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2006/07/10

衝突コソガ人生ダ

 渋谷のハチ公前で、
NHKの細田美和子さんと待ち合わせ。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』
のロケ。

 いつもしているように、街中を歩きながら、
立ち止まって考えたり、本を読んだり
しているところを撮る。

 「お休みのところ、すみませんねえ、
茂木さん」
 「いえいえ。何しろ、細田さんにとって、
ディレクターとして最後の番組ですから」
 「そんなことを言わないでくださいよ。
さびしくなるじゃないですか」

 日曜日の渋谷、原宿は
たくさんの人出。
 
 その中を、歩き、撮られる。
 
 撮影が終わって、カメラを持たせて
いただいた。
 10キロ。
 私のリュックも同じくらいの重さだけれども、
片手で持つところが違う。

 「今日は、これからお仕事ですか?」と
細田さん。
 
 「そうですね、それと、久しぶりに
少し走ってみようと思うんです。いつも
リュックをしょっては走っているんですけど、
それだとあまり喜びがないんですよね」
 「ああ、移動の時ですね。ジョギングは、
どこを走るんですか?」
 「家の近くの公演と、森です」
 
 細田さんたちに別れを告げ、
明治神宮の森を抜ける。

 歩きながら考えるのは、何よりの快楽である。
 最初のうちは、自然と最近の人生の
さまざまなことが頭をよぎり、
 ああでもない、こうでもないと思う。
 
 それから、次第に、本質的な問題群が
心を占めるようになってくるのだ。
 みそぎを済ませてから核心に
至る。

 結局ジョギングは、30分くらい。
 久しぶりにのびのびと身体を
動かしていると、
 内側からリズムが立ち上がってくる。

 朝起きて、イタリア対フランスを
見ていたら、
 ジダンが頭突きをして
退場した。

 冷静沈着だと思っていたジダンが、
頭をぐんとぶつけて、相手のディフェンスを
倒した。

 その前の、キーパーに取られてはしまったが
矢のようなシュートと合わせて、
今回のワールドカップを象徴する
イメージになった。


 ボールにもあたまをぶつけ、
相手の胸にもあたまをぶつける。

 サッカーは衝突の芸術なのだと悟る。
 
 『クオリア降臨』 でも引用した、
漱石の『三四郎』で美禰子と出会う
場面を思い出した。

 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。

(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎の青春は、美禰子との衝突から
始まる。
 人生の本質が衝突にあるとするならば、
ボールと人間が衝突を繰り返す
サッカーに魅せられるのも当然だろう。

『クオリア降臨』から、もう少し引用しておく。

 『三四郎』が書かれた当時、日本という国は、ヨーロッパという強大な他者との衝突コースの中にいた。それはざわざわとした過渡期であった。ファースト・インパクトはすでに起こり、その衝撃は日本社会の至る所で深化しつつあった。もはや、戯作や歌舞伎だけの日本ではなかった。異文明との衝突の影響の中で、どれだけ多くのものが消えていったことだろう。三四郎が、美禰子のことを思いながら「電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある」というイメージに自分の夢の生活を託し、そのことを私たちもまた自然なこととして了解してしまう時、その背後には多くの「古い日本」が埋もれてしまっているのである。
 欧州文明との衝突の中で、日本語の表記は変わり、文体が変わり、多くの新しい言葉が作られた。そのような社会と言語の激動の中で、近代文学が誕生した。近代日本文学とは、まさに衝突の中に生まれた芸術である。それは、内的必要の切実な発展を追っていった結果などではなく、明治という文明の衝突が生み出した偶然の果実であった。
 衝突は、新しいものを生み出すと同時に、古いものが突然断ち切られるきっかけともなる。それは、日本という大きなスケールでも、個人という小さなスケールでも起こる。美禰子というきらめく小惑星と衝突してしまった後では、故郷に残してきた三輪田のお光さんの影は薄くなる。三輪田のお光さんは一体何を象徴しているのか。その気になれば幾らでも個人の生活における、あるいは日本の近現代史におけるアナロジーを見いだせるだろう。『三四郎』は、まさに「衝突小説」である。その小説世界の中からは、三四郎の恋愛事件から日本の富国強兵がもたらした近隣諸国との軋轢まで、様々な衝突の音が聞こえてくる。

茂木健一郎 『クオリア降臨』(文藝春秋)より

 『クオリア降臨』は『文學界』に
連載した「脳のなかの文学」をまとめた本であります。

 今日もまた新たなcollision courseに向かって、
我が人生は進むなり。

 衝突コソガ人生ダ。

7月 10, 2006 at 06:22 午前 |

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コメント

 ジダンの頭突き、あまりに「!!!」だったので、思わず
掲示板に書かずにはいられませんでした。
 少したってから、「私がこれから先、だれかに、倒れるくらい
強く頭突き(すごく動物的な攻撃だと思ったので)することは、
おそらくないだろうなあ」だとかいろいろ思いました。
(ジダンにはやはり大きな理由があったようで。MVPは
良かったね!)


