« (本日)科学大好き土よう塾 (再放送) | トップページ | 壺の中にフラワーピッグがいて »

2006/03/12

どうも低レイノルズ数と関係している

国際高等研究所で行われた
「スキルの科学」研究会でお話した。

京都から近鉄で新祝園に出て、タクシーで。

できたばかりの時に開かれた
意識に関する国際シンポジウムで来た
ことがある。

その時は、私のイギリスの恩師、
Horace Barlowも来て、意識は個人に宿る
ものではなく、むしろコミュニケーションの
中にこそ本質があるという話をした。

終わった後、伊藤正男さんが来て、
「茂木くん、今のバーローさんの話は
どうなんだろう」と言われた。

確かに、一見直観に反するように
思われるけれど、
バーローの真意は、
自分の内部状態をモニターして、
それを他人と共有する、
という意識の働きに着目するという
点にあったのである。

久しぶりに訪れた国際高等研は
時を経て、しっとりとした落ち着きを
見せていた。

偶有性について話したが、
大変だった。

いずれも論客、質問、コメントが続出して、
「なかなか前に進まない」のである。

異様に高い摩擦係数というか、
粘性の高い(レイノルズ数が低い)
水の中を泳いでいるような気分だった。

国際高等研究所フェローの岩田一明さんを
座長として、
神戸大学文学部長の松嶋隆二さんや、
京都嵯峨芸術大学教授の佐々木正子さん、
大阪府立大学大学院の馬野元秀さん
あたりが特に「強力」で、こちらも
対抗してお答えしているうちにヘトヘトに
なった。

休憩前に、やっと「頼みの綱」
入来篤史さんが来た。
脳の話がわかる人が来ると心強い。

後半、「確率概念は脳の働きを記述する上では
限界がある」
という話をした。

「アンサンブル」で記述しているんじゃ
だめで、「相互作用」に基づいての
記述をしなければならないと。

そこにスモール・ワールド・ネットワーク
構造における偶有性の表現がある、
ということが目指すグランド・ストーリーである。

入来さんが、ぼろっと、「僕も本当は確率
なんて関係ないと思っているんだけどね、
脳科学の人はみんな信じているでしょ。僕は
本当は信じていない。でも、そういう話を
できるのは、茂木さんが相手だからで、普段は
しない」
と言われた。

懇親会場に移動する時、入来さんといろいろ
お話した。

「高等研は、やっぱり関西の文化だと思うね」
「どうしてですか」
「いやあ、どうしてと言葉にするのは難しい
んだけど、何となく」

入来さんの言うことは、どうも
低レイノルズ数と関係している。

西に来る度に、もう一つのあったかもしれない
日本を思う。

この週末は、たくさんのテクストを書かなくては
ならない。

締め切り、めっちゃヤバイです。

3月 12, 2006 at 07:28 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: どうも低レイノルズ数と関係している:

コメント

確率には、ある集団からサンプルを採る(?)
というようなところがあると思いますが、

茂木先生の「クオリア」「不確実性」は、
ある1つの集団として、
入れてもいい同質のものか、
入れないほうがいい異質のものか を
扱われてるのか・・と思っているのですが、
違っていたら、訂正願います。

量が満たされれば、
質が問われるようになるのは
当然だと思うのですが。

投稿: | 2006/03/15 12:29:48

この終末も茂木先生は大変な激務をこなしておられるのですね。

質問された方が大変「強力」なお歴々だったそうで、先生の、必死に質問にお答えになる姿が目に浮かんできます。

ご心労、お察し致します。本当に、お疲れ様です。

先日、茂木先生の「プライベートページ」を覗かせていただきました。

その中に「ものごころ~小学校卒業まで」というタイトルのついたページがあって、
「へぇ、茂木先生の少年時代は如何いう姿だったのだろう?」と興味を持って覗かせていただいたところ…。

…かわいい!

…今と顔が全然違って見える!(失礼)

…本当に蝶を追って野山を駆け巡っておられたのか…。

…この、茂木健一郎という1個の人間の中に存在する、自然を畏敬するナテュラリストな1面は、まさにこの蝶を追うという、あの時代までの少年なら大抵誰でもやっていた行為から育まれたのか!

いつであったか、つい先日、稀少種の蝶に対して採集を制限するという、文部科学省だかどこかの省庁が発表したそうであります。

それはある1面から見れば、稀少種を心無いコレクターからの乱獲から護り、ひいては、自然を護るということに繋がるようにみえるが…。
それはもうひとつの面からみれば、昆虫採集は自然破壊につながるという思いこみからきているように思える…。

土にさわらせる、虫に触れさせる…そういうことを国が率先して制限して、どうして子供達の中に自然への畏敬の念が育まれるのだろう。絶対に育まれることはないと思う。

教室という四角四面の空間の中で、CGでも使って虫の生態を教えるべきだ、とでもいうのだろうか。

なにかが、間違っているような気がする。
なにかを、国は勘違いしている。

省庁の人間たちは、きっと自分達が子供時代に、自然に触れたことがないので、そういう規制をもうける事しか出来なかったのかもしれない。

昆虫採集そのものが、本来、自然破壊につながらない行為であるということが彼等には理解できないのだ。

ご周知のようにいまは、昆虫採集をしたことがない子供達が多い。

そういう子供達に自然のすばらしさに触れさせる教材として、昆虫採集はまさにカッコウの教材のひとつのはずではなかったか。

と…ここまで、エントリーとは関係のないことを書いてしまいました。

国際高等研究所で、入来さんが茂木さんに語られた事が印象にのこりました。

「高等研は、やっぱり関西の文化だと思うね」
「どうしてですか」
「いやあ、どうしてと言葉にするのは難しいんだけど、何となく」

高等研=関西文化≒“はんなり”&“こてこて”文化=多様性のある文化。

粘度の高い、ということは、私はこってりしたという意味だと思ったのですが。

関西の文化は、ひとことではいえない多様さと繊細さ、洗練と庶民性が渾然一体となって、それがなんとなく粘度の高い関西独特のクオリアを出会う者の頭の中に立ち上がらせてくれるのではないか。

そういえば、歴史的に観て、関東よりも関西の方が、よそぐにの文化に対して寛容だったような気がする…。

コンペイ糖はポルトガルから入って来たもので、それを始めに作ったのは関西だった。中国文化を受け入れたのも関西、そしてそれを日本独自のカタチに洗練させてきたのも関西だった。日本的なお笑い文化が花開いたのも関西、広告文化も関西が主な発信地であったと聞く。

ひょっとしたら、「あったかもしれない日本」のカタチは関西にあるのかもしれないですね。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/03/12 9:15:24

コメントを書く