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2006/10/29

あまり完成しすぎたものはダメなんだな。

金曜日は、『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の制作にたずさわっている人びと
(「プロフェッショナル班」)の
合宿で箱根へ。

 夕食の時間になり、椎名誠さんの
エッセイに出てきそうな古典的日本の宴会
会場へと向かった。

 有吉伸人チーフプロデューサーが、
「さあ、これからはじまるぞう!」
というやる気を見せながら、みんなを
待ちかまえる。


「宴会開始!」を待ちかまえる有吉伸人さん。

 須藤祐理さんと本間一成さんが漫才をして、
住吉美紀さんが逆立ちをした。
 池田由紀さんは、有吉さんにロンドンへの
取材直訴をして、
 山本隆之さん(タカさん)は落語家の
ごとくゆらゆらと歩きまわった。 

 二次会の席に、「松ちゃん」こと、
松本哲夫さんがいらした。
 有吉さんが「天才」と絶賛する映像編集の
プロ。
 『川の流れはバイオリンの音』など、
国際的な賞を受けた数々の作品で知られる
佐々木昭一郎さんと一緒に仕事をされてきた。

 松ちゃんは「あまり完成しすぎたものは
ダメなんだな。できあがり過ぎると、これは
いけない」と言いながら、
 自分で、「うん、うん、うん」と相づちを
入れる。

 映像の演出論。
私にとってのそのかぐわしい新知見の数々を
ビールで飲み込む。

 「松ちゃんは、見えていることが高度過ぎて、言葉に
することがなかなかできないんですよね」
と有吉さん。

 朝、起きて温泉に行く時、有吉さんはまだ
春眠のイノシシのように横たわっていた。

 その有吉さんと東京に向かって移動しながら、
演出論をいろいろと伺った。

 新幹線のこだま号は満席で、通路に立って
ぼそぼそと話す。
 
 「『プロフェッショナル』で、過去の逆境とかを
振り返るシーンで、自動車を運転しながらバックミラーを
見る、そんなシーンを使うじゃないですか。
 現在の映像に過去の内省をオーバーラップさせる、
あの手法は以前からあったものなんですか?」

 「いやあ、なぜか、車に乗っているとか、電車に
乗っている時の映像に内省的なコメントをつけると、
はまるんですよ。もともと、『プロジェクトX』の
初期に、過去の再現ドラマばかりだとドキュメンタリー
としては不満があるということで、現在の映像に
かぶせたのが始まりなんですけどね」

 「自転車を漕いでいるシーンとかだと、ダメなんで
しょうね」

 「そもそも、撮影が難しいですね(笑)。しかし、
撮れたとしても、やはり内省的コメントとは
合わないでしょうね。能動的過ぎるんじゃないかな。
電車か何かに乗っていて、午後4時くらいの光が
窓の方からぱーっと差し込んでくる、という感じだと、
過去を振り返るナレーションがぴたりとはまるん
ですけれどもね。」

 「歩いている時はどうですか?」

 「歩いている時は、それを横からカメラが追うと、
どうしてもそれが視野に入って意識してしまって不自然に
なるので、大抵の場合使えないんですよ。
 案外使えるのが、交差点で待っている時のシーンですね。
というのも、交差点には、信号や車など、目を向ける
べき対象がたくさんあるので、取材を受けている人も
それらを見ているうちについついカメラが回っている
ことを忘れて自然な立ち姿になるんですね。
 だから、ベテランのドキュメンタリー屋は、
この道を行くとあそこに交差点があるから、と計算して
カメラを回し始めるんです。
 あと、交差点で、4隅に電柱があったりすると、
こうぐるっと人物の周囲で回り込みながら撮影すると、
次々と電柱が画面をスィープするので、動きのある
絵がとれるんですよね。」

 「やはり、鏡はいいですか」

 「初期のドキュメンタリー屋がよく使っていた手は、
床屋からロケを始めることなんですよ。取材対象に、
「まず床屋に行きましょう」と誘って、そこから撮影する。
床屋には、鏡もあるし、変化のある絵がとれるんです。
あと、最初に床屋に行ってしまえば、
取材期間中、髪の毛は基本的に同じですからね。
 人物の髪の毛が次第に長くなる、というのは
自然なんだけど、今まで長かったのが、突然短くなる、
というのはヘンですから。」

