつくった。
 お陰で、「透明ランナー」の絵が描けた。

 仙台に着くまで、
時々立ち上がって車外の風景を見た。

 美しい。稲の穂が光に揺れ
黄金色に輝いている。
 河川敷を虫網を持って歩く兄弟が見えた。
 トンボやバッタと遊んでいるのだろう。

 席があれば座るが、別に立っていたって
床に座っていたってなんてことない。

 昔、小倉の親戚と一緒に鹿児島の霧島に登りに
行った時は、夜行列車に乗って、
 座席の下に新聞紙を敷いて、その上で眠った。
 ヒーターがぬくぬくと暖かく、心地よく幸せだった。

 今ならばビールを飲むところだろうけれども、
子どもの時の眠りはビールなしでも甘美で
そして魔力的だった。

 鹿児島に着き、
 高千穂峰山頂登山の前日、石がごろごろしている
原っぱでキャンプした。

 時々眼が覚めると、背中にゴツゴツと当たっている
のがわかって、それがむしろ気持ちよかった。
 大地の上に横たわっている、そんな実感が
あった。

 贅沢って何なんだろう、とこの頃つくづく
思う。

 セレブがどうのこうのとか、
贅を尽くしたナントカとか、
 ばからしいなあというのが実感。

 野山の中で、たき火をして、
芋を焼く。
 枝にマシュマロを刺してジュッと溶かして
熱々を食べる。
 あれほど贅沢なことはない。

 しかし、都会ではたき火そのものが
もはやできないのだ。

 アリゾナのツーソンの近郊の
サボテンがにょきにょきしているところで
ビールを飲んでいると、
 もう他には何もいらない。
 人工的なしつらいなど、必要ない。

 あれが本当のラグジュアリーだなあと思う。

 新幹線の席がいっぱいだったので、
デッキの床に座って、
 だから
 そんなことを考えたのだろう。

 自然の中で岩の上に座ることが幸せなんだったら、
別に席など要らない。床の上にペタンでいい。
 都会だったら、おにぎりでも買って
公園のベンチで食べればいいんだよ。

 仙台で降り、
近くの会場まで歩いた。

 チャイルド・ライフ・スペシャリストとは、
病院で子どもが安寧のもとに医療を受けられるように
様々な配慮をする人たちのことなり。

 その研究会で喋る。

 お腹が空いてカツ丼を食べたので、
ぎりぎりになった。
 目黒実さんが、隣りの人に「茂木さん、カツ丼を
食べてたんだって」と言っているのが聞こえた。

 「遊び」の分科会を覗く。
 病院の中に、その中では絶対に医療行為を
しない空間をつくるべきである。
 なぜならば、そうしないと子どもは
安心して遊べないからである。
 なるほど、と思う。

 帰りの新幹線の中、今度は座る。
 このところの疲れが溜まっていて、
あっという間に睡魔に襲われる。

 缶コーヒーが飲みたいと思ったが、
そうか、MAXは売りに来ないのである。

 我慢してただ睡魔に包まれて
そのまま上野、東京と。

 夢は野原をかけめぐる。

 自由に森の中を歩いていた少年時代は遠く。

 新幹線の中からかいま見た、
 河川敷を虫網を持って歩いていた
兄弟が、しみじみとうらやましい。

11月 4, 2006 at 05:29 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/11/03

大竹伸朗 東京芸大

急告!

大竹伸朗さんが、2006年11月6日(月)
15:35〜17:00
の東京芸術大学美術解剖学授業に
いらしてくださることになりました。

詳細は追って掲示いたします。

11月 3, 2006 at 08:28 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

モーツァルト生誕250年目の真実

モーツァルト生誕250年目の真実
日本テレビ 
2006年11月3日(祝)
21:03〜22:54

番組紹介

11月 3, 2006 at 08:23 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

日本チャイルド・ライフ研究会 仙台

日本チャイルド・ライフ研究会 仙台

こどもが主役の医療を求めて

〜こどもがこどもらしく生きるためには〜

2006年11月3日(祝)
12:30〜14:00
茂木健一郎 「子どもと創造性」
ハーネル仙台 (宮城県仙台市)

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/alcedo/Pages/12conference/pro/conf7(6)prog.html

