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2006/02/17

(本日)脳と漫画 第3回

朝日カルチャー講座 脳と心を考える
脳と漫画 第3回
2006年2月17日(金)18:30〜
東京 新宿 朝日カルチャーセンター

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture23.html

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0601koza/A0301.html#

2月 17, 2006 at 08:27 午前 |

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コメント

人の心の状態は息遣いに出る…そうなんだよね。結局は脳、そして心の状態が息遣いにも、また言葉遣いや態度にも表れるのだ。


さて、今回の朝日カルチャーセンターでの茂木さんの授業は他人の不幸に対する男女の脳の活動の差を調べる実験の話とか、(その実験によると他人の不幸を喜ぶのは男のほうだということだ)人の移動とお札の移動の関連性とか、興味深いお話が聞けて、非常に面白かった。
結局それらが漫画に最終的に関連づいてくるのだから面白い。

おまけに「巨人の星」や「アイスエイジ」、そして英国のコメディ2作を見ながら結構笑った。「巨人…」や「アイス…」は明らかに「漫画」だが、コメディも結構漫画的。言葉はわからなくとも、喋りがダダダダダッ!と早口であっても、登場人物の滑稽な動きを見ていると案外笑えるものだ。

英国のコメディは平たく言えば本物のインテリが、アホをやるところに、日本の“ウエットな”人情喜劇との違いがあることを今回見に沁みて実感出来た。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/02/18 0:43:17

はじめまして。
とてもとても素朴な質問なのですが、
もぎけんさんは早起きなのでしょうか?それとも物理的に睡眠時間が少ない人なのでしょうか?(ブログの書き込みがいつもお早いので)

「脳の中の人生」をとても楽しく興味深く読ませていただいています。
メディアに登場するにあたって「解り易く」は必須なのでしょうね。でも脳って本当に偉大なパーツだから未知なる事があって当然と素人は思ったり。
近い将来、How is your brain going?と挨拶するのもありありだと思ったり。
脳科学って歳を重ねれば重ねるだけ興味深々です。
明日のスタジオパーク楽しみにしています。

投稿: 葉っぱ | 2006/02/17 22:39:41

漫画と綺麗と息つく暇なし

日本から発信した漫画が世界各国で受け入れられGNPを押し上げるほどの影響力があると聞きます。かの地の漫画文化発生あるところでは一部のもの好き程度のようです。なぜ この国が抜きん出て漫画の大量発生にいたったかは、養老先生の言われる漢字がそもそも漫画の形式を持っていたということに 理由がありそうです、漢字にルビをつける行為が漫画の絵とせりふの吹き出しと同じ構図だということです。長年漢字の使用で漫画的図像が自然に現れたということです。 だが もうひとつ考えることができます。

日本の美術史を扱った辻惟雄の「奇想の系譜」という美術書は 題名に現れているように日本美術は奇想で成り立っているという。それは 中国の図像が自然を見た通りに描く方法をとるのに 同時代の日本の草花を描いたものは そばの小石も後ろの光景も描かない デフォルメされた花や草が美しいと思える奇想の図像の 差異となって現れています。どうして 日本人は見たとおりに美意識を感じなかったのだろうか。画布の中は別世界として 一度脳内を循環させて意識的に意識したものを描こうと考える癖があるようだ。
それは 見えるものが全てではなくて 一元化することに意識を集中しているように思われます。たとえば 雲の形や波の形を図案化することには秀でたものを感じますが 雲や波の全体を表そうとは思っていないと思われます。商品はたぶん一元化することで価値が現れるのでしょうが そういう行為に思えてしまいます。「あんたのキャラと違うデー」と一元化された他とは違った個性が売れるのでしょう。日本美術はその差異で成り立ってきたように思われます。
その 一元化する日本人の癖が漫画を生んだと考えられないでしょうか?
漫画には全体としての人物像は必要ないとおもいます。それぞれの シーンにもっとも近い表情が表されれば良いのです。それが 日本人が描こうとする表層ではないでしょうか?琳派にも狩野派にもリアリティーに優れたものはあるのですが マヌエリスチックになって図案化することは 漫画化することになってしまいます。
また 西洋ではゴシック時代までは キリストはイコン画として漫画化されていましたがルネッサンスにはリアリティーある聖人に変化してきました。イコン画の成り立ちは詳しくないが 聖なるイエスの聖なる様を一元化したのではと思われます。
16世紀にカラッバジョが道行く人物をキリストに仕立て描いたのはイコンの漫画に飽き足らなくなったのではと思えます。カラバッジョは明暗を自然光でなく 画面の効果を狙って暗いバックを発明しそれがあの時代のスペインからオランダまで瞬時といっていい時間で広がったが、人物には緊張を持たせ 何かに集中している様を信じられないほどリアルに描いています。その迫真が何時の時代にも迫ってくるのです。それは まぎれもなく一元化からは得られない効果です、
しかし 日本の宗教美術はどうでしょうか?

