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2006/02/05

チューチュー。

実に久しぶりにまともな時間分眠る
ことができた。

 身体も心もほぐれたところで、
朝コーヒーを飲みながら
思い出していたのはなぜか「チューハンター」
というゲーム。

 ネズミが右から左に走っていって、
それを電子銃で撃ち、当たると
「チュー」といってネズミがひっくり返る。

 デパートの屋上にあって、子どもの頃
やるのが好きであった。

 「チューハンター」という
語源も良い。
 外人に「チューハンター」の「チュー」
とは何か?
 と聞かれると、きっと面白い。

 珍しく、自分が出た「世界一受けたい授業」
も生で見ていた。

 子どもの頃野球に夢中になったというのは
本当のことである。
 勉強はさほど苦労せずに出来たから、
情熱はむしろスポーツに向かった。

 公園の壁に向かって、延々と
「投球練習」を繰り返したのを
覚えている。
 「巨人の星」放映開始が
小学校1年生の時で、
 本当に夢チューになって見た。

 あの頃は、案外、スポ根少年だったと思う。

 先日、小澤征爾さんが休養に入った
というニュースにとても心配になって、
同時に、息が苦しいところとか、
身体が弱っていくところとか
想像していたら、自分がやがて
死んでいく時のことがリアルに想像できて
地下鉄に乗っていながらとても
息苦しくなった。
 
 一年に一回くらいはそういうことがある。

 精神はきわめて安定している方であるが、
時々は致死率100%という重い現実に
 いやだ〜
と叫びたくなることがある。

 そんな時、どんな風に抜け出るか
というと、「熱チュー」である。
 我を忘れるくらい何かに集チューすれば、
 たいてい大丈夫だ。

 ジジイになって
 死ぬときも、何かに熱チューしながら
あの世とやらに行くことにするか。

 しかし、熱チューするにはきっと
エネルギーがいるのであろう。

 チューハンターに戻るが、
あの機械がもしどこかで動いている
というようなことがあるんだったら、
 ぜひチューハンターに熱チューしてみたい。

 白熱の時代が、今すぐそこに来ている
ような気もする。  

2月 5, 2006 at 08:29 午前 |

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コメント

こんな情報が有りました!御存知でしたでしょうか?
本日、何故か私の頭の中に突然沸いて出てきたチューハンターw
突然沸いて出てきた記憶に懐かしさを覚えつつ、PC検索したところこんな物が・・・。
当時、報酬のクソ不味い景品wをゲットして大喜びした記憶が鮮明に蘇りました。
こんな経験も、きっと脳にとっては良い経験なのでしょうね。

http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/hyperlink/setframe_creators_kasco_shi1.html
http://www.youtube.com/watch?v=fDixmYAdNhM&feature=player_embedded

投稿: 一世 | 2012/05/05 9:27:11

>  いやだ〜
> と叫びたくなることがある。
いっしょだよ。
かの地に生まれたかもしれないと同じくらい、
いっしょだよ。

久しぶりに十分な睡眠がとれたとのこと、安堵しました。
くれぐれもお大事になさってください(むずかしいことと思いつつ)。

投稿: nana | 2006/02/06 23:26:40

身近な人の生きる姿を見たりして
自分の年齢が、人生の折り返し地点にきていると心理的にも身体的にも、感じたのは
つい最近のことです。

実際、「頭で思っているほどに、身体が動かない」ということを、
自覚するときがくるということは
若いときには、思いもよらないことかもしれません。

でも、その時その時の「身体の声や心の動き」に、耳を傾けることを意識していれば

案外、恐れることはないように思います。

生きていくことに困難を持つ子どもの親は
「私の死んだあとの子どもはどうなるのか」大きな不安をもつと思います。

私も、その不安は持ちながらも
そのために今できることは何かを考えて、できることからやっていくしかないと思っています。

そして今、その何かをやり続けることで
きっと、私一人ではできなくても一緒に手を貸してくれたり
新しいやり方を考え出してくれる人が必ず出てくると

最後は、楽観的になるしかないかなぁと思っています。

子どもにも「お母さんが死んでも困らないように、自分のことは自分でできるようにしよう。
困ったときには、誰かに聞いたり、助けてもらえるようにしよう。」
ということは、意識して伝えています。(できていないことも多々ありますが・・・)

いざ自分の死を前にしたときどうなるかは、今悩んでも仕方がないので

今思うには、「死ぬときどうなるのか、最後にどんなことが観察できるのかを
最後のテーマとして、意識しながら生きていく・・・」

なぁんて言うのは、のんきすぎるでしょうか???

投稿: TOMOはは | 2006/02/06 10:14:30

「死はそれが来たときに考えればいい」という名言があるそうですが、これも不正確なようです。当人に絶対体験できないことはふたつ。誕生の瞬間と死だそうです。つまり、これはまわりから、他者の目でしかとらえられない、とバフチンは言います。ということは、本人には終わり無き生の連続としか体験できない、「閉じる」知覚は本来、他者からのものということのようです。むしろ実感としては、目が悪くなった、突き指した指が曲がったままになってしまったなどという小さな有限性の自覚がそれにあたるのかもしれません。今日一日やることが「適度に」あるなあ、というのが生の連続感としては一番かもしれません。激務というのは、ほとんど他人から閉じられる経験ですから。

投稿: イガラシシゲル | 2006/02/05 9:28:22

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