11月 3, 2006 at 08:18 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

奇跡のリンゴ

 『プロフェッショナル』のゲストにいらした
木村秋則さんの人生は、
ドラマティックで感動的な
ものだった。

 こんなことが本当にあるのか、というくらい。

 農薬散布でご自身や奥さんの皮膚が
やられたことをきっかけに、
 不可能と言われた無農薬によるりんご作り
に挑戦して、8年間、りんごが出来ない
どん底の時代を経験する。

 その間、キャバレーの呼び込みの仕事をしたり、
東京に出稼ぎで出てきて、山谷でホームレスを
したりする。

 収入がないので、子どもたちにロクにものを
買ってやれない。一つの消しゴムを三人姉妹で
切って使うような生活。

 もうこれまで、死を覚悟し、とロープを持って岩木山に
登っていく。
 月がきれいだなあ、見下ろす夜景が美しいなあ
と思う。
 
 突然、リンゴの木が眼に入ってくる。
 なぜこんなところにリンゴの木が、と
駆け寄ってみると、それは良く似たドングリの木だった。
 それで気がついた。山の中の木は農薬を使って
いないのに、虫がたくさん付いたり、病気に
なったりしていない。
 下の土を掘ると、ふかふかとやわらかい。

 これだ!
 と夢中になって山を駆け下りる。
 死に場所を求めにいったということは
もう忘れていた。

 土作りから改めて始める。

 7年目の初夏。
 不安で、畑を見に行けない木村さんの所に、
隣りの人がやってきて、
 「おい、木村、花が咲いているぞ!」
と教えてくれた。

 おそるおそる、小屋の陰から
畑を覗き込むと、
 本当に一面の白い花が咲いていた。
 涙があふれて、止まらなかった。

 一人で、りんごの花に囲まれて酒盛りを
して祝った。
 りんごの木にも、「ありがとう」
と言いながらお酒をかけてやった。

 ついに無農薬のリンゴができた。
 しかも、無肥料である。

 木村さんのリンゴは、濃い味がする。
 甘いとかすっぱいを超えた、リンゴの味がする。
 不思議なことに、切って置いていても、
色が変わらない。
 そして、腐らない。良い香りを保ったまま、
ドライフルーツのようになっていく。

 農薬を散布する通常の農業は、結局、
畑の生態系を破壊して、モノカルチャーに
している。
 そんな中、植物はクスリ漬けになって
いる。 
 そこからできる作物は、本来の生命力を
奪われている。

 木村さんの畑には、様々な虫がいる。
雑草も生えっぱなしだから、植物の種類も
豊富である。
 しかし、その生態系が多様なため、
一つの虫が大発生するということがない。
 農薬を散布する普通の畑は、
いわば力で押さえつけている不自然な状態
であるため、
 何かスキがあると、そこを突いて
害虫が大発生する。

 一方、自然の複雑な生態系は、チェック&
バランスが働いているから、単一の害虫が
支配的になるということがあり得ない。

 豊かで複雑な生態系を保つことと、
作物を収穫するということは両立しないと
思いこまされていたが、 
 木村さんはそれが可能であることを証明
した。
 しかも、命があやうくなるような長い
暗いトンネルを抜けて。

 複雑系の制御は、農薬を使うような
単純なモノカルチャーの制御に比べると、
難易度が高い。

 木村さんも、リンゴ畑を放置している
わけではく、様々な細かいノウハウを蓄積
している。

 一般社会が、コンピュータやインターネットの
発達によって、単純なモノカルチャーから
多様性を生かした豊かなエコロジーへの
志向を強めている中で、
 農業はいつまで不自然なモノカルチャーを
続けていくのだろうか。
 
 木村さんが苦労してつくり出した
無農薬のリンゴは、
 人類に来たるべき未来への叡智を与えてくれる
 「智恵の果実」なのかもしれない。

 それにしても
 忙しい一日だった。
 収録の前に、渋谷エリアで
4件の打ち合わせ、取材。

 その他にも様々な締め切り、考える
べきこと。

 収録が終わって出てきたら、
NHK出版の「怪奇オオバタン」こと、
大場旦さんが待ちかまえていて
 「茂木さん、もうこれからは時々
NHK出版に来て原稿を書いてもらうしか
ないですね」とすごんだ。