 有吉さんと談義を続けながら、ゆりかもめに
乗って、お台場のフジテレビに行った。

 有吉さんの旧友の小松純也さんがにこにこと
現れる。

 東京都現代美術館での大竹伸朗さんとの
対談。
 大竹さんとは意気投合の朋友なので、
打ち合わせなどゼロでも何の問題もない。

 90分+30分はあっという間。
 まだまだ話したいことがあって、
100分の1も終わっていない気がする。

 ブルータスの鈴木芳雄さんや、
電通の佐々木厚さん、
 それに芸大の植田工や粟田大輔が
現れる。

 私の大好きな「ミスター・ピーナッツ」
の前で、
 森本美絵さんが大竹さんとのツーショット
を撮ってくださる。
 
 「もりもっちゃん」は何時もながらに
仕事が早い。

 打ち上げの席でも、大竹さんは熱かった。
 ぼくも呼応して久しぶりにかなり噴火。
 粟田も、触発されて「おれはやるゾウ」とポーズを
取った。

 粟田、やれ。
 日本の美術界の輝ける星となれ!

 経験を重ねるにつれて、闘いの仕方が、
徐々に洗練されて
行くのは自然の流れであるが、
 一番大切なのは、パッション。

 熱き思い、これぞという愛がなければ、
全ては空しい。

 人工的不自然、自己欺瞞、官僚制度、
形式主義。
 私が憎む「人間精神の敵」のほとんど
全ては、
 愛の欠如、枯渇が遠因となっている。

 だからこそ、「愛なき人」が「権力」や
「世間の名誉」に目を眩ませているのを見ると、
 若い頃は反発していたが、
 最近ではかわいそうになってしまうのだ。

 水道管をひねるがごとく愛がわき出てきたら、
この世は違った場所になるだろう。
 もっとも、愛の泉は自らの胸の中にしかない。

10月 29, 2006 at 09:45 午前 |

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コメント

愛。なんて、2、3年前までは聞くだけでこそばい言葉でしたが、
母の好きな、さだまさしさんの曲を心から聞けたときから
愛を直視できるようになりました。

愛はすべてのものに向けられる。
すべての問題の解決策なのかも。

ジョンレノンすごい。

投稿: おか | 2006/10/30 1:26:28

何をするにも、大切なのは愛と情熱。それなくしては、如何なる芸術も事業も成し遂げられない。

世間に跋扈する、愛無き者たちの、権力欲や世間の名誉欲に目が眩んでいる哀れな姿を見聞きするたび、愛の枯渇と欠如もそうだが、民や世間に対する責任感のなさも問題ではないか、と思う。

愛のないもの、責任感なきものは、いずれ、社会を侵食し、世間を狂わせ、国を滅びに導く。そういうものに哀れを覚えるのは好いにこしたことはないが、それだけではなく、厳しい態度で臨んでいかなくては、彼等のだらしのない体たらくを正すことは無かろう。

人工的不自然、自己欺瞞、官僚制度、拝金主義、弱者虐待、格差固定化など、あらゆる問題が恰もパンドラの函を開けたかのように噴き出しているこの日本社会。

それらを噴き出させている愛無き者たちの“暴走”を止めさせるのにも、正義感と共に、やはりパッションと愛がいるのだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/10/29 11:51:05

水道管をひねるがごとく湧き出るほうが良いということですか?
私は反対ですね。

ものすごく汗し、死にそうになって井戸を掘って、のどはからから。
やっとの思い出湧き出たきれいで、おいしそうな水。
それをまわりで待っていた、子供たちに最初に飲ませる。

自分の逆境や苦心の時にこそ発揮され、湧き出てくるものが愛と思う。
わずかしかないものでも、出し惜しまず、水道管ひねるがごとく
水を分け与えられるゆとりをもてたらそれが愛と思う。

簡単でないことを容易では湧き出ないものを、わけてあえればと思う。

投稿: 平太 | 2006/10/29 10:22:21

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