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2006/06/06

真摯にして曇りのない自己批評文

それにしても、綱渡りの一日だった。
 
 朝起きたとき、こりゃダメだ、と
思った。 
 やるべきことと時間の間尺が
合わない。
 アポイントのどれかをさぼりたい気分に
なった。

 しかし、結局さぼらなかった。

 移動しながら資料を読み、
タクシーの中でキーボードを打ちまくる。

 自分でも奇跡ではないか!
というような集中力で、気付いたら
なんとかこなせていた。
 こんな日もあるものだ。

 午前、電通で研究会。
 話を聞き、議論をしながら
手元はずっと動いている。

 これは苦しい。苦しいが楽しい。

 東京芸術大学。
 大浦食堂横のテーブルで
 二件ミーティング。
 ミーティングの合間に、
仕事を送信。
 うーん、タイト。

 やっとたどり着いた美術解剖学授業。
 二つのことを考えたかった。
ひとつは、無限とか断絶とか、そういった
どうしょうもないことを前にした
感情の働きについて。

 芸術とは何か、ということを
考えたとき、どうすることもできない
ことを前にして、私たちの心が
どのような動きをするか、その問題が
本質だと言いたかった。

 つまり、進化論の「適応」概念
では直接的には説明できないということである。

 もうひとつは、自己批評性の問題。

5月30日の当日記で『吾輩は猫である』
の一部を引用したが、
 私は漱石のすぐれた点はその自己批評性に
あると思っている。

 批評は、もともと愛をもって他者を
育てるためにあるものである。
 だとすれば、自分自身に愛をもって
接し、批評せよ。
 ここが出っ張っている、ここが
引っ込んでいると記せ。
 
 漱石のように、自分が貧乏英語教師であること
や、あばた面であることや、
 金が欲しくてたまらないのに超然とした
ふりをしていることや、
 その他、自分のもっとも弱く、痛い
ところをつき、諧謔のうちに活写せよ。

 そうすることが、精神のかたちを
ととのえ、みがき、より美しいものに
していくためにどうしても必要なことである。

 大浦食堂地下の生協で買った原稿用紙を
配ると、みんな神妙な顔をしていたが、
 やがて書き始めた。

 もちろん、私も書いた。
 

 書き終えた人から、前に出て
朗読してもらった。
 植田工がやり、蓮沼昌宏が読み、
何人かの女子学生も朗読した。

 みな、
おどろくほどあからさまに自分のいた〜い
ことを書いてくれた。

 カンドウした。
 うれしかった。

 布施英利さんも、自作を朗読した。
 最後に、杉原信幸も朗読した。

 まだまだ続けたかったが、時間に
なってしまった。

 なんだかすさまじくもしんみりと思い出深い
授業になったと思う。

 あとで、授業に出ていた
芸大生から、

昨晩、私は初めて本気で美術をやめ
ようかと悩んで泣きながら夜を過ごしたのですが、
今日の授業を聞いて、もう少しだけ、あと少しだけ
がんばってみようという力が沸い
て来ました

