時の流れをポトラッチする
moonstruckという言葉がある。
Dazed or distracted with romantic sentiment.
という意味。
偶然撮影してみた月下の花の写真が
鮮やかな色を呈していることに驚愕し、
「月光写真」というライフワークに出会った
石川賢治さん。
石川さんに、東京芸術大学の「美術解剖学」
の授業に来ていただいた。
静かに、年経た樫の木のように語り出す。
コマーシャル・フォトグラファーとして
大成功し、
経済的にも恵まれ、「プロの写真家になる」
という夢を果たした石川さん。
その人生の絶頂に、転機を迎える。
仕事で訪れたハワイで、月光で撮る写真の
可能性に出会い、これが生涯の仕事と
思い定める。
物質的な豊かさの後に訪れた、
「四門出遊」のごとき覚醒。
まさに石川さんは、月に打たれたのだ。
そして、何ものかの伝道師となる。
授業を終え、皆でそぞろ歩きをする。
上野公園のいつもの場所。
見上げると半月。
植田工と蓮沼昌宏が買い出しの袋を持って
かけつける。
石川さんがプリントを取り出し、
学生たちが石川さんを囲む。
芸大の授業の後の「上野公園での飲み会」は、
セレンディピティによって発見した設いだが、
これほど心地よい時間というものは
やはり一つの奇跡であって、
いつまで続くかわからないし、
植田工も就職が決まってしまったし、
人は去り、関係は変わっていってしまうだろうが、
いつまでも覚えていることで、
「今、ここ」を定着させていくしかないんだろう。
この日記さえも、その縁(よすが)の一つとして。
夜風にふっと
尾道に引っ込んでしまった津口在五
のことを思い出して、
電話して皆で話した。
元気そうで何も変わっていない。
アイツがいた時間は、本当にどこかに行って
しまったのだろうか。
津口も、授業の後の上野公園の飲み会のことを
時々は思い出してくれているだろうか。
まだボクが学生だった時、
小津安二郎の『東京物語』を見て
たまらなくなって新幹線に乗り、
山陽本線を尾道に向かい胸を弾ませ、
千光寺公園から尾道水道を見下ろした。
ちょうど桜が満開で、うららかな陽光の
下ボクは缶ビールを買って飲んだ。
あれ以来、尾道は聖地の一つとなった。
そんなこと、あんなこと。
あの場所に今津口はいる。
渡船を渡り、島に広がるあたたかく心地よい
人のすみか。
去ってしまったものは戻らないが、
共有した時間は、きっと何かのつながり
の感覚として残っていて、
人生のさまざまな局面における
「蜘蛛の糸」になってくれているのだろう。
時間を供にするということ。
何かを「シェア」するということ。
時の流れをポトラッチ(potlactch)する。
それが親愛の情の表現でなくて、何であろう。
月に打たれた石川さんは、向き合ってきた
時間の中で掴んだ大切なものを惜しみもなく
差し出してくださった。
無理をして絞り出しているのではない。ただ、
流れ出してしまうのだ。
自分の内側に豊饒をかかえ、それがあふれ出る
人は世界に対して恵みを与えてくれる。
10月 31, 2006 at 08:13 午前 | Permalink
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» 時間と空間を越えてそこにある光 トラックバック ONO響
昨夕は月の光がさやかにて、その昔、人工的な明るさのない中で、この光がどれほど漆黒の闇に希みを与えてきたかをふと想像してみた。すれ違う人の顔すら見分けられなかったであろう暗闇に、雲間から月の光がもれ出た瞬間、足元が明るく照らし出される喜び。でも東京の住宅地の中では、どんなに暗いところを探してみても、電灯の光から逃れることはできないようだ。少し電灯が遮られている空間があったのでケータイで写してみた。
かなり無理あり。
太陽もそうだけど、月もまた、地球のどこからも眺めることができる。それは、今... [続きを読む]
受信: 2006/11/07 10:23:37
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コメント
丸一日考えました。
搾り出さないと、流れ出てこず、豊饒というほどのしっとりした恵みをもたらすほどの人格や、内面が備わっていない、私から流れ出し、
撒き散らしているのは、醜い自我と、どうでもよい意地なんだろうか。
豊饒があふれ出る人って、(今、あふれ出ている瞬間)を自覚するのだろうか、そんなこと自覚などなくてもあふれ出るから恵みなんだろうなあ。
茂木さんは、あふれ出る瞬間、ありますか?
