癒し
ずっと集中して仕事をしていて
頭の芯が疲労していくとき、
ヘンデルのメサイアをDVDでかけていたら、
この掛け値なしの傑作のようなものがこの世にあるという
ことだけで
限りなく癒される思いがした。
5月 31, 2006 at 08:31 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (1)
ずっと集中して仕事をしていて
頭の芯が疲労していくとき、
ヘンデルのメサイアをDVDでかけていたら、
この掛け値なしの傑作のようなものがこの世にあるという
ことだけで
限りなく癒される思いがした。
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日本再発見塾
2006年6月3日(土)、6月4日(日)
滋賀県高島市
5月 31, 2006 at 08:30 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
聖心女子大学の授業は、視覚系の続きと、
解離性同一性障害の脳機構について。
教室にいってみたら、なぜか
いつも使っているマイクがない。
黒板消しもない。
ホワイトボードマーカーも書けるのがない。
物資不足だ! とくらくらして、
取り敢えず今年初めての出席をとることにした。
名前を呼んで、返事をしてもらう。
大教室でやっていると、それ自体が
一つのアートプロジェクトのようだ。
思ったのは、みんな今風の名前に
なっているということ。
あたりまえか。
南子と書いて、ナンシーと読ませる人もいた。
感心しながら名前を呼んでいた時の
ことである。
「・・・さん」
「はい」(視認)
「・・・さん」
「はい」(視認)
「田中Aさん」
「はい」(視認)
「田中Yさん」
「はい」(視認)
むむむ?
二人の田中さんは、並んで座っている。
もう一度見直すと、とてもよく似ている。
「あのう、君たち、ひょっとして・・・」
「そうです。一卵性のふたごです。」
「下から上がってきたの?」
「いいえ、大学からです」
ザ・ピーナッツのように
ユニゾンで答えのではないので念のため。
でも、そんな気分になるではないか。
これは一つのone-shot learningであった!
なんだかなごむ。
この日記はひょっとしたら楽しげに見えるかもしれないが、
実際の生活は悲惨! ということもないが
時間の余裕がないタイトな流れが続いている。
やることがあまりにも多すぎるのだ。
私の人生には、
整理統合、行政改革、リストラクチャリングが
必要であろう。
一日のほとんどは、まなじりを
決して仕事をしている、という感じなのだが、
その中で起こった面白い出来事を
こうして日記にしている。
日記に定着されるところばかりを
読んでいると、何だか楽しそうであるが、
それは部分を全体に拡大しているだけの
話なのである。
渋谷のNHKへ。
「極悪三兄弟」の一人、河瀬大作さんが
ディレクターをつとめる
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
仕事術スペシャル(コードネーム 河瀬スペシャル)
の打ち合わせ。
河瀬さんからのメールに、
「住吉美紀ディレクターもお待ちしています」
と書いてあったので、
これはまたゴクアクな冗談を言う、
と思っていたら、本当だった。
住吉さんが、何人かのプロフェッショナルを
再訪し、仕事術にまとめるという回で、
ナレーションとかも書いているのである。
打ち合わせは編集済みの取材VTRを見ながら
やる。
その時のナレーションを、ディレクターが
代読するというのがテレビ業界の習わし
であるが、
住吉ディレクターのナレーション読みは、
とてつもなくうまかった!
アナウンサーがディレクターをやると
いろいろ便利なのである。
有吉伸人チーフプロデューサーが、
「茂木さんの時間活用術は何ですか?」
と聞くので、
「集中すること。。。あと、最近は、
同時に複数のことをやることかな」
と答えると、有吉さんが「えっ」という。
「いや、つまり、ロードを大きくしてですね、
ちょっと暇な時になると、頭が勝手に他のことを
考え始めるというか・・・」
と言うと、
「じゃあ、こういう打ち合わせの時にも
他のことを考えたりするわけですか」
と有吉さん。
河瀬さんがすかさず「あっ、今、ざらついた」
と言って、みんな爆笑。
「違います、プロフェッショナルのスタジオや
この打ち合わせのようにインテンスなものは
それだけに集中しています。そうじゃなくて、
私の言うのはもっとゆるい時にですね・・・」
とフォローをしながらも
私も笑っている。
プロフェッショナルチーム、グッド・ジョブ。
品川プリンスホテルへ。
脳に快感 アハ体験!を含むセガの新作ゲームの夏期商談会。
会場で新作ゲームを眺めていたら、後ろから
声を掛けられた。
振り向くと、なんとムシキングを作られた
植村比呂志さん。
6月22日放送の『プロフェッショナル』
に登場される。
植村さんも、私と同様、後ほど壇上に立って
挨拶するということが判明。
ちょうど、打ち合わせで植村さんが再取材
されたVTRを見たところだった。
「植村さんが椅子で仮眠しているシーンが
使われますよ!」と言うと、
「えっ、そうですか。どこが使われるか
と思って。3時間くらい取材して行きましたからねえ」
と植村さん。
編集によって世界は切り取られ、再構成されて
いく。
この日記もまたそうである。
出番が来て、脳に快感 アハ体験!について10分間
スピーチする。
セガは、このゲームはかなり大量の
プロモーションをかける模様。
私が登場するテレビCMが会場に流れていたが、
脂汗たらーりのガマの気分になった。
大手町の讀賣新聞社へ。
ヨミウリ・ウィークリー編集部に立ち寄り、
川人献一編集長とお話する。
二居隆司さんは残念ながらいらっしゃらなかった。
毎週毎週きちんと雑誌を出していくのは
大変な仕事量である。
そうだ、みんな、仕事をしているのだ!
読書委員会。
米原万里さんは前期まで読書委員を
されていたので、
冒頭、鵜飼哲夫さんが故人を偲ぶ。
しんみりとする。
本の選定終了後、
麹町のブックカフェA/Zでの
懇談会に初めて参加した。
町田康さんの横に待田晋哉さんが
座り、マチダとマチダが並んだ。
しかしこの二人はふたごではないのである。
米原さんを偲んで献杯。
しばらく故人の思い出話になった。
やがて、話はスパイラルを描いて
虚空の方へ。
当たり前のことだが、読書委員の先生
方の見識は大したもので、
天皇陵から文学史まで、
博覧強記、聞いていて心地よいくらい
ぽんぽんと知識が開陳される。
いいなあ、二週間に一回、ちゃんと
この懇談会まで出られるくらいの余裕が
欲しい、と思いつつ、
ビール二杯で退散。
宴はこれからが酣の気配。
やることがあり過ぎるというのは
親の敵でござる。
しかし、振り返っているわけにはいかない。
とりあえずは目の前のことをやるのみ。
ダッシュ時々日記。
5月 31, 2006 at 05:36 午前 | Permalink | コメント (11) | トラックバック (1)
Here I annouce a new blog titled
"The origin of consciousness"
http://origin-of-consciousness.blogspot.com/
The first entry is
5月 30, 2006 at 09:05 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
日経サイエンス編集部にて
東京大学の西成活裕さんと
お話する。
西成さんのご専門は「渋滞学」
自ら駆動するself driven particlesの
集団的挙動を研究されている。
モデルとして、asymmetric exclusion
process (ASEP)などを用い、
実際の自動車の渋滞を計測して
「基本図」(粒子密度と流量の関係の
プロット)を書くなど数理モデルから
実際的応用までをカバーするアプローチは
大変興味深い。
群衆の動きから、アリの行列、
さらにはマイクロチューブル上の
キネシン、ダイニンの動きのような生体高分子
の挙動まで、
西成さんは渋滞学の対象にしてしまう。
適切な形で抽象化された数理モデル
は世の中の様々な事象を考える時に便利な
一本の鋭利なナイフだ!
西成さんとは、実は以前にお目にかかった
ことがあるという。
私の大学院時代の後輩、相内正治の紹介
で、
東大安田講堂前の中央食堂でいっしょに
ご飯を食べたことがあるというのだ!
実は西成さんもそのことを忘れていて、
相内からのメールで「そうだったけな」
と思ったという。
今や仮想のものとは相成った過去を
探っていると、白カビチーズの内側を
溶かしているような気分になる。
またぜひお目にかかっていろいろ
お話できればと思う!
最近、「自己批評性」ということについて
つらつら考える。
自分自身を客観的に見て、その短所弱点を
見据えていなければ、高みに登って
いくことも、より美しい心根、姿に
なっていくことも難しいのではないか。
世にはダイエットに励む諸子も多いと
聞くが、心の痩身も大切である。
漱石の処女作『吾輩は猫である』。
小学校の頃は、ただアハハアハと
笑っているだけだったが、
今読むと凄みを感じる。
ご存じ、苦沙弥先生を猫の視点から
記述しているのだが、よく考えれば
(よく考えなくても)苦沙弥先生とは
漱石自身のことである。
吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。
苦沙弥先生初登場はこんな感じであった。
果たして自分自身のことを、こういう風に
書けるものかどうか。
自己批評性のない創造者は結局は
大したものになれない。そのことは
確信していいんじゃないかと思う。
そんなことを考えながら、
東京芸大へ。
重松清さんとの対論。
重松さんはいつものように
「原稿書き用ハイヤー」で現れた。
大浦食堂横で談笑した後、
対論開始。
『涙の理由』というタイトルだったが、
途中で会場の学生たちとも
対話が始まり、
問題はそもそも芸術とは何か、文学との
関係は何かという本質論につながっていった。
そもそも、芸術の一部分として文学は
含まれているはずだが、
なぜ芸大は言語表現をカバーしていないのか?
植田工が、
初代油絵科の教授の
黒田清輝が、読み書きそろばん
ができないというくらいで、絵を描いては
いけないというのか! と言いましたからね。
今でも、お前ら、いくら勉強は関係ないと
いって、共通一次で40点しかとらないで
芸大に入ってくるとは何事か! という
言葉が飛び交いますからね!
と現代につながる芸大の「伝統」を解説する。
自己批評能力は
言語表現によって豊かなものになるはずだ。
布施英利さんの存在は大きい!
対論が終了し、上野公園に向かって
歩いている時、
重松さんは「そうか、芸大って、
日本に残った最後の「明治」かもしれないね」
と言われた。
気持ちの良い夕べ。
ビールもワインもすーっと身体の中に
溶けていく。
重松さんは、予定を大幅に超過して
公園の中の「飲み会」に参加してくださり、
芸大大学院生にして将来の批評のエース、
粟田大輔は
「ぼくはブンガクに寄り添って生きていきます!」
と宣言した。
蓮沼昌宏は、言語の波に対抗すべく、
「あーうー」と言いながら、
将来の芸術復興を誓う!
砂場でおっちゃんこしながら
油絵科の大学院生の
塚本智也さんと渡辺妥翁子さんのファイルを見る。
塚本智也さんは、立体光学迷彩、隠し絵的な
作品をつくっていて、もう少しでブレークしそう。
一見CGのような絵を手描きでいく
というアプローチはアリ!
だと思う。
渡辺妥翁子さんは「絵が描けない」
フェーズの後、キャンバスに絵の具を塗った
あと、それをマスクとして使うという
造型に向かった。
ルーチョ・フォンタナ以来の空間主義の
伝統、ここにあり!
夜空に、自己批評の風が染み渡る。
あらゆる批評の中で、もっとも価値の
あるものは自己批評じゃないかな。
そもそも、自分のことだったら
よく知っているし、関心もあるでしょ。
自己批評で精神がスリムになり、作品も
すぐれたものになっていく。これは結構。
重松清さんは間違いなく自己批評精神を
もっている。
ただ、そのためには、精神がよほど強靱
でなければならないとも思う。
弱々しいと、自己批評でへなへなと
なってしまう。
実は漱石はとても強い精神の人だったん
じゃないか。
まずは精神の基礎体力を鍛えるべし。
そして、自己批評精神によって彫琢
すべし。
それが人生の黄金の道だ!
5月 30, 2006 at 07:21 午前 | Permalink | コメント (9) | トラックバック (3)
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 5
対論 重松清
作家の重松清さんをお迎えし、「涙の理由」
について対論いたします。
2006年5月29日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
聴講歓迎!
5月 29, 2006 at 07:38 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (2)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年6月11日号
(2006年5月29日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第7回 余裕から生まれる世界記録
一部引用
驚いたのは、「調子が良い時は時間の流れがゆっくり感じられる」という指摘である。普通、記録が良い時には当然それだけ時間は早く経過すると思いがちだが、主観的には逆だと言う。調子が悪い時の方が、何もする暇もなくレースがあっという間に終わり、世界記録が出るような時は、ゆったりと、様々なことが仕掛けられる感覚でレースが進むのだという。「ゆったりと世界新記録」とでも呼ぶべきパラドックスがそこにあるのである。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
5月 29, 2006 at 07:36 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
土曜日。
汐留の日本テレビで
「世界一受けたい授業」の収録。
新潮社の金寿煥さんが
「お目付」にくる。
控え室にいたら、武術の甲野善紀
さんが突然現れて技をかけられた。
前の授業を終えられたのである。
甲野さんは、いつも唐突に
現れる印象がある。
養老孟司さんの紀伊国屋ホールでの
講演会の時もそうだったし、
「小林秀雄賞」のパーティーの
時もそうだった。
白土三平の『サスケ』風に言えば、
突然現れた忍びの者に「居付いて」
しまい、すでに術中にはまっているのだろう。
スタジオでは、九州大学の都甲潔さんに
お目にかかり、
収録後は海野和男さんにおめにかかれた。
6月22日放送予定。
新幹線で軽井沢へ。
星野佳路さんの本拠地、
軽井沢星野に去年の7月にできた
「星のや」
へ。
池の周囲に配置された
家々に滞在し、
温泉や食堂にはゆったりと歩いていく。
翌日、チェックアウトの時に、
ワールド・ビジネス・サテライトの
小谷真生子さんにお目にかかる。
星野さんには番組に出ていただいていて、
どんなところか、実際に泊まってみないと
というので来た、と小谷さん。
番組と同じようにシャープな印象の
方だった。
車で旧軽井沢のあたりを通る。
大変な人で人出の多さ。
「星のや」の
中に流れていた時間がなつかしく
感じられた。
山あいの草むらに、ミヤマセセリがいた。
私の育った田園地帯にも棲息している
場所があったが、
開発で絶滅した。
それ以来、30年ぶり? くらいの再会。
お前、こんなところにいたのか!
