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2006/08/23

一つひとつの「部分」をあるやり方で

ロシアに来ても結局
時間に追いかけられていて、
 日本にいたときと余り
かわらない。
 
 今日は田谷文彦が
発表。
 明日はぼくと田森佳秀の発表が
ある。

 いつもと違うことがあると
すれば、人間というのは
歩いたりご飯を食べたりする時に
どうしても周囲の環境に影響される
ものだから、
 その時に立ち現れるものに
おいてだろうか。

 ちょっと、その当たりのことを
振り返ってみたい。

 エルミタージュ美術館の中を
歩いている時、いろいろな
ことを考えた。
 様々な作品の性格や、
ロシアというもの。
 あるいは、美術館という制度。

 玉座の間をブルータスの鈴木芳雄さんや、
写真の森本美絵さんたち、それにガリーナと
歩いていたとき、ふと不思議な思いに
とらわれた。

 その空間には、確かに皇帝が人々を謁見する
のにふさわしい「クオリア」があるように
感じたが、それはどのように
構成されているか。

 玉座の間のドアの金の装飾を
拡大しても、
 美しいことは確かだが、
大国の皇帝の威厳には届かない。


「玉座の間」のドア(部分)

 一つひとつの「部分」を、あるやり方で
積み上げていった時に、初めて
ある興味深い全体が生まれる。

 その際、単なる結晶構造のように、
あるいはアモルファスな構造のように
積み上げてもダメだし、
 フラクタル次元のような単一
パラメータで記述されるやり方でも
だめである。

 もともと、クオリアは、個物が
関係性を積み上げると、いかにそこに
新しい実体が生まれるか、という問題である。

 色においても、すでにcolor constancyに
示されているようにそのような
メカニズムが顕れているが、
 ダ・ヴィンチやゴッホの傑作においては、
部分から全体への積み上げが、
 よりnon-trivialな形で行われている。

 それは、小説などでも同じで、
たとえ全体がある均一な気分で満たされる時でも、
部分の単なる繰り返しが全体なのではなく、
 ある有機的な構造がなければならない。

 そのようなプロセスを通して、ある
クオリアが生まれる。
 玉座の間の、ダ・ヴィンチの、そしてゴッホの
他と比較して間違いようのない印象が生まれる。

 その印象を生むのは、無意識のプロセスを
全て含めた意味での「文脈」ではあるが、
 故事来歴とか、市場での評価とか、
容易に言語化できるような「文脈」を通して
定義づけられるものではない。

 通常言われるような「文脈」は、
上のような意味でのクオリアを特定するには
粗すぎる。
 
 だからこそ、
クオリア原理主義なのである。

 写真を二つ送っていただいた。
 

ダ・ヴィンチ「ブノワの聖母」を見ているところ
(撮影 鈴木芳雄)

マチス「ダンス」の前で田森佳秀と。
(撮影 田谷文彦)

 夕食の時、田森佳秀がギロンを
始めた。
 学会にくると、大抵こうなる。

 北方4島の問題や、中国や韓国との
問題。

 田森はこういうことに関して常々
strong opinionを持っていて、
 ちょっとエキセントリックに聞こえるのだが、
それなりに筋は通っているのだ。

 田森は、しきりに、
「隣国が日本のことを悪くいう教育を
ずっとやっているのはよくない。
日本やロシアはそういうことはないじゃないか」
とガリーナに訴えていた。

 なるほど、それはそうかもしれない、
と思った。

 ぼくはと言えば、できるだけユーモア
をもっていなすのが好きで、
 「ロシアの人は南に来たいと
思っているんだから、もっと北の島
だったらくれるかもしれない」
とか、
 「目の前に中国人のかわいい女の子が
来たらどうするんだ?」
とか田森にジャブを出しながらウォッカを
飲んだ。

