あめ玉
ふと気付くと、不思議な気がする。
次から次へとさまざまなことに熱中している
今の状態は、子どもの頃、野山に分け入り、
いつどこから飛んでくるかわからない
蝶を待っていた時の感覚に
似ている気がする。
捕虫網を持ってこそいないものの、
その気になれば、上から照らすかんかん照りの
太陽や、そよぐ風が感じられ、ざわざわと揺れる
木の葉の音まで聞こえる気がする。
行きの新幹線は食べ物飲み物断ちだった。
ひたすら仕事を続けた。
眠りもしなかった。
帰りの新幹線は、弁当を食べ、ビールを
飲み、それから眠った。
ちょうど、田谷文彦が京都にいたので、
さそって一緒に帰った。
紫野和久傳の弁当を大丸の地下二階で買った。
本当は、どきどきだったのだ。
売り切れているんじゃないかと、
エスカレーターを急いだ。
二段弁当は一つしかなくて買えなかった。
和久傳の弁当
ボクが何故和久傳の弁当を愛してしまった
かというと、
とてもすっきりしていて、変に凝っていず、
しかしその背後にしっかりとした仕事の
積み重ねがあることが実感されるからだ。
味付けもあっさりしていて、一つひとつの
素材の力が引き出されていて、
全体として、まるで現代アートの作品のような
統一感がある。
褒めすぎのように感じる人がいるかも
しれないけれども、
クオリア原理主義者として、和久傳の弁当には
固有のユニークなクオリアがあることを
証言いたします。
そもそも、文学でも絵画でも映画でも音楽でも、自らの最上の芸術体験を振り返って見れば良い。そこに立ち上がってくるのは、どんな言語にも意味にも構造にもましてや機能にも置き換えられない、一つの印象=クオリアなのではないか。そのクオリアは、言語化やシンボル化を拒絶してはいるものの、他とは明確に区別が付く、ユニークな個物として確かに捉えられているのではないか。
たとえ言葉にできないとしても、ある作品にはその固有の印象があり、人格のようなものがある。そのことを知らない芸術家は一人もいまい。
茂木健一郎『クオリア降臨』(文藝春秋)より
ごちそうさまし、田谷に「眠るね」と
言ってから、目を閉じた。
眠りに落ちる時は、いつも心地よい。
死というものが、永遠の眠りだとするならば、
本当は心地よいものであるはずなのではないか。
ひょっとすると、眠りに入る時の心地よさは、
意識を失うことに対する懸念、恐怖をなだめる
あめ玉のようなものか。
この日記は、文体や雰囲気をいろいろ
工夫している。
徳間書店の本間肇さんがテーマごとに
まとめて下さった過去の「クオリア日記」
のゲラを読んでいたら、自分で言うのも何だけど、
とても面白く、
思索的なところの読みでがあったので、
少しそのような部分も増やそうかと、この所の
会話中継主義とは少し違うスタイルを時々試みて
みようかとも思う。
朝日小学生新聞の講演が終わった後、
九州大学の目黒実さんと打ち合わせをした。
薄羽美江さんもたまたまお仕事で京都に
来ていて、講演会場にいらしたので、
目黒さんにご紹介した。
Children's museumという共通の接点が
あったので、
お二人は大いに意気投合した由。
癒しというのは、全体性を回復することだから、
前のめりの現代人は、少し昔のことを思い出す
と良い。
今度新幹線で眠る時は、子どもの頃
野山の中で捕虫網を持ち、
空気のふるえに耳を澄ませていた、
あの時間の流れのことを思い出してみることにする。
10月 2, 2006 at 04:57 午前 | Permalink
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コメント
あの時間の流れのこと…
に、想いをよせて、
しばし、目をつむってみることにいたします。
申し上げることもなき
静かな、ときの流れがあるようなないような…
このここちを、ひとは何と言うのでしょうか…
投稿: 風待人 | 2006/10/04 8:24:37
朝日小学生新聞の講演お疲れさまでした
そして。ありがとうございました
覚えておられないかもしれませんが
楽屋から舞台上手に上がる階段でカメラとiPOTを持ってた者です
ホントに突然でしたが
近くで話しかけてももらって嬉しかったです
講演内容もそうですが
舞台に登場する前の時間の茂木さんの行動も
失礼かもしれませんが親しみを覚えました
人は人と出会っていくと言うけど
知ってる限り煩わしくしたたかなものだらけだけど
なんか出会わせていただいたと思いました
ありがとうございました
そしてこれからも多方面のご活躍を期待しています
失礼ついで?に
もう一言
茂木さんって僕も大好きなアーティスト
ムーンライダーズの鈴木慶一さんに似てるなぁと思いました
m( )m
投稿: hatabo | 2006/10/03 0:16:37
死ぬときは
本当に眠ったまま死んでしまうのが一番いいですね。
それも、人間ではなく、鳥だったらいいなぁ、と思います。
それか虫でもいいかもしれない。
少しは、悲しんでくれる友人がいるかもしれないけど、人間が死ぬ時は色々ややこしいし。
ぱっと、死んじゃって、他の動物に食われてしまって、後は土に帰るのがいいなぁ。
人間って、きっと死ぬときが一番大変で、周りに迷惑を掛けて、一大事で、悲しくて、壮絶で、そんなことを思うと、知らぬ間に、あの人はどうも死んだようだね、なんてさりげなく死ぬのがいいかもしれない、なんて思います。
けれど、写真にあるようなオイシイお弁当はを味わえるのは人間だけの特権ですね。
人間には、多くの幸せな出来事が用意されていますが、生きて行くのはホントに大仕事だと今日この頃は考えてしまします。
人間はこの世界で特別な生き物なのでしょうか?