と思う。
ミヤマセセリは可憐で、もこもこしていて
かわいいやつだなあ。
軽井沢で何を考えたかというと、
実はいろいろなことを考えた。
思考というのはその気になれば負荷を
上げられるものであって、
今目の前に見えていることと全然
関係ないことに思いを巡らせることが
できる。
考えたことの一つは、「結びつけ問題」。
やはりここが突破口の一つなのではないかと
思う。
上野駅で新幹線を降り、
車で根津から白山に抜けた。
そのあたりを歩き回っていた
学生の自分のまぼろしがそこここにいる。
その頃のことを思い出し、ミヤマセセリ
を追ったローティーンの自分を思い出して
みると、か細い線で結ばれた厚い地層が
見えてくる。
讀賣新聞の読書欄
に書いた『愛の流刑地』の
書評を幻冬舎の見城徹さんが読んで、
たいへん喜んでいたと、
大島加奈子さんから伝言。
その留守番電話を聴いたのは、軽井沢の
風が爽やかな山あいだった。
5月 29, 2006 at 07:30 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (2)
連載 「今、ここから全ての場所へ」
第5回 超新星爆発のある人生をこそ
風の旅人 第20号 (2006年6月1月発行)
抜粋
オリンピックの体操競技で、選手が鉄棒から手を放し、くるくると回りながら着地していくその短い時間の間に、中間子は無数の生成消滅を繰り返す。素粒子から見れば私たち一人一人は宇宙であり、銀河であり、恒星である。
人間という「銀河」の抱く生活上の必要は、素粒子たちにとっては目が回るほどの巨大な現象である。その一方で、お腹が空いた人間にとってのアンパン一個は、なんとちっぽけで、親しみのある姿をしていることだろう! その両極端の共存こそが、宇宙の真実だ!
全文は「風の旅人」で
5月 27, 2006 at 11:44 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
BS日テレ
『ニューロンの回廊』 第5回
メディアアーティスト 岩井俊雄
放送
2006年5月28日(日)・6月4日(日) 20:00−20:54
2006年6月1日(木)・6月8日(木) 19:00−19:54
今回ドクター・モギが潜り込んだのは、メディアアーティスト:岩井俊雄の脳。
筑波大学在学中の1985年、映像インスタレーション「時間層」シリーズで、ハイテクノロジー展金賞、さらに第17回現代日本美術展大賞を史上最年少で受賞。以後、様々なテクノロジーを駆使しながら、視覚・聴覚・触覚を刺激する観客参加型のインタラクティブな作品を続々と発表している。
今回ドクターモギは、感覚の統合を操るアーティスト岩井の脳では何が起きているのか、そして、ユニークな作品を生み出すきっかけとなる「ひらめき」の秘密に迫る。さらにデジタル・テクノロジーを駆使する岩井が、最近子供のために自身の原点回帰ともいえる手作りのアナログおもちゃを制作していることなどから、デジタル感覚とアナログ感覚の違いや、情報過多な現代社会で子供たちの「感覚」は変わったのか?など、興味深いトークも展開していく。
5月 27, 2006 at 11:13 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (1)
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 5
対論 重松清
作家の重松清さんをお迎えし、「涙の理由」
について対論いたします。
2006年5月29日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
聴講歓迎!
5月 27, 2006 at 10:56 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (0)
朝一番で、朝日新聞の取材をお受けする。
朝日新聞でアート・ディレクターをされている
飯田雅裕さん
コピーライターの田中美絵さん
株式会社「案」の細田有二さん
日曜版求人欄に掲載される「仕事術」
のコーナー。
同志社大学の加藤未希さんが研究室見学。
何人かで連れ立って、食堂に行く。
研究内容についてのディスカッション。
大久保ふみさんの実験デザインについて。
恩蔵絢子さんがいろいろアイデアを出す。
jealousyの基本は属人的な資源の分布だが、
あからさまに人に属する形にすると、
その個々人のpersonal traitsを
影響を与え、コントロールが難しくなる。
最後通牒ゲームのようなドライな実験系の
方がむしろやりやすいか。
続いて、星野英一くん、箆伊智充くんの
研究内容について議論する。
星野君の場合、spatial cognitionの
anchorとしてのobject representation
の視点依存性をどう扱うか?
ヘライは、被験者にどのような質問を
するかが鍵。
特に、simultaneousである時の
forced choiceの設計が問題であろう。
田辺史子さんはその間、
机に向かってナニヤラやっている。
所長の所眞理雄さんとのミーティング。
General meeting。いろいろと議論。
「宴会部長」に指名した
関根崇泰が加藤さんをちゃんとおもてなし
しているかどうか、「あさり」
に一瞬立ち寄りチェックする。
田谷文彦とビールをジョッキに半分ずつ飲んで、
銀座へ。
セガから6月に出る
「脳に快感 アハ!体験」
の打ち上げの会である。
移動しながら、田谷と喋る。
「星野からメールが来ましてね」
「うん」
「茂木さんがいつも言う、お前はempirical
scienceというのが何かわかっていない、
というコメントの意味がわからないって」
「そうか。なかなか難しいものだのう」
経験科学とは、つまり、
世界の体験にむかって感性を開く
ことではないか。
「私は仮説を作らない」
(Hypotheses Non Fingo)
はアイザック・ニュートンの言葉。
打ち上げ会場に到着。
セガの宮崎浩幸さんや近藤梨絵さんから、
いろいろ面白い経過をうかがった。
テレビをみた人が
「画面の一部が変わるんだけど、
どこなのかわからないんですよ。スゴイですよ」
と興奮したメールが来て、なんの
こっちゃいな、と思っていたら、
とにかくビデオを見てくださいと
言われて実際に見て、
これはすぐに立ち上げろ!
ということになったのですよ。
その日のうちに、全く
別のところからも、これは行ける!
と来て、
同時に複数のルートから来るから、
これは何なのだと思いました。。。
fingers crossed.
青土社の今岡雅依子さんから、
『食のクオリア』
の見本をいただく。
うるわしい装丁に仕上がった。
5月 27, 2006 at 10:49 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア
生命の起源を秘めた“フロンティア”を探る/ゲスト:長沼毅(広島大学助教授)
日経サイエンス 2006年7月号
(2006年5月25日発売)
5月 26, 2006 at 08:07 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
原宿駅からNHKへの道を歩きながら、
虚数というものは良いものだなあ、
と思った。
留数定理が大好きだ。
手にお弁当をもった中学生の一団が
通り過ぎた。
修学旅行かなにかで、これから代々木公園で
弁当を食べるのだろう。
しかし、認知科学でnon-trivialな形で
複素解析が使えるとしたら、それは
何なのだろう、と考える。
どうも複素数の世界はキレイすぎるようだ。
そこに弁当を持った中学生の一団を
住まわせることはとても難しい
(ようにも見える)。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録は、
清水商業の大瀧雅良さん。
初めての、涙のスタジオとなった。
自らの限界に挑戦していく者たちは
美しい。
それを見守る指導者の目に涙が
浮かぶのも自然の摂理だろう。
涙の中には、思いも掛けぬほど大きな
世界が映し出されている。
「虚数」も「弁当を持った
中学生」も「高校サッカー」もみなその中の
住人であり、
ただ我々は日常の中でそれに気付かず通り過ぎる。
それにしても仕事! 仕事! 仕事!
こうなったらヤケになってだーっと
走るしかない。
誰でも、自分が中高生の時のことを
覚えているはずだ。
あの頃のヤケなエネルギーをぐっと
出せば、人生ダイジョウブ!
『愛の流刑地』は読み終わったので、
これでオマタやセキネにからかわれずに済む。
5月 26, 2006 at 08:04 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第16回
藤の老木に命を教わる
〜樹木医・塚本こなみ〜
日本初の女性樹木医・塚本こなみ(56歳)。植物園・あしかがフラワーパークにある畳500畳分の世界一といわれるの「藤」の木の再生を手がけた。この藤を見るために、花が咲くゴールデンウイークには一日7万人が訪れる。日本一の入園者数を誇る植物園でもある。そして塚本は、この植物園の園長だ。塚本が手がけたこの巨大な藤は、同じ市内の再開発地区にあったものを移植したものだった。これだけ大きな藤の移植は、前代未聞、全国の関係者を驚かせた。塚本の仕事の流儀は、木との徹底的な対話から始まる。心がけるのは、「木は治療して欲しいとは、思っていない」。木が本来持つ生命力を引き出しながら、治療、再生にあたる。塚本は、主婦業のかたわら独学で樹木医の勉強を始め、43歳で資格を得た。全国でも珍しい大木樹木の移植が専門だ。塚本のモットーは、「熱意さえあれば、何歳からでもやり直せる」。
NHK総合
2006年5月25日(木)22:00〜22:44
5月 25, 2006 at 08:46 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (8)
成城学園前からタクシーに乗り、
NHK技研へ。
ふっと気付くと、よくわからない
細い路地をびゅんびゅん飛ばしている。
一回曲がり、もう一度方向を変え・・・
もう再現できない。
「うら通りだよお」と運転手さん。
「表はいつも混むからねえ」
玄関で、研究企画部の加藤隆さん、
人間情報科学部長の伊藤崇之さんに
おめにかかる。
所長の榎並和雅さんと昼食を
とりながらお話する。
NHK放送技術研究所は、
田中啓治さん、斎藤秀昭さん、福島邦彦さん
らの数々の脳科学の研究者を輩出した
ことでも知られている。
今ふたたび、人間に
フォーカスした放送関連技術の研究開発を
進めるフェーズに来ているのではないかと
榎並さん。
技研の特徴は、研究者が放送現場といったり
きたりしながら密着した技術開発を
進めるところで、
なるほど! と思う。
現場に行かないとわからない課題、
未来像というのはあるものである。
ハイビジョンのさらに16倍の
情報量を持つというスーパーハイビジョンの
デモンストレーションを見せていただく。
ニューヨークの街並みやバスケットボール
競技の映像に、ついきょろきょろと見渡してしまう。
普通の映像には、ぱっと見てわかるという
「一覧性」があるが、スーパーハイビジョンだと、
ほんとうにあっちにはあれ、こっちにはこれ
という感じでいろんなものが同時にわーっと
あるのだ。
それでも、全体が同時に意識の中で把握
されているというアウェアネスはちゃんとある。
実に不思議なものなり。
スーパーハイビジョンは、人間の心の
不思議を映し出す鏡だ!
榎並所長の後に、
「人の心を動かすものは何か」
というテーマで講演させていただく。
一般公開日の前の専門家向けの
内覧日ということで、
大変鋭い質問が飛び交った。
講演後、さらに幾つかデモンストレーションを
見せていただく。
超高速度カメラ、高感度カメラ、IP放送、
薄型ディスプレー、高密度ホログラム記憶装置、
・・・・
うーむ、これは・・・・
放送の明日の姿が、何となく見えてきた
ように思った。
見学を終え、
放送技術の未来について
さらに深い思いを馳せていた私。
そのまま「考える人」
でいれば良かったのであるが、
さて、とタクシーを
呼んでいただいている間、おもむろに
渡辺淳一さんの『愛の流刑地』を取り出した。
幻冬舎発行のバウンド・プルーフ。
書評のために読まねばならないのである。
目敏く関根崇泰が見つけ、
ケータイで写真をとる。
「ふふふ、これは面白いぞ」と関根。
うるさい、うるさい。
私は仕事で「あいるけ」を読んでいるので
あるぞ。
難行苦行、臥薪嘗胆なのだ!