 この数日間の茂木さんの日記を読んで、私の中ではまさに、
激しい衝突の嵐でした。
 そのきっかけとなったのは、茂木さんが、知人の方が
亡くなられて、とても悲しい気持ちになったと書かれていた
ことでした。ご冥福を、心からお祈りいたします。
 茂木さんのイギリス滞在時の日記を読んだその時、目から大粒の
ものがこぼれおちたこと、この10年に自分に起きた様々なこと。
 こうして書く前にも逃げてゆく言葉や思いがありすぎて…。
 掲示板にはまったく違う話題を書くことで、私は自分の感情から
逃げていたのですね。自分をフォローするなら、そうしてバランスを
とっていたのかもしれません。

 そんなことを思いながらいつも頭の中にあったのは、
「胸のときめきも、星のきらめきも、生きているからこそ
なんだ…」ということでした。


 衝突の嵐にもまえぶれがあるようで、茂木さんの、
「幼稚園の時のことを思い出したのには理由が…」のところで、
「じゃあ、私がすっかり忘れていた“おしら様神社”を思い出したのも、
なにか理由が?」とか、そんなことももれなく思ったのでした。
(「あれはやっぱりおしら様に呼ばれたのよ。だって茂木さんの
風邪、お参りしたら治ったよね!」と、勝手に思っているのだ!)

投稿: | 2006/07/11 6:30:15

衝突コソガ人生ダ。う~ん、蓋(けだ)し名言だ。
私達は生まれてこのかた、色々なもの・人・こととの衝突を繰り返して成長し、またその成長の過程でいろんなものを失ってきた。
漱石の「三四郎」で美禰子との出会いが三四郎にとっての、1つの大きな人生の衝突であった。三四郎はそのときに三和田のお光さんへの思いを失い、美禰子への思慕を寄せる。

結局、美禰子という小惑星は、三四郎のそばをすっ!通り過ぎて行ったわけだが、二人は其々の人生の道程にて、其々衝突を繰り返しながら、生きていったに相違ない。それはなにも小説の中の人物に限らず、いまこの現実世界を生きている生身の私達もそうであるのだ。

人間はみな小惑星だ。その小惑星同士の衝突こそが人生の一つの真理なのだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/07/10 17:49:35

TVを観ない我が家ですが、「プロフェッショナル仕事の流儀」は表現は知人宅で観るようになりました。
個人的に「なぜヒトは同じことを考えるの?行動するの?」
だろうと考えてきました。おそらく小学生のときの歴史の授業で四大文明がほぼ同時期に発生したと教えてもらったからのように思います。
衝突ですが、エネルギーが生まれる瞬間、何かが融合する瞬間というイメージがあります。どうも日本人の概念に衝突というとマイナス要素が多いと感じます。ディベートやロジカルシンキング、ブレインストーミングなるものは、皆衝突する際のエネルギーを利用して、何かを生み出そうとするプロセスではないかと考えています。
ジダンの頭突きは「俺はもう疲れた」という気持ちを感じました。

投稿: 海馬 | 2006/07/10 15:19:53

衝突の瞬間に散る火花、きらきらっと瞬く光線、一瞬にして消えたもの、美しく消えただろう。美しい思い出、人々の愛惜の念とともに。そこから新たなものが生み出されたなら、消えたものも本望だろう。

現代の衝突はどうだろう。衝突して、消えるものたちはただ粉々にくだかれて、救いようのない消滅の仕方をしているように思える。消え行くもの、人、文化、生命に対して、そこに思いはこめられているか、疑問だ。

投稿: | 2006/07/10 11:20:56

かけ抜ける 公園

明治神宮カフェでの 一服 オススメです。 ペリエ

投稿: | 2006/07/10 8:13:21

冷静沈着なジダン。
少し目を離したら、振り向いて相手とひとこと、ふたこと交わして、
また振り向いたと思ったら頭をぶつけた。
わたしも
 ヘディングだ、
 と思いました。
小競り合いではない、サッカーであんなにはっきりした場面を見たのは初めてです。

美禰子の現れるシーンは、美しいですね。
明治という文明の衝突が生み出した偶然の果実、
衝突小説、そこまで深い読み方はしたことがありませんでした・・・。
茂木先生の視点をふまえて、あらためて読んでみたいです。

投稿: | 2006/07/10 7:35:11

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