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2006/03/06

キマジメな「青年の志」

現代の中で生きることの全体を引き受けない
限り、たとえ世界知を語っているかに見える哲学
思想もまた「サブカル」だ!
 というしばらく前の着想は、考えるほど
本当にそうだな、と思えてくる。

 カントやデカルト、ニーチェ、デリダ
など、立派な名前がついていても、
文献学や引用の引用ならば、エクリチュールの
宇宙の中でのオタク、サブカルでしかない。

 じゃあ、サブカルじゃないものは何か、
というと、それは、ある形として存在する
もんじゃなくて、「総合」への志向性
なんじゃないかと思う。

 総合への志向性がなければ、どんな学問も、
文学も、アートも、所詮はサブカルだ。

 チャールズ・ダーウィンの「種の起源」
は、総合への志向性が見事に結実した例であり、
 意識の科学もあれを範としなければならないと
思う。
 脳科学もまた、部分問題を解いている限りにおいては
サブカルになってしまう。
 知性とは何か、意識の本質、起源は何か
という総合的問いへの志向性を常に抱いていなければ、
 結局は知の地殻変動など起こすことが
できない。

 そんなマジメな話を、懇親会などで
東工大知能システムの学生相手にしてしまう
というキマジメな「青年の志」
的欲動に突き動かされている
今日このごろである。

 「脳とクオリア」に対応する英語の著作を
書くのが課題となっているが、
 いっそマッハの原理や「相互作用同時性」
を部分として含む、総合的な「意識の起源」
にしてしまおうと構想している。
 毎日少しずつでも書いていきたい。
 
  Origin of consciousnessで、
ミクロからマクロ、物質と精神、進化、
自己と他者、etc. といった人間の精神をめぐる
諸事を一度総合して、
 「突然変異と自然淘汰」のような「あり得る
仮説」を提出したい。

 さて、日々の生活に戻れば、
 締め切りを過ぎていて不義理を
しているものなどたくさんあり、
 どうにもならない事態であるが、
ダメな時はダメなんだとすっかり悟った。
 一種のやけくその開き直りである。
 一日二十四時間仕事をする機会に徹することなど
とてもできぬ。

 やはり、人に会って酒を飲み、談笑する
ことは生理として必要だ。
 (私の場合、その途中で寝ていることも
多いのであるが(笑))
 ダメなものはできないんです、諸君!

 自分が出た番組は「教師信号」として
必ず見ることにしている。
 視点・論点と、養老孟司さんのお宅を
訪問した「科学大好き土よう塾」を見る。

 制作側の苦労を知っているだけに、そこは
感情移入するが、一方、そんなことは知った
ことではない視聴者はどう見るのだろう、
という視点も側頭葉から前頭葉あたりに。

 養老さんに因んで、近くの公園に散歩して
ツノカメムシを一頭、落ち葉の下に見つけた。
 ほんの10分や20分だが、こういうことが
ないと生きている感じがしない。

 今日もまた仕事、仕事、仕事、仕事。
こんな時間から起きている。
 うゎあ。

 
エサキモンキツノカメムシ
は、背中にはあとマークがあるのですが、
このムシは産んだ卵を抱えて守るのです。
 はあとマークにふさわしい振るまい。

 もちろんこれは自然の造形の偶然であって、
物質と精神の交流のメルクマールなどでは
ないですから、為念。

3月 6, 2006 at 03:00 午前 |

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受信: 2006/03/09 4:56:14

コメント

茂木先生の怒りというか、不満はもっとものことだ。

このエントリーで茂木先生の言及しておられる「総合への志向性」というのは、まことに僭越ながら自分が思うに、自然と宇宙の真理の全てを引き受けることに繋がる志向性のことを言っているのではないのだろうか。
(間違いならば何卒お許し下さい)

古今東西、津々浦々の偉人たちの思想の、引用の引用などは、茂木先生に言わせれば、エクリチュールの中でゴゾゴゾと蠢くだけの“オタク”“サブカル”でしかないのは言うまでも無く、また困ったことに、この、四方(よも)を海で囲まれたアジアの端っこの島国には、茂木先生の嫌悪されるその「総合への志向性」のない学問、文学、アート、思想がわんわんと溢れかえっていて、「総合への志向性」のあるそれらが「雲隠れ」していて、“探して見つけるのに骨が折れる”状態にある。

周りを見渡せば、近年のポップアートの世界でも「萌え~」「オマエモナー」などある意味「総合への志向性」など全く無きに等しい(私が見て思うに)「何だこんなもの!」と軽蔑するしかないシロモノが溢れかえっている。

