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2006/04/24

脳から始まる 「みそっかす」は「負け組」ではない

ヨミウリ・ウィークリー
2006年5月7ー14日号
(2006年4月24日発売)
茂木健一郎  脳から始まる 第3回

「みそっかす」は「負け組」ではない

一部引用

 人間の脳にとって、もっとも興味を惹かれる対象は、ある程度は予想がつくが、半ば予想外のことがある「偶有性」に満ちた現象である。遊びの勝敗が、最初から決まってしまっていてはつまらない。誰が勝つのか、あらかじめ予想がついてしまうのではなく、誰にでも同じくらい勝つ可能性がある、そのようなゲームが脳にとっては一番面白い。
 弱いものを「みそっかす」にするという子どもたちの工夫は、そのようにした方が面白く遊べるという人間ならではの「叡智」の表れなのである。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

4月 24, 2006 at 08:04 午前 |

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コメント

「ひらめきのくらくら」の音声ファイル大変興味深く聞かせていただきました。
 茂木さんが最後に言っておられた「hopeful monster」で思い出したのですが、画家の中川一政は「腹の虫」という言葉を使っていました。

投稿: コルプス | 2006/05/04 14:11:53

佐藤雅彦さんのお話を伺って感じたことにも通じるのですが

その人にとっての、こだわりのようなものや価値あるものや
希望するもの・ことは

ほんとうに様々ですね・・・

佐藤さんにとっての「クラクラするような感覚をもたらすもの」だったり

それが、ブランドもののバックの方もいるし・・・

その個々のモンスターを、みんな一緒に生かすことを考えるのは
僭越なのかもしれません。

でも、そこに目がいってしまうのはなぜでしょう?

(昨晩は、NHKで立花隆さんが出ている番組がありましたね・・・)

人類の未来に、光と影はつきまとうものなのでしょうか?

投稿: TOMOはは | 2006/04/25 3:15:41

おや!そーだったのか!
フラワーピッグが誕生したのは去年のことだったんだな…。
このキャラが茂木先生の「自画像」というのはうすうす覚知していたのだが…。

先生がプロデュースしたPSPのゲームの、HPキャラクターとして登場してもいるのは意外であった。

これがフラワーピッグの公式デビューなのかも。

「セレブリティー」の話について。

「今、高級ということは『記号消費』から『クオリア消費』に向かっている。
田中康夫さんが『なんとなく、クリスタル』を書き、バブルに至った頃の『これは高級』という記号を消費する時代は終わり、自分が感じているクオリアの良し悪しを正確にモニター出来る時代になった。
クオリア消費時代には、Mandarine OrientalやPark Hyattにあるクオリアが、壊れかけたブロック塀の横に咲く蒲公英(タンポポ)に降り注ぐ太陽の中にもあるということはあり得るので、いわゆる『セレブ』と言われる人でも、センスのいい人はそれを知っているんじゃないか。

つまり、『セレブ』という幻想は『差異』によってもたらされるだけで、そのillusionから自由になるためには逆説的だが一度『セレブ』になってみるのもいいかもしれない…」

この文章を写してみて、私は、TVに出演している「セレブ」と称している人々は、果たして、壊れかけたブロック塀の横に咲く蒲公英とそれに降り注ぐ太陽に、いいようのない美しいクオリアを感じることが出来るのだろうか?と考えてしまった。

○○○姉妹とか、○○夫人とか、そういうTVでうすぺらな高級感を振りまいている人達はやはり一種の差異からくる幻想に取りつかれているのにちがいない。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/04/24 18:19:52

「勝ち組・負け組」を固定化し、いくら努力しても報われないぞ、という思い込みを我々にさせているのは、多分に週刊誌(ごく一部だが)メディアのしわざかもしれない。そういう風潮には注意しなくてはならないだろう。

「みそっかす」というのは誰が勝つのか始めから予想がつくようなものではなく、誰にでも頑張れば勝てる、という可能性を残すための「叡智」なのだったんだな。しかし、大人になると、それをぺろっと忘れてしまうのは何故なのか。

報われる者なき格差社会の末路に来るのは、「滅亡」の二字に違いない。「勝ち組負け組」の固定化は、社会から、人間から、希望や生きる活力を奪い、ひいては社会、国家を滅びに導く。
だから今こそ、我々大人達は、子供の遊びに秘められた「みそっかす」の「叡智」を思い起こさなくては…ならぬ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/04/24 17:51:28

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