(本日)美術解剖学 重松清 「涙の理由」
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 5
対論 重松清
作家の重松清さんをお迎えし、「涙の理由」
について対論いたします。
2006年5月29日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
聴講歓迎!
5月 29, 2006 at 07:38 午前 | Permalink
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何のことはない、ごく当たり前のことなんですけれど・・・
先日、後ろ足が生えてきたことは、ご報告いたしましたが
程なく、前足を確認し、日に日に後ろ足がしっかりしてきました。
2〜3日前に、ついに後ろ足を使ってカエル泳ぎをしているのを発見しました。
少しずつ、しっぽが短くなっているように見え
前は、つるんとした卵形だった体型からくびれが出て
いつのまにか長さ1センチく... [続きを読む]
受信: 2006/05/29 7:42:04
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コメント
もうひとこと、言ってもいいですか!?
(余計なこととは承知しつつ・・・)
茂木先生も重松さんもスゴイ人です。
おっしゃることに、共感したり「なるほど!」と思うことも多いです。
けれど、それを感じた「わたし」は、どう思い、どう考えるのか?
同じでも、違っても・・・いいんです。
まず一人ひとりの人がそのことを
しっかり、見つめてみてほしいと想います。
その先に待っているものは・・・?
それは、きっと、その人にとって
ほんとうに、かけがえのないものなのでしょう・・・
投稿: TOMOはは | 2006/05/30 18:29:31
今日はじめて茂木先生の講義を聴きました。
小心モノで、関係者意以外立ち入り禁止の小さな看板にちょっとたじろいだり・・・、でもほんとうに貴重な時間を過ごせて思いきってよかったです。
上野の森はいつ行ってもよいですねー!何かに守られているようで、「杜」っていう感じがします。
モンスター重松氏には、始終共感し通しでした。
モンスターな部分は見えませんでしたが、なんとなくすごみを感じました。
いままで、文学を読んで流す涙と、絵画や音楽を鑑賞して出る涙を区別して考えたことなどなかったので、重松さんが絵を見たとき流す涙はどこからくるのかと学生さんに尋ねられてはっとしました。絵画や音楽などに対してなぜ涙が出るのかは、たしかに文学に比べると説明し難いですね。
涙がなめられている、軽く扱われている、というのにも同感です。手を挙げづらいだけで、自分の書いた絵を見て安易に泣いて欲しくないと思う学生さんはほんとはもっといるんじゃないかなあ。わたしは学生じゃないので挙げなかったけれど・・・。
もし自分が何かを表現したりする芸術家や文学者の立場にあったら、きっと簡単に泣いてほしくはない・・・正確に理解できているかわかりませんが、茂木先生のおっしゃったような、「自己批評の精神を通した涙」を、と思う気がします。
重松さんは、泣ける小説といわれるのがいやなようにおっしゃっていましたが、わたしが重松さんの短編を読んだときに出た涙は、なんで出たのかわからない、得体のしれないものだったので、大丈夫ですといいたいです。
意外だったのは、芸大のなかに文学をあまり重要視していない学生さんもいる、ということ。
私も読書家でもなんでもないですが、読んで感じることで広がる感性?のようなものが、創作活動に影響することは当然あると思っていたので。
あー、でも、岡本太郎さんが「感性は育てるようなもんじゃない、自分の内からほとばしるもの、それが感性だ!」とおっしゃったのを読んで、その通りだ、と思ったんでした。
感性とは違うのかもですが、読むことで自分の中にふつふつ湧くものが、絵を書いたり、彫刻をつくったりするときに、なにかしらプラスに作用することはありますよね。きっと。
自信がないのでいいきれませんが・・・。すぐにきっととか、でしょうをつけたくなります。もっと違う考えがあるんじゃないかなあ、といつも思ってしまう。
だから、茂木さんや重松さんのように、蓄積された知識や経験の裏づけをもって、自分の頭で考えて、確信ある結論を導き出せる、それを実際に役立てる形にできるというのは、ほんとうにすごいことだなと思います。心から尊敬します。
動いている茂木先生は、平面で見る以上に、気さくな笑顔でとても素敵でした。
お話したいかなーとも思いましたが、何を話そうかもわからないし、小心が邪魔をしたので。
でも聴きに行くくらいだから、小心者とは言えないかもですね。
初めて茂木先生を見たときのクオリア(画面を通して見た場合もこう呼ぶんでしょうか)から感じたイメージ(イメージがクオリア?)は、「生きて死ぬ私」を読み終わったときに大方つながりましたが、実際にお会いして、やっぱり感じた通りの方なのだろうなあと、確信に変りつつあります。
まだ本は一冊しか読んでいないですけど・・・。
著作を全部読んでも、わかるのはたぶんその人のほんの一部分ですよね。
いっぽうで、ブログを読むようになって、ほんの数行の文章でも、その人の特徴がにじみ出ているように感じるから不思議です。
たいへんに長ーくなってしまい、すみませんでした。
すばらしい機会を与えてくださる茂木先生に感謝します。
こんどは対論ではない講義を聴いてみたいです。
投稿: M | 2006/05/30 4:08:37
芸術になんの区別もないと思っている
一般大衆としての素人的感想です。
私などが、あらためて書くのも
とても恥ずかしい行為かもしれませんが
せっかく、ライブで芸大の講義をうかがって
とっても楽しかったので、あえて申し上げます。
いろいろ思うことがあっても
なかなか発信できないでいらした若い学生さんに
エールを送るつもりで
「思ったことや疑問は、ぶつけてみたほうが
絶対にオモシロイですよ!!」
さて、小説にしても、絵画にしても、おそらく音楽にしても
受け手に生じたfirst impression (?)そのもの
心の動きのようなものは
言葉ではない・・・と、私は思っています。
ことばは、あくまでそれを伝えるために「媒介するもの」でしょうか?
創り手には、表現したいと思う衝動のようなものがあって
表現方法として、言葉を介するのか
絵画や彫刻や音楽という表現方法をとるのか?
でしょうか・・・
活字媒体は、出版という経済活動が確立しているので
お金の価値を生むことは、比較的可能なのでしょうか?
絵画などは、やはり狭き門という印象がありますね。
音楽は、どうなんでしょう?
20代の若い方は、今このときに
いまの自分の想いや心のありようや目指すものを
いっぱい考えたり、悩んだり、もがいたりしたらいいと思います。
きっと、茂木先生や重松さんも、そんなもやもやとした
言葉にもできないような青春を経て
今のお二人があると思いますので・・・
(かくいう私は、いい歳をして
まだ迷ったり、アチコチの門や壁をたたきまくっていますよ!)
投稿: TOMOはは | 2006/05/30 0:27:14
美術解剖学を拝聴させていただきました。
ありがとうございました。
「涙の理由」
涙は、汗同様、体液であること。
このことに触れなければ普遍的の涙は語れない
と私は信じています。
一般的な涙は、記憶と感情の関与を強く感じます。
記憶の形成は時間に支配され、
感情と記憶は密接な関係にあると考えられます。
涙の瞬間は、
感情の中にあると思います。
質疑応答に参加したかったのですが、
心の準備をしている間に逃してしまいました。
悔いが残りました。
それも含めてこのような機会を公開して頂き
誠に有難うございました。
ビールも一杯ご馳走様でした!
投稿: NAKAMURA Satoshi | 2006/05/29 21:59:26