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2006/07/25

できることは全てやろう

やることも溜まっているし、
朝、今日は「仮病」で全部さぼってしまおうか、
などともチラリと思ったが
(実際にそんなことをすることは
ありませんので、関係者の
方々、今後私がビョーキだと言った時は、
本気で信じてください!)、 
結局はマジメに出かけ、
ちゃんと全て出席した梅雨の一日。

 電通の研究会の後で、近くの
日本テレビの前にある
 『明日の神話』を見る。

 中央の骨が踊っているよう。
 生命のヤケクソの力を
侮ってはいけません。

 岡本太郎という人は、構想が
本寸法というか、それこそ「骨太」
だ。
 大阪万博の少し前につくられた
というこの作品。
 原子爆弾が炸裂する瞬間を
描いたというその構想の中に、
踊る骸骨を配置する。

 人間の現代にとって何が本質なのか、
まっすぐに見つめた人。

 かくなる私めもまだまだヤケクソ踊りを
続けることにいたしましょう。

 デザイン関係の賞の審査会。

 他人の作品を「審査」することに
慣れていらっしゃる先生方の
 発言に内心はらはらする。

 そんな中、はにかんでいらした
柏木博さんと、 
 「半年一生懸命つくった作品に
こんなこと言われているとは
思わないだろうなあ」
などと言った都築響一さんに 
 シンパシー。

 もっとも、柏木さん、都築さん、
私のような人たちばかりだと
審査は進まないことも明らかなり。
 パワープレーは必要です。

 講談社へ。
 森定泉さんと、hidden figures
(アハ!ピクチャー)の
本について打ち合わせをする。

 そういえば、hidden figureの
共同研究をしている金沢工業大学の
田森佳秀の様子はどうだろうと、
 電話をした。

 「これから、田森に電話して
聞いてみますね。」
 「あっ、モリタカズヨシ、じゃなくて?」
 「いえ、そうではなくて、金沢工業大学の
タモリです。」

 田森は、小学校の時、自分はクールで
かっこよくするんだ、と思っていたのが、
ある日、学校に来てみると、皆が顔を見ると
わーわー騒ぐ。

 タレントのタモリが、テレビに出るように
なって、同じ名前だ、と囃していたのである。

 「それ以来、ぼくはハードボイルドな
人生を送ることができなくなったんだ」
とは田森の弁。

 そういうことはどうでも良くて、
田森と「ルミナンスの第二項をとる」うんぬんの
話をした。

 久しぶりに講談社に来たので、
ブルーバックス編集部に行ってみよう
ということで、森定さんと上がる。

 そしたら小沢久さんと梓沢修
さんがいらして、
 お話していたら、
 新雑誌Kのスタッフがいらして、
 お話していたら、
 ビジネス書編集部の方がいらして、
 お話していたら、
 小沢さんに、「茂木さん、ちょっと
マジメな話をしましょう」
と3階の食堂に拉致された。

 そのような流れの中で、
 いつの間にか森定さんとははぐれていた。

 最後に見た森定さんの表情が
不安そうだったのは、気のせいだろうか。

 さて、私の人生という阿房列車
だが、本当にヤケクソで踊り続けないと
とてもこなせないほど切実で真剣な
課題がたくさんある。

 そんな中、朝コーヒーを飲みながら
書くこのブログは、貴重な精神の全体性の
回復のきっかけになっているように思う。

 しばらく前から、このブログは
一つの「アートプロジェクト」なんじゃ
ないかと思っていた。

 他人様に見せる
という意味合いと同時に、
 人生のヤケクソ踊りのリズムを
刻んでくれているのではないかと
思う。 

 できることは全てやろう。
 
 そう言えば、昨日鯉沼広行さんに
送った集英社『青春と読書』の連載
「欲望する脳」には、こんなことを書いた
のだった。

 そのような現代において、孔子の記した「自分の心の欲する所に従っても、倫理的規範に抵触しない」という命題について真剣に考えることは、結局、実現できないことを志向することの意味について考察することにつながる。そしてそのような倫理上の思索は、たとえ、コリン・マッギンが主張するように人間にはその解明が原理的に不可能だったとしても、あくまでも意識の起源を追求する知的探求と同型の精神的態度へと合流していく。
 容易には実現できないことをいかに志向するか? そのこと自体が、現代における一つの倫理命題なのである。