タクシーの中、さらには小田急線の
中で読み続ける。
向こうの席では、
小俣圭が何やら笑いながら
幾何学の本を読んでいるようだ。
球面の裏返しの話で私に差をつける
つもりらしい。
確かに
こっちは、京都でのアヤシイ密会の話を
読んでいるのではある。
「背表紙を隠さなくてもいいじゃないですか、
茂木さん」
と小俣が言う。
うるさい。
こっちにもハジや外聞というものがあるのである。
仕事のため、恥ずかしいことをしなければ
ならない人も世の中にはいるんだから、
君たちももっと人生の修業をしなさいね。
NHK技研ではリッパなことを
喋っていたであろう。
人間の心を動かす放送の未来に思いを
馳せていたその男が、
転じて、仕事のために「あいるけ」を
読んで何が悪い。
えーぃ、えーぃ、頭が高い!(笑)のである。
銀座で増田健史、内藤礼さんと
『生きて死ぬ私』 の打ち上げ。
内藤さんの入魂の解説のお陰で、
美しく文庫版が着地いたしました。
ありがとうございました。
そもそも、内藤さんは400字の
原稿を書くのに一週間かかるという方である。
よく7枚も書いてくださいました。
そばを食べながら、心の中で
パン、パンと内藤さんを拝む。
『生きて死ぬ私』の中には、かの英国首相
トニー・ブレアが「私の一番好きな歌」
と言ったという
In My Life
を
引用している。
そんなこんなを話しているうちに、
「たけちゃんマンセブン」こと
増田健史がビートルズ・マニアである
という事実が判明し、
六本木のキャバン・クラブに向かう。
ビートルズのコピーバンドが出演する
場なり。
そこで往年のBeatles songsを聴いていると、
電通の佐々木厚さん、ヨシダさん、オオサキさんが
乱入してきた。
元気いっぱいがんばってきたフラワーピッグ
ではあるが、
睡眠不足がたたって、時々
「飲み会でちょこっと眠る」という必殺技を
繰り出しつつ、『生きて死ぬ私』文庫化を
リッパに打ち上げることができました。
帰り際、たけちゃんマンが何やら
While my guitar gently weeps
がどうのこうのと言っていた。
なんのことか分からなかったが、
後で、たけちゃんはメールをくれた。
私は「あいるけ」
を読むだけではなくて、
こういううるわしい魂の交流をしても
いるのです。
言い忘れたこと。
茂木さんの言葉は
Gently Weeps
だから信じられるんだってわかった。
生意気いいますが、忘れないでください。
増田健史
画面を見つめる私の目は、増田健史
と飲んで来た数々のビールの思い出で
曇ってよく見えなかった。
かつて撮影した、増田健史のお姿が
思い出されてきた。
写真はココ
一方、増田健史の盟友、NHK出版の
大場旦からは「太ゴチ」(太ゴチック)のお願い
というメールが届いていた。
フラワーピッグは仕事から逃げることは
できないのである。
かつて大場旦、増田健史と行った
温泉宿の光景がよみがえってきた。
そういえば「傷だらけのマキロン」
ことNTT出版の
牧野彰久さんからもタダナラヌ気配のメールが
届いてはいたのである。
5月 25, 2006 at 08:28 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (1)
芸大の杉原信幸が
昨日のブログに書いたコメントを
読んで、コンビニまで歩きながら
考えた。
ギャップの中に飛び込むことは確かに
大事で、
私の人生はすでにそんな風になっちゃっている。
<ルビコン川を何回渡るか>
そこは同意。
ただ、杉原のコメント中「観客」という
言葉遣いには違和感を
覚える。
見るということはそんなにお気楽なことでも
ないし、activeなことであるということは
現代脳科学が示している通り。
創造と受容、批評の関係は、
能動性、受動性という枠組みではとらえきれないなり。
良い批評はすでに創造であり、
「オレサマ」創造はエネルギーの無駄撃ちに過ぎない。
日本の「クリエーター」に必要なのは
依然として(自己)批評精神であって、
小心なる自称クリエーターたちが
しばしば目の敵にする
小林秀雄を少し処方する必要がある。
批評にも命がけの跳躍がある。
そんな単純なことがなぜわからないのかな。
(和楽の渡辺倫明さんが、先日石原慎太郎氏に
取材した時、尊敬する日本人ってそんなにいないけど
岡本太郎と小林秀雄くらいだと言っていた
そうである)
クオリアは受動性を能動性に転化させる
起爆装置なのであって、
能動/受動の単純なる二元論は
いい加減にサラセン帝国である。
以上の言説は杉原のコメントに触発
されてコンビニへの歩行運動の中で生成
されたというだけに過ぎず、杉ちゃん
個人へのクリティークではないから為念。
『クオリア降臨』の「スカの現代を抱きしめて」の
章で書いた様々なことを思い出してしまった。
聖心女子大学の授業は、
視覚を中心にやった。
それと、進化心理学における美の概念。
文藝春秋で大竹昭子さんと
スナネズミについて大いに語り合う。
大竹さんの
「きみのいる生活」刊行を
期に一つ久しぶりにお話しましょう、
という趣向。
大竹さんが、沖縄や写真からスナネズミに
至る人生のあわいはしみじみ面白い!
対論の様子は、
「本の話」に掲載される予定なり。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の打ち合わせ。
サッカーネタということで、有吉伸人CPの
テンションは普段の200%増しであった!
NHK出版から入不二基義さんの
『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』を送っていただいた。
これは、拝読するのがとてもとても
楽しみなり。
入不二さんは嵐山光三郎に雰囲気が似ている。
週刊ポスト2006年6月2日号の
「思い種、言の葉種」(p.109)で
武田鉄矢さんが拙著に触れてくださっている。
なかでも最近は、脳科学者、茂木健一郎
さんの著作がおもしろかった。ちなみに
この先生、ひたすら心と脳の問題を探究している
方で、書かれている内容が難解だったりする
んですね。物質であるところの脳になぜ精神が
宿ったのかと問題提起されても、こっちは
ちっとも分からない(笑い)。
それで、こんな記述がありまして。あるとき、
彼が脳に関することで悩み、その問題をクリア
できるよいアイデアはないかと、京都の哲学の
小径を歩いたそうなんです。その小径は
西多幾多郎さんとか日本を代表する哲学者たちが
毎日のように歩きながら考え事をしていた径で、
自分も歩けばなにかひらめくのではないかと
思ったそうなんです。
しかし、なにも浮かんでこない。どうして
なにも思いつかないのかと、それこそ悩むんですが、
・・・
続きはポストでお読みください。
深謝。
5月 24, 2006 at 07:47 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (0)
しばらく前のブログに五十嵐茂さんが
つけてくださったコメントのことを
時々思い出す。
「一番大事なことはいわゆる仕事にしない、
楽しんでやる、というのが椎名さんたちの魅力でしょうか。
そういうスタンスでいられるときにこそ大事なものが
とらえられている。そうしないと意味がいつのまにか
失われたたんなる形式やぬけがらになってしまう、と
いうことは、会社仕事のなかで嫌というほど経験しました。
人生遊びなんだよ、と言ってしまいたいなあ。」
京都からの帰りの新幹線の中で、
おにぎりを二つ食べ、仕事をしながら
思い出していた。
「怪しい探検隊」で意味もなく
段ボールをかつぎ、海岸に行き焚き火をして
酒を飲み、火を吐く。。。
そんな椎名さんちの人生の時間は
やっぱり輝いていたんだなあ、
と思う今日この頃。
焚き火キャンプだったら世間から
リッパな「遊び」として認定されるが、
肝要なのは、一見マジメな仕事も
また遊びとしてやることじゃないか。
そうじゃないと、クオリティの高い
仕事は出来ないんだと思う。
研究も、創造も、みんなそう。
五十嵐茂さんは、柏書房で
『脳の中の小さな神々』をつくって
くださった編集者。
五十嵐さんと有田芳生さんとは旧知の
中で、時々飲み会に混ぜていただくのである。
みんなで、仕事で大いに遊びましょう。
電通で神経マーケティング研究会。
いつものように佐々木厚さん、
幻冬舎の大島加奈子さん、
橋本麻里さん、
法政大学の田中洋さん
頭を一生懸命遊ばせて議論しました。
東京芸術大学の授業。
杉原信幸と話し始めたら、
いつの間にか「対話篇」になってしまった。
上野公園で、みんなで話していたら、
そうだ、一生遊ぶのだ! という
思いが強くなった。
モーツァルトも、伊藤若冲も、夏目漱石も
覚悟をもって遊んでいたんじゃないかなあ。
世間の無理解、シャクシジョウギ、
金儲け主義に屈せず、
肝を据えて遊びましょう。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
梁塵秘抄 (1180年)
古の人たちの生活は、今よりも過酷で、
寿命も短かったが、
だからこそ真実をとらえていたんだなあ。
5月 23, 2006 at 06:49 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (2)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年6月4日号
(2006年5月22日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第5回
ユーミンの創造性の秘密がわかった!
一部引用
今年生誕250周年を迎えたモーツァルトは、その作品と実際の人柄の間に「ギャップ」があったことで知られている。楽曲が天上的な完全さと優美さを備えているのに対して、その人柄は活気に満ち、冗談好きで、猥雑ですらあったと伝えられている。
モーツァルトに限らず、天才的な創造者ほど、作品と人柄の間に距離がある。これが、「ギャップ理論」である
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
5月 22, 2006 at 06:31 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 4
茂木健一郎 唯脳論 2.0
2006年5月22日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
聴講歓迎。
5月 22, 2006 at 06:25 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
京都国立博物館へ。
「大絵巻物」展を見るため。
源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画絵巻など
有名どころが出ているため、大変な人出。
会館前に行って、藤沢周平を読みながら
並んだ。
絵巻物は日本で特に発達した
表現形式。
私といたしましても、
エマキには並々ならぬ関心を持っている。
「百鬼夜行絵巻」
の最後に出てくる、
妖怪たちを追い立てるかのように見えて、
実は世界全体を全て異次元に引き込んで行く
巨大な太陽が好きだ!
「道成寺絵巻」も大好き。
清姫が鐘に巻き付き、火を吐いて、
安珍が黒こげになってしまうところが
かわいそうだが面白い。
しかし二人は生まれ変わって
浄土で幸せに暮らすのだ。
私はどうも怪奇物、
人間が異界に踏み込んでしまうような絵巻が
好きなようである。
一般的な文脈で言えば、絵巻物は右から
左へと移り変わっていくが、
ここで、空間表現が時間表現と溶け合う
のが不思議であると同時に心惹かれる。
ウサギがカエルと相撲をとり、
平安貴族が雅な空間で物語の中のエンボス
になる絵巻を
満員の会場で押され流されるように観賞。
博物館を出た和楽の渡辺倫明さん、
トリマーで整えるという無精髭を
風になびかせながら、「それじゃあ、うぞうすい
などいかがでしょう」などとイキなことを
言う。
それはいい、と「わらじや」へ。
コブとカツオで出汁をとったスープに、
一時間てろてろと焼いたウナギを入れて、
雑炊に仕立てる。
大変美味なものでありました。
満腹になったことでもあるし、
「近いから行きましょう」ということで
智積院へ。
長谷川等伯の息子、長谷川久蔵が
26歳でこの世を去る前に描いたという
「桜図」。
奔放なる生命力を惜しむわけでもなく
咲き誇る満開の花びらに、
若死にでも、天寿を全うするのでも、
いずれにせよいつかは
散らざるを得ない我々人間の宿命のはかなさと
おそらくはそれゆえの美しさを見ずにはいられない。
対となる等伯の「楓図」に秋草が咲き乱れる。
惜しまない時、生命は一番輝くのか。
絵が哲学を表すとはこれはいかなる奇跡か。
収蔵庫はボタンを押すと
耳障りな琴の音とともに解説が
流れる奇怪な設いになっており、
後から来た二人連れがそれを押したので
退散。
現代人はもっと静かに古(いにしえ)に
向き合うべきなのではないか。
智積院が誇る庭園を縁側から拝見。
目の前に迫る緑の山を眺めているうちに、
「ああ、京都にいるんだ」と実感。
忘れかけていた感覚が内側からゆるゆると
よみがえってくる。
普段の忙しい、機能主義的生活を捨てて
京都出家しよう
とまでは思わないけれども、
Aの横にBを持ってくると、Aが違って見える。
そのような批評性の原資としての京都の魅力を
再確認。
そうだ時々は京都に来なければいけないのだ。
さらに
ワタナベ無精髭ミチアキに導かれて、
東寺へ。
金堂、講堂、立体曼荼羅。
象にまたがった帝釈天のお顔が大変リッパでした。
無精髭も殊の外お気に入りのご様子。
東寺に行く途中、タクシーの中で
拾ったメールの中に、
本願寺
の藤本真美さんから
のお誘いがあった。
偶然本日、本願寺では、「降誕会(ごうたんえ)」
という、親鸞聖人のご誕生祝賀法要を
開催しておりまして、飛雲閣でのお茶会、
重要文化財の能舞台での祝賀能がございます
という有り難いお誘い。
このブログで京都にいることを知ったのだという。
橋本麻里さんに「どうでしょう」
と聞くと、
「茂木さん、それは見逃せません!」
というので、藤本さんのお誘いに甘えることに。
飛雲閣は一説には秀吉の聚楽第から
移築されたとされる優美な建築。
正式には船で入るという。
あまりにも優美で、眼がちかちかする。
お茶席で抹茶を頂く。
橋本さんは武者小路千家で鍛えているので
私は左側をそっと見ながらマネをする。
至って不調法でございます。
続いて書院での能観賞。
ここも飛雲閣も国宝である。
襖絵や天井画を拝見しながら
仕舞を音で味わうのは贅沢な空間体験。
荒木経惟さんが撮影した『飛雲閣ものがたり』
について、藤本さんがいろいろ説明下さる。
コロタイプ印刷による限定版もある由。
皆さん、いかがでありましょう。
まだ旅は続く。
岡崎最勝寺町の
細見美術館へ。
晴天の京都は暑かった。
白ワインを飲みながら休んでいると、ブルータス
の鈴木芳雄さんがやって来た。
鈴木さんもいそいそと白ワインを注文。
続いて写真家の小野祐次さんがやってきて、
ボクはエスプレッソで良いです、と言った。
オノさんは仕事なのである。偉いのである。
館長の細見良行さんが自ら
伊藤若冲の『糸瓜群虫図』を掛けてくださる。
「うちにあるから言うわけじゃないけど、
若冲の中でも最高傑作だと思います。これを
描いて、若冲は『動植綵絵』への自信が出来たんじゃ
ないかな」と細見さん。
大好きなこの絵を
こんなに近くでじっくり見るのは
初めてである。
昆虫たちの身体が、植物のそれと
同じような表情を見せているかのように見える。
エコロジーと言っても、お互いに弱肉強食
の関係にあるのではなく、
それぞれが独立独歩で、
一瞬得たかに見える無垢なる風情。
この世に降り立ったばかりの
ヴァージン・スノウのように、生きる
ということに必然的に伴うはずの
重力の魔から解放されているのだ。
そして、虫たちは、どこかに向かおうと
しているかのようにも見える。
バネがうんと縮んでエネルギーが
溜まっているように、
あるいは、ぜんまいがくるくると
巻き上げられているように、
次の瞬間にはぴょんと跳ねて
どこかに行ってしまいそうに
思えるのだ。
その「どこか」は、恐らくはこの世界ではない。
細見館長が、しきりに、「若冲は京都の
最後の町衆でした」と言われる。
若冲の錦小路の青物問屋は、「手代が2000人」
いたと細見さん。
京都の本当の金持ちが、時間にも画材にも
糸目をつけず、自分の楽しみのために
描いていたら、あんな絵になった。
細見さんのお話をうかがっているうちに、
若冲は京都そのもののように思えてきた。
『糸瓜群虫図』の虫たちは、それぞれ、
一筋縄ではいかない意志を秘めつつ、
この世にあることを楽しんでいる。
そのような内面性をただ形態のみを通して
表現するのが若冲の天才であるが、
それはまた一つの自画像でもあったのではないか。
『日月山水図』のように世界が行き交い、一つ
に溶け合う気に包まれる画業とはまた違った、
個が個として存したまま、
自らの中にあるバネを
ぎりぎりと巻き上げて世界に対すること。
鈴木芳雄さんが、「京都はいいところなんだけど、
京都人がちょっと・・・などと言いますね」
とジョークを飛ばしていたが、
その一筋縄ではいかない京都気質が
若冲の絵の中には確かにあるのではないか。
生きとし生けるもの全てへの
愛が、私にとっての若冲であるが、
その精神の輝きが京都で育まれたということの意味を
一度真剣に考えなければなるまい。
5月 22, 2006 at 06:21 午前 | Permalink | コメント (10) | トラックバック (1)
ワッツ・ニッポンを終えて、
東京駅に来た時、
また新幹線の中でお弁当を食べるのは
イヤだな、と思った。
八重洲地下街でラーメンを探して
見つけた「くじら屋」
薄口醤油がおいしかった。
仕事をしているうちにいつの間にか眠る。
気付いたのは関ヶ原あたり。
曇っていた。東京も、到着した
京都も晴れていたのだが。
橋本麻里さん、和楽の渡辺倫明さんと
改札口。
京都ホテルにチェックイン、それから
寺町の骨董品屋界隈を歩く。
白洲信哉は自分の猪口を持ち歩いて
飲むが、
あのマネをしてみようと佃さんで
古伊万里の
白磁を買い求める。
橋本さんはインタビューの仕事があり、
渡辺さんと信哉行きつけという
「らく山」へ。
古伊万里を手にした感じが、
夏の宵闇のようにうすくてひんやりとしている。
紙袋に包んで、掌の中で持ち歩いて良かった。
見知らぬ街を歩いている時の、
周囲がぐわんと意識の中で感じられている
雰囲気が好きだ。
心脳問題を考えることのボーナスは、
人生の味わいについてより自覚的な
メタ認知が立ち上がることか。
橋本さんは結局インタビューが長引いて
姿を見せなかった。
渡辺さん、佃さんと三人で飲んだ
寺町のバーは良かったが、
名前も場所も判然としない。
5月 21, 2006 at 08:19 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (1)
東京芸術大学 美術解剖学 2006
Lecture 4
茂木健一郎 『唯脳論 2.0』
2006年5月22日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
今年はゲストの講義の合間に自分でも時々やります!
