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2006/08/28

シヤカヤニスバヤクカレイニ

ロシアから帰ってきて、
近くの公園を歩いていたら、
 何だかいつもと感じ方が違って、おやっと
思った。
 
 言葉や記号に落とすことのできない形で
五感が刺激されること。
 自分の中のいのちのようなものが、周囲と
呼応して動きだすこと。
 そのようなことに敏感になっている
自分がいた。

 体験の中に実際にそのようなことが
あるということと、
それを言語化できるということは違う。
 こどもの頃、捕虫網を持って
野山の中に分け入っていたころにも、
確かに昨日感じたようなことを
感じていた。

 しかし、そのことを、あまりうまく
言語化できていなかったし、
 今でもそうなんじゃないかと思う。

 森の中を歩き、周囲に生命が満ちあふれている
その気配を感じること。
 セミや、鳥や、すごい勢いでもくもくと
育ち、そしてやがて枯れていく植物たちの
息吹を感じること。
 そのようなエラン・ヴィタールのシャワーの
中に身をさらすこと、
 生命の潮の流れの中に浸ることが、自分が
創造的に生きる上でも画期的に重要な
何かを与えてくれるんじゃないか。

 そんなことを考えながら歩いてきた。
 
 およそ、新しい考え方というのは、
最初は何らかの気配のようなものとして
来るのではないかと思う。

 プラトンが書き言葉を話し言葉の下に
置いていたというのは、エラン・ヴィタール
との関係においてだけれども、
 考えというものはそもそも「なまもの」
で、それを広く永く伝えようと思ったら
書き言葉という「碑文」にするしかないけれども、
 本当は意識の中の(あるいは無意識へと続く)
かぐわしく、些か頼りなく、そしてあくまでも
なまなましい気配として、考えるということの
最初の契機はある。

 その意味で、昨日公園の中を歩いていて
感じた何かは、きっとかけがえのないもので、
 しばらくは時々振り返り、
寄り添ってみようと思う。

 北の大地から
 帰ってきたら、さっそく仕事に追われている。

 私の人生において
「空白」をつくるというのは
とにかく一つの決意であるので、
 できるだけしなやかに、素早く、
そして華麗に手足を動かして、
 この難局を打破したいものだ。

 思えば、野のいきものたちはもともとそうやって
生きている。ヘタをすれば食われてしまうんだから、
しなやかに素早く華麗に動くのは当たり前だ。
 
 のたくり回っているミミズだって、あれは
それなりにシナヤカニスバヤクカレイニ
動いているんんだろう。

 葉っぱの上でじっとしているツマグロヨコバイ
だって、
 ぼろぼろになった羽で飛び回っている
シジミチョウだって、
 ロイヤルバレエ団のプリマも顔負けの
シヤカヤニスバヤクカレイナ動きを見せている。

 そして、やがて時は満ち、過ぎていく。

 早朝仕事をしていて、カラスの声に混じって
セミのそれが聞こえるのも、あとどれくらいの
ことだろう。

 シヤカヤニスバヤクカレイニ動き、
そしてそれもやがて沈黙する。

 いつか、様々なことの結末がつき、
宇宙の始原のエネルギーも燃え尽き、
 地球も太陽も全てなくなってしまった時、
残された
沈黙の音を聞くのは誰なんだろうか。
 
 そんなことを考えていれば、
 いにしえの人が神を思ったのも当然だ。
 
 エルミタージュで古代ギリシャの彫像を見ていて、
アポロンやアフロディテのような神さまと
人間がまったく区別がつかないことに
気付いてそこに大事な問題があると直覚した。

 フランクフルト大聖堂で見た様々な宗教的
モティーフにも、その問題はまっすぐにつながっていた
ように思う。


フランクフルトの大聖堂で。
撮影 田谷文彦

8月 28, 2006 at 05:18 午前 |

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拙著『蒼天のクオリア』への書評として、 「入手極めて困難な名著です!」と、Amazonのユーズド商品のサイトに書かれています。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/offer-listing/-/478389597X/used/ref=sdp_used_b/249-2157088-9769113 これは著名な脳科... [続きを読む]

受信: 2006/08/28 6:53:20

コメント

こんにちは! 初めての投稿です。
今朝、クオリア日記を読んでいたら、中3の息子が隣で
こう言いました。

「すごいね、この人。毎日のように更新してて」

私は三秒間考えて、こう答えました。

「彼はさ、脳って、隣り合った神経細胞が結ばれ合うからこそ
活性化するって、脳科学者として知っているでしょう。
だから、そのイメージを、人のつながりの中でも応用しようと
しているのよ。で、毎日こちら側にむかってニューロンの一端を
ピロピロピロって動かしてるんだと思うの」

というワケで、私も自分のニューロンを、ピロピロと伸ばして
みたくなりました。

つながるかな。世界と。

投稿: ひみつのあこ | 2006/08/29 9:58:18

…???  ナナシ?ヤアリ?

