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2006/05/22

自らの中にあるバネを

京都国立博物館へ。 
 「大絵巻物」展を見るため。

 源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画絵巻など
有名どころが出ているため、大変な人出。
 会館前に行って、藤沢周平を読みながら
並んだ。

 絵巻物は日本で特に発達した
表現形式。

 私といたしましても、
エマキには並々ならぬ関心を持っている。

 「百鬼夜行絵巻」
の最後に出てくる、
妖怪たちを追い立てるかのように見えて、
実は世界全体を全て異次元に引き込んで行く
巨大な太陽が好きだ!

 「道成寺絵巻」も大好き。
清姫が鐘に巻き付き、火を吐いて、
安珍が黒こげになってしまうところが
かわいそうだが面白い。
 しかし二人は生まれ変わって
浄土で幸せに暮らすのだ。

 私はどうも怪奇物、
人間が異界に踏み込んでしまうような絵巻が
好きなようである。
 
 一般的な文脈で言えば、絵巻物は右から
左へと移り変わっていくが、
 ここで、空間表現が時間表現と溶け合う
のが不思議であると同時に心惹かれる。

 ウサギがカエルと相撲をとり、
平安貴族が雅な空間で物語の中のエンボス
になる絵巻を
満員の会場で押され流されるように観賞。

 博物館を出た和楽の渡辺倫明さん、
 トリマーで整えるという無精髭を
風になびかせながら、「それじゃあ、うぞうすい
などいかがでしょう」などとイキなことを
言う。

 それはいい、と「わらじや」へ。

 コブとカツオで出汁をとったスープに、
一時間てろてろと焼いたウナギを入れて、
雑炊に仕立てる。
 大変美味なものでありました。

 満腹になったことでもあるし、
 「近いから行きましょう」ということで
智積院へ。

 長谷川等伯の息子、長谷川久蔵が
26歳でこの世を去る前に描いたという
「桜図」。
 奔放なる生命力を惜しむわけでもなく
咲き誇る満開の花びらに、
 若死にでも、天寿を全うするのでも、
いずれにせよいつかは
散らざるを得ない我々人間の宿命のはかなさと
おそらくはそれゆえの美しさを見ずにはいられない。

 対となる等伯の「楓図」に秋草が咲き乱れる。
 惜しまない時、生命は一番輝くのか。
 絵が哲学を表すとはこれはいかなる奇跡か。

 収蔵庫はボタンを押すと
耳障りな琴の音とともに解説が
流れる奇怪な設いになっており、 
 後から来た二人連れがそれを押したので
退散。
 現代人はもっと静かに古(いにしえ)に
向き合うべきなのではないか。

 智積院が誇る庭園を縁側から拝見。

 目の前に迫る緑の山を眺めているうちに、
「ああ、京都にいるんだ」と実感。
 忘れかけていた感覚が内側からゆるゆると
よみがえってくる。

 普段の忙しい、機能主義的生活を捨てて
京都出家しよう
とまでは思わないけれども、
 Aの横にBを持ってくると、Aが違って見える。
そのような批評性の原資としての京都の魅力を
再確認。
 
 そうだ時々は京都に来なければいけないのだ。

 さらに
 ワタナベ無精髭ミチアキに導かれて、
東寺へ。

 金堂、講堂、立体曼荼羅。
 象にまたがった帝釈天のお顔が大変リッパでした。
 無精髭も殊の外お気に入りのご様子。

 東寺に行く途中、タクシーの中で
拾ったメールの中に、
本願寺
の藤本真美さんから
のお誘いがあった。

偶然本日、本願寺では、「降誕会(ごうたんえ)」
という、親鸞聖人のご誕生祝賀法要を
開催しておりまして、飛雲閣でのお茶会、
重要文化財の能舞台での祝賀能がございます

 という有り難いお誘い。
 このブログで京都にいることを知ったのだという。

 橋本麻里さんに「どうでしょう」
と聞くと、
 「茂木さん、それは見逃せません!」
というので、藤本さんのお誘いに甘えることに。

 飛雲閣は一説には秀吉の聚楽第から
移築されたとされる優美な建築。
 正式には船で入るという。
 あまりにも優美で、眼がちかちかする。

 お茶席で抹茶を頂く。
 橋本さんは武者小路千家で鍛えているので
私は左側をそっと見ながらマネをする。
 至って不調法でございます。

 続いて書院での能観賞。
 ここも飛雲閣も国宝である。
 襖絵や天井画を拝見しながら
仕舞を音で味わうのは贅沢な空間体験。

 荒木経惟さんが撮影した『飛雲閣ものがたり』
について、藤本さんがいろいろ説明下さる。
コロタイプ印刷による限定版もある由。
 皆さん、いかがでありましょう。
 
 まだ旅は続く。
 岡崎最勝寺町の
 細見美術館へ。

 晴天の京都は暑かった。
 白ワインを飲みながら休んでいると、ブルータス
の鈴木芳雄さんがやって来た。
 鈴木さんもいそいそと白ワインを注文。
 続いて写真家の小野祐次さんがやってきて、
ボクはエスプレッソで良いです、と言った。
 オノさんは仕事なのである。偉いのである。

