« メールについて | トップページ | なぜウニやイクラを最後に食べるのか »

2006/06/12

かぶきの道

橋本麻里さんは
高橋源一郎さんの娘さんで
フリーの美術ライターをされているが、
美について
いろいろ教えてくださるので
ありがたい。

 それに原研哉さん、内田樹さん、
杉本博司さん、千宗屋さん(武者小路千家次期家元)など
を結ぶキーパーソンでもあるのである。
 
 今回は、「伊勢神宮」への日帰りの
旅を企画してくださった。

 あとで小学館の
『和楽』に原稿を何枚か書かなくては
ならないが、それくらいはおやすい
御用である。

 伊勢神宮には、何回も行っているが、
宇治橋のところで神宮司廳の
河合真如さんが待っていて
くださったことで、
これまでとは違う
流れになることが確信された。

 明治大学の三沢直子さんも
ご同行される。

 内宮は何回も拝しているが、
 御垣内への参拝は初めてである。

 まずは頭を垂れ、塩で
清めていただき、
 黒い玉砂利を踏みしめて
一歩進んだ瞬間に、
 電撃が走った。
 
 感覚が、全てをとらえ、
記憶しておこうと全開される。

 やはり伊勢の神宮は良い。
何と言っても良い。

 ここから先は『和楽』の連載
「日本のクオリアを旅する」
に書くので省略。

 隣りなる古殿地の
設い、たたずまいもまた至上のもの。
 橋本さんが、「こんなに美しいものは
この世にそんなにありませんね」
と言う。
 
 とにもかくにも、
 伊勢の神宮は、まずはとてつも
ないものである。
 
 現代アートの、サイト・スペシフィックだとか、
インスタレーションとか、そんなコンセプトは
とっくの昔に実行してしまっているし、
 超えてしまっている。

 ただ、その真価を現代的文脈に結びつける
ことは難しい。 
 かぶいて、バサラをしなければ
到底新たな創造性の回路に結びつけることは
できまい。

 じゃあ、ひとつ、かぶいてみるか!
 石畳を見ながら算段する。

 別宮の一つ、瀧原宮へ行く。
 
 杉本博司さんは直島の
護王神社の造営の際、唯一神明造りの古様 
を研究するためにこの地を訪れた
とのこと。

 帰り際に宮司さんとお話する。
 河合さんに樹齢千年のクスノキが
あると聞いてきたのだが、 
 そのようなものはないと言う。

 せっかくいらしたのにと、親切にいろいろ
説明してくださった。

 水が湧く美しき土地。
瀧原の名が表すように、瀧が数多くある。

 わき水の一つは井戸として利用
されており、神事に用いられる大切な
役割を担っている。

 本当に親切に教えていただき、辞そう
とすると、「あのランを見ていってください」
と言われる。

 日本古来の自生ラン、「せっこく」。
ほら、あそこにあるでしょう、と大木の
はるか頭上を指し示す。

 「幹から、右に出ている枝がありますね。
次の枝分かれを右にいって、次は左にいって、
L型に曲がっているところに着いて
いるでしょう」
 「はい!」
 「その隣りのこの木ですけどね。途中に
もわもわっと葉が固まって茂っている
ところがあるでしょう。その右側を上がって、
左に折れて、梢の上3分の一くらいのところに
せっこくが着いていますな」
 「本当だ!」

 まるで超能力のようである。 
 せっこくが好きで、普段から観察
していらっしゃるのだろう。
  
 はるか頭上のやっかいな
 場所にちらりと見える白い
花を教えてくださる
的確な言葉遣いにも感服。

 嵐の後など、せっこくが沢山落ちていて、車で
取りに来る人もいる由。

 それにしても、
 水がしたたるような美しい緑。
 自然と足取りもゆったりとなる。

 「今日は、茂木さんにご紹介したかった
『日本のクオリア』のイメージにぴったりの
場所でした」
 と橋本さん。 
 
 イランやイラクから参拝された方々が、
五十鈴川の清流や周囲の山の風情を見て、
「故国と風土を交換して欲しい」と
漏らした、と河合さんが言われたのを
思い出した。

 橋本さんは引き続き文藝春秋の取材がある
というので名古屋で別れ、
 私は一人新幹線で帰る。

 ここのところ働き詰めだったから、
ちょっとはゆっくりしてもいいだろうと
思い、
 ビールを飲みながら流れていく風景を見る。

 日本の風土を愛しつつも、
夜郎自大でもなく、
 オリエンタリズムでもなく、
守旧でもない
 かぶきの道を見つけるのはよほどの
難事であるとつくづく思う。

 そんな中、伊勢の神宮のような場所は
一つの絶対基準として存在し続ける。

 かぶきの道は本当は
至るところにあるのだろう。

6月 12, 2006 at 08:15 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: かぶきの道:

