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2006/07/23

クリストのやわらかい手

案の定眠ってしまって、
 水戸に着く少し前で目が覚めた。

 大学があり、そのまわりに
森がある。
 こんな場所を歩いてみたいな、
と思っていたら、大きな池が現れた。

 後で調べたら「千波公園」である。
 
 確かに千の波くらい入るだろう。
 地方、都会と簡単に言うが、
理想は広々とした豊かな空間と
 文化の組み合わせではないか。

 その文化の拠点として水戸芸術館は
特筆すべき成果を挙げている。
 最初に訪れたのは、クリスト
の「アンブレラ」の時だと思う。
 調べてみると1991年のことで、
開館の一年後ということになる。
 
 あの頃の私は、今よりももっと
激しやすく、そして恐らくは偏っていた。
 若さゆえのバランスの悪い
奇妙な鋭さもあったかもしれない。

 30分遅れで到着、高橋瑞木さんと
会場を巡る。

 プロとして作品を生み出している人々と、
様々なハンディキャップの中表現を
いわば自らの運命として選び/選ばれた
人々。

 当初の予定通り、
「二度と同じパフォーマンスはやらない」
マリーナ・アブラモヴィッチの精神に帰依して、
展覧会に触発された問題を話し、質疑応答を
した。

 公演中に予告したように、次の
エントリーでmp3を公開します。

 レセプションにはデザイナーの佐藤卓さんの
姿もあり、
 出品作家を始め、多くの方々と
お話する。

 二次会で高橋さんにエジプトの話を聞き、
やなぎみわさんがいらした辺りで
辞してスーパーひたちに乗った。

 明けて今朝、なんとなく疲れが
出て、昨日買った「阿房列車」を読みながら
ソファに寝転がり、ぼんやりしていると、
 電話がある。

 最初の口調ですでにわかるが、
「茂木さまの自己資金
なしで、賃貸するマンションを・・・」
などという。
 興味がありません、とすぐに切った。

 その後に、また別口のところから
マンションを買わないかコールがある。

 世はバブルから一回りして
再び投機の熱に浮かれているようだ。

 不思議で仕方がないのが、株のネット取引に
熱中する人たち。
 ものの理(ことわり)からして、
全体の利得は平均株価によってキャップされるに
決まっている。
 
 だとすればそれを超えてもうけた分は
他人からの所得移転だろう。

 売買の往復でいずれにせよ手数料収入のある
証券会社は別として、
 個人が投資ならぬ投機をするのは
ゼロサム・ゲーム。
 自分が得をすれば、必ず損をしている
人がいる。

 いわば、不可視な中間層に印象が
和らげられた、追い剥ぎゲーム。

 好きな作家の小説でさえ、十分に読み味わう
ことができないというのに、  
 ライフワークをこつこつと積み上げる
ことにすら四苦八苦しているのに、
 そんなものに人生の貴重な時間を費やしたくない。

 もちろん、何をしても
それは個人の自由である、というのは
お説ごもっとも
 投機が資源の最適配分をもたらす
という経済理論は山ほどあるに違いない。

 しかし、そのような事象に対して
私がどういう印象を持つかというのも
自由なのであって、
 百けん(門の中に月)先生ではないが、
放っておいてもらいたい。

 パソコンで数字の上下に一喜一憂
している様子は、昨日見た水戸芸術館の
作品の佇まいとはよほど違っている。

 アンブレラを始め多くの大規模なインスタレーション
を行い、議事堂を包み、島を赤く取り囲んだ
クリストだが、それほど儲かっているわけではなくて、
今は夫妻で
マンハッタンの小さなアパートに住んでいる、
ということをしばらく前に聞いたような気がする。