…なんだろう?と、それは置いておいて…

ふと、ファインマンさんのご本の中に
奥様との手紙のやりとりに暗号を使っていらしたという
くだりがあったような…を思い出しました。

いたずら心のある方でいらしたんですね!
(マジメにしているのに、
オモシロいタイプなのかは?ですけれど)

あらあら、何を書こうと思っていたんでしたっけ?

いにしえの人…

どこかが変わり、けれどそのままのこともあり…

けれど何かを想わずにはいられない…

そんな私たち(?)が、いるのでしょうか…

投稿: TOMOはは | 2006/08/29 7:20:23

茂木さんのロシアでの印象記を読んでいると、昔読んだ、何人かの神秘的宗教家の散文やエッセーのような感触をうけます。まさしく、それは言葉による「感触」としか、今は表現することができません。それは、邦訳されたすでに亡くなった宗教家の本でしたが、まざまざとその「感触」を思い出したのです。かつて、私は、自分の小さな創作やエッセーの中に、「究極の科学は、究極の哲学、究極の宗教、究極の思想などとまったく同義のものになるだろう」と、書いたことがあります。そのことを、このエッセーを読んで、思い出しています。

投稿: 内嶋 善之助 | 2006/08/29 5:48:52

森の中の、動物たちの気配、植物たちの伸びては枯れゆく息吹、そうしたたくさんの生命の躍動に、五感を刺激され、自分の中の命がその躍動―エラン・ヴィタールに呼応し感応する…。自然と人間が触れ合う時に感ずるこの“かけがえのない”感触は、容易に言語化できるものではないと思う。

ロシアという北の大地の息吹に触れたか、茂木先生の五感も今まで以上に鋭くなっている。

自然が醸す数多の生命の躍動に、人の五感も震え、感応し、呼応する。そこに自然と人間とはかつて一体だったことを思い知らされる。そして生き物たちは、生き残る為に、“しなやかに素早く華麗に”動き回り、やがて死に至る。

そしてそうやって行くうちに、太陽系の終末が訪れ、やがて銀河系の終わりが来る時、「残された沈黙の音を聞くのは誰なんだろうか」。


神の姿も人のそれも、区別がつかないということは、そもそも、神と人とは、ひとつだったからなのではないか?とも考えるのだが。

宗教の起源ということを考える時、茂木さんが昨日感じたような、容易に言葉には表せない、自然界の、数多の生命の息吹に対する、人の五感の震えから来ているような気がする。

人類はその震えを知ったときから、自然を畏敬し、そこから“神”を思い、その思いを偶像にして、崇拝し始めたのではないか。そこからいろいろな教えがうまれて、世界中の人間に信仰されるようになった。

コンクリートとガラスの建物に囲まれ、IT漬け、ネット漬けになって生きている現代人は、しばしば、自然への畏敬を忘れがちである。そこからは生命を慈しむという感性はなかなか育まれない。自然の中の、生命の息吹に触れたことがないからこそ、いろいろなおかしな事件を、近年、引き起こすことになったのではないか。

やはり、たまには、せめてみどり溢れる公園の中でも歩いて、蝶やありんこや、ミミズなどの気配に触れ、みどりたちの息吹に触れて五感を揺さぶって見たいものだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/08/28 18:40:23

最近、「ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢」という本をちょうど読み始めたところだったので、今日の日記にミミズが出てきてうれしくなり、コメントさせていただきました!ダーウィンも、のたくり回るミミズに、シヤカヤニスバヤクカレイニ生きる姿を見てとったのでしょうか?

投稿: | 2006/08/28 7:49:07

おはようございます。
・・・・・。なんだ日本語か・・。

シナヤカニスバヤクカレイニ、ってそれっぽくロシアかぶれ気味で音読してしまった。

朝も早くからくるくるくるくると、脳エンジン全開のご様子、
おかげで、
私も、ちょっと脳エンジンかかってきました。
最近エンスト多かったのですが。

投稿: | 2006/08/28 7:11:52

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