どこのお寺に行っても イコン画と同等な仏像が仏様の威厳を表してたたずんでいます。
仏様に仏様としてのイメージに恐れ入っても リアリティーとしての恐れも威厳も慈悲も感じることが出来ないのは 正真な仏教徒でないからでしょうか?
そのなか 天平時代の仏師が鑑真和上や奈良の東大寺隣にある四天王を 漫画化から影響されずに製作したものがあります。鑑真は後になって芭蕉が見たとき 「若葉もて 御眼のしずくぬぐわばや」と歌ったのです。唐から何回も渡航に失敗してついに失明してまで日本に仏教の戒律を教えようと発願した鑑真像は悲しみに打ちひしがれているわけではありません。それでも 芭蕉はその涙若葉で拭いたいと見たのです。鑑真像はなんとも形容しようがないのです。芭蕉のように 涙とも慈悲とも言葉ではいえません。ただ 鑑真が存在するだけなのです。 世界中のどの彫刻にも負けない強い存在感が僕たちを打ちひしぐのです。唖然とさせるのです。 芸術の最高の状態ではないでしょうか。脳が意識化して言葉に還元できない説得力は言葉の芸術以外に携わっているものの芸術に賭ける思いです。
音楽にもリズムもメロディーも超越して魂とか作曲家や演奏者の思いだけが漂って聞こえてくるときがありますが、そのとき 眼前にとうに死んでしまった作者が現れているのです。
それから年月が経って鎌倉時代、運慶が現れます。その間鑑真がありながらどうしてその流れが消えてしまったのでしょう。運慶までまたなければ ならないのです。 漫画的な仏像だけが大量にだから 民衆的に作られ続けるのです。
運慶の世親・無著は菩薩立像と名づけられています。どうみても肖像ですが仏様なのです。
 1212年鎌倉時代イタリアに先駆けて日本にカラバッジョが現れたのです。この2像の存在はあの聖カラバッジョと並べてみても劣ることはありません。強いて言えば無著には慈悲のまなざしを感じ、世親には宇宙の恐ろしさに観念しようとする気配を感じますが そのリアリティーには一元化の兆しはありません。
その後も彼らの意思を次ぐものはあらわれません。今でも仏師として職業が成り立ち仏様を彫り続けていますが さて 感激して感涙するのは 信心深い信者だけではないでしょうか。
漫画には画像だけでなく物語りという大切な要素もあるのですが 我々は 画像に一元化を求める癖があり そのため 商品化が得意だとか 他人に抱く思い込みが単純だったり
脳化が障害なくすすんだり 有り余る自然に雑草という概念を植えつけて自然を制御することに罪を感じなかったり、思いのほか一元化には功罪併せ持って影響が強いように思われます。

