« プロフェッショナル 仕事の流儀 小柳栄次 | トップページ | (本日)朝日カルチャーセンター 『脳と映画』 »

2006/08/04

もの言わぬもの

名古屋からのぞみで
帰り、
 早稲田大学で集中講義の最終日。

 レクチャーをするのは好きだ。
 いかに、自分たちが普段前提にしているような
暗黙知を、形式知、明示的な知として
提示できるか。
 
 前のめりに進んでいくという
だけでなく、
 後ろに下がって背景から現れて
くるものを言葉に直していく作業。

 私に授業をするようお誘いくださったのは
国際教養学部の内田亮子教授。
 内田さんは進化生物学がご専門で、
Terrence Deaconが日本に来たとき
初めてお目にかかった。
 
 教養はLiberal Studiesだが、
人格を陶冶することはますます重要に
なってきているのではないかと思う。

 最近になって「人格」の問題にとみに
興味が出てきたのは、それが
「私」という有限の存在が世界に向き合う
形式だと思うからである。

 「私」という意識が世界に向き合う
時、そこに人格が現れる。
 単に世界を受動的に認識する
だけでなく、働きかけ、
 不確実性を乗り越え、
投企していく

 ところが、人格は世界の中で
簡単には流通しない。
 インターネットの登場によって、
人々の中から、単離し、切り売りできる
リソースはどんどん流出するが、
 人格はそう簡単にはふわふわと
飛んでいったりはしない。
 
 しかし、ある人に出会って
一番印象に残るのは「人格」
であるし、
 自分自身の「人格」
を一つの芸術作品として
完成させる、というのは
全ての人の野心で良いのではないか。

 肝心なことは、そしてしみじみ
嬉しいことは「人格」に正解は
なくさまざまな形があり得るという
ことだろう。

 三鷹の天命反転住宅へ。
 ニューロマーケティングの
研究会。

 neuroeconomicsの人間知
全体の中における位置づけを
議論した後、
 ビールを飲みながら話を続けた。

 作家の大竹昭子さんにご紹介いただいた
写真家の大森克己さんとお話する。

 作品を、いくつか拝見した。

 写真が世界と向き合う形式だとしたら、
そこには人格のオーラが反映されるの
かもしれない。

 人と人との出会いというものは、
実に、それぞれが銀河くらいうわーつと
でかい人格宇宙どうしの衝突
なのかもしれない。

 今日も、社会の中で大星雲と星団が
ぶつかり合っている

 うわあ!

 ぼくは人格の美しさと奥深さを
何よりも求めてやみません。

 つまりは、インターネットに溢れる
偶有性の海に自分を投企するとともに、
容易には流通しない、もの言わぬものたちに
心を寄せたい、ということであります。

 1998年のクリスマス頃書いていた、
『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)の中の一節を
思い出す。

