« 美術解剖学 松井茂 | トップページ | ブルーなり。 »

2006/06/11

森閑たる風情がしっとりと

 よく、睡眠時間は何時間くらいですか?
と聞かれるが、
 大切なのは目覚ましで起きるか
それとも自然に目覚めるかでは
ないかと思っている。

 どうしても移動しなければならない時など、
目覚ましをかけるが、
 普段は自然に目覚めるようにしている。
  
 レム睡眠からスローウェーヴスリープ
までのサイクルがうまく完結して、
それで目覚めると爽快、という
理論である。

 今朝は目覚ましをかけた
口だが、 
 鳴る前から意識はあった。
 うまいコーヒーを飲んでいる夢を見て
いたのである。 

 コーヒーで目覚めるのはしめたと
思う。
 偶然にせよ、ラッキーである。

 少し疲れが溜まっていたのか、
昼寝をした。
 それでもまだ眠れる気がする。
 いちど一日中ごろごろしている
日があったらうれしいと思う。

 猫が横たわり、
 そよ風が吹く縁側だったらなお良い。

 夕刻、カズオ・イシグロ一冊
だけを持って渋谷へ。

 普段しょっている十何キロという
リュックがないだけでも解放される。

 電通の佐々木厚さんと待ち合わせて、
「常磐松」へ向かう。
 何しろ、白洲信哉からは
「常磐松から國學院に向かって歩いてきて
ください」という曖昧なる指示しかもらって
いないのだ。

 案の定迷って、電話した。
 「住所はどこなんですか?」 
 「それが、ぼくもわからなんですよ」
 「近くにあるという墓は、何という
寺ですか?」 
 「それが、ぼくにもわからないんですよ」
 「うーん、困ったなあ」
 「とりあえず、出ますから」

 白洲さんが
 とりあえず出ても、どうにもならないのでは
ないか。。。。

 佐々木さんがぽつりと言った。

 再び白洲信哉から電話がある。

 「茂木さん、どこにいるんですか?」
 「こっちが聞きたいよ」
 「知らないですか、常磐松。宮様の」

 それで、学習院出身の佐々木厚さんが
反応した。
 宮邸は確かにあり、我々の歩いてきた
方向とは反対である。

 しょうがないなあ、と歩き出す。

 「あっ、いたいた」と佐々木さんが
指す方向に、確かに長身の姿が見えた。

 デザイナーの小池憲治さんも立っている。
 
 ようっ、と手を上げ合って、宴は
始まった。

 伺ったのは、古美術 一元堂の
臼井一元さんのお宅。
 
 信哉が出張シェフの趣向で、
古伊万里研究家の香山さん、
 普段はイギリス在住のデザイナーK氏、
それに白洲信哉の奥様という面々。
 
 白洲信哉の家にあった熊谷
守一の「喜雨」という掛け軸の話に
 なった。

 「あれはいいね」
 「銘がいいね」
 「あれ、ひどいんですよ。私が持参して
掛けて見せたら、ああ、これ、もらって
おくよ、ここの方が似合うだろう、って
そのまま」
 「はははは。そうでもしなけりゃ
手に入らないだろう。作戦を立てたんだよ」

 世が世なら、白洲信哉はとなりの
部族に出かけていって棍棒でなぐって
気に入った女をつれてきたんじゃないか。

 奥さんは、その口ではないですか、
と臼井さんが言うと、
 信哉は、「実は逆になぐられているんですよ」
と言った。

 臼井さんがテーブルの上に並べた
李朝の白磁をいろいろいじる。

 「これはいい形をしていますね」
 「ああ、それは残念ながら作家物です」
 「この小さいやつは?」
 「それも、新物(あらもの)です」
 「この片口(かたくち)は?」
 「ああ、それは古いですよ。16世紀です」

 やりとりしているうちにはっとわかった。
 新しいものは、自我が邪魔を
している。
 ただ単なる酒器として作っているんじゃなくて、
「オレが」という作家性を出そうとしている。
 それが余計な雑味になっている。
 