聴講歓迎!
5月 20, 2006 at 08:05 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
『生きて死ぬ私』 (ちくま文庫)
は重版(2刷、累計13000部)
となりました。
ご愛読に感謝いたします。
5月 20, 2006 at 06:44 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
しゃかしゃかと仕事をしながら
名古屋駅へ。
愛知県立一宮高校の水谷忠資先生が
改札の外で待っていてくださっていた。
一宮高校は、Super Science High Schoolに指定されており、
外部から講師を招いて講演会をやっている。
その数、年間なんと10回!
筑波の高エネルギー研究所(KEK)や、
神岡のスーパーカミオカンデにも訪問するという、
私の高校時代からすると考えられないほど
恵まれた環境なのである。
雨の名古屋を、水谷先生とタクシーで
一宮高校へ。
昨年打ち合わせをした時にお目にかかった
細川正徳先生、鶴田治之先生と再会。
斎藤正晴校長先生と歓談した。
昼食を終えた頃、細川先生が色紙を
持っていらっしゃる。
校長室に飾ってある過去の講師の色紙の
横に懸けます、というのである。
そのラインアップを見て、うーむと思った。
梅原猛さん、野依良治さん、江崎玲於奈さん。
いずれに錚々たる人生の大先達であるし、
その色紙の内容が堂々たる人生論になっている。
いつもの私の「フラワーピッグ」では、
いかにもそぐわない。
苦し紛れに考えた。
脳の絵を描いて、ニューロンが
同期発火している様子を描き、
創造トハ自己革新デアル
The human brain at the moment of creation
茂木健一郎
と書いた。
会場は市民会館。全校生徒と父兄、それに
市内の中学の代表で千二百人くらい集まった。
途中で、会場の学生たちといろいろ話したが、
後ろの方に座っていた野田君が立ち上がって大声で
発言してくれて、立派な「最初のペンギン」になった。
野田君は二年生らしい。
前の方に座っていた「スパーク君」も
なかなか元気が良かった。
話を終えた後、有志40名との小規模懇談会。
佐藤さんが、「脳がわかると人生もわかるというが、
本当は人生がわかるから脳がわかるんじゃないか」
という趣旨の事を言ったのが鋭かった。
そう、人生との交渉で得られた知見が、
逆に脳に投影されるのであります。
だとすれば、人生がワカラナケレバ
脳もワカラナイだろう。
水谷先生と名古屋駅に戻りながら、
KJ法の話をした。
川喜多二郎先生のお話をうかがう。
水谷先生は、KJ法の研究会に
定期的に出席されている由。
自分が高校生の時って、どうだったかな。
なんだか、ざわざわと胸の中でなにかがうごめく
雨の名古屋であった。
5月 20, 2006 at 06:09 午前 | Permalink | コメント (8) | トラックバック (1)
いつも「クオリア日記」をお読みいただき、
ありがとうございます。
一つお知らせがあります。
コメント、トラックバック
は、管理者の手動による
承認を経て公開される形式に変更
させていただきました。
ご投稿から、公開まで時間がかかる場合もある
ことになります。
しばしば、ブログのアップ(毎日朝の時間帯)
に合わせて承認作業を行うことになるかと
思うので、一日遅れ、という
こともあるかもしれませんが、
コメントがその時にpublishされるという
メタファーで、ご理解いただければ
幸いです。
(その時publishされるためにコメントを
Easter Egg状態に置いておく、と思って
いただければと思います)
御迷惑をおかけしますが、
SPAMの増加に伴う止むを得ない
措置ですので、
御宥恕いただけますようお願いいたします。
茂木健一郎拝
5月 19, 2006 at 07:24 午前 | Permalink
「土曜LIVE ワッツ!?ニッポン」
(フジテレビ系列、午前9:55~11:40)
2006.5.19.
出演予定。
5月 19, 2006 at 06:22 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の番組宣伝もかねて、
「スタジオパーク」に出させていただいた。
ディレクターの高橋みちこさんから、
「茂木さんが蝶少年だったことを示すもの何か
ないですか」
と言われていて、探していたが
標本は両親の家に置いてある。
それで、たまたま手元にあった小学5年の時の
「生活帳」を持参した。
毎日日記を書いて、担任の小林忠盛先生に
提出していたもの。
表紙に、ヒョウモンの羽根がセロテープで
貼ってある。
十月二日の日記には、このようにある。
今日けんび鏡で、チョウのりん粉を見てみました。
モンキチョウ、キタテハ、ウラジャノメ、ウラゴマダラ
シジミ、キチョウなど、いろいろやりました。光を
当てると、光たくが光ってあざやかになりました。
暗くすると、神ぴ的になります。チョウのりん粉
というのはきれいだなと思いました。それから、図かん
を見て見ました。とてもきれいでした。これからも
どんどん調べたいと思います。
そんなこんなをご紹介していたら、
隣の有働由美子アナウンサーが、
「茂木さん、担任の先生のお名前、
何ておっしゃいましたっけ?」
と聴いた。
何だか変だなあ、と思ったが、
「いや、小林先生ですよ。いい先生でねえ、
ほら、この日記には、「やればできる すべて
そうです」とコメントしてくださっているでしょう。
熱心に指導してくださったんですよ」
などと言ったら、有働さんが、
「実は小林忠盛先生、スタジオにいらして
いるんです」
と言う。
えっ、と思ったら、本当に客席から
小林先生が歩いていらした。
びっくりした。何しろ、同窓会以来、
二十何年ぶりである。
小林先生と、番組中でもお話し、
終了後も短い時間ではあったが、
ご挨拶することができた。
これは真性のサプライズであった。
何しろ、小林先生が担任だった頃の
生活帳を持っていこうと
思ったのは、当日の朝であり、
しかもたまたま小林先生がコメントして
下さった日をカメラで大写しした後に
本人が登場するとは。
お釈迦様でもご存じあるまい。
高橋みちこさんも「決まったあ」
と喜んでいらしたが、
ちょっとはそっとではない
偶然が重なった感じである。
それにしても、有働由美子さん、
小川浩司さんの二人のキャスターはいい感じだった。
NHKの局内に「昼顔」と題された
お二人のポスターが張られているが、
ひまわりみたいな笑顔だと
思う。
昼顔とひまわりは違う、というような
ディテールはこの際どうでも良いのだ!
両アナウンサー、小林忠盛先生ご夫妻と
記念撮影。
素敵な記念になりました。
5月 19, 2006 at 06:12 午前 | Permalink | コメント (16) | トラックバック (1)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第15回
光よ、深きものを照らせ
〜ライティングデザイナー・内原智史〜
表参道ヒルズ、羽田空港第二ターミナルなど、話題のスポットを次々と手がける、ライティングデザイナー、内原智史(47歳)。都会の建築物のライトアップのみならず、金閣寺、銀閣寺、平等院など歴史的建造物のライティングや、地方都市での「光による町おこし」まで、人の心に届くあかりを生み出す内原の手法は、海外からも高い評価を受けている。内原のデザインの信念は「建物をただキレイに照らすのではなく、その場の本質を光で引き出す」こと。ライトアップを依頼されても、これ以上の光は必要ないと判断すれば、ときに「照らさないデザイン」もする。照らす対象の本質を見極めるために、現場に何度も行き、とことん考え抜く。
東京と島根の「光のデザイン」の現場に密着。「ものの本質」を見抜こうと挑むヒットクリエイターの仕事術に迫る。
NHK総合
2006年5月18日(木)22:00〜22:44
5月 18, 2006 at 08:35 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (4)
2006年5月18日
NHK総合 13:05〜13:59
『スタジオパークからこんにちは』
ゲスト 茂木健一郎
5月 18, 2006 at 08:33 午前 | Permalink | コメント (8) | トラックバック (4)
『ニューロンの回廊』
でメディア・アーティストの岩井俊雄さんと
スピードスケートの清水宏保さんにお目にかかる。
雨の中、麹町の日本テレビに
入ると、スタジオでは大がかりな
準備が行われていた。
しかし、ディレクターの
野溝友也さんは、しっしっ、と追い払うのである。
「茂木さんは見ないでください」
仕方がないので、控え室でお弁当を
食べながら仕事をしていた。
本番になって、岩井さんにご挨拶して、
いよいよ『時間層II』を動かすことになった。
岩井俊雄さんが日本美術展大賞を受賞
された記念すべき作品のホンモノ!である。
ところが、今度は森義隆さんが
「しっ、しっ。茂木さんは隅の方に行って、
壁に向かって立っていてください」と言う。
どうしても、見せないつもりなのである。
カメラが回って、やっと見ることが
できた。
ファースト・リアクションが欲しかったらしい。
私は、うわっ! と叫んだ。
岩井さんは、小学生の時の
工作ノートや、学生の時に就職活動用応募ハガキの
束に書いたパラパラ漫画や、いろいろな
ホンモノ! を持ってきて見せてくださった。
最近つくられているリベットくんも
沢山「見せて貸して触らせて」くださった。
岩井さんとお話して良かったなあ、
と思うのは、メディア・アートという
ものに対する観念が変わったことである。
メディアというものの存立性を
前提に表現を工夫するのが通常の意味での
アートだとすると、メディア・アート
というのは、新しいメディアが成立するその
危うい地点に立ち戻って感じ、考え、
表現することなんだとわかった。
少なくとも岩井さんはそうやっているんだと
わかった。
岩井さんは、自分がいろいろなことを
知ってしまった後でも、「何も知らない人
だったらどう感じるだろう」という
原点に立ち戻って考えられる、という。
ミステリ作家がトリックや真犯人を
知らない状態に戻って自作を読むようなもの。
収録後、立ち話をしている時に、
岩井さんと私の間には、生年のみならず
たくさんの共通点があることがわかった!
岩井さんとは、これからもいろいろ
な接点があるのではないか!
清水宏保さんには、以前からお目にかかりたい
という気持ちが強く、雑誌の対談などで
「対談相手は誰がいいですかね」と打診
される度に、「あのう・・・スケートの
清水宏保さんはいかがでしょう・・・」
と言ってきたのが、ついに実現した!
前からスゴイ! と思っていたが、
『神の肉体』を読んで、
完全にノックアウトされたのが2002年。
「肉体の限界よりも精神の限界の方が先に来て、
そのリミッターを外すことが重要」
という清水さんの命題は、スポーツに限らず
いろいろな分野について言えることなのでは
ないか。
その清水さんの強さが、弱さから来ている
というパラドックスの中にしみじみと味わう
べきものがある。
清水さんは、幼い頃に喘息で苦しみ、
自分の身体はこういう時はこうなる、
と隅々までモニターし、調整を試みる
クセがついたのだという。
喘息という苦しさに向き合ったことと、
清水さんがスケートで
滑走しているとき、あるいはトレーニングを
している時に身体をコントロールしている
時に隅々まで神経が行き渡っている超人的な
感覚は、関係しているのではないか。
冒頭、「肉体くらべ」などと称して背中合わせ
で立たされた。
太ももも僭越ながらさわらせて
いただいた。
鋼鉄のようにぱんぱんに張っていながら、
やわらかい!
後で、森さんに「茂木さん、珍しく
最初の方動揺していましたね」と言われたが、
あんなことをさせるからだ!
誰だってドギマギするじゃないか!
