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2006/07/31

うわあとかあかあ

青年期から、思想というものは
「世界全体を引き受ける」ことを
志向しなければならないと
思っていた。
 
『クオリア降臨』
第一章「世界を引き受けるために」
で書いたように、何も大それたことを
考える必要はなく、きっかけはどんなに
小さなことでも良い。

 沖縄の渡嘉敷島の海岸で、マルオミナエシという二枚貝の、黒く富士山のような模様が沢山入った殻を拾って歩いた早春の午後のことが忘れられない。私の手の中にあったのは、さまざまなパターンのマルオミナエシの貝殻だった。無限のバリエーションの模様の作り出される不思議に夢中になりながら、ふと、かつてそれらの貝殻の中で生きていたであろう軟体動物のことを思った。そこにあったであろう、ささやかなる生命の躍動(エラン・ヴィタール)に思いを馳せた。
 海は、私の前に静かに広がっていた。その水面の後ろに、珊瑚礁の豊かな生態系が息づいているはずであった。私の手の中にある貝殻の一つ一つが、珊瑚の海の豊穣の中で生まれ、さまざまな困難をくぐり抜けて生きのび、やがて力尽きて砂の上にぐにゃりと横たわっていった軟体動物の命の証であるはずだった。貝殻という「もの」こそ、かろうじて世界の中で流通し得る。一方、軟体動物の生自体は、誰にも目撃されず、流通することもなく、ひっそりと息づき、ひっそりと消えていく。世界は、誰にも知られず生き、死んでいくマルオミナエシのように、決して流通することのない、もの言わぬものたちに満ちている。もの言うものたちのことは他人に任せよ。もの言わぬものたちをこそ思え。この宇宙の中にかつて存在し、やがて潰えていった無数のもの言わぬものたちのことを思い、それらのもの全てを引き受けるような一つの言葉、一篇の詩を持ちたいと希求せよ。

(茂木健一郎『クオリア降臨』(文藝春秋)p.8~9)

 世界全体を引き受けるとは、
明示的な知の体系を組み立てるという
ことではなく、感情の技術なのである、
ということに気付いたのが最近の進歩で、
昨日、MacBookで使えるDDを買うために
新宿に出かけ、
 ヨドバシカメラでエアエッジの機種交換を
して、待っている間に
 近くのルノアールで『ちくま』の連載
「思考の補助線」を書いている
時にも、結局はその問題になった。

  何も天才的な知性や、驚くべき博識を持てという話をしているわけではない。子供の時に最初に星空を見た時の「うわあ」をしっかりと記憶している人ならば、誰でも、世界の全体を引き受けるという志向性を了解することはできるのではないか。誰もがアインシュタインのように統一場理論に挑戦できるわけではないが、少なくとも、そのような志向性がどのような感情を伴い、どんな風に人格を陶冶していくものか、直観的な理解をすることは可能なはずだ。

(茂木健一郎 『ちくま』連載「思考の補助線」第16回原稿)

『ちくま』連載は、おそらく24回で終わるんだと
思うが、ばらばらになっている人類の知の体系
の間に補助線を引く、という当初の目的は、
不確実性や無限、断絶に向き合う
感情の志向性に着目することによって、
どうやら無事大団円を迎えられそうな
状況になっている。

 増田健史への面目も立とうという
ものである。

 もう一つ、集英社の『青春と読書』
で書いている「欲望する脳」は、孔子の
「七十従心」の問題を
取り上げ、「倫理」(いかに生きるべきか」
という視点から人間について考察しているが、
二つの連載が共鳴しつつ、同時に展開してきたのが
不思議な感じだ。