 館長の細見良行さんが自ら
伊藤若冲の『糸瓜群虫図』を掛けてくださる。

 「うちにあるから言うわけじゃないけど、
若冲の中でも最高傑作だと思います。これを
描いて、若冲は『動植綵絵』への自信が出来たんじゃ
ないかな」と細見さん。

 大好きなこの絵を
 こんなに近くでじっくり見るのは
初めてである。

 昆虫たちの身体が、植物のそれと
同じような表情を見せているかのように見える。
 エコロジーと言っても、お互いに弱肉強食
の関係にあるのではなく、
 それぞれが独立独歩で、
 一瞬得たかに見える無垢なる風情。

 この世に降り立ったばかりの
ヴァージン・スノウのように、生きる
ということに必然的に伴うはずの
重力の魔から解放されているのだ。
 
 そして、虫たちは、どこかに向かおうと
しているかのようにも見える。
 バネがうんと縮んでエネルギーが
溜まっているように、
 あるいは、ぜんまいがくるくると
巻き上げられているように、
 次の瞬間にはぴょんと跳ねて
どこかに行ってしまいそうに
思えるのだ。

 その「どこか」は、恐らくはこの世界ではない。 
 
 細見館長が、しきりに、「若冲は京都の
最後の町衆でした」と言われる。
 若冲の錦小路の青物問屋は、「手代が2000人」
いたと細見さん。

 京都の本当の金持ちが、時間にも画材にも
糸目をつけず、自分の楽しみのために
描いていたら、あんな絵になった。 

 細見さんのお話をうかがっているうちに、
若冲は京都そのもののように思えてきた。
 
 『糸瓜群虫図』の虫たちは、それぞれ、
一筋縄ではいかない意志を秘めつつ、
この世にあることを楽しんでいる。
 
 そのような内面性をただ形態のみを通して
表現するのが若冲の天才であるが、
 それはまた一つの自画像でもあったのではないか。

 『日月山水図』のように世界が行き交い、一つ
に溶け合う気に包まれる画業とはまた違った、
 個が個として存したまま、
自らの中にあるバネを
ぎりぎりと巻き上げて世界に対すること。

 鈴木芳雄さんが、「京都はいいところなんだけど、
京都人がちょっと・・・などと言いますね」
とジョークを飛ばしていたが、
 その一筋縄ではいかない京都気質が
若冲の絵の中には確かにあるのではないか。

 生きとし生けるもの全てへの
愛が、私にとっての若冲であるが、
その精神の輝きが京都で育まれたということの意味を
一度真剣に考えなければなるまい。

5月 22, 2006 at 06:21 午前 |

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» 「シュレーバー回想録」D.P.シュレーバー トラックバック 54のパラレルワールド
ある神経病者の手記。フロイトやラカンの精神分析において重要な文献。 シュレーバーの想像力に驚かされる。 シュレーバー回想録―ある神経病者の手記D.P.シュレーバー 神の神経である「光線」がシュレーバーの神経を振動させ、「神経言語」を発生させる。 こんな突飛な想像が何個も何個も飛び出してくる。 神が私との独占的な神経接続の関係に入ってしまい、神にとっては私こそが唯一の人間となってしまい、私という人間がすべての中心... [続きを読む]

受信: 2006/05/22 8:39:19

コメント

久しぶりに京都に行きたくなりました。
学生時代はよく行きましたが、今では年に1回行けば
いいほうです。

龍安寺の枯山水の庭園、慈照寺(銀閣寺)、秋の東福寺は
紅葉がきれいでお薦めです。

奈良にも行かなくては・・。唐招提寺の御影堂にある
故東山魁夷氏の襖絵に囲まれていると、別世界に
いるようで、時間が経つのを忘れてしまいます。
毎年6月初めに公開しています。

投稿: かりんと | 2006/05/25 0:12:08

 心身ともに、何故かとても疲れています。頭が働いてくれない。
 私はコンピュータがいまいち苦手だけれど、1日10分は開いて、
茂木さんの日記は必ず読むんだ。茂木さん元気かな?って。
 いつも応援しているよ。復活したら飛んで来るぞ!
 あなたの良き(?)サポーターより、北国から愛をこめて。