 船は、那覇港を目指して航行していた。私は、那覇がビルの林立し、車が行き交う、文明の都であることを思い出していた。私は、渡嘉敷島に残してきた「もの言わぬものたち」を思い出しながら、暗然とした気持ちになっていた。その時の私には、人間が操作し、管理することのできる人工物=「言葉」に支えられて運営されている文明に対する違和感が非常に強く感じられていた。 
 船が那覇までの行程の半分ほどを過ぎた頃であろうか。船の後方を振り返った私は、意外なことに気がついた。渡嘉敷島もその一部である慶良間諸島の島影が、水平線の彼方におぼろげながら見えていたからだ。心の中で、「文明」の世界への再突入の準備をしていた私にとって、慶良間諸島の姿がまだ見えていたことは、新鮮な驚きだった。
 それから三十分くらいの航海の様子を、私は忘れることができない。船の前方には、次第に那覇の港が近づいてきていた。大型船、小型船が行き交い、灯台が見え、浮標が点在し、海面にはオイルが浮き、飛行機が上空を飛び、そしてビル群はますます大きく見えてきた。これらのものが、「文明」を構成する「言葉」であることが、その時痛切に私の胸に迫ってきた。好きであれ、嫌いであれ、私たちの文明は、これらの「言葉」、私たちが作り出し、流通させ、操作する「言葉」から成り立っているのである。一方、船の後方には、なつかしい慶良間諸島の島影が見えていた。その姿は、自然が数十億年かけて作り上げてきた豊かで多様な世界、それにも関わらず私たちの「文明」という言葉のネットワークの前では、「もの言わぬもの」、「流通しないもの」であるものたちの世界を象徴していた。その時の私には、那覇と慶良間諸島が代表する二つの世界が、私の乗った船から同時に見えたということは、きわめて意味深いことのように思われたのである。
 船が那覇港に着いても、慶良間諸島は依然として洋上遥か彼方に見え続けていた。私は、「言葉」以前の、「もの言わぬものたち」があふれる世界から、「言葉」が飛び交い、流通するものがあふれる文明の世界へと戻ってきたのである。
 人間にとって、「言葉」とはマルオミナエシの貝殻のようなものだ。「言葉」は、私たちの生の痕跡の、ほんの一部分の、不十分かつ誤謬に満ちた証人に過ぎないのである。それにも関わらず、人間は「言葉」にすがって生きていかざるを得ない。「言葉」という貝殻に、必死になって自分の人生の模様を書いていくしかないのである。
 だが、もの言わぬものたちが存在しないわけではない。
 私は、蟻の様子を見るのが好きだ。蟻が巣をつくっているのを見るとき、その動作の不可思議さが私の心を強くとらえる。今、この特定の場所、特定の時間に、蟻の足の下にある砂の様子や、草を揺する風の動きや、それらを全てを照らしだす太陽の光がどうしてこのような形で世界の中に現れたのか、不思議な感じがする。そのことは、どんなに科学が発達しても決して解くことのできない謎である。
 私の心は、もの言わぬものたちとともにある。

茂木健一郎 『生きて死ぬ私』
(ちくま文庫) 

8月 4, 2006 at 08:40 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: もの言わぬもの:

» [格と器]もの言わぬものたちへの心の寄せかた トラックバック 三上のブログ
いままで何度か人間の「格と器」について書き留めてきました。それには私自身の経験はもとより、梅田さんによるシリコンバレーのVCにはベンチャー経営者を評価するための人格データベースのような知恵の図書館があるらしい、という指摘やドキュメンターリー映画『六ヶ所村ラ... [続きを読む]

受信: 2006/08/04 12:10:32

» 弱い舟 トラックバック 雑念する「からだ」
茂木さんのブログ「クオリア日記」を拝見していたら、「もの言わぬもの」と題して、言葉について書かれていた。 その中でご本人の著書である『生きて死ぬ私』(茂木健一郎、ちくま文庫、2006)の中の一説を取り上げている。 『船の前方には、次第に那覇の港が近づいてきて..... [続きを読む]

受信: 2006/08/04 21:47:55

コメント

いつも読んでいます�B
今日は�A福井はお祭りです�B�J�i�_とは言わず�A福井に来てください�B(笑)
21で�N業してわずか二ヶ月で早くも壁にぶつかっています�B
何でも自分の小さい�m識の中で解決しようとしてしまう�Bそして�A
やりたいこと�Aできること�A課せられたこと�Aその�Mャ�b�vが大きいと自分に失望し�Aそして周りに原因を�Tそうとしてしまいます�B
�Sての原因は自分なのに�Bすこーし�Cを�yにして�A毎日を過ごしたいですね�B

めちゃくちゃな文ですみません�B

投稿: 美�H | 2006/08/05 10:59:24

ネットをあり難がる風潮がひろまって久しいが、ネットというのは飽くまでも、切り売り可能な情報(若しくはコンテンツ)が流れる「インフラ」でしかなく、それを「文化」などといっているのは、いわせてもらえば噴飯ものである。

切り売り不能な「文化」は決してネットの中を簡単に流れては行かない。それはWebのヴァージョンがいくら進化しても変わりはないだろう。

「人格」もまたしかり。あらゆるもの・ことに関する切り売りできる情報はネットででも簡単に流通するが、人格はそうはいかないものだ。簡単にふわふわと飛んでいかず、しかも「定型」=「正解」というものがなく、人其々の型がある人格。