とメールをいただいた。

 伝わったのだ! と思って、うれしかった。

 いつものように上野公園でビールを飲んでいると、
杉原がなかなか来ない。

 聞くと、「やってしまったあ!」と呆然として、
気持ちが落ち着くまでそのあたりでぶらぶらしていた
のだという。

 杉チャンは、それだけエラカッタんだよ。
より高い次元に行けるように、
 自分をきちんと客観的に見て、
突き放すことができたんだ。

 みんなの前でやるのは、ちょっと
恥ずかしいけどね。

 誤解なきように。成功した著名な
作家、芸術家や、今世間で喝采されている
クリエーターの中に、自己批評のない
人などいくらでもいる。

 裸の王様のまま、歴史に残っている
人もいる。

 だから、漱石のように痛々しいまでの
自己批評性は、クリエーターとして
成功するための必要条件ではない。

 しかし、最高のクオリティ
のものをつくるためには、自己批評精神は
不可欠であると思っている。
 
 突き抜けるためには、自分の出っ張っている
ところや引っ込んでいるところを
きちんと見つめることが、
 どうしても必要なのだ。
 
 日本のクリエーターにはナルちゃんが
多いと以前から何回か書いているが、
 自己批評精神の欠如こそが、
昨今の日本の最大の問題点であると
私は思っている。
 
 だから、本当に良いものが
できないのである。

 皆さんも、日本が列強の仲間入りだと
浮かれている時に、『三四郎』にて
広田先生をして

熊本より東京は広い。
東京より日本は広い。日本より頭の中のほうが
広いでしょう。とらわれちゃだめだ。
いくら日本のためを思ったって贔屓
の引き倒しになるばかりだ

と言わしめた漱石の精神に殉じ、
真摯にして曇りのない自己批評文を
書いてみませんか。

6月 6, 2006 at 07:36 午前 |

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コメント

茂木健一郎親方、こんにちは。お元気ですか。
面白いお話をありがとうございました。
体のぬくもりを感じました。
なんだか風船になって、ふわふわふわふわどこかへ飛んでいってしまいそうな気分です。
ありがとう
あ、
手袋を買いにというお話にね、(狐の親子が子狐がしもやけになって、おててがちんちんするから、町まで手袋を買いに行くんだけどね、子狐は人間に戸のすき間から、化けたほうの人間の手じゃなくて本当の手をさしだしてしうのね、
だけど、毛いとやさんは、おててにちゃんと合うように、
子ども用の手袋をはめてやりました。
それで、
家にかえると中でね、子狐はね、
「人間はほんと
うにおそろしいものかしら、
にんげんはほんとうにおそろしいもなかしら」
と思う)んだけど、僕も手袋がはまった気分です。
親方はきつねのお母さんみたい
ありがとう
だけど、何を思い出したかは忘れちゃった。
きっと、毛いとやさんに貨幣としてわたされたんだと思う。
伝えられなくてごめんなさい。
許して。
うんと、
お空の上の
茂木健一郎先生
不自由な彫刻の
t(東次郎)

もう一通「」シンテンの手紙を同封します。もし会ったら、
神様に届けてね。

じゃまた。
ありがとうございました。

投稿: | 2006/07/13 18:14:36

こんにちは! 興味深くて面白い授業のMP3公開を有難うございます! 私は普段、芸術は主に楽しむ側なのですが、この授業を聞いていたら、どうも★ムズムズ★してきて、よしっ、私も!と自分でも書いてみる事にしました。

自己分析系はそれなりにした事があっても、芸術的に高める視点と温かみを持って自分を批評する、という作業はなかなか難しいですね。自己反省文(笑)になってもちょっと違うし。 そこでフト閃いた視点が、私が尊敬する祖父でした! 私が生まれる前に亡くなってしまって実際にあった事はないけれど、色々と話を聞いているととても好意を感じ、敬意が深まる祖父が、もしも、この世に遊びに来て自分に会ったらどういう事を言ってくれるかなぁ、と思いを巡らしました。授業のように10分で、と書いてみたのですが、この視点を思いついた後はタイプを打つ手がかなり軽やかに弾み、あっという間に10分が過ぎました。。

特に若い時にみられる、情熱に任せて取り合えず走り出して突っ走る!ような心の動きも掛け替えがないと思うのですが、このような形で自己批評ができる力も大切にしたいし、やっぱりスイッチや天秤を上手くつかって、両方使いこなすのがベストだな、と思いました。

投稿: | 2006/06/11 13:56:12

ふっくら・・・という表現はまだまだお甘いのでは?

投稿: | 2006/06/07 8:51:33

有給休暇を利用し、モグらせて頂きました。そして「原稿用紙」を目の前にし、私も神妙なそして豊潤な時間を共に過ごさせて頂きました。

茂木さんが思い出深い講義と書かれた通り、芸大の受講生そして自己批評を発表された方々はとても輝いて見えました。ドキっとする様な告白もありましたが、高次の創造性を志向する若きクリエイター達の頼もしい息吹きに感じました。

ネットでも日頃拝聴させて頂いておりますが、ライブで参加させて頂き、難解なテーマも「腑に落ちる」ワークショップ的講義に仕上げて頂き驚きでした。引続き、熱い講義で若き才能達をご牽引下さい。

投稿: ポロネーズ | 2006/06/07 0:00:23

私は本当に“ナルちゃん”ばかりの自己批評不能な日本のクリエイターの一群には連なりたくない。だから自分の最も弱いところ、隠したいハズカシイところをさらけ出して、真摯に徹底的に批評するクセをいまからつけておかなくては、仰る通り、本当にクォリティの高い、本当にいいものは創造できないのだ…。

魂を鏡を磨くが如くてらてらに磨きながら徹底的にそれをやる。

そうすると、おのれの中に見えていなかった内面とともに、そのハズカシイ“欠点”も、あたかも刀剣を磨くことによってその傷や不純物が現われるように、みるみるうちにハッキリ現われてくるに違いない。

過日、朝日カルチャーセンターの講演の終了後、試験的におのれの批評といえるものを茂木先生にお見せしたことがあったが、いま思うと、あれはまだまだ自己の隠したいこと、ハズカシイことを語っていないな、という気がして来る。