コメント

伊勢神宮ってすごいところなんですね。
いってみたーい!
茂木さんの感覚が全開になった場所は、ふだんは入れないんでしょうか。
ランもみてみたいです。

かぶくのいいですね。
茂木さんは普段からなんとなくかぶいているイメージありますが・・・。
最近ようやく、こだわっちゃあいけないんだなあということがなんとなくわかってきたんですが
でもこだわりを捨ててしまってもいけない気もするし。

夜郎自大でもなく、オリエンタリズムでもなく、旧守でもない、
茂木さんが考えるかぶきの道。
むづかしいですよう


投稿: M | 2006/06/12 19:56:55

日本の「アニミズム」の聖地・伊勢神宮への旅企画で、かぶいて“バサラ”になる“決意”をした茂木先生。真の「かぶき」の道は、夜郎自大やオリエンタリズム、守旧、ナショナリズムとは別なのではないかという気が、今回のエントリーを読んだらしてきた。

姿形からしてかぶいた“バサラ”的なムード満点(!)の茂木先生なのだが、この旅企画をキッカケに、本当の意味で大いにかぶいて、“バサラ”になったら、茂木先生はどんな“バサラ”になられるのだろう。

日本古来のランの一種“せっこく”が“バサラ”にならんとする茂木先生を祝福しているようだ。

“かぶきの道は本当は、至る所にあるのだろう”

その至る所でかぶいて“バサラ”になることの難しさ。ヘタしたら社会から孤立しかねない。実際、マスコミから激しい攻撃を受けつづけた人もいるときく。

孤立を恐れず、社会の矛盾、人生の荒波に立ち向かって行けば、人は誰でも“バサラ”になれる。

それにしても伊勢神宮周辺の自然の清冽なる美しさ。
沙漠の民が故国と風土を交換して欲しいと懇願したというのも肯ける。

伊勢の清冽な自然と空気が、働き詰めで芯から疲れた脳科学者の頭と身体をほぐしてくれたのかもしれない。

しかし、東京へ戻るとまた煩雑な日々が待ち構えている。
茂木先生も、我々も、その煩雑さへ舞い戻って行くのだ。
そして、その煩雑さとの闘いをまたもはじめるのだ。
その闘いの中にこそ、実は真実のかぶき“バサラ”への道があるのかもしれない。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/06/12 19:00:19

先生、最近はたまにしかブログを拝見しなくなってしまいました。
脳の話が無いからです。
一般人にもわかりやすい脳の話を書いて下さい。
先生、お願います。
本を買えばわかるではなく、買いたいと思うような脳の話をしてください。今の先生の文章は夏目漱石や芥川龍之介の作品のあとがきにでてくるようなものばかりでつまらないです。
誰々に会ったとか、誰々と飲んだとか、
昔の小説家の作品にならない文章のようです。
お願いします。

投稿: バイエル2世 | 2006/06/12 18:49:59

同じような思いを、京都の上賀茂神社で感じます。あそこは割と狭いのですが、狭さも含めてなんだか清清しいものがあります。

投稿: x31hook | 2006/06/12 14:08:00

はじめまして。今日やっと先生の本が8冊届きます。
きっと自分には難しいと思いますが、がんばって読ませて
いただきます。
そして先生は伊勢に行かれたとのこと、とても羨ましいです。
これからもクオリア日記楽しみにしています。

投稿: クオリア・ファン | 2006/06/12 10:09:55

言の葉と  窓を抜けいで  駆け行きて

     あまつの空に  心おどらせ


神代の風  梢たかくに  眼をやれば

   少彦薬根の  白きはな咲く


想いつくままに、いずれの時にも、いずこの地へも

行くことができるんですね・・・

投稿: TOMOはは | 2006/06/12 9:36:00

伊勢神宮の宮司さんが
『神は見るものでなくその存在を感じるもの』
といったことや、
畏れなどについて語っておられました。
やはりあの素晴らしい神宮の中ですごしていると自然とそういった思想になるんでしょうか。

畏れの存在って人間にとって大切なものなんでしょうね。

投稿: 平太 | 2006/06/12 9:11:43

コメントを書く