 ネット長者とはおよそ違った
生活ぶりである。 
 しかし、それでも好きなことを
やってきた人生に悔いがあるはずがない。

 やせ我慢とかそういうことではなく、
脳の報酬系のダイナミクス(欲望とその充足の
質)からして、そのはずだ。

 1991年、クリストが並べた
青い傘を見に、二度美しい里山に出かけた。

 ぼんやりと眺め、様々なことを受け取り、
 なるほど、傘はキャンバスで、むしろ
里山の方が絵なのだ、と思った。

 たまたま駐車場にクリストその人が
いて、若き感激をもって握手した。

 小柄な人で、とてもやわらかな手だった。

 そのやわらかな手の感触と、
昨日見た
高橋瑞木さんのキュレーションによる
Life展の作品は、心の中で似たような場所にある。

 一方、今朝電話をかけてきた投資マンションの
男や、デイ・トレーダーのメンタリティには
目をそむけたくなる。

 もちろん、だからと言って、電話で勧誘する男も、
デイ・トレーダーも、それぞれの生を
ある意味では懸命に生きているということも
わかった理屈である。

 そのような事象がないと、
いわゆる世の中というやつが回っていかない
だろうということも判っている。

 しかし、上野駅で焼きそばをつくって
売っている人の表情や、 
 キオスクのおばさんの見事な仕事ぶりを
ついつい思いだしてしまうのだ。 

 時に、全てを平等に見る神のディタッチメント
を得たいとは思うが、
 何しろ不完全な、死すべき人間のこと。

 私の限りある人生において、
 クリストのやわらかい手の方に
肩入れしてしまうのは仕方がない。

7月 23, 2006 at 11:27 午前 |

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コメント

先週母が病気である知り、急遽実家のある九州大分まで戻っています。過保護な両親のもとを離れたいが為、2年半もの間私自身から連絡を絶ち、家族をさけてきました。ですが長くお付き合いしてきた人と8月から暮らし始めることになり、今の住んでいる東京を離れ、再び以前暮らした静岡へ戻ることに決まり、家族へ連絡せずにはいられない状況だと思い、連絡したところで母の病気を知りました。父は私と連絡が取れないのを心配し捜索願を出そうとしていたそうで、どれだけ家族、また病気の母に心配をかけただろうか、また私が欠けることによる家族の負担などを思い、何も返す言葉が見つかりませんでした。今は元気で回復の兆しの母ですが、昨年は三度も手術をし、うち最後の術後3ヶ月意識が戻らず、生死をさまようほどの状態だったと聞き、大変驚きました。母が生きていてくれて本当によかった、涙がとまりませんでした。自分の身勝手さに今深く反省しています。夏を前にして体力低下を管理するのとリハビリを兼ねまた病院へ戻った母ですが、母が病院へ入院すると毎日来ていただくヘルパーさんもお休みされるので、罪滅ぼし?にはなりませんが、今私が出来る事・・料理やお掃除しかないのですが、家族が毎日負担なく仕事へ行けるよう私なりにサポート中です。東京へは7月末に戻り、バタバタで静岡へお引越し。強行スケジュールなのですが、あまりに実家の居心地が良いので、同じ国内で時差ボケしやしないかと不安です。今回大分の実家で何も不安のない心の穏やかな状態の中思ったのが、、いつも何かに向かって進みたい、豊かな心を持ちたい、その為にさらに深くそのことについて学びたい・・と強く思いました。まもなく33になるのですが、この歳になったからこそ深く学べると思う事について、真剣に考えてみようと思います。茂木先生の存在を知り、先生の本を読まなければ今のこの気持ちは無かったはずで、わたしを取り巻く環境や状況は穏やかではないかも知れませんが、それでも今私は色々な事に感謝し大変幸せに感じています。

投稿: abekaori | 2006/07/26 23:59:00

ハンディキャップといえば、10年ちょっとまえ、非定型精神病やらかしとくに日常表に出ることないし、そんな過去があることを知らない人がまわりには多いのだけど、文章を書くとアナロジーが説明抜きで出てくるような変な表現が出てきてしまう。普段アナロジーでものを考え、他人にもわかると思って表現すると見事に理解不能。誤読?されてしまう。病理というほどのものではなく、変異だと思うけど。

投稿: 岩井雄次 | 2006/07/23 23:38:54

なんだか、読んでいて感傷的な気分になってきました。
心の中でじーんとするものがありました。
そして、茂木さんにしかられたような気もちょっぴりしました。

投稿: サイン | 2006/07/23 21:25:04

茂木先生、久しぶりにコメントします。

中国から日本に帰国して、一週間になります。
この所、心に余裕というものがまるでなく、一週間ぶりに茂木先生のクオリア日記を読み、皆さんのコメントを読み、心が和んでいる私です。
茂木先生は、毎日、多くの人達と会い、交流を持ち、すごいなぁ、といつも関心していますが、やはりつらい気持ちになることもあるのですね。