 後の質問に対する田森の答えは、
「あっさり意見を変える」
「オレはプライベートの問題を優先するんだ」
と田森。

 こういうところが田森の信用できるところである。

 私は、常々、
 隣国のことをわるくいって澄ましているひとを
みると、
 きっと隣国とつきあわなくてもすむ人なんだな、
と思っている。

 同じ人間、何らかのかかわりがあったら、
そう簡単に切り捨てられるものではない。
 日本は島国だから、ときどき自分たちだけで
やっていけると思う人たちが現れるが、
 実際には世界は相互依存していかないと
やっていけない。

 芸術も科学も人生も大切なのは
何が実際にこの世界で働いているかを
ありのままに見る目であって、
 小さな世界のファンタジーをつくりあげる
ことではないと思う。
 
 玉座のクオリアをつくりあげるのは、
細部から全体に気を配る職人的気質であって、
 単なる大言壮語ではない。

8月 23, 2006 at 11:20 午前 |

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『茂木健一郎 クオリア日記』を読んでいて、茂木さんの「クオリア」観が、どこかで、インターネットにおける「群衆の叡智」観につながるような気がした。 2006/08/23「一つひとつの「部分」をあるやり方で」 http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/08/post_d370.ht... [続きを読む]

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雑誌好きです。 毎月かなり買ってしまいます。雑誌貧乏です。 立ち読みで済ませれば... [続きを読む]

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コメント

目の前に中国人のかわいい女の子が来たらどうするんだ。

あっさり意見を変える。
オレはプライベートの問題を優先するんだ。

なんだかふにゃふにゃしているようで、とても力強い
ほっとするような会話でした。

投稿: mori | 2006/08/24 9:55:01

NHKのプロフェッショナルをいつも拝見させて頂いております。カナリアです。
大きな成功の裏には、大きな挫折と困難があることに気がつかされ感動しました。
私は閃くとき、まさにこのクオリアの状態で、頭の中が回転しているように思えます。
私は精神病院で入院期間中、何度も、ゴッホの絵を見ては、涙が込み上げてきました。
ゴッホの絵は、見ると何故か熱いモノが込み上げてきて、慈愛に似た感覚を味わいます。
もちろん、茂木先生が実際にヨーロッパで閲覧なされた絵とは比べ物にならない代物かもしれませんが、僕はゴッホに自分と近いものを感じてならないのです。
私も小説を書きますが、書くときは殆ど、閃きでディティールにこだわって書いていません。
書き終わった後、閲覧してみると、確かに抜けているところがあって、満足いく作品には出来上がっていません。
恥ずかしながら、教養のない私ですが、それでも書くときは、必死で何かを伝えたい思いで書きます。
よく、自分はどういった小説を書けばいいのですかと人に聴く、若者が居ますが、そういうならば最初から書かなければ良いのにと思って何を考えているのか疑問に思ってなりません。

ゴッホの絵は、見ただけで良く観察されているのがわかるし、秩序というものがあるのだということを知っているのではなく、ひとつひとつのタッチに動機があり、それが有機的に結びついていて、それを知っているのではなく、私のおかしな精神世界の壺に嵌ってしまっちゃうのです。
私の知人の70代の画家が実際に、絵に実在する教会に行ったとき、ゴッホのあまりの絵の正確さに驚いたと言っていました。
私の眼力では見定める力はありませんが、ユングの言った太古類型でゴッホの絵と自分が惹きつけられるような気がしました。
ディティールをクオリアで描く為には経験が必要だと思うし、ゴッホの絵には描かなければ気がすまなかった本能というか、壺があるように思えてなりません。

投稿: カナリア | 2006/08/24 5:13:33

玉座の間のドアの一部、おもしろいです。
細部と全体、アハでした。

ふたつめの聖母は、ものすごいところにはめ込んであるんですね。
額といっていいんでしょうか・・すごいです。
前の聖母はガラス張りのようでしたが、こんなに近くで見れるなんて。
お二人のダンスも楽しそう

