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2006/02/17

タラの芽の天ぷら

Kyoto Journalの豊島瑞穂さんに
お目にかかる。

 Perspectives from Asiaという
副題がついており、
表紙とかは、こんな感じである。

http://www.kyotojournal.org/ 

 日本人がやっているのだと思ったら、
京都在住の外国人が中心になって
ボランティアでつくっている雑誌だと言う。

 しばらく英語のブログを書いていないが、
英語で日本のこと、あるいはアジアのことを
書こうとすると、確かに
独特の難しさがある。
 
 開くとパンドラの箱になるようなことなのだが、
 Kyoto Journalの表紙や、デザインのセンスには、
そのようなことを引き受けた上での批評性が
感じられなかった。

 表紙の写真、たとえば、インド人が
携帯を持ってメールを打っていたりすると、
ある程度の批評性が出て来るんだろう。
 
 Perspectives from Asiaと言いながら、
その地域の本人たち(すなわち私たち)が
読むと、違和感を感じる。
 そのことを豊島さんに率直に申し上げた。

 いただいた号に
 「日本でProfessional Gaijinをやること
について」というふざけた記事があり、
 それはそれで面白いのだが、
 あまり美しい世界では
なかった。
 しかし、その美しくない世界が、
今ここに確かにあるのだ。

 大変難しい問題で、日本語圏で、
たとえば文藝春秋にせよ、新潮社にせよ、
ある美意識を突きつめていくと、
どんどん英語的な切り口からは離れていく。
 藤原正彦さんの『国家の品格』
にしてもきっとそうである。
 英訳した時のことを考えれば
わかるだろう。

 その一方で、「英語の目」で日本のことを
見れば、なんだか妙なアマルガムというか
「professional gaijin」
やLost in translationの世界が立ち現れてくる。
 ざけるんじゃねえ、と言いたくもなるだろう。

 このあたりの問題にsensitiveだからこそ、
私は桑原茂一さんがかつて作られた
 Japanese gentleman stand up pleaseなどの
コメディを高く評価するのである。

 いずれにせよ、日本語で表現した瞬間に、
ほとんど自動的に読者が日本人になる。 
 だから、日本の伝統や歴史に関する
自己肯定的な言葉は、どうしても内輪受け
のニュアンスになってしまうということは
自覚していなければならないだろう。

 だからといって、professional gaijinの
世界に行くのも美しくない。
 結局、普遍性を求める努力を怠らずに
やっていくしかない。

 そんな苦い思いを、Kyoto Journalの
頁をぺらぺら捲りながら思った。
 天ぷらでも精神生活でも、
 たまには苦みを処方した方が良い。

 そうだ、タラの芽の天ぷらを食べたい
のである。

2月 17, 2006 at 07:21 午前 |

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コメント

 他の国の言葉を自分の国の言葉に訳す事自体が、現代科学のごとく、近時的な値を出す事しか叶わない時点で、それは仕方のない事のように思われます。

投稿: cosmosこと岡島義治 | 2006/02/18 3:11:46

そうですね、たしかに、英語と日本語とは喋りかたのリズムからして、違いますものね。英国在住留学生さんがおっしゃるように、日本人のメンタリティや考えかたを帰るには、まず言葉のリズムから変えてみるのも一興かと思われます。

さて、英語で日本のこと、あるいはアジアのことを書こうとすると確かに独特の難しさがある、とエントリーにありましたが、日本の、あるいはアジアの(文化面における)繊細複雑なニュアンスを英語というヨーロッパ圏の言葉で表現しようとすると、やはり私達アジア人から見ると、ある種の違和感というものを感じざるを得ませんね。

やはり、ある世界の文化や風俗をちがう世界の言葉で、批評性をもった上で完璧に表現するのは難しいのですね。

19世紀に発行されたものなのか、ヨーロッパ圏の風刺漫画で、日本人がサムライ姿で描かれていたのですが、しかしそれは、我々が見なれたサムライの姿とは何か違うムードをもっていました。