清水さんの言われることは、いちいち
スゴイのだけれども、たとえば、
「集中する」ということは、
世界の中のある一点だけにスポットが
当たってそれ以外は見えなくなることではなくて、
むしろ全体が見えていることだというのは
とても深いと思った。
今の脳科学におけるattentionのモデルは、
要するにスポットライトのようなもので、
だとすればwinner-take-allで他のものは
見えなくなるはずである。
しかし、清水さんの証言によれば、
トップ・アスリートにおける集中とは、
むしろ全体が見え、しかし何者にもとらわれない
ことである。
この脳状態は一体何なのか?
heightened state of awareness
だという特徴付け、Mihaly Csikszentmihalyiの言う
「フロー状態」だという特徴付けはできるにしても、
その正体は未だわからない。
清水さんのトレーニングの方法は、単に
力学的に大きな負荷をかければかければ
良い、というようなものではなく、
脳と身体が一体となった複雑系制御の
ダイナミクスの中に自分を投げ込むことの
ようだ。
同じトレーニングをしていては
「筋肉はずるい」から、この負荷でいいんだと
怠けてしまう。
だから、いつも常に新しい
形での負荷を身体に与え続けなければ
ならないというのだ。
「いつも同じように腕立て伏せをしている
だけではだめなんですね」と私が言うと、
「こうやったり、こうやったり、と、
手をつく向きを変えたり、姿勢を変えたり
してみるといいんじゃないですか」と清水さん。
そうか、いろいろヘンでコワイ
かっこうで腕立て伏せをすれば良いのか!
さっそく実行してみよう!
限りなく共感したのは、
清水さんにとって何よりも大事なことは、
世界記録を出すことでも、オリンピックで
金メダルをとることでもなく、
自分の限界を乗りこえていくことだ
ということ。
そこでの進むべき方向や自分が何に向き合っている
かという感覚は、言葉で表せるものでも
人に容易に伝えられるものでもなく、
孤独のうちに立ち向かうしかないもの。
スポーツも考えることも同じだ。
私が意識の起源の問題に関して、
「相互作用同時性」の周辺を
考える際に、いつも直面する難しい箇所。
そこを超えようと格闘することは、
清水さんがスピードスケートで
難しいコーナーをうまくまわろうと
格闘する際に直面することときっと
同じなんだろうと思う。
清水さんに、大きな勇気をいただいた
ように思う。
最後に握手。
アスリートの手は大きく、そして
柔らかかった!
自己の、そして人類全体が未だ
到達したことのないゾーンを目指して
苦闘してきた清水さんの時間は、
この世の何よりも美しいと思う。
5月 18, 2006 at 08:28 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
NHK放送技術研究所
http://www.nhk.or.jp/strl/
2006年5月24日(水)(専門家招待日)
13時〜13時40分 榎並和雅さん講演(NHK技研所長)
13時40分〜14時40分 茂木講演
(講演録画を25日、26日の技研公開で放送)
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/kaichou/2006/05/003.pdf
5月 17, 2006 at 09:44 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (1)
内田樹さんのブログ
を拝読していたら、
「2006年度大学受験出題頻出者ランキング」
で、私が2位だったと書いてあったので
驚いた。
1位 上田紀行 2位 茂木健一郎 3位 鷲田清一
4位 山崎正和、夏目漱石 5位 正高信男、斎藤孝
6位 内田樹、養老孟司、柏木博、河合隼雄
入試問題というのは一生懸命読むものだが、
のど元過ぎれば、で案外忘れられてしまうもの
ではないか。
自分の年に何が出題されたかも、もう覚えていない。
忘れられても、出会いがあればそれでいい
という考え方もある。
聖心女子大学の授業は、知性
(general intelligence)のことを
中心にやった。
心理学の講師控え室でいつもの
ようにコピーをお願いして、
別の棟にある教室まで
向かう。
廊下を歩いて、二回エレベーターを
乗り換える複雑なルート。
途中で、聖人の額が掲げられた
場所を通る。
いつも、そこにくると「あっ、こっちだ」
と思う、一つのランドマークになっている。
神の眼に見つめられているようで
ぴしりと身が引き締まるのだ。
脳についてのとびっきり基本的な
ことは押さえつつ、
ごくごく最近の研究動向も紹介する。
一つの物語としての脳の面白さが伝わると
いいなと思っているのだけれども。
夜、佐藤雅彦さんの築地の事務所に伺う。
佐藤さんが制作中の本を見せていただき、
いろいろブレストする。
佐藤さんは、「気配」を感じる人間の
能力に着目して、その本能を覚醒させようと
している。
確かに、気配は重要だ。ものを考える
上でも、ざわざわとした胸騒ぎ、
何かが潜んでいるような雰囲気、
いろんなものが飛んでくるようないきおい。
そんなものを感じ取って概念空間の中を
進んでいかなければならない。
佐藤さんのやることはいつも
面白い。
あれほどのこだわりと執念と創造の
くらくらがないと、遠くには行けないだろう。
事務所から、佐藤さんだけが
エレベーターに乗って送って下さった。
「お話があるから」と言われるから、
ナンダナンダと思っていると、
「茂木さん、ぼくのこと変人だと言っているでしょ」
と佐藤さん。
「えっ、言っていないですよ・・・少しは言っている
かも、もごもご」
「この前の紀伊国屋ホールでも言っていたでしょ」
「えっ。何で知っているんですか」
「佐藤グループの人は、どこにでも出没するんです
よ。ふふふ。まあ、茂木さんだったら、何を言っても
いいけど。」
世界のマサピコに釘を刺され、私は
変人トークを少しトーンダウンせねばなるまい
と思った。
タイミング的に夕飯を逃し、
はらぺこオオカミとなった帰路、
最最寄り駅ではない駅から歩いた。
そこはいくつかの大学がある街であり、
遅くまで開いている飲食店がたくさんある。
Jazz Barやラーメン屋やトンカツ屋の
間を「うまそうだなあ」と徘徊しながら、
私は、ふと、時間がいつの間にか過ぎ去っている
ことに気がついた。
私は同じ世代の中では圧倒的に子供っぽいというか
いつまで経ってもふらふらぶらぶらだけど、
自分がその学生街を徘徊している
若者たちくらいの年齢だった頃のことを
考えてみると、
もっと「何にもねえ」という感じが
強かったように思う。
あいつらも、きっとそうなのだろう。
こんなに毎日「これをやるあれをやる」
というコミットメントがあるのは
ありがたいことだが、
宙ぶらりんとは違う。
ああ、オレは根津の吉野屋の横を歩いて
銭湯に行き、研究室に帰って椅子を三つ並べて
眠っていた、あの大学院生の頃から
圧倒的に流されてきてしまったんだなあ、
と思わず感慨にふける。
帰宅すると関根崇泰からSfNの
アブストラクト原案が届いている。
なんと、SfNのサーバーがダウンして
少し延びたのである。
とはいっても、deadlineは午前2時。
あまり時間がない。
ここに教師信号を書いてしまえば、
タカヤス君のアブストラクトは、まず、
論理的構成がすっきりしていませんでした。
科学論文に用いる英文というのは、
緻密な論理パズルのように組み立てるのが
理想です。
つまり、あることを言うためにはさ、
その前提になることをちゃんと書いて
おかなくてはいけないんだよ。
いい英文は、ちゃんとそうなっているよ。
というかさあ、そこからずれると、
「うっ、これは気持ち悪い!」
と思えるようになるんだよ。
また、英語は、冗長性(redundancy)を
きらいます。
Natureの英文は、editorの手も入って
良いものになっていますから、
それを沢山読んで、感覚を身につけましょう。
とは言っても、私もまだ英文については
学習曲線の途上にあり、奥が深い道である。
英検一級、国連英検特A級などは
学部生の頃に取ってしまったが、
あんなものは英語の小学生のようなもので、
その先は限りなく長い。
英語Native化計画は依然として進行中だが、
まだまだ私も修業中の身。セキネタカヤス君、
一緒にがんばりましょう。
一般に、何でも学習曲線の途上だと思うと、
限りなく楽しい、と思うのは、ひょっとしたら
私も佐藤さんと同じ変人だからだろうか。
ああ、ヘンジンは深夜関根のabstractを書き終わり、
送り、ため息をついてめんたいこご飯を食べ、
コンビニで買ってきた『庖丁人味平』を読んで
5分も経たないうちに眠ってしまったので
ありました。
5月 17, 2006 at 08:23 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (3)
『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)
そろそろ書店に出回っているようです。
筑摩書房のたけちゃんマンセブンこと、
増田健史くんが書店に出回った頃に
告知してください、とビールの泡を吹き飛ばしながらの
たっての頼みでしたので、そういたします。
思えば、『脳とクオリア』で難しいコリクツを
振り回していた私が肩の力を抜いて
カミングアウトしたというか、
青春が裸になってしまったような本でした。
この本が一番好きと言ってくださる方も多いのです。
ちくま文庫
『生きて死ぬ私』
解説 内藤礼
5月 16, 2006 at 08:27 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (0)
いろいろいろいろいろいろいろいろ
仕事をしている。
しかし、実は、私の場合、仕事
と遊びの区別はないのであ〜る。
何をやっても楽しい。
ただ、締め切りとか、相手とか
があるのがあって、それは自分のペースでやるわけに
はいかない、というだけのこと。
それに、それ相応のプレッシャーとか
難しさというものはある。
でも、遊びは遊びなのだ。
五十嵐茂さんが最近のブログにコメント
下さったように、下手に楽しいことを
「お仕事」にしてはいけないのだ。
とはいうものの語義矛盾。
「必殺電車内仕事男攻撃」を繰り出しながら
東京芸術大学へ。
正門で、竹内薫と会う。
おお、ここにいたか、二十歳以来の
心の友よ、
これは奇遇、
って、よく考えなくても
自分で呼んだのだった。
大浦食堂のカレーライスを初めて
食べる。
コーヒーは飲んでいるけど、食事を
したことはなかったのだ。
午後3時の昼食。欠食児童でした。
竹内の講義は大盛況。
相対性理論の時空の話でした。
私は、授業の合間に
学生の間をひそかに回って
Society for Neuroscienceへ出すabstractの
相談などを執り行う。
いつもより多く、東工大の学生が
来ていて、他の研究室からも参加が
あったのである。
授業がはねた後、恒例の公園内の
飲み会。
わらわらとビールやワインを飲んでいる
人たちを眺めながら、
私は、ブランコの横の地面に座って
abstractを書いていた。
星野英一くんから送られてきた
原案を、
「ったく、こいつの話は何で
こう、概念的な方向に飛ぶんだ。イギリスに
留学していたくせに、経験主義というものが
何だかわかっていないな」
とさり気なくブログに教師信号を
散りばめながら、砂をけっ飛ばし修正
しまくっていたのである。
一陣の爽やかな風が吹き、見上げると
竹内薫が立っていた。
おおそうであった、としばし仕事を
やめ、ビールを新たに注いで立ち話。
(以下た=竹内薫 も=茂木健一郎)
た「茂木よ、テレビの仕事はどうだ」
も「いや、勉強になるよ」
た「オレも、最初はどうか、と思っていたんだが、
やってみるとそれなりにたのしいなあ。」
も「そうであろう。肝心なのは、違うメディアの
仕事を下手に混ぜないことじゃないか。テレビ
にはテレビのプロフェッショナリズムがあり、
活字には活字の美学がある。それを下手に
混ぜるとろくなことにならないんじゃないかな」
た「そうだよな。最近、北野武さんや鈴木光司
さんと話していて思うのだが、世界マーケットを
相手にした仕事がしたいと思うのだ」
も「小説書くんだったら、いっそのこと
マイケル・クライトンみたいなの書けばいいんだよ」
た「何か、そのうちコラボするか」
も「そうだな、しようかのう」
とやや整理すると上のような会話が
行われたのだが、
その間には、当然不規則発言などもあり、
しかしそれらはブログに書くと
差し障りがあるので存在しないことになっている。
本郷二丁目へ。
松井孝典さんにお誘いを受けて、
「地球学フォーラム」へ。
斎藤成也さんの遺伝子の話を伺う。
おもしろい! ゲノムの話は
普段聴かないので面白い!
会場には、
宇宙論の佐藤勝彦さんや、
構想日本の加藤秀樹さんの
お姿も。
フォーラム後、松井さんに促されて自己紹介を
した。
「そこにいらっしゃる和田昭允先生は、大学院
受験の時の試験官でした。君の趣味は何かね、
との御下問でしたので、「蝶です」とお答えしたら、
それじゃあ、ギフチョウとヒメギフチョウの違いを
言ってみたまえ、とお尋ねになり、何とか
答えることができたので大学院生になることが
できました」
思えば遠い昔の話である。
広尾の中華料理屋へ。
船曳健夫さんにお誘いを受けた会食。
三枝成彰さん、眞木準さんなどなど。
ファンドや投資銀行にお勤めの方も
何人か。
二百数十億の買い物とか、手数料3%
がどうのこうのとか、派手な札束話の
空中戦。
一パック200円の餃子をせっせと
売って生活をしている人もいる一方、
お金をお金として商うメタなポジションに
立って、あれこれやるのがお仕事の人もいる。
そのあたりの割り切れなさを
拙小説『プロセス・アイ』では書いたつもりだが、
マルクスでもお釈迦様でも
こりゃちと難しい。
一匹のフラワーピッグと化して、
世の中のややこしいことには気付かないふりを
してひたすら楽しい遊び=仕事をするのが
吉と見た。
5月 16, 2006 at 08:07 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (4)
Lecture Records
茂木健一郎
ひらめき脳講演会
2006.5.14. 紀伊国屋ホール
introduced by 金寿煥
(冒頭、開始のブザーが入ります。また、
公演の最初と最後にややノイズが入っていますが、
本体はノイズなしでキレイです)
音声ファイル(MP3, 120分、55.4 MB)
5月 15, 2006 at 08:09 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (3)
新宿紀伊国屋にわっせ、わっせと
歩いていく。
金寿煥さんと待ち合わせ。
まずは4階の会場に向かい「下見」
をする。
最初はパワーポイントを使う予定
だったのだが、
気が変わって、フリーハンドで
喋ろうと思った。
その旨伝えると、「えっ、使わないのですか」
とスタッフの方が絶句。
「会場何時からだっけ?」
と確認している。
照明とか、いろいろ本格的に変更しなければ
ならないらしい。
それで、紀伊国屋ホールは演劇の本格的な
公演が行われる場であることを思い出した。
照明とか、舞台装置とか、大がかりなのである。
9階に移動し、『ひらめき脳』に
サインをし始める。
一冊一冊、フラワーピッグや火山鯨を
中心に書いていく。
100冊やる予定だったが、
90冊まで書いたところで、公演時間20分前に
なり、金さんストップがかかった。
サイン本90冊は、公演開始前に売り切れて
しまったという。ありがたいことである。
公演開始前、舞台のそでや裏をうろうろする。
今ちょうど演劇の公演をしているということで、
その小道具などが置かれている。
ラフカディオハーンをテーマにした
舞台だということで、
ハーンの本や、「白樺」の冊子、
耳なし芳一を迎えに来る平家の落ち武者の甲冑
が置かれていた。
公演はやりなれているのだが、
普段と違った演劇の上演の雰囲気を
味わって、
良い意味での胸騒ぎがした。
終了後、近くのおでん屋で打ち上げ。
「いやあ、季節外れのおでんですよ〜」
と金さん。
考えてみると、私はおでん屋に行くのは
大学院生の時以来のような気がする。
ある冬の夜、寒風に吹かれながら、
わっせ、わっせと本郷通りを
白山上方面にわらわらと歩いて
いったのではなかったか。
だいこんや卵に出汁が滲みて、
プロのつくったおでんというのは
こんな味であったか、
とフラワーピッグは驚いた!