もっとおのれの特性と魂を磨くとともに、自己批評をもっと徹底的に厳しくする必要があるようだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/06/06 21:11:01

茂木先生こんにちは。

昨日は「すさまじい授業」だったんですね。
自己批評文を書いて発表するのは怖いけれど、
参加してみたかった。
先生やみなさんと一緒にカンドウしたかった。
「無限とか断絶とか、どうしようもないことを前にしたときの感情の動き」
も知りたい。
PCをなんとかしなければ。

茂木先生のおっしゃる自己批評性は、
自己懐疑性とは違うのだろうかとずっと考えていたのですが、
やはり自己懐疑性よりも徹底的な、文字通りの批評なんだと今日理解しました。

裸の王様のまま歴史に残っている人・・・、
あざといことですが、先生が浮かべる人を知りたいと思ってしまいました。
自己批評性がクリエーターの必要条件ではない
というのは、悔しいけれども、事実なんですね。

自己批評なく作品を生み出して喝采されるクリエーターがいて、
自己批評など考えることなく賞賛する人がいて、
自分もそれに気づかず踊らされていることがあるのかもしれないと思うと、
やりきれない気分になります。

鈍喜放程!先生の自己批評文、Kとあったので、一瞬
「こころ」?とはっとしました。
健一郎のKですね。
文体もどことなく漱石先生調でせうか。

杉原さんやほかの方も、自分で書いて発表なさったんですね。
あたりをぶらぶらするほどの衝撃
わたしも書いて見なければと思います。

茂木先生が自己批評の精神を若きクリエイターに伝えていくことは、
とてつもなく意義のあることで、
わたしももっと若いころに先生のような方が身近にいてくれたら、
と思ったりしますが、
先生の存在に気づけたことだけでも、わたしにとってとても大きな収穫でした。
茂木先生の考える自己批評性について、もっともっと知りたいと思います。
そんな時間はないと思いますが、
自己批評性についていつか本にまとめていただきたいです。

苦しいけど楽しい、といってしまう茂木さんは凄い。
ほんとうに大変そうですが、がんばってくださいね。

学生さんからのメール、良かったですね。

今日の日記は涙がでそうになりました。
先月の8日ころからこの日記をよみはじめて、初めてのことでした。

投稿: | 2006/06/06 13:10:52

自己批評書いてみることにしました。
おっしゃるとおりだ。
私はブログでこうありたいといつも理想を書くんだけれど、それは自分が完璧に実現できないから。でも、どのくらい実現できていないのか、現状をはっきり認識することは避けていた気がする。それでは進歩もないし、本当にただの理想に終わってしまいますね。
早速批評文書いて、読み上げてみます。見えてくるかも。

投稿: m-tamago | 2006/06/06 12:40:35

「こんな所に住んでみたいな、と思うが、容易に果たせないこともわかっている。自然を思い、田園生活を慕うということは、つまりはそのようなやり切れない思いを引き受けるということではないか」
「ひとつは、無限とか断絶とか、そういったどうしょうもないことを前にした感情の働きについて」
「そうすることが、精神のかたちをととのえ、みがき、より美しいものにしていくためにどうしても必要なことである」
昨日と今日の日記に書かれたこれらの言葉に触発されてつけくわえるなら、
さらにもうとりかえしのつかない過去の人生を思うときにわき起こる感情。
どん底にまで落ちてみろ、だめな自分に徹底的に沈んでみろ、そういう負の感情にとことんつきあってみろという位置に自らを置き、そういう感情の底から生まれ浮かぶもの。
たしかに、これらはみな、そのとき美的感情に向かっているように思えます。
しかし、そのような時間を持つことを自分に許す贅沢はなかなか与えられません。だからそれは人間だけが持つ甘く高貴で贅沢な瞬間のようにも思えます。いくぶんかのナルシズムは精神を浄化してくれますので、これはこれで悪いものではありません。そういう感情の瞬間を切望しているところもあるんじゃないかしらん。

投稿: | 2006/06/06 9:58:26

“批評性”についての私の疑問の一端が

今日のお話を伺って、ほどけかかってきたように思えます・・・

「伝わったのだ!」と、叫んでいらっしゃる親方とそのお仲間と

若きお弟子さんたちの召し上がったビールの味は
また格別でいらしたことでしょうね!

またいつの日にか、緑の木々の見えるお教室を
覗きに伺いたいと想いました・・・

投稿: TOMOはは | 2006/06/06 9:10:38

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