あれはサムライというよりは、なんだか清時代の中国の、金持ちのような姿だったと思います。

他国のことがらを表現することの難しさを引きうけた上でその国の文化を批評性をもって書かないで、ただ面白半分に他国のことを書こうとすると、エントリーにあった「Kyoto Journal」の記事「日本でprofessional gaijinをやることについて」のようなものになってしまうのでしょう。

また逆も真なりで、英語圏のことを日本語で書こうとすると、やはりそこにもある種の難しさが立ち上がってくる筈だと思います。

ましてや、ものごとに対する批評性がなかなか育たないこの島国で、それを批評性をもって書き表すことは至難の技でしょう。

しかし、それをやらなければ、互いに違和感なく(?)それぞれの世界の文化などに対する理解は深くならないのではないのでしょうか。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/02/17 22:53:59

こんにちは。
いつも楽しみに読ませていただいています。

私は、今、イギリスで生活しているのですが、英語と日本語って明らかにリズムが違いますよね。
英語は、意味の固まりのブロックを順番に積み上げて行くような非常に構造的な言語で、話し方も、ブロックごとにダダダダッと一気に話してブツッと切る、またダダダダッと話してブツッ、みたいな感じ。
それに対して日本語は、もっとだらだらとつなげて話すように思います。

で、面白いのは、茂木さんの「日本語を話すとき」の話し方なんですが、かなり英語的になっているような気がします。
茂木さんは基本的に早口でいらっしゃると思うのですが、最初から最後までまんべんなく早口というよりは、文節ごとにダダダダッと早口で話してブツッ、また文節ごとにダダダダッ、ブツッ、・・・・というように聞こえます。
リズムが英語なんですよね。
茂木さんのように、日本語にも英語にも御堪能な方々が、これから日本語のリズムをすこしずつ変えていくことになるのかもしれません。
日本語のリズムが変われば、日本人のメンタリティや考え方にも当然影響が出てくるでしょうね。

投稿: 英国在住留学生 | 2006/02/17 19:41:39

タラの芽のてんぷら・・・    いいですね。

先生は、天つゆで召し上がるのがお好きですか?
えび天もですが、お塩でいただくのも結構お勧めかもしれません・・・

お店で、目の前で揚げたのをいただくような贅沢をすることは、ほとんどありませんけれど・・・

そういえば、最近あまりてんぷらを作ってないことに気づきました。

今朝、ちょうど夫が『国家の品格』を読み終わって、テーブルに置いていきましたので、
さて、読んでみるとしましょうか・・・

たしかに、日本の良さを、日本人が自覚できたらいいと、本当に思いますが
その方法は、簡単なことではないだろうなぁ、と

子どもの小学校での国語教育などを見ても、ついつい感じてしまいます。
(もちろん先生はよくやってくださっていますが、個々の問題ではなく全体の問題として)

・・・話を、身近に戻しますが
いま自分が、こうやって書きながら思うに

自分が読んでいて、無意識的にも心地よく感じていることば遣いが、おそらくあって

すべてではないにしろ、どこかしら、そのことば遣いを取り入れていたりするのではないでしょうか?

私にとって、いま思い当たるのは大村 はま先生と幸田 文さんでしょうか?

それほどたくさん読んだわけでは、ありませんが
そのことばから音の響きやリズムを想いうかべたり、声に出して読んでみたりしています。

私は、日本語しか話せませんので、伺ってみたいのですが

日本語でものを考えるときと、英語を読んだり書いたり、考えるときとは

脳の働き方は、やはり全然違うものなんでしょうか?

その違いの上で、お互い理解しあうというのは、
いったいどういうことなのか、またわからなくなりました・・・

投稿: TOMOはは | 2006/02/17 12:30:05

子供の時 香味野菜や タラの芽のてんぷらの 苦味がダメで 食べなれなかった。
しかし、ある日 セロリや 三つ葉や
タラの芽のてんぷらの苦味がおいしくなった。

おはずかしいけど 今日知りました。
私の住んでいるところでは 
タランボの芽というので 
タランボの芽=タラの芽なんですね。

投稿: いちご | 2006/02/17 11:20:21

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