5月 15, 2006 at 08:03 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (1)
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 3
竹内薫
日本を代表するサイエンス・ライターであり、ミステ
リー小説や、テレビでの数学解説
などでも活躍し、最近では『99.9%は仮説』がベストセラーとなった
竹内薫氏をお迎えし、全ての芸術表現の背景にある時
間と空間のミステリーについて熱く語っていただきま
す!
竹内薫の「時間と空間:四次元を思い描く方法」
2006年5月15日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
聴講歓迎!
5月 14, 2006 at 03:55 午後 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (1)
第40回 新宿セミナー @ Kinokuniya
新潮新書3周年『ひらめき脳』刊行記念
茂木健一郎講演会「ひらめきの時代」を生きる
2006年5月14日(日) 19:00開演(18:30開場)
紀伊國屋ホール
イベントの詳細
5月 14, 2006 at 10:52 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
BS日テレ
『ニューロンの回廊』 第4回
芸術家 荒川修作
2006年5月14日(日)20:00〜20:54
2006年5月21日(木) 19:00〜19:54
5月 14, 2006 at 09:54 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (2)
毎日モーツァルト
BS hi 07:30~07:40, 20:50~21:00 (再放送)
BS2 08:01~08:11, 18:50~19:00 (再放送)
5月18日(木)
「私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調 K.354より
http://www.nhk.or.jp/mozart/week/index.htm
5月 14, 2006 at 09:34 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
ヨミウリ・ウィークリー
2006年5月28日号
(2006年5月15日発売)
茂木健一郎 脳から始まる 第5回
北の動物園に見た「知の力」
一部引用
核心となる「行動展示」のやり方にも、感心させられた。人気のある「あざらし館」の円柱水槽(マリンウェイ)にしても、空を飛ぶかのようにペンギンが飛び回る「水中トンネル」にしても、実は「ローテク」。水槽や岩といった設いに集積されたのは、最新のテクノロジーではなく、むしろ、動物たちがどのような行動をとり、どんな習性を持っているかということに関する知見。「知の力」こそが北の動物園を再生させたのである。
ただ単に動物をオリの中に閉じこめて観客の前にさらせば良い、というのではなく、その本来の魅力を引き出すために、動物に関する知見を総動員して工夫をこらす。考えてみれば当たり前のことを、これまでの動物園は十分にしてこなかったのかもしれない。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
5月 14, 2006 at 08:38 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (1)
理系の若者の東大離れ
茂木健一郎
読売新聞 2006年5月12日
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_06051220.cfm
5月 14, 2006 at 08:31 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (1)
すずかけ台に行く電車の往復で、
『哀愁の町に霧が降るのだ』の再読了。
やっぱり、これは名作ですね。
6畳一間の太陽の差さない下宿での
男たちの哀しくも面白い集団生活。
晴れた日に河原まで
ふとんを干しに行って、
カツ丼を楽しみにしてわっせわっせと
かけていったのに、店が閉まっていて
クエワバワカル沢野ひとしが逆上するのだが、
「あのう、自分たちで作る、という
手もあります」
「うん?」
と特大カツをつくって酒盛りする
エピソードがマイ・ベスト。
A出版社の男がくさりがまを振り回して
原稿を追い立てる「現代」との時間の
ミックスなど、技術的にもなかなか
考えられた構成になっている!
と改めて思った。
すずかけ台キャンパスでは、
ポスターを張って、
受験生に対する説明。
ポスターセッションというのは楽しいなあ、
と思う。
インタラクションしながら、
懸命にメニュエットのように軽やかに
説明するのが好きなのだ。
学生科学展に出していたから、
小学生の頃からポスターづくりには
慣れているのだ。
http://www.qualia-manifesto.com/gakuseikagakujunior6.JPG
ちょっとダウンで、早めに眠って
起きて、それでも少しダウンで、
手塚治虫の『ブッダ』などを
ごろごろして読んでいて、
今しゃきっと起きてコーヒーを
飲んだところ。
ゆったりと「読む」というモードには
なかなかなれませんが、
一度入ると
脳が「もっともっと」と活字快楽の
みそ漬けのようになっていくのが
自分でもわかる。
そういう時にこそ自分は変わっていくんじゃ
ないかな。
今日はやることが沢山あるので
活字中毒にはなれそうもありませんが、
活字とビールと昼寝を往復運動する
せめて三日間などあったら、
この上なく幸せと思う次第。
その活字は、著者や編集者、印刷所、
流通の方々etc.の営為によって私の
手元にあるわけでありますね。
これこそ縁起、スモール・ワールド・ネットワーク
を最初に発見したはゴータマ・シッダッタではあった。
ブッダに合掌。
大鍋いっぱいの卵とじカツに合掌。
5月 14, 2006 at 08:28 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (0)
あまり眠らないまま、研究所へ。
朝一番で、お台場の
Sony ExploraScienceで6月下旬から開催される
予定のイベントの打ち合わせ
起きてすぐに仕事を一つ終わらせたが、
お昼も飯タイムの時間がなく、
部屋に立てこもって急ぎの
仕事を終わらせる。
大抵、研究所にいるときは
パブリック・スペースにいるのだけれども、
それだといろいろな人が
話しかけてくる。
それで、本当にせっぱ詰まった時には
隠れるのだが、
それでも特に関根貴泰が私を見つける
可能性が高い。
午後1時からロボット研究チームとの
ブレストの予定。
その開始時間ぎりぎりに
やっと急ぎの仕事を終えた。
コンピュータを開いたまま、
トイレの個室に座って、
ついついトイレ用を忘れて
座ったまま仕事をしていると、
誰かが入ってきて、
「茂木さん、そこにいますか」
などと言う。
関根である。なぜ、私が
「個室」にいることがわかったのだろう。
こいつは超能力者か。
「4階から呼び出しの電話だそうです」
きっと、私がパワーブックを開いたままトイレに
歩いていくのを誰かが目撃していたのだろう。
恐るべきベイズ推定。
すまんすまん、とトイレを出て
田谷文彦とブレストに行った。
ゼミ。田辺史子が、海馬における
空間移動経験のrehearsalについての
興味深い論文紹介。
なぜ、awakeとsleepではrehearsalの
方向が違うのだろう?
新宿へ。
松屋に入って遅い昼食(実は朝食!)
を食べる。
松屋は、定食と言う制度がなくなってしまった。
券売機の前で、しばし「あれれ?」
と佇む。
ゴールデントリオの生卵、野菜サラダ。
うまいうまい。
何となく読みたくなってしまって
再読の『哀愁の町に霧が降るのだ』を
広げながら。お行儀が悪い。
あたまもおなかもhungryにつき、失礼。
ちょっとシイナマコトが必要だったのです。
日本経済新聞の白木緑さんと
美の十選についての打ち合わせ。
素敵な方向性になりました。ふふふ。
朝日カルチャーセンター。
ユーミンはhopeful monsterだった!
という話から、Darwin, modern evolutionary
synthesis, quantum mechanics in the brain,
intelligence and cortical thickness dynamics
の話へとつなぐ。
脳は、「小さく産んで大きく育てる」
のが高い知性を導くようです、皆さん!
睡眠不足でふらふら状態になるかと
思ったが、何とか乗り切った。
それにしても、忙しい一日ではあった。
5月 13, 2006 at 08:29 午前 | Permalink | コメント (9) | トラックバック (1)
<平成18年 第3回 知能システム科学専攻 専攻説明会>
平成18年5月13日(土)
東京工業大学すずかけ台キャンパス
ポスター等にて、茂木研究室の研究内容を
説明させていただきます。
5月 12, 2006 at 08:45 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (0)
朝日カルチャーセンター 脳と心を考える 第3回
(重要:7階の教室に変わっています)
2006年5月12日(金)18:30〜20:30
5月 12, 2006 at 08:40 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (3)
相変わらず「精密機械進行」続く。
NHKエンタプライズ内で
飯塚純子さんにお目にかかる。
モーツァルトの「リンツ」シンフォニー
と「ドイツ舞曲」について
お話する。
エレベーター内で、飯塚さんと
ホワイトアスパラ談義。
ドイツのホワイトアスパラはおいしい。
昨日の会食の時に食べましたと言ったら、
飯塚さんが口惜しそうに
「それはドイツ産ではないのではないですか?」
と言った。
そういわれてみると、ドイツのかコイツのか
わからない。
記憶を辿ると、かの地のものは
もっと太かったようにも思われてくる。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録は、
樹木医の塚本こなみさん。
不可能と言われていた藤の巨木の移植に、
二年がかりで成功。
新しい土地を得た藤は、毎年美しい
花を咲かせる。
映像で見ているだけでも「うゎあ」と
叫びたくなるような美しさ。
途中、time lapseで撮影された
藤の開花のシークエンスがふわっと
現れたことを私は見逃さなかった。
「極悪トリオ」の一員、
今回のディレクター、小池耕自「NHK
大仏顔軍団」若頭が、
「ふふふ、茂木さん、良く気付きましたね」
と自慢する。
編集担当は、凄腕の小林幸二さん。
収録を終えたら、とっととテープを
持って編集室に移動したそうで、
「ディレクターいらずってか」
とギャグをかます極悪トリオ三男であった。
文藝春秋の山田憲和さんと、
『クオリア降臨』残念会。
桑原武夫賞の最終候補に残っていたのだが、
あえなく撃沈した。
山田さんの御愛息、大氣くんの
麗しい御姿を拝しながらしみじみと
飲んでいると、なんとそこに
NHK出版の大場旦が現れた。
ここで会ったが100年目。
激論ダイナミクスに火がつき、
なんともはやカタルシスな
夜とは相成った。
撃沈からカタルシスへ。
精密機械進行の中での
一瞬のemotional volcanoのeruptionは、
かえって香しい気配を世の中に
まき散らしたように感じられた。
5月 12, 2006 at 08:31 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (2)
プロフェッショナル 仕事の流儀 第14回
修羅場でこそ笑ってみせる
〜テストドライバー・加藤博義〜
名車として名高いスカイラインGTRやフェアレディZなど、数多くの車の開発に携わり、世界にもその名をとどろかせる、日産のテストドライバー、加藤博義(48歳)。全国のテストドライバーの中でただ一人「現代の名工」に認定された。機器で計れない振動の計測も、この男の五感が頼り。3本の指の先でハンドルをつかみ、微妙な走りの違いを察知する。 加藤の言葉は、社内では「神の声」と呼ばれる。加藤が納得しなれば、試作車は世に出ない。 新車開発という厚いベールに包まれた現場に、テレビ取材として初めて潜入。「日本一の繊細な感覚」の秘密、そして後輩たちにその技をどう伝えていくのか、加藤の仕事に密着する。
NHK総合
2006年5月11日(木)22:00〜22:44
5月 11, 2006 at 07:44 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (4)
中央公論 2006年6月号
2006年5月10日 発売
時評 2006
生と死の不良設定問題
茂木健一郎
5月 11, 2006 at 07:40 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (2)
昨日に引き続いてテンパった状態が
続き、精密機械のようにしゃかしゃか
手を動かし続ける。
いまや伝統芸能となった
「地下鉄の隅でしゃがみ込んで
キーボードを打つ」という技も
もちろん繰り出す。
しかし、スクワットをするので、
実は太ももが痛い。
先日、コワイ体操でスクワットを
やっていたら、
3日くらいまともに走れなくなって、
ちょっと後悔したのを思い出した。
六本木ヒルズ近辺でブレスト。
抽象的な思考の良さは、
様々な事象の中から普遍性を抽出して、
その純粋なダイナミックスに寄り添って
遠くに行けること。
一方、具体的なことを立ち上げる
ことの良さは、
empiricalに接地するという
こともあるけれども、
その具体性の中に抽象性とは
別の形で遠くに運んでいってくれる
モメンタムがあるからじゃないか。
さらに言えば、具体と普遍の
間には汽水域があり、完全に分離している
のではなく、お互いに混ざり合う。
『モナリザ』という一枚の絵
は具体であるとともに、
私たちを遠くに運んでいく抽象でも
あるのだ。
上の議論自体は具体なのか、それとも
抽象なのか、
これはとっくり考えねばなるまい。
電通の佐々木厚さんがアレンジしてくださって、
Sarah Marie Cummings
との会食。
先日の「オブセッション」
以来、久しぶりにお目にかかった。
長野オリンピックから日本へのコミット
メントを始めたSarahにとって、
電通は至るところをLittle Tokyoに
してしまうrivalだったが、
佐々木さんを知って、ちょっと電通に
関する考え方が変わったという。
佐々木さんの電通のpublic relationsに
おける功績は大きい!