 働く人は、みな働いている。

 木村さんとの打ち合わせの後半、
有吉伸人さんがウーロン茶に切り替える。
 住吉美紀さんは最初から飲まない。

 どうしたのかと思ったら、
10時からの「海猿」寺門嘉之さんの
回の放送対応を終えてから、
 11時から打ち合わせなのだという。

 「そうしないと、仕事術スペシャルの
スタジオ収録に向けて、間に合わないんですよ、
茂木さん」
と住吉さん。

 働く人は本当に働く。

 木村さんの気が遠くなるような畑仕事の
ことを思い、
 それゆえに可能になった奇跡に感謝し、
ぼくは目の前の木村さんに言った。

 「木村さんのリンゴ、ネットで売り出すと
10分で売り切れてしまう、ということですね。
でも、もっと高くしていいですよ!
 産直で、一個300円じゃなくて、
600円取っても、1000円取っても
いいですよ! 都会の住民からはね、
それくらい取ってもいいんですよ!
 それでも買う人はいますよ、このリンゴ。
 それで、ロールスロイスでもベンツでも
乗ってくださいよ、木村さん!」

 木村さんはカーマニアなのだ。
 日焼けして、しわだらけになった
その手で、
 好きな車を運転させてあげたい。

 農薬代とか、農業機械の料金とか
かからないからと、
 木村さんは謙虚に一個300円で売っているが、
 もっと高くしたっていいんだよ。
 都市住民からは、ふんだくっていいんだ。
 そして、もっと地方が豊かになれば良い。
 正義なる所得移転だよ。
 
 普段は感度が落ちているが、
 木村さんを前にして、それから
 六本木ヒルズ族の傲慢を思うと、胸くそが悪くなる。

 ITばかりに価値があるんじゃない。
 農薬は必要悪だとばかり思いこまされて
いたが、
 もしそうではない道があるとするならば、
私たちはそれを懸命に探し求める
べきじゃないか。
 虫たちが戻ってきたら、オレも養老孟司
さんもうれしいよ。

 やるべきことはたくさんある。
 どん底を突き抜けた明るさで笑う
 木村さんは、偉大なるパイオニアだ。

11月 3, 2006 at 08:04 午前 | | コメント (17) | トラックバック (19)

2006/11/02

プロフェッショナル 仕事の流儀 寺門嘉之

プロフェッショナル 仕事の流儀 第31回

冷静に心を燃やす
〜海上保安官・寺門嘉之〜

映画・漫画の大ヒット作「海猿」が取り上げた海上保安庁の潜水士たち。そのなかでもえりすぐりのエリートだけで構成されるのが「特殊救難隊」。海上保安官12000人の中から、わずか36人しか選ばれない海難救助のエキスパート集団である。悪天候下での救助活動や有毒ガスが噴き出す火炎船の消火など、困難な海難事故を専門に扱う。
そのトップに立つのが、隊長の寺門嘉之。36歳の若さながら、特殊救難隊に所属して10年。これまで、火炎船や困難な現場から100人近くを救い出してきた。  特殊救難隊に不可欠なのは、「救いたい」という強い気持ち。しかし、思いだけでは海難現場の修羅場をくぐれない。限界まで自分を追いつめる日々の訓練を通して、強じんな肉体と極限状況で冷静に判断する精神力を養う。被災者だけでなく、部下の隊員の命も預かる寺門の仕事はつねに重圧との戦いだ。その流儀は「冷静に、心を燃やせ」。
一年で最も海難事故が多い時期に密着。人命に向き合う極限状態の中でプロの流儀に迫る。

NHK総合
2006年11月2日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

11月 2, 2006 at 06:59 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

 自分自身の感情のマグマの方を

 天野祐吉さん。高橋源一郎さん。倉田真由美さん。
 桑原茂一さん。ヒロ杉山さん。吉村栄一さん。

 昨日も様々な方にお目にかかり、いろいろな
こと、大切な出来事があった。
 
 一日のイベントを時系列で追っていくと
眼が回る。

 編集方針を変更して、時には思い切って絞って
書くことにしたい。

 朝、ジョギングをしていると、
10月21日10月22日の日記で
書いた、
 財務省 江古田合同住宅の森の横に
パトカーが一台止まっていた。

 警察官が二人立ち会って、
ホームレスの方々が住んできたブルーテントを
撤去している。
 中野区職員らしい人たちが、
手際よく荷物をトラックに運んでいた。

 感情というものは、人生で何が起こるか
わからないという不確実性への適応戦略であるが、
 もう一つ、爆発性のあるマグマという
側面を持っている。

 このような光景を目撃した時に、
法律論、規則というもの、近隣住民の迷惑、
社会福祉制度、職権と義務、その他諸々の
状況を考えて対処するのが大人の態度
というものなのだろう。

