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2006/08/30

超絶技巧であることは間違いない

インターネットというのは便利なツールだが、
その上にあるテクストには偏りがある。

 同時代というのは、暗黙のうちに
ある精神性を前提にしているところがあって、
 知らず知らずのうちにとらわれてしまう。
 
 これだけインターネットの存在感が
圧倒的になってくると、
 自然に対する人工、のような対立軸と
同じことが、
 非インターネットとインターネットの
間に生じてきているように思う。

 昔、養老孟司さんがコマーシャルで
「私は一日に10分は
人間がつくったものではないことを
読むようにしています」と言っていたけれども、
 ネットを経由して来るのではない、
時代や文脈の離れた
テクストを読むということがバランス上
大事になってくると思う。

 ということもあって、朝食の前などに
小林秀雄全集を拾い読みしたりしている。

 田中美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのをいつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。(中略)従って彼によれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出遭って、互いに全人格を賭して問答をするといふ事が、眞智を得る道だったのです。そういう次第であってみれば、今日残っている彼の全集は、彼の余技だったという事になる。彼の、アカデミアに於ける本当の仕事は、皆消えてなくなってしまったという事になる。

(「喋ることと書くこと)小林秀雄全集(新潮社)第十一巻)

 代々木で降りて、久しぶりに
明治神宮の森を抜けた。

 そうか、そういうことか、と思った。

 人と対話するということは、
理想を言えばプラトンにつながる。

 現代のプラトンは案外電波の中にいるのか
もしれない。
 スタジオで奇跡を起こしてやろう。
 そうすれば、アカデミアの仕事は消えずに残る
だろう。

 参道には、私の大好きな「光の川」が
できていた。


明治神宮の「光の川」2006年8月29日
撮影 茂木健一郎

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録は、島根県の中学校で英語を教える
田尻悟郎さん。

 田尻先生の授業は、子どもたちの表情が
イキイキとしていて、
 笑いが絶えない。

 普通の授業は、だまって聞いている、
という時間が多く、
 「オンタイム」が案外少ないが、
田尻先生の授業は、「オンタイム」
が長い。
 子どもたちが主体的にinvolveされている。

田尻先生の授業を、受けてみたい!

 住吉美紀さん(すみきち)の冒頭の
せりふの言い方のテクニックに感心した。

 「さて、今日は、全国のお父さんお母さん方、
必見です」
というのだが、
 「お父さんお母さん」の前に、
笑うというか、声がほころぶというか、
なぞの現象が起こり、
 その明るくふくらんだ勢いで
言葉が発せられていくのである。

 しかも、その瞬間、カメラが切り替わって
ワンショットになり、すみきちの顔が
大写しになるのである。

 一体何をやっているのか、よくわからないけれども、
コロラトゥーラのソプラノに匹敵する
超絶技巧であることは間違いない。
 
 しかも、すみきちは、3、4回繰り返した
全てのテークで、
 上の「ほころび笑い」のようなものを
繰り返すのだった。
 
 あれは偶然ではなかったのか、
意図的にやっている「何か」だったのか、
と思うと、その計り知れない技術に
人が話すということの奥深さを思い知らされるの
だった。

 すみきち、恐るべし!

 有吉伸人チーフプロデューサー(ありきち)
も、「すみよし、今の最初のところ、良かったよ」
と首からタオルをかけて言ったのであった。

 プラトンの言うように、人と人との
ディアローグの中にこそ、なにかが生成される
んだろう。

 今日は進化学会なので、久しぶりに
郡司や池上、岡ノ谷さんと会って、話すことができる。
 楽しみである。

 プラトン、降臨すべし。

8月 30, 2006 at 07:33 午前 |

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コメント

写真の「光の河」の参道は、伊勢のご正殿へと続く道ととてもよく似ています。
とても素敵な写真を見せていただきました。
ありがとうございました。

投稿: | 2006/09/08 16:42:22

(詩的散文的コメントです)
ミドリの木々の真ん中を突っ切る灰色の道を流れる光の河。
それは、今だ知られざる世界へと、若き脳研究者を誘う光明の道だ。

思うに、今の意識のなぞを探究している人々は、このような光の河をキット渡っていって、意識のなぞを解こうとしているのだろう。

我等平凡な素人には、ただの光の筋にみえるのだが、
脳研究者の目には、真理へと誘う光の道に見えるのだろう。

茂木健一郎は、この光の河を渡り、真理の宝玉を我が手中にするまで探究を諦めないだろう。(敬称略)

