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2006/10/26

キュウリを二本、それにビール

二日前にヒンズースクワットを
やりすぎて、階段を上り下りする時痛い。

 もうしばらくフルマラソンを走っていない。
 翌日、太ももが痛くて、
ゆっくりと歩いていたあの頃を
もう一度取り戻すために。

 人間が自分の置かれている文脈に
よって変わることはもちろんであり、
 ひとりの力ではどうすることもできない
ことも多い。
 
 モーツァルトが、大阪の道頓堀に
生まれていたら、
 作曲するにせよ、全く異なるモチーフの
ものを生み出していたろう。

 文脈について考える時にいつも
思うのは、お店のこと。

 どれほど商品やサービスを充実させて
いても、その店がある場所が人通りの
少ないところだったら、商売は苦しい。

 逆に、多くの人が通り過ぎる場所の
店は恵まれている。

 夜、ものを考えながら久しぶりに通る
道を歩いていると、
 かつて馴染みの店があった。
 ふだんからあまり人通りはない。

 普通の酒屋さんだったのだろうが、
今はコンビニ風に改装している。

 最後に訪れた時には雑誌置き場だった
場所に、野菜が置かれている。

 最近、近くにコンビニチェーンがたくさん
進出している。
 この店の経営者の夫婦の間で、
雑誌のかわりに野菜を置こうと相談した、
その会話の趣意を想像することができる。

 なんだか切なくなってしまって、
入ってキュウリを二本、それにビールを買った。

 さてさて私という人間がヒンズースクワットを
すると、
 太ももの筋肉細胞は「うわー来た!」
とアクチンフィラメントとミオシンの間に
すべり運動を起こし、
 血液が流れ、カルシウムが放出され、
 「ヒンズースクワット」という
自分たちが投げ込まれた文脈の中で
必死に活動しようとする。

 多細胞生物も、人間社会も、
文脈を引き受けた活動という切なきダイナミクス
なしでは成り立たないなり。

 札幌に日帰りした。
 タクシーの運転手が、ずっと日本ハムの
話をしていた。

 夜の仕事で、東山紀之さんに会った。
 姿かたち、歩き方、圧倒的に
かっこよかった。

 姿も一つの才能なり。

 人はみな、自分の置かれた文脈の中で
生きるしかない。
 
 身長が150センチメートル台だっという
モーツァルト。
 ピアノの一オクターブも届いたのだろうか。

 天才の間違いないメルクマールの一つは、
自分の置かれた文脈の中で必死に生きることなり。
 時には、文脈をねつ造さえしても。

10月 26, 2006 at 07:14 午前 |

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コメント

文脈のなかを必死に生きる才能。。
それを毎日こなす茂木さんも、確実に天賦の才ですね。
しかもフルマラソンを走ってらしたとは…。尊敬いたします。

酒屋に野菜は、切ないですね。
知り合いの酒屋もコンビニの波に飲みこまれて久しいのですが、
こんどはコンビニの生存競争にまわりの商店が影響を受ける形に。。
小さな商店には頑張ってほしいです。


ダイナミクスというのは、切ないものなんですね…

投稿: | 2006/10/27 1:13:40

“人生”とはその人に与えられた“文脈”のことであり、人間はその与えられた文脈の中で必死に生きるしかない、とフラワーピッグはいう。

しかし、人間は人生という「文脈」の中に閉じこめられているだけだ、と思うと、精神的な広がりが出てこないのではないか。

確かに人間は自分の置かれた文脈の中で生きているのかもしれない。しかし、「文脈の中で生きる」と人生を捉えると、何か、自分自身が檻の中に閉じ込められたような感覚を覚える。

如何に“個々の人生”という「文脈」に閉じ込められていても、ココロは宇宙大であり、無限に広がるものだと考えて生きるのが、少なくとも銀鏡子の性にあっている生き方だ。

そう思って生きないと、ある意味、閉塞感にとらわれてしまう。

仮に「文脈」の中で必死に生きるとしても、ココロの中に宇宙を見つめ、その広がりとココロの広がりを共に見つめ、宇宙即我=我即宇宙、と観念して、一度しかない人生を真剣に生きる、それが「生きる」ということなのではないかと銀鏡子は思うのだ。

肉体は「文脈」の中にいても、ココロは宇宙に向かっている。宇宙を観念し、人生を生きるのが「生きる」という事なのだ。

少年隊の東山紀之さん、あのスタイルを維持するのに、相当な努力を払っているそうな。

ヒンズースクワットも毎日100回以上やっているんだろうなァ。東山さんも自身の「かっこいい人生」という「文脈」の中で生きて居るんだろうね。

話は変わって、茂木先生の歩いている近所にもコンビニが増えている。うちのちかくにもコンビニがあるし、以前酒屋だったところがコンビニに変身している。何処へ行ってもコンビニ、コンビニ、コンビニ!

ひょっとしたら、その街の個性がなくなっているのは、コンビニの乱立にあるような気がする。

その中には客が入らず潰れてしまった所もあるし、繁盛しているところもある。

酒屋がコンビニになったところは客もまばらで、とても繁盛しているとはいいがたい。

そのコンビニの経営者も、人生の文脈の中で日々を生きている。

なにはともあれ、お互いに個々の人生を、自在に生きて行きたいものです。

長文乱筆お許しあれ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/10/26 19:30:42

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