薔薇が咲いている庭があることさえ
Vernaと一緒に移動していると、
次第に、日本のあれこれを
英語を話す人(ないしは、他の言語が母国語だが、
日本語よりも英語が頼りの人)の目を通して
見るようになる。
新幹線のチケットに日本語しか印刷
されていないことに気付いて驚いた。
たとえば、「名古屋」「東京」という
文字しかなく、Nagoya Tokyoとは印字して
いない。
ひょっとすると、券売機で英語表示を
選んだり、窓口で英語で話していると、
「英語で印刷される」モードになるのかも
しれないが、
他の人がチケットを買ってくれる場合も
あるだろうし、
システムとしては英語の表記くらい
ないとまずい。
これでは、自分の持っているチケットの
行き先すらわからない。
日本にもっと観光客を呼び込みたいのならば、
「ようこそ日本」とか、「美しい国」などの
観念論だけでなく、
地道に小さなことを積み上げないと仕方がない。
日本は、文化的には
まだ「鎖国」のメンタリティが強いのかも
しれない。
Vernaと東京駅に降り立ち、
「ああ、いい天気だなあ」
とほっとして、
タクシーを降りたところで携帯の
電話が鳴った。
「聖心祭実行委員会のタナカ
ですが」
「はあ」
「茂木先生は今どちらにいらっしゃいますか?」
それで思い出した。
聖心女子大学の学園祭で講演することに
なっていたのだ。
Vernaと一緒にいて、ついつい頭が
エトランジェのモードになっていた。
正門に着いた時は、もう15分前だったが、
ギリギリで間に合った。
担当している聖心の授業は4月から7月なので、
10月にキャンパスを訪問するのは初めて
である。
講演終了後、実行委員会の人たちが
「一緒に写真を撮っていいですか」
と集まってきた。
3年生は、学園祭が終わると、就職活動が
本格化するのだという。
聖心祭実行委員会の人たちと。
聖心女子大学のキャンパスには、
いろいろなところにマリア像や、
宗教をモティーフにした西洋の宗教絵画がある。
いつも広尾から入る門から教室に直行し、
そのまま帰るので、
薔薇が咲いている庭があることさえ
知らなかった。
どのような環境の中にいるかということは、
知らず知らずのうちに人を変えて
いくのではないか。
その点において、聖心女子大のキャンパスで
学ぶひとたちは恵まれている。
一方、精神の砂漠にいる人は、
自分で環境をイメージし、創造するしかない。
人間は、環境に対して受け身として
だけあるのではない。
環境に影響を受けるのであれば、
それをねつ造してさえしてしまおう。
文学の可能性の一つが、その一点に
あることはふと気付けば当たり前のことではないか。
もう一つの、あったかもしれない日本の
ことを想った。
10月 23, 2006 at 06:59 午前 | Permalink
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» 茂木健一郎先生序文『蒼天のクオリア』 トラックバック 御林守河村家を守る会
拙著『蒼天のクオリア』への書評として、
「入手極めて困難な名著です!」と、Amazonのユーズド商品のサイトに書かれています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/offer-listing/-/478389597X/used/ref=sdp_used_b/249-2157088-9769113
これは著名な脳科... [続きを読む]
受信: 2006/10/23 9:55:13
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コメント
何を想像するか、ですね。
何をどう見るか。
投稿: くりおね | 2006/10/24 5:39:19
あったかもしれない日本…。
だから文学は、ときに救いになるんですねえ。
環境が自分で創造できると思えば、どんな状況におかれても希望がみえてきますね。
ねつ造、おおいにしたいと思いました。
薔薇のお庭、発見があってよかったですね。。
投稿: M | 2006/10/24 0:05:33
茂木先生のご講演の内容、ブログでのお話しを拝読し、この頃うれしく心励まされております。(この10月からブログを始めて検索していて存じ上げたばかりでございますが。)(テレビを殆どみないものですから‥。恐れ入ります。)科学者さんの執筆される普通の文章ってとてもおもしろいのですよね。精巧な脳から紡がれるのですから勿論なのでしょうけれど‥。先ほど叔母が今日の放送を拝聴し感動したと偶然申しておりました。だ~~~いすきですっ!!!!!お体ご自愛の上お健やかに、益々のご活躍をお祈り申し上げております。。。あなかしこ
投稿: sakura | 2006/10/23 20:47:27
人は周囲の環境によって、知らず知らずのうちに大きく影響をうけると同時に、その環境に対しても受身の姿勢だけ取っているわけでもない。
ときには「環境に影響を受けるならば捏造もしてしまえ」ということになるのも無理は無い。それが文学、引いては芸術一般の可能性の一つなのだろうと、私も思う。
ところで、新幹線のチケットにローマ字表記が無いとは、この日記を読むまで気がつかなんだ。何ということか!
JRの怠慢がどうのこうのというより、こんな所にも「鎖国」のメンタリティの呪縛が根強く出ちゃっているんだなァ。もう21世紀だというのになぁ…。
きょうのエントリーで茂木さんもいうように、大雑把な観念論では外国観光客は呼べない。やはり面倒でも地道な小さなことの積み重ねをしなくてはダメだ。「ようこそ」とか「美しい国」と言っているだけじゃエトランジェは来てくれないよ、ねぇ、茂木さん。
聖心祭での講演に間に合って好かったですね。実行委員会のタナカさんから連絡が無かったら…。茂木さんはエトランジェ・モードのまま帰宅していたかも(笑)。
その聖心祭実行委員会との記念写真。茂木さんもみなさんも穏やかな好い表情で映られて、とってもナイスです。
愛らしい乙女たちに囲まれる黒装束でもじゃけアタマのエトランジェ、という見かたもできますが(微笑)。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/10/23 20:18:00
生きることに真剣になること。
一生懸命になること。
自分を救うすべは自分で考えること。
創造の意味を広げて考えてみること。
ぎりぎりのところにきたこともあったけど、最近気づいたことが増えました。
そして何より、茂木さんの日記、言葉がしみていく感覚が味わえる、
そのように変化のきっかけを生み出した恵まれてはいなかった、ここ数年の環境がよかった思えます。
本当にこの日記の存在を知って幸せです。
投稿: 平太 | 2006/10/23 12:15:23