投稿: 龍神 | 2006/05/23 2:17:54

↑さっき入力したコメントの補足です。

茂木先生って、絵巻ものでも妖怪ものがお好きなんですか!
日本の妖怪って造形が不気味ですけど、どこかに愛嬌があるんですよね。
水木しげるなど、妖怪漫画を書いてきた人達は、この手のバケモノ絵巻から題材をとったと聞いています。

美しいものと醜いものが混在する…京都には、そんな一面もあるんですよね。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/05/22 18:25:00

“個が個として存したまま、自らの中にあるバネを、きりりと巻き上げて世界に対すること”

伊藤若冲の図は、観た者の中にある自らに備わった命のバネの存在に気付かせてくれる…。

若冲の図に秘められた、“生きとし生けるもの全てへの愛”という精神の輝きが何故京都で生まれたのか。

そのことについて改めてマジに考えることは、京都という文化の魂について考えることでもある、と見た。

それにしても京都など、日本古来の麗しい文化が現代にも息づく所は、現代の忙し過ぎる生活になれきった人間の精神の伸びきったバネを引き締め、不条理に満ちたこの世から異次元へと飛ばしてくれるというのか。

修学旅行では絶対味わえそうにないだろう深い京都めぐり。

茂木先生の心にも、大きな輝く“宝”を与えたに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/05/22 18:05:23

あの絵を御覧になったんですか…うらやましい。
落ち着いた作品ですね…。最高傑作と館長さんがおっしゃる気持ちがわかります。
わたしも若沖の絵は大好きです!
緻密で、豪胆なものもありますが、先生のおっしゃるとおり、もの言わぬものへのやさしさがあふれているのを感じます。
彼の精神は、京都でこそ育まれたものなのでしょうか…。
今は本を眺めるだけですが、いつか本物をみてみたい。

投稿: M | 2006/05/22 16:29:26

私も時々京都に行きます。いつでも惹かれています。
京都もそうなのですが、休みが取れたときに生活圏から離れて過ごすということは大事だと感じます。
結局のところ、それは人間の暗黙知であり、日ごろの生活全体を離れた地点から考えることで実存主義的な不条理の仕組みを捉えることが出来るようになり、不条理に対する免疫をつけているのかも知れません。

投稿: tetsuki | 2006/05/22 9:59:13

若沖の絵は口から泡とばして語る哲学でなく、見ている者の心のなかに自然とその哲学が沸き起こるかのような、絵だと感じます。
静謐さの中にうーんなんていったらよいか、かわいげが感じられます。

投稿: 平太 | 2006/05/22 9:50:11

子どもが登校してから
もう一度ゆっくり、読み直しています。

ほんとうに、深く掘りすすめていくと
日本は、後から後から、素晴らしいお宝の出てくる
「鬼が島」だったことに気づきました。


「道成寺絵巻」より

欲知過去因 見其現在果   欲知未来果 見其現在因  


  過去の因を知らんと欲すれば 其の現在の果を見よ
  未来の果を知らんと欲すれば 其の現在の因を見よ


伊藤若冲の『糸瓜群虫図』は、「観ること」 そして

「そこにあるものと観るもの」「ただそこにあること」  ・・・に

想いをめぐらせるようにささやいているような気がします。


「因るところ」も「果てし」もないような・・・


 その一切が、ないような・・・

投稿: TOMOはは | 2006/05/22 9:21:05

京都を堪能されたようですね。

私も京都は大好きで年に2回ぐらいは
『東寺のイケメン』こと、帝釈天さまに会いに出かけます。
私のベストポジションは左の顔を見る
お賽銭箱左後方です。
ちなみに友人は背中から見るのが好きなようであります。

智積院には宿坊体験をさせていただいた事があります。

朝のお勤めの光景は目に焼きついています。
ピンとなり何かリセットされたような清々しい気分になった
記憶があります。
毎朝あのお勤めが至る所で行われていると思うと
京都がとても特別に感じられました。

等伯の絵のあるセコムの張られた収蔵庫には
解説機能がついているのですね。
宿坊者には若いお坊さんがとても爽やかに、ちょっと面白く
『心』を形どった庭の説明や等伯の絵の説明をして下さいましたよ。

京都国立博物館にも行きたくなりました。

投稿: aleob3298 | 2006/05/22 9:03:52

「生きとし生けるもの全てへの愛」

そのことばをあらためて、心に刻むこと・・・


皆さまの心にも、先生の精神の高揚が
きっと伝わっていることでしょう・・・

それにしても、京都には

時間と空間の枠を、もしかしたら飛び越えることのできる
不思議な「バネ」か秘密のトンネルの入り口があるような・・・

ほんとうに、そんな気がしますね・・・

投稿: TOMOはは | 2006/05/22 6:53:04

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