  ならば、孔子の「七十従心」とは、一体何なのか? 年をとったら欲望のレベルが落ちて、結果として矩を踰えなくなった、などという陳腐なことを言っているはずがない。マキャベリ的知性の下での先回りした節制を指しているとも思えない。「七十従心」は、もっとのびやかな印象を与える。現代の科学主義の知的射程を超えてしまった何かがそこにあるようにさえ感じる。一体、孔子は何を言おうとしたのだろう。
 今、私の前に、「七十而従心所欲、不踰矩」という言葉が、一つのエニグマとしてぶら下がっている。このエニグマを避けては、人間理解という学問的興味の上からも、一人称を生きる意味からも、先に行けそうもない。二千五百年前に一人の男が残した言葉を清玩しつつ、人間の欲望を巡る探究を始めようと思うのである。

(茂木健一郎 『欲望する脳』第一回)

 担当編集者である鯉沼広行さんは、
『ちくま』との同時進行にどのような
感想を抱いているんだろうか。
 たけちゃんマンセブン(増田健史)は、
同時に連載が始まるという話を聞いた時
「茂木さん、それはないでしょ〜」
などと言っていたが。

 鯉沼さんも、あの温厚そうな
表情の裏で、
 実は、「うううんん クククククッ!」
とうなっているのかもしれない。

 とにもかくにも、
海の波、深海の砂、マントル対流の
中の分子、
 マルオミナエシや、星空を前にして「うわあ」
と感じるような意味で、世界全体を引き受ける
ことを志向し続けて生きるということ
以外に、今後の人生でやるべきことは
ないように思うのだが、
 その意味では今の私の人生は忙しすぎる
のではないかと思う。
 
 「世界全体を引き受ける」とは、
決して、いろいろなことを全てやろうとしたり、
 複数の場所に同時にいようとしたり、
全てを覆う明示的な知の体系を
実際に構築することを必要条件とする
ことではないからだ。

 もう少し、心の余裕というか、
ゆったりする時間が欲しいなあ。。。

 と思いつつ、今日もまた、止むにやまれぬ
事情で、
 こうして小さな時間から起きて、
カラスがかあかあ言うのを聞きながら、
仕事をしているのだ。

 それにしても、カラスのかあかあが、
人間が星空を見た時の「うわあ」と同じ
だったらどうしよう!

 うわあとかあかあを結びつけることで、
僕たちとカラスは、簡単に共鳴
できるんじゃないか。

 そうそう、忘れていた。
 忘れていた。今朝は、冷蔵庫の中にパステルの
プリンがあるのだった。
 やったね!

 カラスがかあかあの朝なべ仕事を
やる前に、
 あのとろりんぷるんのクオリアを
味わって元気になろう。
  
 本当はカラス君にもふるまいたいけど、
森に向かって「うまいよ〜」とささやくだけ
にする。

7月 31, 2006 at 04:25 午前 |

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» 2006-08-01 トラックバック tongsong_asanoの日記
茂木さんのblogに触発され、孔子の「七十従心」について考える。 孔子は七十になったとき、心の欲するところに従っても矩を越えなくなったという。 保坂和志さんが茂木さんの芸大での授業にゲストとして来た時に、「自由」の意味について語っている。あの時彼は「自由とは世... [続きを読む]

