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2006/04/20

わざとよどんでナチュラルに

朝一番で研究所へ。
 
 打ち合わせの会合、二件。

 タクシーで移動しながら、大塚
まりさんと幾つか
懸案の事務処理をする。
 田谷文彦は前のシートに座っている。

 麹町の日本テレビ。
 
『ニューロンの回廊』。いわゆる「二本撮り」。

 荒川修作さんと再会。
 荒川さんとスタジオで身体、脳、知覚の
本質について話していると、ふと
 天命反転住宅の衝撃がよみがえってきた。

 がしっと荒川さんと握手。
 空間の謎の奥は深い。

 二人目のゲストは、
 マジシャンの前田知洋
さん。

 打ち合わせの時、ディレクターの田中ナオト
が台本をめくるタイミングが、私とずれる。
 何回か続くうちに、
 おかしいな、と思ってふと見ると、
私のと違う。
 
 手元をよく見ると、表紙に「M」と書いてある。
 なんと、台本が二種類あって、私のは一部の
情報が隠されているらしい。

 これは何か仕掛けがあるな、と疑心暗鬼(笑)

 前田さんのマジック。

 手を伸ばせばそこにある
近さで繰り広げられる「超絶技巧」
に信じられない思い。

 目をこらしているのだが、わからない。
 トリックのあるマジックではなく、
単に前田さんが「超能力者」
だと考える方が素直に思えるくらい。

 そう言ったら、前田さんの返事が面白かった。
 「超能力者にはオフがないですからね」と
言うのである。
 「私は、今はマジシャンをやっていないから
不思議なことは起こりませんよ、と言えるけど、
超能力者だったら、あれ、今ゴミ出ししているよ、
などと言われてしまうでしょ」
と前田さん。

 筋肉にウソをつかせるのが難しいという。
 素人は、どうしてもネタの部分で
緊張して悟られてしまうというのである。

 前田さんは全身全霊でウソをつく。
しかし、洗いざらしのジーンズのように
ナチュラルなので、本当に思えてしまう。

 新しいトランプを開けるとき、
 フィルムをはがすのに手間取った。
 前田さんでもぎこちないことがあるんだな、
と思ったが、
 なんと、それも「演技」だったというのだ。
 
 時々わざとよどんでナチュラルに見せる。
 このヒトはおそろしい!

 とても楽しかった!
 前田さんのブログ
にはツーショット写真がある。

 私のスケジュールは本当に破綻しているので、
同時に二つや三つのことが進行している。

 合間に論文の校正を進める。
 illusory utilityではなく、
 utility of illusionなんだ、
と発想したのがとても重要なこと。

 ふと気になってwikipediaでダーウィンの
chronologyを調べてみる。
 1809年生まれ。Voyage of the Beagleが
出版されたのが1839年。
 Origin of Speciesが出版されたのは、
その20年後の1959年。
 ダーウィンは50歳になっていた。

 最近、歴史的事実と戯れることが
本当に面白くて仕方がない。
 上のダーウィンのbiographyからも
いろいろなことが想像される。

 花野剛一P主宰の楽しい打ち上げの
最中にも中央公論の「時評」原稿を
書いていた私であるが、
 帰宅のタクシーの中で
書き上げようとして不覚にも眠り込んでしまった。

 部屋に入り、コーヒーを淹れて
書き上げた。
 井之上達矢さんがメールの向こうで待っている。

 今回はテーマが難しかった。
尊厳死。
 生と死の不良設定問題。

 ほっとする間もなく、次の仕事次の仕事
次の仕事。

 みんなと楽しく飲みながらも、
時折「うーん」と頭を抱えて
 「尊厳死」について考えていた
時間の流れがビール以上にほろ苦い。

4月 20, 2006 at 07:51 午前 |

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コメント

前田さんの「知」の字が違います!
是非訂正をお願いします…!

投稿: マジシャンの影 | 2006/04/20 23:35:11

尊厳死について考えておられるとのこと。
『満ち足りて死ぬこと』という本が頭に浮かびました。積読の一冊になりそうですが購入しようかと…
私もそこから考えてみます。
いつかは、その日がやってくるでしょうから準備の為に。

投稿: sakagutinoriko | 2006/04/20 19:20:32

尊厳死の問題は、欧米と違って日本ではどうもおざなりというか、好い加減というか、とにかく取り上げかたに真剣さがないという気が如何してもする。

生と死、という生物共通の大問題にかかわることだけに、口に含むビールの、ほろ苦さの度合いが増すほど、茂木先生も原稿を書くとき頭脳を悩ませたことであろう。私はそこに、この問題について少しでも真剣に向き合おうとする、科学者の良き姿勢を感ずる。

日本人は(特に戦後の)、生死を教えた宗教的・生命哲学的な観念から“逃げ”て(それは戦前~戦時中の「国家神道」の問題があったからだと個人的に思っているが)、主に経済的発展ばかりにかまけていた。それで常時、生死の問題と向き合うことを忘れてしまったのだろう。

戦後も終戦直後~昭和20年代中ごろまでは死というものが身近にあったはず。それが、昭和30年頃からだんだん人々の生活から死が離れていったように思う。そしていまや死を忌み嫌うあまり、アンチエイジングうんぬんといった「いかに年取らず、死なずに美しく長生きするか」と言う事ばかり世間で取り上げられていて「いかに死ぬべきか」ということはおざなりにされている。

尊厳死うんぬんの問題は、生死にまつわる様々な厄介な問題をいやというほど突き付けるものなのだ。

若し死ぬときがきたら、延命を望むか?それとも自然死を望むか?私なら、迷わず、後者だ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/04/20 18:58:30

尊厳死なのか安楽死なのか分かりませんが、

幼子の時は、手助けしてくれることが多かったとしても、
高齢になると、
手助けがもらえるか、望んだ手助けか・・など、
それまでの人間関係が暴かれてしまうような気がします・・

だーれも、相手にしてくれない「おばば」になったら、
どーしよう??

投稿: yuri | 2006/04/20 13:00:51

5月号の中央公論は、先日思わず買ってしまいました!

最近気づいたんですけど、私が子どもが好きなわけは

『子どもは未来そのもの』だからではないかと思っています。

反対に、私はこれから過去の人になっていくのか?

『おじいちゃんは、だんだん子どもに還っていく』という姿を身近で感じつつ

いつまでも未来志向のまま歳をとって、私は可愛いおばあさんになれるのかしら?

そこに待っているものを、少しはなれたところから意識することができたとしても

『死』そのものを語るのは、・・・・

茂木先生のお話を、ぜひ伺ってみたいと思いました・・・

投稿: TOMOはは | 2006/04/20 8:36:46

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