 その一方で、抑え切れない感情という
ものもある。
 それは時には秩序を破壊する衝動にさえ
つながるもので、
 原始的で、切なく、
 うまく御さなければならない猛獣であり、
 しかし使い方を誤らなければ
この世に大いなる変化の福音をもたらす
原動力となる。

 今年度のノーベル平和賞の受賞が決まった
ムハマド・ユヌスが、アメリカの大学に留学
して博士号を取得し、故郷のバングラデシュに戻った
時に目撃した貧困。
 その時にユヌス博士が感じたであろう感情
の真摯さにこそ、
 後に「マイクロ・クレジット」運動を推進する
グラミン銀行へとつながるエネルギーの源泉があった。

 バングラデシュの社会の構造、法律、現実、
困難、自身の保身。グラミン銀行を設立できない
理由は、それこそ100以上挙げることが
できただろうが、
 ユヌスさんは自分自身の感情のマグマの方を
信じた。

 住宅の周囲の本当に美しい
森の中のスロープに「意味のない」(としか
私には思えない)フェンスが突然できた
時に感じた感情は、少なくとも私にとっては、
財務省の担当者が振りかざす法律論とか、
規則とか、慣習とか、そういったものよりも
信用できるものであって、
 また、昨日ホームレスの方々の住居が
排除されている光景を見た時にわき上がって
きた感情もそれに身を託すことができるもので、
 だからこそ、私はそれらの感情を決して
忘れないでいたいと思う。

 たとえ、取りあえず私に出来ることは
こうしてブログにその感情を記録することだけだと
しても、
 生命の営みを支えるものは規則や法律
などではなく、
 生々しくも鮮烈な感情なのだということを
これからも忘れないでいたい。

 ユヌスさんは先日来日していたようだ。

 昨日、talk dictionaryでヒロ杉山さんと
話していた時に、
 「ユヌスさんと、武富士の会長との会見を、
是非実現したかった」
と言ったら、会場の皆がどっと笑った。

 もし、自分自身が消費者金融の会社を経営して
いたり、
 あるいは自分の親戚が働いていたり、
 自分が仕事がなくなって、求人広告の
中に消費者金融の営業の仕事があったとしたら、
その時どうするか、ということはちゃんと考えるべきだ。

 その上で、多重債務で苦しむ人たちがいる
一方で、多額の経常利益を上げ、自らは富豪の
暮らしをしている会社の経営者が、
 貧しき者を助けるためにマイクロ・クレジットの
銀行を設立したユヌスさんと会った時に
どんな反応をしてどんなことを話すもののか、
 それが見たかった。

 ちゃんと相手の目が見つめられるか。
 省みて、恥じるところはないのか。
 そこに人間性が表れる。

 人間性を信じたい。

11月 2, 2006 at 06:48 午前 | | コメント (11) | トラックバック (2)

2006/11/01

モーツァルト・モード

モーツァルト・モード

昨日のNEWS ZEROで紹介された
「モーツアルト・モード」です。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000EMH9QW


11月 1, 2006 at 09:28 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

(本日)dictionary ヒロ杉山 × 茂木健一郎

talk dictionary ヒロ杉山 × 茂木健一郎

18:00~20:00 銀座アップルストア

http://www.clubking.com/news/2006/10/111.php

11月 1, 2006 at 08:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

脳の中の人生 9刷

中公新書ラクレ
茂木健一郎 『脳の中の人生』
は増刷(9刷、累計52000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121502000 

11月 1, 2006 at 08:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

イカの認知科学の問題

朝はよくNHK・FMの「ミュージック・
プラザ」をかけている。
 クラッシックの曲がかかるが、
時々発見がある。

 ここ数日、「入門曲」のようなセレクションが
多く、
 今日はラベルの『ボレロ』がかかった。

 『愛と哀しみのボレロ』のラストシーン、
ダンサーが延々と踊る場面を思い出す。

 NHKの打ち合わせの時に、
フリスクを出したら4粒しかなかった。
 一粒食べて、隣りの有吉伸人(ありきち)さんに
「すみません、あと三粒しかないのですが、どうぞ」
と置いた。
 住吉美紀さん(すみきち)は「私はだいじょうぶです」
と言った。