室町時代平織りの織物に綾織りという技法が現れ 織り目の形態の違いに綺麗という字を発明しました。派手でうつくしいこと、嫌悪感を誘う濁りや汚れをとどめないさま、と広辞苑にでています。それまでは うつくしい 美しい 愛しいと肉親への愛から ちいさなものへの愛 可愛らしい 慈愛(うつくしび)と使っていたものが 可愛らしくない美しいものを綺麗と言ったととれます。それから 大声で 「綺麗にしなさい!」と変化するのです。
古語辞典によると「うつくしい」はいつくしみという言葉からうつくしいに変化したようですが もともとは 肉親への愛 わが子への愛がうつくしいの本来的意味合いだと思われます。わが子を育てるとはきれいごとですむわけが在りません。
綺麗とうつくしいはそういう違いがあって使いわけられていますが 実は 使い分けられていないのではと思い至るようになりました。
なぜなら 綺麗は一日に数回使われますが うつくしいは一年に数回使うでしょうか?読書癖でもないかぎりうつくしいとは言わなくなっているのです。
思うに 漫画化一元化から うつくしいは遠いのです。うつくしいと感激したとき時として汚れや濁りも包摂する場合があるからです。現に子育ては大便も小便も子供が出てくる上下に通じていて だから 子を降ろすとき大中小の間の中絶というのですかね?とは冗談ですが。そういうものも含めてうつくしと言ったのです。
しかし 現在 匂いも汗もほこりも汚れも 人間の特質の一部を嫌悪する時代となってしまいました。それで 愛だとか 尊重だとか敬愛だとかの感情が変化なく続くわけがないと思われます。他人に自分の望むところのみ求めるのは ひとを全体として見る癖がないことを意味します。一元化のもっとも危惧するところは 人格形成にも関わる ひととはどういうものか を問うことのないところにあると思われます。ひとを漫画として愛するということです。
 綺麗な建築が最高の状態で今に至って 綺麗なものとは大いなる規制を受けて成り立ち その故 その空間は住まい手にきれいにしろ!と規制をかけているのです。
ビニールクロスと塩化ビニールの印刷した扉とその木目の枠、床は塩化ビニールか 木とも思えないフローリングでプラスチックの冷蔵庫にライトにパソコンに机とくれば すべてが おめえ きちんとしろよ!と毒づいていることを感じないでしょうか?
時には 古い農家や明治時代の洋館に入って自分の気がリラックスしていることに気がついてもらいたいものです。
自然とは我々に規制をかけない環境です。それは 全体だからでないでしょうか。上記の家の素材は商品化された一元的意味しかもっていないのです。たとえば 室内に左官材や木や紙や畳で構成されていれば それぞれは 自然材を手入れして作ったものと 自然材を創造もできないほど加工したものでは 人の感受する質感の差異は歴然です。我々は機能に感謝してもすぐになれてしまい 質感によってのみ感動すると知るべきです。
山登りをして早朝雲の切れ目から光が漏れ始め黄金色の太陽が覗くと 人は手を合わせて涙するといいます。自然との邂逅にもっともエクスタシーを感じるとイギリスの科学者の研究結果があります、ちなみに2番目は愛だそうです、エクスタシーを導くトリッガーの研究ですが 次は法悦 運動 回想 知るとき 創造 とありますが 当然美しいものを見たときも上位に入っています。だが かなしいかな 早朝太陽を拝んだ人々はうつくしいとは発せず きれいねーと言うそうです。
うつくしいと言うとき対象と自分が一体感があるとおもいますが 綺麗というとき一種突き放し一体になることを避けているように思います。たぶん 涙する人は何事も発せず手を合わせるのでしょうが。自然との邂逅に綺麗と使わざる得ないことに何故か危機感を感じてしまいます。
綺麗とは大脳皮質が言わせ うつくしいとは大脳辺縁系がつぶやくと言えるかもしれません。
ドイツの思想家フランクリンは充足した状態は心臓の周りの環状動脈が勢いがよいときと書きます。それは 自然の赤や紫の花々や 白い雲や 小川のせせらぎなどを感じたときの状態だといいます。明日遠足だからうきうきしていても 動脈に変化なく充足の状態でないと、フランクリンはナチの収容所の中でそれらを見て感じる人に生き残る可能性が高かったといいます・。充足感は満ち足りた状態のことです。
我々は言葉の発達によりサバン症的特質した記憶力だとかをなくしたといいますが、石器時代という長期の経験記憶が未だ優勢で大脳皮質のいうことなんか聞くものかという側面があるように思われます。一元化を編み出した日本人が良くって一元化にしたのだろうからそのまま一元化に賛成していれば いいのにとも考えられますが(きっと先鋭の科学者は大脳皮質サイボーグを作りたいでしょう)
しかし 仏教ではひとは大脳皮質に頼らず大脳辺縁系にまかせると考えているようです。仏教が石器気質なゆえんです。何も無い 空とは般若信教にたびたび出てきますが なぜか 狩猟採集の時代のことではないかと思えてしまうのです。
「わたしの幸福は野蛮に由来し 私の不幸は文明に由来する」ということは 山登りしたり、水泳したり 格闘技したり 紅葉をめでたり 温泉にはいったり 木の家にこだわったり 釣りをしたり 狩猟をしたり これらはみな 石器時代の経験記憶に違いないと思います。野蛮を味合うことは 自然への愛着なのだと思いますが、一種居心地のいいものと感じても 人が綺麗に作ったものでないと受け入れられなくなっているのは コンピューターが大脳皮質の代わりに活躍している現代が経験記憶を無意識の奥の奥にしまったとしても そのほうがかえって 現代人の行動にトラウマとして影響するだろうと思います
 

 東京芸術大学の保険の先生であった三木茂夫先生は 東大での講義で何十億年もの生命の発生の時間を胎内にいる時間に味わうと語り その宇宙的な語り口に聴衆は涙する人もいたと伝えられていますが、かの先生 人の心は息にあると言います。
息苦しい 息切れ 息詰まる 息抜き 自分の心と書いて息と読むのです。緊張したとき人は息をしていない。それを息詰まりといいます。そのとき深呼吸するとこころが晴れる 息が抜けたのです。息が合うとはこころが通じるともいえます。
われわれ 日本人はこころはどこにあるのかと問うと 脳の中にあると言うか胸を指してここにあるいいますが、息遣いがこころの状態だったのです。そのこころが息つくことなく詰まり続けているのが今の現状ではないでしょうか
 

投稿: 近藤 クラヒト | 2006/02/17 17:19:51

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