隣国を悪くいって済ましているひとは、隣国とつきあわなくていい人・・
自分とかかわりないと思うと、いろいろ言えてしまえるって、いやですね。気をつけなくちゃです。


投稿: M | 2006/08/23 22:25:06

初めまして、恐縮ですがコメント致しました。茂木さんの文章を読むと、とても平穏な気持ちになります。有難う。ご健勝を。

投稿: βville | 2006/08/23 20:59:48

難しい単語とか、あって日記意味することがすぐにわからないことがあります。
そんな時、少し、情けなく、悲しくなりますが、読みこなせるようになりたいと思います。

わかる部分については、たくさんいいなあ。と思うから。


投稿: 平太 | 2006/08/23 20:35:08

古いもの――骨董・アンティークが好きで、それらを鑑定する番組をよく見る。
そこにおいてポンポンと、キャッチボールのようにやりとりされるのは、残念乍ら茂木さんのいう「無意識のプロセスを全て含めた意味での『文脈』」などではなく、まさに通常的な意味での「文脈」――それは故事来歴、市場での評価とかいった、容易に言語化できるもの――でしかないのであって、有機的な構造からなる生き生きとしたクオリアには、あまり振れていないように思える時がある。

ある古いものを見つめる時に感ずる、生き生きとした生物感に溢れるクオリアを、くだんの鑑定番組は語っていない。語れるはずがない。ただ、簡単に容易に言語化できる「文脈」だけが、この番組では繰り返し語られるだけだ。

本当の目利きとはその芸術や骨董品にまつわりつく、単なる言語化可能な文脈にのみ依存する人ではなく、無意識のプロセスを全て含めた意味での文脈の組成からアウラの如く発生する、瑞々しい、生き生きとしたクオリアこそに、感応し、感動し、感嘆できる人のことを言うのだと思う。鑑定額がどうのこうのとかは全く関係ない。たとえ鑑定額が100円ぽっちの者であっても、その中に生命活動の如きクオリアを見出せれば、そのひとこそ本当の“目利き”ではないか。

さて、昨今のこのせせこましい島国をみていると、何故か改憲論とか、やれ、国家の品格うんぬんとか、やれ、日本の伝統を守りましょうとか、美しい日本の魂をとりもどしましょうとか、どうも自分達だけの小さな世界に引きこもろうとする、つまり、自分達だけでもやっていけると錯覚し、隣国に嫉妬でもしているのか、兎に角悪く言ってばかりの人間を多々見かけるようになった。

隣国とつきあわなくてもすむ人達を、この島国で増殖させようとする向きが、大手を振って、あるいはこそこそと動き回っているのをそこはかとなくではあるが、ヤケに感じるようになった。
そういう人達は、きっと、茂木さんのこれもいうように、小さな世界のファンタジー(いうなれば“日の丸”ファンタジー)を作り上げ、そこへ日本人を引きこもらせようとしている連中なのだろう。私はそこに、“何時か来た道”に再び、我々民衆を引きずりこもうとしているある種の醜い“たくらみ”を見てしまうのだ。

本当は、この世界にて、何が実際に動いているかを曇りなくありていのままに見る目が必要なのに、そんなものはいらないと言わんばかりの人々が“大言壮語”をスモッグのように振りまいている。
そんな向きが増殖している今日の日本に、如何にしてありのままに世界で動いているものを見ていくか。また、如何に細部から全体に気を配る職人気質を守っていくか。
未来を生きる私達の一つの課題が、ここにある。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/08/23 19:36:24

うわ~、マティスのダンス!
私もNYのMoMAだったかなぁ、大きなダンスの絵を見て
色彩や躍動感に圧倒されました。マティスのダンスの前だと
生身の茂木さんと田森さんのほうが、なんだか、静物になって
しまうのは気のせい?!

マティスのダンスも好きだけど、窓のある絵もとても好き。
いつか、エルミタージュ美術館、行ってみたいなぁ。

投稿: フ~シャン | 2006/08/23 13:00:37

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