『脳科学もまた、“部分問題”を解いている限りにおいてはサブカルになってしまう。
知性とは何か、意識の本質、起源は何かという“総合的問いへの志向性”を常に抱いていなければ、結局は知の地殻変動など起こすことができない』

いくら、この世が何でもありだからといって、こんなに総合への志向性のない(あるいは見えない)“サブカル”ものが学術、文学、アート等のそれぞれの世界で、あまりにも大きな顔をしているのは素人目にも考え物だと思う。

常に総合を志向する「眼」を持とうとされる茂木先生は、脳科学の世界で、知と意識の本質、そしてクオリアの本質と起源を志向する「知の利剣」を振りかざして、ブレイクスルーを成し遂げる為の「知の闘争」を開始されているのだ。

自分自身も、茂木先生の生きる科学界とは全く違うフィールド、つまり、アートの世界に生きようとする者の一人として、アートは何の為にあるのかという根本的な問いへの志向性を常に忘れず、抱き続けてゆきたく思う。
無論、アートもゆくゆくは科学に繋がるものとの思いも抱きつつ。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/03/06 19:28:58

先ほど、遠山啓先生について書いた記事のTBにトライしてみました!!

できたようで、なんだかとてもうれしいです!!

子どもみたいなコメントで、すみません・・・

投稿: TOMOはは | 2006/03/06 18:08:51

「科学大好き土よう塾」

先生の手のひらが
何度も映って
清潔で、あたたかそうで

すぐ目の前に居るようでした。

投稿: | 2006/03/06 17:34:12

かわいらしい黄色いハートマークに、思わずにっこり!です。

さて、具合が悪いと思っていた息子は、ただの寝不足だったらしく
昨日の夕方からご飯も食べずに眠りつづけ
朝ぎりぎりになって突然復活して、登校していきました!
ホントウに、人騒がせな変なやつです!

寝るのが遅いのが原因なのですが
朝なかなか起きれない息子が、いつも前の晩、私に言うのは

「僕の意識が戻るまで、必ずきちんと起こしてよ!」 ということで
寝ている間、彼の意識はどこに行っているんでしょう?

・・・と、あまりにもアバウトな疑問ですみません。

先ほど書きました、遠山 敬先生のことをお話します。

数学者としての先生を、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが

私は、教育について書かれた本を2冊読みました。

「かけがえのない、この自分」
「ひとりひとりを生かす教育 競争原理を超えて」です。
古本を探すと、“遠山啓傑作集”として
たくさんの教育論が出ているようです。

もう25年以上前に亡くなられていますが、
書いていらっしゃること、教育を見つめる視点は
今の教育の課題を、すでに見通していらしたと
私には思えます。

とはいえ、教育は、素人の私などには
“何が出てくるかわからないような森かジャングル”にも思えるほど、深くて広いところのようです。

本来は、生き物たちを温かく育み、豊かな恵みをもたらしてくれるところだと
信じて、期待してゆきたいです・・・

教育界にも、さわやかな風が吹く日がきますように・・・

そういえば、今年の春一番はもう吹きましたっけ・・・?

投稿: TOMOはは | 2006/03/06 16:25:41

「あり得る仮説」ですか。「意識の起源」難しい問題です。
「意識の期限」は死ぬまで。
いつからでしょう。生まれてから?ものごころついてから?赤ちゃんにも意識はあるのだろうか?難しい問題です。

投稿: 54notall | 2006/03/06 10:48:49

総合への問いをダメにしてしまうものがあまりに多いんでしょうね。だからそんな日常のなかで脳はとっても可哀相な立場にいるのかもしれません。現実の出来事も生の流れも森羅万象は様態化して存在しているし、脳にもきちんと様態化して保存されているのに、言葉にしようとすると、カタコトの外語人のようにしか表現しようとしない。様態化=まとまりが壊される分、辻褄を合わせようとして、無理なウソっぽい表現を持ち出そうとする。様態化を様態化のままでとりだそうとする「青年のきまじめ」やムキが必要だとほんとに思います。そう考えると、言語「なんて」たんなる借り物、乗り物に過ぎないことはもっと強調されてもいいんじゃないかな、などと考えてしまいます。

投稿: | 2006/03/06 10:29:26

>もちろんこれは自然の造形の偶然であって、
物質と精神の交流のメルクマールなどでは
ないですから、為念。

どうですかねえ。(^^)

投稿: kensuke | 2006/03/06 6:50:43

ダメなものはできないんです、諸君!
↑ここ、大好きです。

うんうん、わかる~
結局やっちゃうんですけどね・・・。

投稿: ふく | 2006/03/06 4:20:57

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