 近代的自我が芽生えたのはいつからか
知らないが、 
 作家の銘うんぬんと言ってしまっては
もうダメなのだろう。

 ある時期に出来たものが
どうしてもう成らないのか、
以前から不思議に思っていたが、
何となく考えの道筋が出来た。
 
 人間の心の成り立ちが変わって
しまっているのである。
 
 信哉の作ったものはうまい。
 鱧の落としも、浮き袋も、
 スミイカもぽんぽん口に入る。

ビールの後は片口から焼酎を注ぎ、
あれこれやっているうちに夜が更ける。

 本当は朝までお付き合いしたかったが、
何しろ今日は日帰りの「長征」を控えている
のでそうもいかず。

 信哉も前日、京都に日帰りして和久傳で
和楽の渡辺倫明さんと会食して
きたようである。

 「京都に日帰りするようじゃ、
おれの人生ももう終わったと思ったね」
 と白洲次郎の孫が言う。

 そういえば、青山二郎は同じジロウだと
初めて気がついた。

 じゃあ、帰るね、と立ったら、
それがきっかけでお開きになってしまって、
 なんだみんなまだいればいいのに、
と勝手な理屈を吹きながら宮邸の
横を通り、タクシーを拾った。

 宮邸の森閑たる風情がしっとりと
脳裏に刻み込まれた。

 コーヒーを啜る夢で目覚めるのと、
酔って森の緑にしっとりとするのは
どちらも良い工夫なり。

6月 11, 2006 at 06:26 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 森閑たる風情がしっとりと:

» 文化財保護(4) トラックバック 御林守河村家を守る会
昨日は、「御林守」を見なおすうごきがそろそろはじまってくれるといいですね、 ということでした。 よくきくお話のひとつに、沿岸部の漁業従事者の方々が、 沿岸の海のゆたかさは、そこへ流れこむ河の水の豊かさによることを知って、 山林価格が暴落して崩壊した水源の... [続きを読む]

受信: 2006/06/11 9:15:08

» http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=496 トラックバック 御林守河村家を守る会
『白洲次郎直言集』(2) ケサハ二日酔ハナハダシキナリ、 ヨッテ『白洲次郎直言集』ヨリ抜粋ス、 ワレ茂木健一郎先生ノ芸大授業ニ参加シタキ希望アレドモ 生業ユエニデキズ、 ココニ『白洲次郎直言集』ヨリ文士ノ自己批評性ニ言及セリシ部分ヲ 転載スルモノナリ、 �... [続きを読む]

受信: 2006/06/12 7:56:07

コメント

「レム睡眠」という術語は状態につけた名前だと思います。反対語が「ノンレム睡眠」でした。それぞれどういう実態であるかがわかりません。夢と、睡眠時の眼の動きとが、なぜ、いかに、関係するのか知りたいと思っています。茂木先生教えてください。

投稿: 藤田こう一郎 | 2006/06/11 21:24:41

ここではやきものにおいてだが、いかなものにせよ、自我にもとずく作家性なるものが、その作品にとっての余計な雑味になり、その美的価値を破壊するものなのかもしれない。

それだったらフツーの生活雑器のほうが美的価値があるように思われる。

なぜかというと、そういう生活雑器には「オレが!」という自我にもとずく作家性がそもそもないからだ。

単なる酒器としてつくられた16世紀の片口は、その当時の、人々の暮らしの中で使われた生活雑器であったに違いない。

「近代的自我が芽生えたのはいつからか知らないが、作家の銘うんぬんと言ってしまってはもうダメなのだろう。――ある時期に出来たものがどうしてもう成らないのか、以前から不思議に思っていたが、何となく考えの道筋が出来た。――人間の心の成り立ちが変わってしまっているのである。」

心の成り立ちが変わってしまった、ということは脳の性質が昔の人間と今の我々とは違ってしまったということなのに相違ない…。

たんなる生活雑器として使われていたものが、いつしか作家性を追及するようになった時、「美術品」「芸術品」という「もの」としての価値は増すが、それとは違う真実の、まっさらな、16世紀李朝の片口にあったようなピュアで透き通ったもの――それは本当の意味での美的価値――心を揺さぶるような、そのものがもつ真実の美――からは遠ざかっていってしまったのかもしれない…。