7月 25, 2006 at 05:46 午前 |

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受信: 2006/07/25 19:13:49

コメント

欲望する脳16を拝読しました。
2頁目の3段目くらいから、うんうん、うんうん
紙面が全部うんの字で埋められる感でした。
やっぱり茂木先生は茂木先生でいらっしゃったー

この連載では、先生の考えが余すところ無く出せるのかなと思えました。
疑っていたわけではないのですが、
町田さんではないけれど、世の中、実と真のあるものは
ほんとに少ないと思えるので。
これも主観の問題なのかもしれませんけども。。。
読んでよかったです。

しばらくして、孔子が出てこなかったのに気づきました。
よく見たら昨日と書いてありますね。
そんなに早く載るわけないのでした。
次が楽しみです。
今日の日記の、脳とクオリアも読みたくなりました。

たいていの方がぽいしてしまう初心を忘れないところが茂木先生ですね。
がんばってください

投稿: M | 2006/07/29 13:57:37

釈迦力になれば何でも出来る
バカニナレー 元気があれば何でも出来る
ぶつかり合うことこそが調和で調和は終わり
クオリアは理解したくない 禁断の
考えるな感じるんだ 
謎は希望
運がわるけりゃ(1カテゴライズが)死ぬだけさ
繋がることは楽しくて怖い
たくさんの繋がりを感じると大きく楽しく怖い 異性 お金
たくさんの繋がりを感じるために記憶(精神的、物理的)を蓄積する
繋がるとデジャブが走馬灯が
入れ子構造?の人間というカテゴライズは重視した方が良い

気持ち悪い考えが沸いて来ました
離れた2つのものが一つになる時、大きな力が働き、危ないことをしたくなります
でもその後新しい何かが生まれるのではないかと思って

投稿: ZWEI =1(ユダヤ) なので精神分裂病 | 2006/07/27 0:33:37

『容易には実現できないことをいかに志向するか?』


ときには、ひとり “Flag”を風になびかせ

けれど、ふと周りを見れば多くのひとの“Yell”の声と

大空に高らかに響きわたる歓声が

どこからか、聴こえてくるような…

そんな気がしています。

投稿: TOMOはは | 2006/07/26 7:19:22

いつも楽しく拝見させていただいております。
静岡に住む25歳のOLです。


毎日多忙な茂木さんは、
どんな風にバランスをたもっているのかなあ
と、気になっていたのですが…

ブログ(とチョコレート)が一役買っていたのですね。

今後は私も、朝の更新に変えていこうと思います。


体調にお気をつけて、お仕事がんばってください。

投稿: noma | 2006/07/25 20:36:01

出来る事は統べてやろう。それがやっぱり人生にとっては大事なんだなぁ。

そういやむかし、「きょうやるべきことはきょうじゅうに済ませ、明日に持ち越すべきでない」というような意味のことを教えられたことがある。
きょう、この日に出来る事、やらなくてはならないことはすべてやらなきゃならない。
キモに銘じていきたい。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/07/25 19:11:33