受信: 2006/08/01 14:41:33

コメント

はじめてコメントさせて頂きます。
「七十従心」については、保坂和志さんをゲスト講師に迎えた際のMP3の音声ファイルを聞かせてもらって以来ずっと考えていました。保坂さんはあの時「自由」という言葉の意味について、「世界に従うこと」であるというような内容のことを語っていたように思います。たとえばサッカーにおける究極の自由は、ボールの力学的性質、自分の身体的能力、そして何よりサッカーのルールといった、フィールド上に立ち現れる世界を構成する諸要素について完璧に理解し、それに「従うこと」である、と。
「自由」の意味を語るのに「従う」という言葉がしっくりこないようなら、「自由とは世界に「なじむ」ことだ」と言い換えればいいのではないかと思います。そして孔子が言った「七十従心」の意味も同じように考えればいいのではないか。茂木さんの言うように「七十従心」とは、七十にもなれば、どうせインポテンツになってしまうというようなことでもなく、また七十にもなれば、徳が十分に積まれて聖人の域に達してしまうということでもない。孔子が言ったのはすなわち「七十にもなれば、世界に完全に「なじむ」ことが出来る」ということだったのではないかと思うのです。
自分には中学生の頃、自分の欲望のままに振舞ったって「矩を越えない」なんて言い切った孔子のことを「うさん臭いおやじ」と思った記憶が確かにあります。でも、孔子を到底自分には到達しえないような「聖人」として遠ざけてしまうんではなくて、彼の言葉を自分自身の人生を設計する上でのひとつのモデルとして理解することも出来るんだということに、僕は最近気付かされましたのでした。
ただ、今の世の中で「七十従心」は不可能に近いのではないか、とも同時に思うのです。孔子が生きた時代と、おそらく人間の持つ生命のタイムスケールはさして変わらないだろうけれど、時代の変化のスピードがとてつもなく加速していることは事実。
つまり、世界は、人間が七十年かけて「なじんで」いけばいいものとしては存在していないわけです。世界は老いさらばえていく人間たちをあざ笑うかのようなスピードで、変化していく。
そう、「老い」は世界が変化しない、あるいはゆるやかにしか変化しないこと「込み」で価値を持つものでした。だから多分茂木さん、僕らは今、孔子の「七十従心」を、「老い」と「自由」をキーワードにした全く新しい問題系として考えなければならないような気がするんですが、いかがでしょうか?

投稿: tongsong_asano | 2006/08/01 14:30:32

 ここのところ、しばらく「あ~茂木さん、むちゃくちゃとっても
お疲れなんだあ…コメントする言葉が見つからないなあ…」と、
ただただ拝見させていただいておりましたが、この日記から、
復活の兆し?を、すこし感じました。よかったね!(と、勝手に
思っているのだけれど)


 茂木さんの口の中いっぱいに、とろりんぷるんのおいしい
「プリンの宇宙」が広がった?
 この日記で、私の中には、ほくほくうふふの「小さな銀河」
が、ぼわわんと誕生した気がする! 
 茂木さん、勇気に栄養をありがとう。


 いつでも茂木さんを、遠くから応援しているよ…。

投稿: | 2006/08/01 14:28:06

思想というものは「世界全体を引き受ける」ことを
志向しなければならないと思っていらしたとのこと

そもそも私には「思想」というものが
とらえられていないので…

けれど、一個人としてのささやかな生き方において

小さいけれど「確固としたひとつの経験」に落とし込めるような…
(という表現でよいのかも?ですけど)

何かを見つけたり、
つなげていくことは、できるのでしょうか?

まだあやふやな輪郭でも
そのビジョンを描きつつ
また新たに作り変えていく柔軟性があれば…

などとトンデモないことを夢想してしまいました。

ぜひ「スキマの時間」の楽しみを見つけてお散歩したり
美味しいものを召し上がるのも

いいかもしれませんね… 

投稿: TOMOはは | 2006/08/01 5:58:58

はじめてコメントします
このようにコメントを書くのは勇気のいる事なのですが、失礼いたします。

うちの近くのカラスはカァカァを6回・7回・1回・の間隔で鳴き合いながら旋回しているようです。
カァカァが遠くなると鳩がやってきます。朝なべをして発見しました。

私は失礼ながら茂木さんの本を読んでいないのですが、
最近になって茂木さんの発言を目にすることが多く
自分が思っていた事とリンクしていたりして(からすとかも含め) 正に今「うわぁ」を感じています。
また、本を読んでいないのにいろんなメディアで読んだり聞いた限りで
茂木さんはどこを切っても一貫した表現法というか姿勢を保っていらして素晴らしいと思いました。
満遍なく統一された味のお豆腐というか、、プリンですね。
話す相手によって言葉の使い方を変える表現者としての技術や、その姿勢にまた「うわぁ」を感じます。

ご多忙のようですがどうぞお体ご自愛ください
明日本を買って読もうと思います・・。
長文失礼いたしました。

投稿: irohanihoheto | 2006/08/01 4:49:00

貝の思い出。
すっごい茂木さんの文章を読んでいるときれいな想像が広がります。
何ででしょう?わからないけど。びっくりするくらいキレイなんです。
これも想像の材料的にはディズニーのアニメだったり、少しは実体験だったりから拾ってきているのかもしれません・・・
自己分析って難しいです。