 フリスクが少なかったので、山の中でおにぎりを
分け合っているような図になった。

 ゼミ。修士2年の三人が、研究の進捗状況について
報告。

 このような時に的確なフィードバックを
しなければならない。
 
 一生懸命考えて、次々とコメントする。

 「箆伊さあ、リアクションタイムは取ってあるんだ
っけ?」
 
 「lateralityの問題ばかりでなくて、つまりモーター
モダリティの具体的な形を考えないといけないん
じゃないか。指といっても5本あるわけだし、足とか
顎をつかったっていいわけだし。」

 「simultaneity judgment、という出発点から
始まっているから、どうしてもsensoryという
視点でやってしまうけれども、本当にお前が
やるべき解析は、より次元が多いわけで、
motor actionのtimingをexplicitに入れないと
ダメだよね。
 プログラミングだけど、t1, t2, t3, t4の
関係は具体的にどうなっているの? そうか、
t1だけを参照するようになっているのか?
 Δtは均一分布だから、データのサンプル数は
同じなんだよね。」

 「大久保のこのゲーム、今はthree party ultimatum
と言っているけれども、prisoner's dilemmaとか、
本家のultimatumとか、何かあのようなシンプルで
的確なnamingを考えた方がいいね。
 それは、つまり、real life situationで何に対応するか
ということをきちんと考えることにもつながるし。
 jealousy gameかなあ。」

 ここで、野澤真一が、「連れ子ゲーム」というのが
いいんじゃないか、と言ったので、 
 爆笑した。

 池上高志に電話。
 「あのさあ、池上研で繰り返しゲームをやっていて
一番詳しいのは誰?」
 「オレかなあ」
 「あっ、そうか。じゃあ、大久保ふみが繰り返し
ゲームをやっているので、今度議論して欲しいん
だけど。」
 「うん、いいよ。」

 「どうすればいい?」
 「寄こせよ。」
 「わかった。寄こす。」
 「ありがとう。じゃあな、see you bye!」
 「ああ、see you bye!」

 「星野さあ、これ、object recognitionの問題
じゃなくて、ちゃんとspatialなanchorと結びつける
には、geometricalな発想から抜け出すことも
考えた方がいいんじゃないか。
 たとえば、shadingとか、light sourceとか、
そういうのをmanipulateするとかさあ。」

 白金台の「掘兼」へ。
 経営コンサルタントの波頭亮さん、
 建築家の團紀彦さんと会食。

 お二人は釣りに造詣が深く、
 聞く話がいちいち眼からウロコである。

 「イカ釣りをね、シャコでやるんですけれど、
なぜかあたりシャコというのがあるんですよ。」

 「はあ」

 「それが、色なのか、形なのか、動きなのかは
わからないのです。とにかく、なぜか、その日は
そのあたりシャコばかりにイカが食いつく。
 身がとれかかっちゃって、ボロボロになっても、
なぜかそのシャコばかりにイカが食らいつくのです。」

 「イカの認知科学の問題だなあ。」

 「疑似餌はいろいろな色があるんですが、
その時の時刻とか、潮目とかで、なぜか
ある色だけにイカが食らいつくのです。」

 「はあ」

 「しかし、その当たりの色ばかりにすると
どうなるかというと、今度はなぜかダメになる
のです。」

 「それもイカの認知科学の問題ですね」

 「水深400メートルのところから、
手動のリールで引き上げるのです。15分も
かかるのです。」

 「うわあ」

 「團さんのもぐりはすごいですよ。
水深20メートルのところで、
ヒラマサを水中銃で撃つのです。」
 
 「ひえー」

 「当たると、向こうは必死でさらに
深いところに潜ろうとするから、
 下手をすると引きずり込まれてしまう。
 手が絡んだら、一貫の終わりですよ。」

 「うひゃあ」

 團紀彦さんのお父さんは、團伊久磨さん。
 仕事場の八丈島に子どもの頃から良く行っていた
ということ。

 ビールと日本酒を少々飲み、
 途中から冷たいお茶に切り替える。

 竹内薫の出ている「ニュースZERO」
に向かうために、
 車が迎えに来た。

 乗って3分もしないうちに、
お腹が痛くなってきた。

 車を止めていただき、
道ばたのバーのトイレを借りる。

 首都高を汐留で降りるあたりで、
またお腹が痛くなった。

 日本テレビで正露丸をもらう。

 ここのところの過密スケジュールと、
冷たいお茶をがぶがぶが良くなかったの
だろう。

 秒刻みのニュース報道の現場では
段取りと進行と臨機応変のアスリートたちが大活躍。

 プロの仕事は、どんな分野でも、
見ていて気持ちが良い。

11月 1, 2006 at 08:19 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)