投稿: 銀鏡反応 | 2006/08/31 21:18:12

光の川…をそこに見つけた、そのときの悦びと敬虔な心持ちが伝わってくるようです。

切り取られた一瞬は止まっているけど、見ている私たちは、そこに風が通り過ぎ、葉がざわめき、影が動いて、その川がゆらぐことを、もうちゃんと目の裏にイメージしている。

一瞬はときに饒舌で、あふれるほどの情報は何も語らないこともある、なんてことを考えました。

投稿: kyono | 2006/08/31 12:12:17

いま「光の川」を見て

司馬遼太郎さんの歩いた道やことばを想いました…

「街道をゆく」の映像を、よく見ていた時期がありました。

どこかを、歩き…旅する心もち…もいいですね…

投稿: TOMOはは | 2006/08/31 7:03:20

茂木先生

光の川のお写真、とても素敵ですね!
思わず飛び込んでしまいそうになりました。
緑の木立、涼しげな木陰と渓流のせせらぎのような光の明るさの対比が、一服の絵画のようです。
観ているうちに心がふんわり温かくなりました。
この川の流れの中を歩いていると、空気の温度や湿度、緑の匂いや目に見えない木々のかけらなどに包まれて、とても幸せになれそうです。

次回のプロフェッショナル、冒頭の住吉さんの超絶技巧が絶対見逃せないのですね。
画面の前で、楽しみにお待ちします。

投稿: | 2006/08/30 20:50:49

インターネットの存在感が増しつつある現代社会。なんでもかんでもネットというツールを経由して入ってくるこの時代、そういうものに依らないプラトン的ディアローグ…生の討論と対話というものが、痛烈に大切に思えてくる。

ブログに、このようにコメントしたり、掲示板に書き込みをしたり、それらの行為だけで“コミュニケート”した気になっていてはいけないと、我が身我が魂を戒めなくてはならない。

茂木先生の仰る如く、生身の人と人との対話・討論の中にこそ、かけがえのなき何かが生まれてくるのだ。

皆さんは、ケータイやPCでのメールのやり取りばかりやっていて、生身の対話が不足していませんか??

…と、書いている私自身も、毎日、ネットでの言葉のやり取りに終始していて、なかなかプラトン的で有意義な生身の対話が出来ないでいる。

だから池上さんたちとの生討論に燃える茂木先生のような人の存在を羨ましく思ったりもする。

ついこの間も「日記」のコメントとしても書いたことだが、ネットで本のテクストを読むサーヴィスもすでに始まっている。

しかし、そういうネット読書は、本来の読書の楽しみからはとてもとても、程遠いものだと感ずる。

やっぱり、紙の本を直接手にとって、ページをめくって読むことこそが、本当の読書だと思うのだ。

今週の「プロフェッショナル」田尻先生の回、楽しく拝見したい。
子供達が生き生きとする授業って、大人になっても受けてみたいものなぁ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/08/30 18:36:24

明治神宮の写真、本当にきれい。
澄みきっていて、マイナスイオンがいっぱい流れているなって。
先日、寒川神社に行ったのですが、同じように澄んでいました。
一歩足を踏み入れた瞬間、静寂が心地良かったです。

投稿: | 2006/08/30 9:48:40

最近住吉さん、ここだけの話、素敵な恋愛真っ最中に思います。
その素敵な感情が、自然に言葉にのってるように感じます。
目の輝きが違いまする。まぶしいです。

茂木さんの、アツクテブッキラボウタドウエモンも技でできない、天性のちょっとだけ、ネンキはいった天使みたいで、
良いな~と思います。

投稿: | 2006/08/30 9:27:05

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