投稿: 平太 | 2006/11/01 12:30:11
今晩は。
今夜もお月様は出ていたような気がしますが、夜中の12時になると
もう何処かへ隠れてしまわれたようです。
先ほど、茂木先生がテレビに出て(竹内さんと)いたので、とても
嬉しく思いました。私はパック中だったので、何故か気恥ずかしい気持ちになりました。(笑)
茂木先生はモーツアルトの音楽が如何に脳に良いかという説明をしていました。
私も昔はモーツアルトやショパンをよく聴いていたのですが
バッハとかヨハンシュトラウスとかも・・。
でも好きな曲が一番良いと言っていましたね脳には。
先生は『アリア』?だったかしら? 朝聞くと一番良い曲と言っていたのは。
今度聴いてみよう!
5年くらい前の私は、「天国と地獄」を定番にしていたことを思い出しました。あの曲を朝聴くと意欲がもりもり湧いて来ました。
最近は、懐メロ(深夜に販売しているヒット曲)を良く聞いています。
朝ではありませんが。中村雅俊の『ふれあい』とか聞いていると涙が出てきてしまうのです。
愛と歓喜って言葉、月を隠す黒い雲のように、今の日本にはうっすらとしか見えない月のようですね。
黒い雲が消え去って、月は愛になり、朝の太陽が歓喜になって、人々の心が清々しい朝の光のようになったらいいですね。
きっと、茂木先生はそんな力を持っているのではないかしら。
投稿: tachimoto | 2006/11/01 0:49:52
自らの中に豊穣を抱え、それが常に溢れている人…その一人が月の光でものの写真を撮るのをライフワークにしている石川さんであり、この美術解剖学の講義を行っている茂木さんである。
向き合った時間の中で、自分が大切にしているものを差し出せるなんて、欲にまみれているだけで、豊穣のない人には出来る事ではない。石川さんはそれができる数少ない人だ。
我もまた、おのれの内部に豊穣を抱え、常時あふれ出る人になりたし、と常に願う者なり。
時というものは無情に流れて行く。今、この時間、この瞬間が何時までも続いて欲しいと思うが、そんな思惑とは関係なく時は過ぎて行く。
私が、この「クオリア日記」にコメントを書けるのは、何時まで続くのだろう。そして茂木先生が忙しい日々の中の閑なる朝のひとときに、この「日記」を何時まで、書きつづけられるのであろうか。
とまれ、我々がしているいろいろな物事が、そのまま永遠に続くことはない。何時かは終わりが来る。
私が昨日行った美術解剖学講義とて、何時ピリオドが来るか分からないのだ。
ピリオドがくるのは決まっている。ただ、それが何時、どんなかたちで来るのかはわからない。
兎に角、茂木先生と、そしてさまざまな芸術家の皆様との名古屋かにして麗しい時間を共有できる幸福を、時が経って、皆様が姿を消し、私一人になる時代が来ても、豊穣なる味わいの古酒の如き思い出の一つとして、懐かしき思いと共に味わう時期は確実にやってくるものだ。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/10/31 19:31:41
>まさに石川さんは、月に打たれたのだ
この言葉に打たれました。
月の下でプリントを見る…。 石川さんを囲んで、ゆったり静かな感じですねえ。
すこし考えたのですが、体調全快でなかったのでやめました。
でも石川さんと過ごせるときはもうないんですよね。。
いつまで続くかわからない…。いつかわたしも参加したいです。
きのうの半月は、うっすらぼんやりしていて、きれいでした。。
投稿: M | 2006/10/31 9:59:32