Sarahはもともとはアメリカ人だが、
日本語がうまい。
だから、日本語で喋っていて何の問題も
ないのだけれども、
私は以前から、英語nativeの人たちに
日本語を喋るということについて、
なんとなく居心地の悪い思いを抱いていた。
それが、Sarahの喋る日本語を
聴いているうちに、一つのインスピレーション
が浮かんだ。
Sarahが、ワインを飲みながら、
「私はいろいろな帽子を
被りますから」と言った。
英語では、with my university hat on,
(大学の一員としての立場では)
with my company hat on,
(会社の一員としての立場では)
などと言う。
ははあ、これはあれの直訳だなあ、
と思った瞬間、そうだ、それで行こう!
と思った。
伏線としては直近の体験がある。
原美術館で、6月に束芋さんの展覧会『ヨロヨロン』
(6月3日〜8月27日)が開かれるが、最近
そのパンフレットの解説文を書かせていただいた。
英文にも訳されるということで、
意識して翻訳しやすいような文章を書いた。
もともと、私の日本語は時々おかしくなる。
「この通りは忙しい」などというが、
これは、
This is a busy street.
から来ている。
それで、佐々木さんのとなりでSarahに
対していろいろ「もともとは英語の言い方を
日本語にして言う」というゲームをやっていたら、
何だか気が楽になって、ぺらぺら喋れた。
「それは、くさびの細い側です」
「小さなクルミの実の中にまとめると」
「一日の最後から見れば、それば・・・」
必要は発明の母である。
At the end of the day, in a nutshell, that might
be the thin end of the wedge.
5月 11, 2006 at 07:38 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
長らく絶版になって入手困難でした
『生きて死ぬ私』
がちくま文庫になりました。
畏友、増田健史のおかげです。
解説を内藤礼さんが書いてくださっています。
私も文庫版あと書きを書きました。
ちくま文庫
『生きて死ぬ私』
解説 内藤礼
文庫版あと書きより
自分の周囲のことをどのように感じ、どのような思想を抱くかということは、人が生きていく中で次第に変わっていくものである。
生まれたばかりの赤ん坊は、自他未分化の世界の中で、自分でも完全にはわからない欲動に突き動かされている。青年は、将来のことばかり思い煩い、老人は過去のことを振り返りがちである。近代においては、「思想」は年齢や人生の時期と関係なく普遍的に立てることのできるものだと考える傾向が強いが、実際には、生物としての人間の変化とともに、その思想もまた変貌して行く。
そんな中、人生のある時期にしか書けない文章というものはあるものだと思う。小学校の時の作文や、高校の卒業文集などはわかりやすい例だが、大人になって公の場で発表する文章も、また同じことである。今回、こうしてちくま文庫に収めていただくことになった『生きて死ぬ私』が出版されたのは、1998年6月。文庫版に改訂するに当たり読み返してみると、あの頃の私にしか書けなかった文章だということをつくづく感じる。
5月 10, 2006 at 08:07 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (2)
まあとにかくむちゃくちゃな
一日であった。
忙しさのピークになると、やることが
あまりにも在りすぎて、
朝起きた時から精密機械のように
こなしていかないとやり終わらない。
昨日はそういう一日で、
「こんなに小さなマージンで乗り切っている
なんて、普通は信じないだろうな」という
ような感じで時間が過ぎていった。
聖心女子大学の「現代の脳科学」
3回目。
記憶の問題、それに
dreamingの話をした。
広尾駅近くのカフェにて、
日本テレビ「世界一受けたい授業」の
打ち合わせ。
プロデューサーの竹下美佐さん、
ディレクターの佐藤友美さん、
ディレクターの倉田忠明さん
放送作家の富樫香織さん。
店の前で竹下さんにお目にかかった時、
「誰がいらしているんですか?」
と尋ねて、
「倉田さんと富樫さんです」
と聴き、思わず「おーゴージャス!」
と思ってしまった。
倉田忠明さんはアハセンテンスの天才。
富樫さんは一ヶ月50冊の本を読み、
どこに何が書いてあるか覚えている
「サヴァン」である。
番組は
5月27日収録予定。
研究所へ。
いつもは学生のいるスペースに
行くのだが、
せっぱ詰まった仕事が幾つか
あったので、
珍しく自室にこもってやっていると、
大塚まりさんが「あら、ここにいらしたんですか!」
とやってくる。
続いて、関根崇泰が「あれ、茂木さんいたんですか」
とやってくる。
そのうち、隣の部屋から北野宏明さんと
白石哲也さんが議論する声が聞こえてきた。
私の好きな深海底の生物の話だったので、
思わず「そういえば・・・!」
と話に入る。
読売新聞大阪本社の、
『ダ・ヴィンチ・コード』に関する
取材を受ける。
読売新聞大阪本社の谷口武史さん
新通の西野峰生さん
ソニーピクチャーズエンタティンメントの
浅見準さん
写真家の久山城正さん。
久山さんは原田宗典さんとお仕事を
されている方。
年に一回の研究所のreview talk。
私は、いかに行動経済学、神経経済学
と続いてきた効用関数の確率的記述
というパラダイムを乗り越えるか、
ということが大切だということを中心に話す。
そのためには、dopamineの持っている
double roleに着目することが大切なんだと
思う。
冒頭、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」
に至る道と、その後のメンデルの再発見、
modern evolutionary synthesis
(neo-Darwinism)に至る歴史を振り返る。
意識の科学に関して言えば、私たちは
まだダーウィン登場の前の段階にいる。
脳研究グループでは、Zhangさん、田谷文彦
もreview talkをする。
田谷は初めてのreview talkだったが、
リッパに乗り切っていた。
ご苦労さま!
大塚まりさんが机をキレイにしてくださって、
私の部屋は使い勝手が良くなった。
時折、関根貴泰が計算をするのに使っている
ことを私は知っている!
昨日も、A3の紙数枚に何やらアイデアを
びっしり書いたものを持ってうろうろして
いたが、
何をたくらんでいるのだろう。
関根は思考に羽根が生えて飛んでいく
タイプなので、
empirical scienceとしてのgroundingを
するためにも、
こんどじっくり話を聞こうと思う。
5月 10, 2006 at 07:43 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (2)
早朝、新潟から新幹線で東京に戻る。
NHKで打ち合わせ。
住吉美紀さんが買ったコーヒーメーカーで
みんな飲んでいる。
私はそれを忘れていつものように
100円でカフェラテを買った。
夕刻、Apple storeへ。
松任谷由実さんに初めてお目にかかる。
屋上で傘を差して撮影。
桑原茂一さんが
ブリティッシュな傘を手配してくださったが、
結局ビニル傘になった。
対談は、とてもエキサイティング。
ユーミンは、歌をフィクショナルな
「私小説」として構築している。
自分の体験から確かに素材を得ているが、
そのまま描くのではなく、
独立した創造物としてメロディや
歌詞をつむぎ出す。
「海を見ていた午後」や、
「泣きながらちぎった写真」
が本当にあったわけではなく、
このメロディでこんな歌詞をつければ、
こんなクオリアが生まれるという直観から
全てを生み出しているのだ。
いいものが出来たときは、一つの
「発明」や「発見」と感じられるという。
そのクオリアは、宇宙開闢以来あった。
恋愛における感情のアップからダウンを、
仮想として創り出すことができる。
強靱でなかなかバランスを崩さないから、
自らの心を傷つけて、それが回復する
プロセスにおいて様々なものが生み出される。
お話しているうちに、松任谷由実さんが、
人間とはまた少し違った存在、
人類の未来を切り開く「希望に満ちた怪物」
(hopeful monster)
であるような気がしてきた。
もちろん、同じモンスターでも
チャーミングな怪物です。
打ち上げは
「たらふくまんま」へ。
塩谷賢に似た大将が繰り出す驚きの
美味を堪能しながら、
松任谷さん、吉村栄一さん、桑原茂一さんと
よしなしごとを話し合った。
吉村さんとも意見が一致したのだが、
桑原さんはとにかく天才プロデューサーで、
やることなすことが絶対外さない。
ものごとをつなぐ補助線がくっきりと
見えてしまうのであろう。
仕事の山積で呆然、時間破綻。
そんな中での奇跡の時間であった。
5月 9, 2006 at 06:49 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (1)
Talk dictionary
松任谷由実×茂木健一郎
2006年5月8日(月)18:00〜20:00
5月 8, 2006 at 05:02 午前 | Permalink | コメント (6) | トラックバック (1)
金森穣さんのダンスカンパニー
Noism 06のsense-datumを見る。
一遍の抽象絵画であり、
人間の身体には、これほどの可能性が
あったのだ!
と心強く思う。
音楽を担当されている平本正宏さんは
まだ芸大の学生だという。
思考もダンスなのだ!
と思う。
インスピレーションとカタルシスに
満ちた舞台だった!
ダンスのように考えれば、きっと
深く、遠くに行ける。
私は「コワイ体操」というのを時々やる。
コワイというのは他人の思惑をあらかじめ
見越してのことであって、
(あんな人があんな動きをするなんて、
ビミョーでキミョーでビョーキでコワイ!)
別に本当にコワイと思っているわけではない。
つまり、ラジオ体操がよく統制のとれた
工場に似ているとすれば、
身体をもっとカオティックに、
容易に構造が読み取れないように
動かすことだ。
影響を受けやすい私は、
さっそく、今朝起きて昨日Noismの人たち
がやっていた身体の動きの感じを少し
マネしてみた。
しかし、ピューマのようにしなやかな
彼らの身体運動を再現できるはずもない。
まえから、トレーニングをやるにしても、
マシーンをつかった筋トレはイヤだなと
思っていた。
まさにあれは工場だ!
それよりも、金森さんたちがやっている
ようなしなやかで自由な身体運動のマネが
してみたい。
身体を鍛えるなら、ダンサーのように
鍛えたい!
風になりたい、木漏れ日になりたい。
Noismの踊りを見ながら、私は、
「楽しそうだな。いいな」とうらやましくて
仕方がなかった。
私が身体を動かしても、彼らプロほど
美的にはならないから、
やはり、人が見ていないところで
やる「コワイ体操」として続けるしかないだろう。
ここのところ立て続けにヘンな夢を見る。
先日は、シンポジウムで議論していて、
「しかし、それ以外に、一つの
weltanshauungが必要でしょう!」
と叫ぶところで目が覚めた。
今朝は、お互いに回路を組んで、
その一部を破壊してどれくらい困るか
というゲームをしていて、
イーサネットのケーブルがぶらぶら
遊んでいるのを相手が破壊しようと
したから、
「それはずるい、そんなケーブル、
自由端なんだから、ゲームに関係ないじゃないか!」
と指摘するところで目が覚めた。
きっと、睡眠中の偶有的な神経活動は、
ダンスの自由な身体運動に似ている。
インフェルトが、「アインシュタインの世界」
(ブルーバックス)の中で、
アインシュタインはずっと頭の中で
ダンスを踊っていて、それが死によって
初めて止まった、などということを描いていたのを
突然思い出した。
なんだか久しぶりに読みたくなって、
アマゾンの中古市場で注文する。
子どもの時に読んで、それ以来何度
読み返したかわからないが、
ここ二十年くらいは読んでいなかった。
終演後、金森穣さんにご挨拶したが、
とてもいい方だった!
「ニューロンの回廊」でお話するのが
楽しみ!
