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2006/05/24

サラセン帝国

芸大の杉原信幸が
昨日のブログに書いたコメントを
読んで、コンビニまで歩きながら
考えた。

 ギャップの中に飛び込むことは確かに
大事で、
 私の人生はすでにそんな風になっちゃっている。
 <ルビコン川を何回渡るか>
 そこは同意。
 
 ただ、杉原のコメント中「観客」という
言葉遣いには違和感を
覚える。
 見るということはそんなにお気楽なことでも
ないし、activeなことであるということは
現代脳科学が示している通り。

 創造と受容、批評の関係は、
能動性、受動性という枠組みではとらえきれないなり。
 良い批評はすでに創造であり、
 「オレサマ」創造はエネルギーの無駄撃ちに過ぎない。
 
 日本の「クリエーター」に必要なのは
依然として(自己)批評精神であって、
 小心なる自称クリエーターたちが
しばしば目の敵にする
小林秀雄を少し処方する必要がある。
 
 批評にも命がけの跳躍がある。
 そんな単純なことがなぜわからないのかな。

 (和楽の渡辺倫明さんが、先日石原慎太郎氏に
取材した時、尊敬する日本人ってそんなにいないけど
岡本太郎と小林秀雄くらいだと言っていた
そうである) 

 クオリアは受動性を能動性に転化させる
起爆装置なのであって、
 能動/受動の単純なる二元論は
いい加減にサラセン帝国である。

 以上の言説は杉原のコメントに触発
されてコンビニへの歩行運動の中で生成
されたというだけに過ぎず、杉ちゃん
個人へのクリティークではないから為念。

 『クオリア降臨』の「スカの現代を抱きしめて」の
章で書いた様々なことを思い出してしまった。

 聖心女子大学の授業は、
視覚を中心にやった。
 それと、進化心理学における美の概念。

 文藝春秋で大竹昭子さんと
スナネズミについて大いに語り合う。
 大竹さんの
「きみのいる生活」刊行を
期に一つ久しぶりにお話しましょう、
という趣向。
 大竹さんが、沖縄や写真からスナネズミに
至る人生のあわいはしみじみ面白い!
 対論の様子は、
「本の話」に掲載される予定なり。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の打ち合わせ。
 サッカーネタということで、有吉伸人CPの
テンションは普段の200%増しであった!

 NHK出版から入不二基義さん
『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』を送っていただいた。
 これは、拝読するのがとてもとても
楽しみなり。

 入不二さんは嵐山光三郎に雰囲気が似ている。

 週刊ポスト2006年6月2日号の
「思い種、言の葉種」(p.109)で
武田鉄矢さんが拙著に触れてくださっている。

 なかでも最近は、脳科学者、茂木健一郎
さんの著作がおもしろかった。ちなみに
この先生、ひたすら心と脳の問題を探究している
方で、書かれている内容が難解だったりする
んですね。物質であるところの脳になぜ精神が
宿ったのかと問題提起されても、こっちは
ちっとも分からない(笑い)。
 それで、こんな記述がありまして。あるとき、
彼が脳に関することで悩み、その問題をクリア
できるよいアイデアはないかと、京都の哲学の
小径を歩いたそうなんです。その小径は
西多幾多郎さんとか日本を代表する哲学者たちが
毎日のように歩きながら考え事をしていた径で、
自分も歩けばなにかひらめくのではないかと
思ったそうなんです。 
 しかし、なにも浮かんでこない。どうして
なにも思いつかないのかと、それこそ悩むんですが、
・・・
 
 続きはポストでお読みください。
 深謝。

5月 24, 2006 at 07:47 午前 |

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コメント

「批評にも命がけの跳躍がある」とのこと・・・

それはわかるような気がします。

「批評」そのものは、小林秀雄さんの書かれたものに感じるような
「批評」そのものとしての何ものにも侵されない価値を感じます。

では、その「批評」と「批評される作品」との関係は・・・

そのことは、私には、まだ取っ掛かりも見つからないような気がしています。

さて、いったいこの先どんな世界が開けてくるのでしょうね・・・

投稿: TOMOはは | 2006/05/25 7:11:06

茂木先生、はじめまして。
いつも音声も文章も楽しませて頂いています。

スコラ哲学がゴシック建築に影響を与えたからと言って、
生ゴミや魚の骨をスコラ哲学的に組み上げても臭くて近付けないし、
それに感動する人が多いとは思えません。

例えば「肉を喰いたい」と言う欲望があったとして、その欲望を消化させるために、
「人間は満腹になるものだ!そしてまた、お腹が減るものだ」
と説教しても効果がない。
その人が「美味しい」と思える肉料理を提供することによって、
その人の「肉を喰いたい」と言う欲望は解消される。

医者が処方箋を出すように芸術によって、欲望が解消されるに
足る「溝」のようなものを作ってこそ表現行為である、
そして「わだかまり、欲望、病気」が強ければ、それを癒すための
処方箋、レシピも相応に「タフ」なものになると思います。
そして、製作者・鑑賞者も「快癒」を喜ぶのだと思います。

昨日の講義を聞いて、アリストテレスの詩学を思い浮かべておりました。

投稿: 松井 | 2006/05/24 19:36:31

クオリア=受動性を能動性に転換させる起爆装置なのか。

日本のクリエイターには是非、創造するとき、クオリアとは実はこういう役目をするものなのだ、ということに気付いてもらいたい。

自己批評も出来ないくせに、いわば創造エネルギーの無駄撃ちを繰り返すだけの自堕落な「せこい」クリエイターに未来はない。

…と、批判的に言ってみたが、私も油断すると、エネルギーを無駄撃ちしてばかりいる連中のひとりになってしまう。

もっとイイ物に触れて、自己の中に立ち上がるクオリアを受動性から能動性への起爆装置にするための“修行”にいそしまねばならぬ。小林秀雄の処方も必要になるかも。
(じつは、「考えるヒント」の新装文庫版を読破中にて、感想は後日にコメントするかもしれません…)

ところできょうの「日記」にあった、茂木先生のいう“小心な”クリエイター連中というのは、まだ、その小林秀雄を毛嫌いしているのか。
もう、好い加減(21世紀なのだから)小林さんの本質とか価値にクリエイター達が気付いていいのでは、と思う。
文学でも何でも、ものごとに対しての“命がけの批評”をやってのけたのは、自分が知る限り、小林秀雄と茂木健一郎だけだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/05/24 19:01:18

見ることがお気楽でなくactiveであるためには(?)、
「同じようにしてみたい」という主観があって
詳細に見ることではないでしょうか?
outputをするために必要なinputならば、
一瞬たりとも逃がす事はできないでしょう。

刺激的な環境なのか、退屈な環境なのかは、
個人によって異なるでしょうが、
いつ、どこで(?)決定しているのでしょうか?

投稿: yuri | 2006/05/24 12:17:26

唯脳論のコメントが楽しいですね。わたしも講義が聞きたい!PCどうにかならないかな。

杉原さんのコメントは途中で切れていましたか?
講義も聞いていないので詳細はわかりませんが…
「オレサマ」想像はエネルギーの無駄打ちにすぎない。日本のクリエイターに必要なのは依然として、自己批判精神である。
つよく同感します

投稿: M | 2006/05/24 11:17:44

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