いかなる時代があろうとも、人格を磨くことは人間として生きる上で一番大事なことの一つだ。

いっぽうの人格ともういっぽうの人格が衝突し合うことで、新たな出会いがうまれ、友情や愛が誕生するのだ。そうして互いの人格が磨かれてゆくのだ…。「人と人との出会い」の大きな効能は、まさにこんなところにあるのですね。人々が互いに助け合って生きる「共同体」の誕生も、人格と人格のぶつかり合いから始まるのではないか。

みながみな、自分のことしか考えず、共同体を破壊し、分断につぐ分断を繰り返して行く「自己愛完結型社会」がばらばらになり、崩壊してゆくのは、その社会の中に生きる人間たちが、人格という「宇宙」の衝突をなによりも恐れているからに違いない。

人と付き合うのが“めんどくさい”から自分の殻にとぢこもる。(実は自分も多少こういう傾向がある)自分だけが可愛く、他人のことなど知ったことか。そんな考えが蔓延る自己愛完結型が人格の陶冶を伴わず、ばらばらになってゆくのは自明だ。

人格同士の衝突、そしてそれに伴う陶冶こそが、人と人との絆を築き上げて行くことに思いを馳せたい。そして、これもネットで切り売りできない物言わぬ諸々のものへの愛惜の思いも…。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/08/04 23:27:44

  人格 三原典  許すこと
              理解すること
                    受け入れること

 ◎ プロセス 無理なく待てること
                 ああ むずかしい ◎      せめて軒先あけること

投稿: 一光 | 2006/08/04 22:47:00

茂木さんの多忙さに毎回びっくりです。
睡眠時間はあるんでしょうか?なんていらぬ
心配を勝手にしてしまいます。
毎日暑いので、くれぐれもお身体大切に
してくださいね。

「人に出会って一番印象に残るのは人格である」
本当にそうだなって思います。
交わした言葉の多さや時間の長さとは
関係ないなって。
最近、知っていて黙っていてくれる優しさに
じーんときます。

投稿: ユリ | 2006/08/04 22:07:18

生きて死ぬわたしのこの場面を読んだとき、
那覇港へ帰る船と、振りかえる先生の姿がありありと浮かびました。
大事にしないければいけないもの、概念を、もの言わぬものたち、というわかりやすい言葉でつかめたこともこの本を読んだ大きな収穫でした。

人格にはさまざまなかたちがあって、正解がないってほんとにそうですね。

脳の機能もおもしろいけれど、暗黙地を言語化している先生のお話がいちばん興味深い気がします。
ほかの脳の話もそこへつながっているのかもですが。。。
最近あまり出てこない批評性のお話も楽しみにしています。機会があれば聞きたいです。

「ちくま」(1月号)を拝見したのですが、欲望する脳よりも難解でした。
あと2回くらい読まなくちゃです。

三鷹の反転住宅は、一度は行ってみたいなあ。荒川さんのファイルも聞きたい。
人格は宇宙と宇宙のぶつかりあい、
うわあ! ですね。

投稿: M | 2006/08/04 15:05:57

大森克己さんは
私の大学の先輩で
先日、研究室で
大森さんの作品を拝見して
わあ、こんな世界の見方もあるんだ
と、新鮮な感動でしたが、
写真の向こうに
大森さんの人格を見ていたのかも
しれません。

「生きて死ぬ私」
の、もの言わぬものたちの一節は
私の一番好きなところで
何度も何度も読みました
読むたびに
心の窓が、さーっと開かれるようで
どこからともなく
人として今ここに生きる
シンプルな愛しさが
わいてきます。

私の心も、いつも
もの言わぬものたちと
ともにありたいと
思うのでした。


投稿: mori | 2006/08/04 12:53:48

僕は「意味」について考えていました。
人間はなぜあらゆるものに意味を与えようとするのか。
それは人間の脳が言葉を生み出すマシンだからだ。
言葉が意味をつくりだしてゆく。

「人格」というのもまた、自分に意味を与えてゆくなかで形成されてゆくものなのかな、と思いました。

投稿: 54notall | 2006/08/04 12:21:11

コメントを書く