投稿: tachimoto | 2006/10/03 0:06:59
どうも前につんのめりがちな現代人。いっそ茂木先生の言われるように、昔のことなどを思い出してみるのも、癒しの為には一興だろう。
私も公園でありんこ達と戯れ、ダンゴムシを拾って遊んでいた子供時代を思い出す。
あのころは、自分がいまのように自然と隔離している状態でなくて、もっと空と空気と、木々と地面と一つになっていたような気がするのだ。
土から、空気から、緑からなかば切り離されてしまった現代人に残された、数少ない安らぎの瞬間のひとつは、眠る時に味わう心地よさと、昔のことを思い出すときの懐かしさに癒される時だったりして。
飴玉のように心地よく甘い、眠りの時が、今夜もまた我等の前に訪れる。
眠りが心地よいように、死も本来、心地よいもののはずに違いないのだが、その人の境涯によるだろう。
投稿: 銀鏡反応 | 2006/10/02 19:47:13
私も土日京都にいました。比叡山延暦寺の居士林研修に行ってきました。土曜日時間が余って八坂神社と清水寺を回って、京都はもう十分と思っていたのに、研修が終わってみると京都にまた来なければという気持ちがわかったような気がします。
投稿: エミコ | 2006/10/02 13:08:36
京のいっとき
第一回 朝日家庭教育講演会に参加することができ、実りの一日と、なりました。
凝縮された時間が、意識を変える実体験でした。
公演後 リュックの王様は 赤い携帯を打ちながら 駆け抜けて行かれました。
行く先は、和久傳のお弁当 だったのですね。
投稿: 一光 | 2006/10/02 13:06:51
茂木先生、先生は子どもの頃、野山で大地にふれ、太陽の光を浴び、風を受け、蝶を観察することよって、宇宙を感じていたのですね。そしてそこに大きな愛があることも感じていらした。もの作りをきわめた人もまた、宇宙の法則を感じているのではないでしょうか。モノには愛があるものとないものがあると思います。たとえばコンビ二弁当には愛がありません。ひとつひとつの惣菜は人の手で作られたとしても、それらは流れ作業で別々の容器に詰められ、出来上がった弁当全体に何の調和もありません。コンビ二弁当とは比べられませんが、和久傳のお弁当は、折がひとつの宇宙だとしたら、職人さんが、宇宙の法則を折の中に完成させているのだと思います。そしてそこには愛があります。先生はそれをお感じになる。。。
昨日京都で先生の講演を聞かせていただき、蝶に熱中して野山をかけ回っている子どもの頃の先生の姿を思い浮かべながら、都会の中で、親の期待に応えることだけに一生懸命で、熱中できるものを見つけられなかった自分の幼少時を思い出し、わが子への接し方を考えました。
投稿: 田井 花奈 | 2006/10/02 11:28:57
茂木先生、先生は子どもの頃、野山で大地にふれ、太陽の光を浴び、風を受け、蝶を観察することよって、宇宙を感じていたのですね。そしてそこに大きな愛があることも感じていらした。もの作りをきわめた人もまた、宇宙の法則を感じているのではないでしょうか。モノには愛があるものとないものがあると思います。たとえばコンビ二弁当には愛がありません。ひとつひとつの惣菜は人の手で作られたとしても、それらは流れ作業で別々の容器に詰められ、出来上がった弁当全体に何の調和もありません。コンビ二弁当とは比べられませんが、和久傳のお弁当は、折がひとつの宇宙だとしたら、職人さんが、宇宙の法則を折の中に完成させているのだと思います。そしてそこには愛があります。先生はそれをお感じになる。。。
昨日京都で先生の講演を聞かせていただき、蝶に熱中して野山をかけ回っている子どもの頃の先生の姿を思い浮かべながら、都会の中で、親の期待に応えることだけに一生懸命で、熱中できるものを見つけられなかった自分の幼少時を思い出し、わが子への接し方を考えました。
投稿: 田井 花奈 | 2006/10/02 11:26:20
「村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋のゆふぐれ」(新古今和歌集)。
クオリアってこのようにふいに立ちのぼる情景なのでしょうかね。感動や情動は自分で制御できずに、立ちのぼるという形でしか出会えないから、その時間が大切なのでしょう。この前、立ちのぼったのはいつだったかなあ。
投稿: 五十嵐茂 | 2006/10/02 8:27:30
ヨーガの休息のポーズは、「屍のポーズ」と呼ばれています。激しく心肺機能を使った後の、副交感神経を最大に働かせるたものもの、と30年以上前に道場で習いました。初心者にはこれが、とても気持ちが良いらしく、ウトウトと眠りと陶酔の感覚に全身が満たされてゆく感じです。しかし、長年、ヨーガのポーズをやっていると、その陶酔感は失せてしまいます。あの感覚に似たものは、集中と喜びのある疲労の後に、たまに感じることがあるくらいです。
茂木先生が今日書かれたことは、写真のように私の中の感覚の描写として、目に飛び込んできました。
投稿: 内嶋 善之助 | 2006/10/02 7:38:29
昨日は京都で、講演を聴かせて頂きました。
貴重なお話をありがとうございました。
益々言われていること、書かれていることに興味が増しています。
今後の活躍を期待しております。
まずは昨日のお礼まで。
なお、僕のブログにて昨日の内容をアップしています。
間違いがあれば、よろしく御指摘して頂きたく思います。
投稿: eaglei | 2006/10/02 6:19:12