それはおそらく時代の経過による我々の脳の“変質”とあながち、無関係ではあるまい。


もっとも柳 宗理のような名のあるデザイナーの人が生活の為の器を作っているが、その器にも、自我にもとずく作家性は薄いように思える。

柳は生活の器をデザインする時に、おそらく、メディアアーティストの岩井俊雄が作品を作る時と同じように、自我を「リセット」したのではなかろうか。

あの有名なキッコーマンの醤油さし兼用容器も作者が自分をリセットしながら考えたものに違いない。

生活雑器だけではない。ホンダのスーパーカブも、本田宗一郎が、自我をリセットして考えた製品なのかもしれない。芸術作品とは違い、生活の為の「もの」というのは自我をリセットして作られなければ、その本当の美的価値は失われるのだ。

しかし、これからの時代は芸術作品と生活のものとの間の垣根がどんどん低くなる時代だ。
時代の先端を走る精鋭、たとえば佐藤可士和がキリンレモンやドコモケータイのデザインを生み出し、ヒットにつなげている。

おそらく可士和氏は、おのれの作家性をリセットしつつ作り上げたのだろうが、芸術的な価値がそのケータイには溢れている。それでいて、
本来のピュアな価値は失われていない(そのケータイの赤モデルが、茂木先生の現在の愛機だったりする)。

となると、21世紀の“傑作”が生まれるか、そうでないかの問題は、作家が、その自我にもとずく作家性をリセット出来るか出来ないかにかかっているのだろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/06/11 13:48:45

心の中に情熱を持つ人は枯れないと信じています。

茂木健一郎さまにとって、英気を養う時間が1秒でも1分でももたらされることを願います。

投稿: 平太 | 2006/06/11 10:41:21

眠れないのでcafeに書きこみしていました。
更新が早いのはコーヒーの夢のせいでしょうか。
なんというぜいたくな目覚め・・・
睡眠サイクルガタガタのわたしは、うらやましいかぎりです。

茂木さんにすてきな休日があって、なによりでした。
日記に白洲信哉さんが登場するとなんだかわくわくします。

「残念ですが作家ものです」というのがおもしろいですね。
何夜目かは思い出せませんが、
大好きな『夢十夜』の、
運慶が仁王を彫っている話が浮かびます。
よくああうまく彫れるものだねといったら、
あれは木のなかにもともと仁王がいるのを、ただ掘り出しているだけだといわれて、
それならと自分もと薪で試すけれども、彫っても彫っても見当たらない。
けっきょく明治の木には仁王は埋まっていないことに気づいた。
それで運慶が今日まで生きている理由もわかった。
こんなお話でした。

器を見ても建築にしても、
昔のようになぜいかないのだろうと思いますが、
茂木さんのおっしゃるように、作り手をふくめて人間の気の持ちようが、
昔とは全然違ってしまったんですね。
漱石先生の時代であのように言っていたのだから、
いまはますますですよね。

こん棒はちょっとカゲキです・・。
白洲信哉さんは、おじいさまと気性が似てらっしゃるんですか?
そうだったらなんとなくうれしいです。
昨夜NHKで、
日本のこれから、というタイトルで、
米軍の基地問題について長い討論番組をやっていました。
途中から見たのですが、
白洲次郎さんのように、米国にもの申せる人間は、
いまの日本にはもういないんだなと思いました。


投稿: M | 2006/06/11 9:32:46

近代的自我
作家性
人の心の成り立ち

幾つかの言葉が、未消化のまま
心の中をまわりはじめました。

茂木さんのブログを読み始めて
私にとってある人を通して語られる言葉には
命があり、生きているんだということに
気づきました。

茂木さんの
「感情に関わる大ネタ」は
私を含め、混沌の中にいる
たくさんの人を救い出して
くれる気がしています。
(これは私の直感です)

ただ、どうか、
お身体だけは大切に

茂木さんの言葉を
心の支えにする
多くの人の祈りが
とどきますように…

投稿: mori | 2006/06/11 9:04:56

少し景色は違いますが

朝、白隠禅師の禅画をTVで見ました。

その景色にこめられたメッセージについてのお話には
とても興味深いものがありました。

「森閑たる風情がしっとりと・・・」心のうちにありて・・・


青々と  いろ濃き樹々に  迷い居て

  いずれの時にか   想いを馳せる

投稿: TOMOはは | 2006/06/11 7:38:44

コメントを書く