Noismのパンフレットに、メンバーの
中野綾子さんが、
Noismの仲間たちは、「動物園にいる
動物たち。いろいろなタイプの人がいて、
みんな踊りが大好きでしょっちゅう動いているから」
とコメントしていたけれど、
この、
「しょっちゅう動いているから」
というのは偉大なるインスピレーションであったなあ。
インターネット関連の操作をしていて、
特にエッジを使っている時は、
ページが表示されるまで数秒かかったり
するから、
それが上半身を使った「コワイ体操」の
チャンスであるぞ。
5月 8, 2006 at 05:00 午前 | Permalink | コメント (7) | トラックバック (2)
『ニューロンの回廊』で6月にご一緒する
金森穣さんの新作を見るため、
田中ナオトさんと新潟入りした。
新潟駅で花野剛一Pと合流。
ホテルに移動。
待ち合わせまでのわずかな時間を使って、
仕事をしているなり。
5月 7, 2006 at 03:55 午後 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
集英社 青春と読書
2006年5月号 p.30-33
「欲望する脳」第13回 「夢の中ではつながっている」
一部引用
時折、「夢日記」をつけることがある。目が覚めて、夢を見ていたことを覚えていると、すぐにコンピュータに向かって記録する。そうでもしなければ忘れてしまうような細かい事が、直後であればありありと思い出される。習慣になると、不思議なもので、次第に夢で見たことを細部まで記憶し、書き留めておくことができるようになった。そのおかげで、私は自分の脳の中にどうやら隠れていたらしい奇妙なヴィジョンのコレクションを所有している。
全文は「青春と読書」で。
5月 7, 2006 at 11:05 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (0)
月刊ちくま 2006年5月号
p.48~51
「思考の補助線」第12回 パスカルから偶有性へ
一部引用
アインシュタインの相対性理論を極北とする認識革命の理想から見ると、科学の現状はかなり見劣りするというのが私の個人的な見解である。そのような科学の「ていたらく」の背景には、近代の科学をつくってきた、ある概念装置がある。それは、すなわち、「確率」という魔物である。「確率」概念の有効性を正面から見つめつつ、いかにその桎梏から逃れるかということを、私はここのところずっと考えてきた。
全文は「ちくま」で。
5月 7, 2006 at 10:56 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
東京芸術大学 美術解剖学
2006年5月8日(月)
の授業は休講とさせていただきます。
5月 7, 2006 at 06:54 午前 | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
『ダ・ヴィンチ・コード』読了。
小説やテーマについての感想はともかく、
ヨーロッパ文化の力の一つ源泉に、
「世界にはある秘められた「真実」があり、
その真実に接近すること、ないしはそれを
所有することが力を与える」
という信仰があるのだとあらためて
確認した。
『ダ・ヴィンチ・コード』で
探究されているのは「聖杯」の謎だが、
そのような純粋に「知」の部分に
属する何かが世界を革命するポテンシャルを
持つ、と信じるところが凄い。
一神教的世界観と結びついた、強い
「知」への信仰こそがヨーロッパを近代世界に
おける覇者にしたのかもしれない。
All work and no play makes john a dull boy
だから、ということで、
少しばかりの休暇をとった。
北に飛び、
旭川の旭山動物園、
それに「アルファリゾート・トマム」に行った。
どちらも、前々から行きたかったところである。
もっとも、最近は遊んでいるはずの時も
頭の中で「あっ、これはあそこに使える」とか
「うん、これはあの取材の下調べになるな」
などと仕事なのか何なのかわからなくなって
くる。
年間入場者数で上野動物園を抜いた
旭山動物園の秘密については、
「ヨミウリ・ウィークリー」の
連載の中でじっくり考察したいと思う。
旭川から富良野を経て、
トマムへ。
トマムのアルファリゾートは、
2004年の4月から、
星野佳路さんの星野リゾートが
運営を引き継いでいる。
総支配人の安田隆明さん、
予約ユニットの神田 正俊さん、
アウトドア・アクティヴィティ担当の
細谷誠さん、
Little Treeの大野聡さんに
お世話になり、充実した
時間を過ごすことができた。
私はうかつで、どこかに行くとき
何も調べないが、
トマムに入ろうとした時、
「水の教会」という看板が目に入った。
「ん? 水の教会・・・ひょっとして・・・」
と思ったら、やっぱり安藤忠雄だった。
あの建築史上著名な作品が、トマムに
あるということをきちんと認識して
いなかった。
安田さん、神田さんがわざわざ案内してくださる。
大変申し訳ない。
アプローチの道がすでに美しい。
清流の中に、水芭蕉がたくさん咲いている。
教会の十字架は、手つかずの自然
を背景に、一つの奇跡のように佇んでいた。
可動式のガラス窓が動くと、窓の
十字架と教会の十字架がぴったりと重なった。
意匠や構造、といったテクニカルな
問題を論ずるまでもなく、
全体から受ける「空気」が清涼で、
簡潔、奥深く、美しい。そんな教会だった。
トマムの自然には、何も足すべきものが
ないように思われるが、
そこにあえて人智の何かを付け加える
としたら、安藤忠雄のあの作品のような
強度と簡素が必要なのだろう。
「知」の問題に戻れば、私は、
意識の問題こそが現代における「聖杯」
だと思っている。
一貫してそうだったのかもしれない。
クオリアのどこが問題なのかわからない
という人に時々出くわすが
(ダニエル・デネットのようにqualia blindな
人もいる)
クオリアは、
ある種のメタ認知を経て初めて
開かれる秘められた問題だからなのだろうと
読み終えたダ・ヴィンチ・コードの表紙に
考える。
5月 7, 2006 at 06:49 午前 | Permalink | コメント (8) | トラックバック (7)
仕事上の必要があり、遅ればせながら
「ダ・ヴィンチ・コード」を読む。
あっ、と思った。
途中で、どんどん視点(語りの一人称)
が変わっている。
『プロセス・アイ』
は視点の変化が沢山出てくるが、これを、
「小説ではあまりないこと」とか、「特定の
一人称でずっと行くのが普通」と複数の人に
言われた。
真実はどこにあるんだろう。
私小説の伝統が根強い日本では、
ということか。
しかし、源氏物語まで遡ると、
特に断ることなくどんどん人称が入れ替わって、
動詞で区別しなければならなくなったりする。
世界という鏡はもともと沢山の主観性の
断片に分裂している。
だから、人称が入れ替わったって、
いいじゃないか。
男が、コーヒーにクリームや砂糖を
たっぷり入れても、いいじゃないか。
「ダ・ヴィンチ・コード」は一神教の
世界観に基づいているが、
人格神が世界を見下ろしているという
メタファーがあった方が、複数視点性を
スムーズに取り入れることができるのだろうか?
NHKへ。『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録。
ライティング・デザイナー、内原智史
さん。
内原さんが手がけられた平等院鳳凰堂の
ライティングの美しさに息を呑んだ。
直接当てるのではなく、
水面に反射した光で照らす。
光が波紋となって千年の建築を
映し出し、
時が視覚化される。
お話の中で、
「太陽がやっている仕事」
などということをしきりに言われる。
なんと、
ライティング・デザイナーとして、
太陽をライバルだと思っているらしい!
太陽が直接照明、
月が間接照明のライバル!
そんなこと、思ったこともなかった!
光量では太陽や月にはかなわないが、
人間は、光を当てる対象を選択することで
本質を照らすことができる。
ただ、昼間のように明るい蛍光灯が
あればそれで良いというものではない。
蛍光灯が福音であった歴史は
きっとあったのだろうが、
私たちは今前に進むべき時が
来ているのかもしれない。
内原さんに和ろうそくをいただく。
ありがとうございました。
大切に、本質を照らすために使わせていただきます。
いつもと違うスタジオ101は、体育館の
ように巨大で、
印象深い収録となった。
打ち上げの時、チーフ・プロデューサーの
有吉伸人さんが、いろいろ人生について
語ってくださった。
住吉美紀さんもいつになく(いつにも
増して?!)真剣に話している。
個人として、どのように生きていくか。
このとてつもない難題を前に、
私たちは惑うが、
きっと、苦労が多い方が人生は充実する!
人間は、実に不可思議な一個の天体であって、
宇宙というイメージの中で、太陽や月と
対抗してぐるぐる回っている。
私たちは、みな、一人一人が惑星だ!
Every man is a planet, entire of itself!
5月 4, 2006 at 06:45 午前 | Permalink | コメント (21) | トラックバック (3)
TBS R30
2006年5月6日(5月5日深夜)
24:40〜25:25
5月 3, 2006 at 10:01 午前 | Permalink | コメント (4) | トラックバック (0)
BSテレビ朝日 男たちの食宴
2006年5月4日(木) 22:00〜22:30
2006年5月8日(月) 24:00〜24:30
5月 3, 2006 at 09:46 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (1)
どんな言葉が心に残るかというのは、
無意識の生態系のなせるわざだから、
もともと自我のコントロールできる
問題ではない。
ここのところ、デカルト的自我を
否定する人たちが語る言葉のある文脈が
気になっているが、
デカルト的自我がくだらないものならば、
それを単純否定する言説もくだらない
んじゃないか。
世界が多彩な同時並列的要素から出来ている
くらいのことは、
物理主義ですでに織り込み済みである。
だからこそデカルト的自我が
驚異として立ち現れてくるわけだが、
どうも時々議論が逆さまになる。
それはそうと、河合隼雄さんが
暫く前に言われた「中心をずらさないでいること」
ということがとても大切な言葉として残っている。
世の中には、よいもの、心を惹かれる
ことは沢山あるけれども、
それに運び去られてはいけない。
自分の魂のありかは、きちんと
押さえておかなければならない。
伊藤若冲の『動植綵絵』の中に、雀が
沢山飛んでいて、その中に白いのが
一羽いる絵がある。
(「秋塘群雀図」)
この絵など、ずっと忘れることが
できない。
一羽だけ違う。それが何を意味するか。
何も言わなくても良い。
若冲の思いは伝わる。
自分の人生は、そんな、本当に
魂の中心に入り込んでくるものたちとの
出会いによって作られてきた。
六本木ヒルズのけやき坂で
「ヒルズライフ」の写真の撮影。
反射板をもった方が
いろいろな角度をさぐる様子が、
まるで風にゆれる花のよう。
読売新聞の待田さんといろいろ
話す。
社会事象になった小説をどう解析するか。
フェノメノンはいろいろあれど、
若冲の白い雀のようなものはあんまりない。
突き刺すものの背後に若冲の宗教心が
あったのだとすれば、
近代合理主義の下で否定されて
きたものの中には、
確かに生きる上で外してはいけない
ものがあまた含まれていたのだろう。
ベルクソンを少し読む。
論理的であると同時に、感性のチャンネルを
開くということは難しい。
世界知の引き受けを忘れて、感性だけを
開くのはむずかしいようで案外できることなのだが、
本当に大変なのは、世界知の全体像を
見続けつつ自らの感性を開くことで、
みんなそこで苦労をしているんじゃないか。
きっと、本当は人間一人一人が、
群雀の中の白い雀で、なぜそうなってしまったかと
言えば、意識なんてものが生まれてしまった
からなんだと私は思っている。
5月 3, 2006 at 08:59 午前 | Permalink | コメント (2) | トラックバック (3)
Lecture Records
東京芸術大学 美術解剖学 2006年度
Lecture 2
噴火し、遍在せよ!
荒川修作
2006.5.1. 東京芸術大学
音声ファイル(MP3, 91分、41.8 MB)
5月 2, 2006 at 06:45 午前 | Permalink | コメント (3) | トラックバック (9)
NHKに行こうと、
代々木駅からタクシーに乗ったら、
運転手さんが、「今日めいでいで混んでるんで
すよ」
という。
一瞬、音が拾えなくて、メーデー
のことだとわかるまでに間があった。
代々木公園でやっているらしく、
車がまったく動かない。
いつもの4−5倍の時間が
かかってNHKに到着。
照明デザイナーの内原智史さんの
回の打ち合わせ。
有吉伸人さんの髪の毛が、心なしか
短くなって、整ったように感じる。
全ての人工的光の背後には、それを灯した
人がいる。
当たり前のようだが、現代人にとっては
夜の光は蛇口をひねれば出る水のような
もので、ありがたみを忘れている。
手間のかかるろうそくの火などで、
初めて光の始原的ありがたさに
触れることができる現代人。。。
内原さんの手がけられた、平等院鳳凰堂の
ライトアップには戦慄を覚えた。
必見! (オンエアーは2006年5月18日)
東京芸術大学 美術解剖学授業には、
明日アメリカに帰国の忙しい中、
荒川修作さんがいらして下さった。
伝説の人を見て、学生たちも感激。
第三講義室には、おそらく今までの
record numberの聴衆が集まった。
200は優に超えていたのではないか。
荒川さんは優雅にそして粗暴に
つば吐きをし、
火山の噴火口となり、
太平の学生たちをアジテートしていった。
一つ思ったこと。
意識は、なぜデカルト流の近代的自我の
象徴としてとらえられるのか?
本来、意識の起源問題は、むしろ近代
的自我を超えていくための拡散的思考へこそ
導くものと思われる。
突き抜ければ、そのことがわかるだろう!
上野公園に行き、荒川さんを囲んで
皆でビールを飲み、ワインをすする。
この光景が現出すれば、それで私の
目的は達成、といつも思う。
「場」をつくることが大事。
あとはディテール。
風が吹き、境界もない。
見上げれば細い月。
若者たちよ、奮い立って旅立て!
悪いが、おれも若者だ。
自分の中心がずれるはずもないし、
この世にそう簡単に革命が起こるはずもない。
ただ、もの言わぬ思いはろうそくの火の
ように必ず伝わるものだと信じている。
ふとネットのことを考える。
インターネット上に書き込まれたテクスト、
置かれた音声ファイル、ダウンロードできる
画像、映像を私たちはひょっとしたら
オートマティックなものと感じ始めている
かもしれないが、
実際には、一つ一つのアイテムの背後に、
人々の思いがあるのだ。
インターネットって、ろうそくの火が
たくさん灯っている空間でもあるんだよ。
荒川修作さん、そして事務所の方々、
お忙しい中、学生たちのために、本当に
ありがとうございました。
5月 2, 2006 at 06:42 午前 | Permalink | コメント (5) | トラックバック (3)
東京芸術大学 美術解剖学
Lecture 2
荒川修作氏講演会
http://www.architectural-body.com/
荒川修作氏をお迎えして、その芸術、人生、世界に関する哲学を語っていただきます。
2006年5月1日(月)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
5月 1, 2006 at 05:25 午前 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)
先日、東芝EMIに行った時、
松任谷由実の1978−1989
という全17巻! のCD
全集をいただいた。
そのうちの三つを
がしっとつかんで、聴きながら
車を走らせる。
久しぶりに両親の家に行く。
ファックスが壊れたというので、
見るとどうも調子が良くない。
近くの家電店に行って、
新しいものを求めた。
最近はほとんどが普通紙ファックス
だということで、唯一売られていた
感熱紙式の機種を買った。
不具合になったのと
同じ会社のシリーズ。
ついでにNTTに電話をして、
ナンバーディスプレイを申し込む。
しばらく前から、自宅の
液晶テレビが電源の点滅を繰り返す
という謎の症状を呈しており
(おそらく電源回路の不具合か?)
そろそろ買い時かと、
帰路、近くの家電店に寄り、
ソニーのBraviaを買い求めた。
今までより格段に明るくなった。
ハイビジョン対応ということで、
徐々に見れるようにして行きたいと
思う。
というわけで、家電回りの
手当ての日とは相成った。
ユーミンの歌だが、改めて聴いてみて、
この人は失恋とか嫉妬とか心残りといった
通常はネガティヴな感情を甘美なものに
してしまう錬金術師だなと思った。
なぜ、悲しい思いをうたっているのに、
その歌っているという時間の流れ自体は
甘美なものになり得るのか?
メタ認知には、魂開放的作用があるのか?
しばらく前に、意識の謎を解くことは、
生と死のミステリーの背後にある宇宙の
真実をのぞき込むことだと直覚した。
そう考えたら、何だか良い意味での
緊張感が出てきた。
なぜ有限の時間のうちに生き、死んで
しまうのか?
死に瀕した人の元へ光のスピードで
阿弥陀如来が
救済にかけつける「早来迎図」のような
ヴィジョンが描かれなければならなかった
理由は何か?
心脳問題にある程度の見通しをつけることで、
古来の人間の魂の叫びにも応えることが
できるとすれば、
これもまたメタ認知の魂開放的作用だと
言えるだろう。
家電店にいく途中、父と会話した。
「お母さんが入院して、ちょうど一年になるん
だよな」
そうであった。昨年のちょうど連休中に、
母は入院し、大変だったのだった。
あれから一年。元気になって良かったが、
生老病死の本質が四門出遊の昔から変わる
わけではない。
ともかくも、5月の世界は光に満ち、
葉々は青々と繁り。
5月 1, 2006 at 05:22 午前 | Permalink | コメント (9) | トラックバック (4)
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