私も、3週間の安徽省、合肥滞在で、さまざまな体験をし、喜びと苦しみを味わいました。
中国滞在から今、日本に帰って来て、人間の欲望とエネルギーの法則について考えています。欲望のあるところにエネルギーがあるのではないかとー。
そのエネルギーは人間の生にたいする欲望エネルギーと等しいくらいに、マネーに対する人々のエネルギーは強いのだと、まざまざと感じました。
それは、まさに品がなく醜くもあるけれど、人間という生き物は、美しくもあるけれど、醜くもあるものだと、弱い植物を食い尽くす雑草のように、人間も自然の一部なのだと感じないわけにいきません。
でも、私は、雑草の中にひっそりと咲く、可憐な小さな美しい花になりたい。な~んてナルシストでしょうか?

ホテル、ホリデイ・インを発つ朝、ロビーには、一人っ子政策の落とし子を連れたボランティアの女性が、金髪の白人女性に3歳くらいの女の子を引き渡している光景を真近で見ました。中国では、男の子は大切にされるけれども、女の子は捨てられる場合があるそうです。

人が死んでもお墓は作らないそうです。土地がないから。
地球のいたるところで、人は生まれ死んでいく。生命の循環は脈々とエネルギーの法則に従って、廻っているのだと・・。
そういえば、私は以前、茂木先生の「生きて死ぬ私」を買って、途中まで読んで、そのままになっているのですが、丁度そのころ、「死んで生きる」ということを考えている頃でした。

「死んで生きる」それこそが、芸術なのではないか? 
なんて考えていました。人間の創造したもの。建築だったり、思想だったり、絵画だっり、技術だったり。考えれば、芸術だけじゃないけど、人間のすばらしさって、そんな所なのではないかしらと。
茂木先生の本、最後まで読む予定です。
その本は先生がこの世を去っても、生き続けるのでしょう。
私も、そんなものを残したい、それって、茂木先生の言う、美しい欲望になりますか?・・・・・・。


投稿: tachimoto | 2006/07/23 21:20:36

はじめまして、一ファンの佐藤です。
百閒先生の閒の字はワードで普通に出ますよ。
あえて書いてらっしゃるのであれば失礼しました。
また、コメントとして表示する必要はありません。どうしてかな、と思っただけですから。
いつも楽しみに拝読しております。梅雨の折ですが、ご自愛くださいませ。

投稿: 佐藤ま | 2006/07/23 17:57:07

自分のうちにもその手の勧誘電話が最近好く掛かってくる。
NTTの光ブロードバンド勧誘とか、お墓の見積とか。
そういうのには辟易している。幾ら
「間に合ってます」
と断っても、何日か後にはまた同じ電話が掛かってくる。
で、また断る、しばらくするとまた…の繰り返し。
…なんともはや、まるでイタチゴッコである。

ネットにおけるデイ・トレーディングに代表されるような、
“ゼロサム・ゲーム”
あるいは
“追い剥ぎゲーム”
をやっている時こそが人生で最も充実した時間だと思っている人もいる一方で、自分の好きなことをやって、それが一番人生でいい時間だという人もいる。今回のエントリーに出て来たクリストなる芸術家は後者のほうである。

少なくとも、デイトレをやっている人よりは四苦八苦しながらライフワークを積み上げるような生きかたのほうが人間らしさを失うことがないと思う。

キンス(金子)を得て物質的に豊かになるだけの人生よりももっと、美しいもの、価値有るものに出会って行く、また、価値あるものを人生の中で作り上げてゆく、そっちのほうに人生の貴重な時間を使ったほうが魂的に豊かに生きられる。

ネット上の数字の上がり下がりに一喜一憂している(だけの)人生って、それこそ、地面に顔をつけて、ダイヤモンドはないかないか、と探し回っているようなもので、せせこましいことこの上ない。そんなセコイ人生は、ノーサンキューだ。

彼等は儲けのことは分かっても、人生の色々なことは分からないのではないか。

カネ儲けなんかよりも、人生にはもっと大事なことが有る、ということを感じられるほうがよっぽどいい。

そのカネよりも大事なことに、人生の時間を使っていきたいものだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/07/23 12:51:12

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