投稿: | 2006/07/31 22:12:54

茂木様 
>カラスがかあかあの朝なべ仕事

お疲れ様ですぅ。

今日はたくさんの茂木さんを見れてハッピーでした。
なぜかというと・・・
買い物に行ったショッピングモールの電気屋さんで
何十台もの大画面TVに
「プロフェッショナル」再放送が映し出されていて
茂木さんのお顔のアップがたくさん!!! 

パステルのプリン とろ~ん たまりません。
茂木さんの好物なのですね♪

私が始めて食べたのが8年近く前。(つわりでちょっと
気持ち悪かったのに食べたあの時の味は今でも鮮明です~)
恵比寿のお店は かなり小ぶりで可愛らしいお店でした。
が・・・最近では レストランまで展開している
発展ぶり驚きです!!!

投稿: | 2006/07/31 21:48:10

パステルのプリンは美味しかったですか。

プリンやチョコレートなどの甘いクオリアは、疲れきったアタマや身体をリフレッシュしてくれます。

このエントリーを見て思うこと、

「世界全体を引きうける」とは、何も全て自分でいろんなことをやろうとしたりすることではないということだったわけか。

まぁそれはそうだろう。人間、自分ひとりでいろんなことはできないからねぇ。知の新たな体系を築くのではなく、あるものに出会った感動や感情に関わることが世界の全てを引きうける志向性を孕んでいるんだものな。

宇宙、マルオミナエシ、天空と生き物、そういう自分以外のものにちょいと触れて感動する、それだけでも、「世界の全体を引きうける」ということに繋がるというわけだな。

要は「感情の技術」というわけなのだな。

ならば!私もネットとばかり遊んでいないで、もっといろんなものを見て触れていこう。もっといろんな人に会って行こう。

こんな解釈でよろしいでしょうか?茂木先生。

P.S.DDの使い勝手はいかがですか?

投稿: 銀鏡反応 | 2006/07/31 18:29:16

同じ時期に始まったふたつの連載。思考の補助線も、欲望する脳と同じような感じなんですね。
ちくまを求めて○千里。
月末だからか、もともとおいていないのか、なかなか見当たりませんでした。

横須賀の本屋について、
タケチャンマーン、と叫びたくなったら、
レジの奥にあった青春と読書が目に入り、
かわりにもらえたので満足しました。(笑)
奈良さんの絵も早く見たくなったので、帰って電話で頼んだら、
「見本誌をお送りいたします」
丁寧な対応で、
どうも、どうも、はじめからこうすればよかった。
はやく読みたいです。


欲望する脳は、もともと孔子の教えがテーマだったんですね。
8月号を読んで、先生の一番いいたいことが書かれているのかなという印象をうけて、
とても興味深いです。
よくわからなかった「世界全体を引きうけること」
が今日の日記でわかった気がしました。
ついでに、なんで自分が世渡り上手な人に興味が湧かないのかもわかった気がしました(笑)

先生はあまりにお忙しいのですね。
忙しくなるとしがらみが増え、しがらみが増えると
いいたいことが言えなくなる場合が出てくるようで、それがちょっとこわいです。
なによりお体も心配です。

もの言わぬものたちはクオリア降臨にも登場するんですね。
ひらめき脳にいこうとしていたのですが、こちらを先にしようかな。

ゆったり休んで思索する時間が
はやく茂木さんにおとずれますように

投稿: | 2006/07/31 15:31:36

近所のカラスに伝えておきます。
お仕事がんばってください。

投稿: | 2006/07/31 7:16:01

☆ はちすの露 ☆     良寛と貞心尼

    師弟を越えた 素直な愛の相聞歌

     良寛  黒いカラスに自らを例え
           幼きカラスがそれに応える  貞心

投稿: | 2006/07/31 5:45:21

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