『明日の神話』に息づくまさにヤケクソ、というべきほとばしる生命のパワー。

原爆投下の瞬間を描きつつも、その中にいのちの復活の予兆が垣間見得る構図…。その復活こそが『神話』となる。

破壊と復活と創造とが、「骨太」の寸法で現わされたこの作品は、『太陽の塔』などと同じく、見る者の心を圧倒する。

岡本太郎は、文字通り、その魂を極限まで爆発させ燃焼し、この『明日の神話』をはじめ、数多の傑作を残した。まさにその生きザマこそが爆発そのものであった…。

画の真ん中で踊る骸骨は、死の表現であると同時に新しい生の出現する予兆か。未来に繋がる『神話』とは「ヤケクソ」そのものの生命パワーを意味するのかもしれない。


誰の人生でも、ヤケになるくらい本気にならないと、それぞれの切実で真剣な課題をこなすことは出来ないのかもしれない。

何時も多忙な日々の中、このブログを書いてくださる茂木先生も、また、これに毎日のようにコメントを書く私らのような者も、其々の人生でこなさなければならない課題を抱えている。

人其々、課題の真剣さの度合いは違えども、まっすぐな思いでそれらの課題に向き合う以外に、人生の舞台で乱舞する術はなさそうだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/07/25 18:58:54

はじめまして。

ある病院の待合室で、置いてある雑誌をぱらぱらとめくり、
「クオリア」という言葉に出会いました。
診察までの待ち時間で本屋に駆け込み「クオリア入門」を手にしました。

できることは全てやろう。
共感。

さまざまな事を味わいたいです。             自分にとって甘くても苦くても。

投稿: ミッシェルP | 2006/07/25 15:52:11

話していたら、話していたら、話していたら、・・・
きっと東京だからでしょうか、すごい密度ですごい仕事人がそこいらじゅうにおられるからでしょうか。

犬も歩けば仕事にぶつかる。のが東京なのかな。

もちろん茂木さまの仕事の範囲がそれだけ広いのだけれど。

心わしづかみにするヤケクソ踊り、汗を飛ばして、情熱溢れ・・・

こちらも汗を飛ばして、声援送ります。

投稿: 平太 | 2006/07/25 8:44:08

「朝コーヒーを飲みながら書くこのブログは、貴重な精神の全体性の回復のきっかけになっているように思う」と茂木さんは書かれていますが、ほんとに、だれもがそのような回復を行うスタイルをもっているように思えます。
精神の全体性は、かように日々もろく、崩れ去ってしまいますので、毎日毎日修復し立ち上げてやらねばなりません。しかし、この精神の全体性というヤツもかなり強靱で、生のまとまり感覚は不思議にかろうじてどん底から回復し満ちてくるというのも体験するところです。私の奥底にいまそれが欠損しているよ、という声がわき起こるということ自体、なかなか人間のいのちが強靱である徴しなのかもしれません。だれもなかなか向かわない大きな全体性に向かう気力も、内なる全体性の下支えがあって可能なような気がします。このことは抽象的なようで、結構日々のことなのです。
私が動くたびに他者からのテキストが流入し、それへの対応やしのぎに翻弄されてしまう。それは他者の思惑やプチ政治や気兼ねやらいろいろありますが、さあどっからでもかかってこい、という姿勢になれることってそうそうないですから、精神の全体性を保持しつづけることって難しいですね。
しかし、ケアしてやらないといけないのでたいへんなんです。自分の時間を確保する、そして自分の声を聞いてやる、機会があれば、潮騒の音に包まれたり…いちばん手っ取り早いのは飲むことかな。

投稿: 五十嵐茂 | 2006/07/25 7:28:47

茂木先生、先日はたいへんお世話になりました。
ところで、博多で先生が仰言っていた「京都に名代で行ってもらう」というお話し、
本気で信じていますので!!
おいそがしいご様子、少しでもお役に立てればと思いまして。

投稿: 河村隆夫 | 2006/07/25 6:49:09

それぞれの 私峰 千日回峰行の繰り返しですね。
 
  やけくそ力の後には、
        思わぬ休息が用意されていることも
                 多々 ありますね。

昨日 生きて死ぬ私 発注しました。楽しみです。
     

投稿: 一光 | 2006/07/25 6:44:21

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