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2006/01/29

サブカル

新宿で日本テレビの竹下美佐さん
と落ち合う。
 2月4日放送の「世界一受けたい授業」の予告番組(2月3日、16:00
〜16:30)のコメントを撮影。
 
 寒風の中、住友ビルへ。

 朝日カルチャーセンターの講座。
 開始早々、「5時までの四時間ですので、
途中で休憩を入れて・・・」
と言ったら、担当の神宮司英子さんが、
「えぇっ、先生、2時間ですよ!」
と。

 思わず、唖然。
4時間の講座だとばかりかたく思いこんで、
その分のマテリアルも用意してあったのだ。

 気を取り直して、厳選した内容を
提示。
 ちくま新書「脳」整理法
に基づいた講座で、
 本の趣旨をさらに発展させたもの。


 まず、スケールの変化に基づく宇宙の変貌を
描いた古典的名作「Powers of ten」(1977年)
を見て、世界知と生活知の話を始める。
 「人の心がわかる」ためには、相手に共感する
能力と、論理的な思考能力が両方必要であるという
話。
 数学の問題をいくつか解く。

 小津安二郎の「お茶漬けの味」を見る。

 現代社会においてもっとも必要とされる
のはコミュニケーション能力と創造性
であり、
 その創造性の研究のモデルとなっている
「コントロール可能なひらめき」
の事例として「アハ・センテンス」を
紹介。

 実際に、自分たちで考えて、それを
お互いに「見破り」あう「アハ・破り」
をする。

 榊原淑子さんの作品が一番素晴らしかった、
ということで、賞品(『プロセス・アイ』のサイン本)
を献呈。

 懇親会は、筑摩書房の増田健史や、
NHK出版の大場旦、幻冬舎の大島加奈子さん
や筑摩書房の伊藤笑子さんなど、いろいろな人が
入り乱れた。

 京王プラザホテルの「樹林」で
大場旦を前にしていた時、
突然「そうだ!」
と思って、
 思想系なんてサブカルじゃん!
と言い放ってしまった私がいた。

 これには伏線があり、増田健史や
大場旦と話していると、いつも日本の
思想系の学者、書き手の話になり、
 こちらもそれほど多くの本を
読めるわけではないのだが、 
 勉強になると思って何時も乗って
「抵抗」しているのだが、
 そういえば別に世界全体を引き受けて
いるわけじゃないじゃん!
 と突然反撃したくなってしまったの
である。

 ここに言う「世界全体を引き受ける」
とは、つまりこの宇宙の因果的運行を
含めて存在論と認識論の交錯する場所
から何かを考えるということで、
 日本の社会思想系の書き手は、
皆さんそれぞれexcellentではあるけれども、
決定的に因果的運行を記述する知と
しての自然科学的、数理的知に欠けている
じゃん!
と私は思ってしまったわけである。

 私の最近の「サブカル」の定義は、
世の中に「上」と「下」があって
その「下」の方、ということではなく、
全体性を引き受けずに部分的な議論で
済ますもの、という風に変化しており、
漫画でもアニメでも、全体性を引き受ける
ことを志向するものはサブカルではないの
である。

 その意味で、難解な言葉を用い、
マルクスやヘーゲルなどなどの
古今東西の思想家を引用して現代社会に
切り結んでいるかのような現代の思想の
言説のかなりの部分は、コップの中の
嵐のごときサブカルじゃん、それに
自覚的ではないのはダサイじゃん、
と大場旦に申し上げてしまったのであった。

 このあたりの断絶は、特に日本に
おいて深い。
 我が友竹内薫の苦闘の理由も、
そこにあるのではないかと思う。

 その前の議論で、なぜ薄い本ばかりが
売れるのか、ということを話して
いたのだが、
 つまりは全体性を引き受けるような
骨太の知がないからじゃないか、
と私は自己反省な意味も含めて覚醒した。
 
 これは立派な知の本だ、と衒っている
ものたちも、
 実はタコツボという意味で、
心あるものの批判を浴びている薄味の
ベストセラーとさほど変わらないのだろう。

 一億総サブカル化現象を抜け出す方策は
結局はまっとうな本道を疾走することであった。

1月 29, 2006 at 09:35 午前 |

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コメント

よくぞ仰言って下さった!
まさに「まっとうに本道を疾走する」ことこそ、今日顕著な日本の閉鎖的「一億総サブカル化」を抜け出すことに尽きる。
茂木さんはまさにそのようなお一人なのだとこのエントリーを読んで思いました。

今どきの、日本の思想系のホトンドの人がのたまわっていることって、「世界全体を引き受ける=宇宙の因果的運行を含めて存在論と認識論が交わる場所(もしくは交わる点)から何かを考える」ということをしてなくて、みんなバラバラの「視点」から、しかも「コレが全て(All of
them)だ!」という調子で語っちゃっている感がどうしてもある。

宇宙の因果的運行は、宇宙の生命の法則そのものに則ったものだ。

日本の社会思想系の書き手たちは、そのことに気づいてないのか、または「ワザとハズシて」我々一般大衆から見て普遍性があるのかないのか見分けがつかない考えを“自己主張”しているのに違いないのだ。

無論、そんな自己中心的な書き手ばかりではないのだろうが。

このエントリーで茂木さんの最近の「サブカル」定義が示されているが、世の「上下」を含めて世界の全体性を引き受けることなく、部分的(コマギレ的)な議論で済ましているというこの定義は、たとえば、TVのワイドショーで喋っている各界のコメンテーターの発言や、書店に氾濫するもろもろの書籍、あるいはネット上で流布する文言や情報に散見されるような気がする。

我々一般大衆がその意味を測り兼ねるような、難解な言葉を弄し、マルクスなど古今東西津々浦々の思想家の文言を(自分の論理を説明するのに都合のよいカタチで)引用して「現代社会に切り結んでいるかのような」現代の(とくに日本の)思想の言説のかなりの部分は、まさに言われる通り、「コップの中の嵐」もしくは「タコツボ」でしかなく、我々大衆はそれにまどわされてばかりいる、のではないのか。

そんなせせこましい「コップの嵐」「タコツボ」系の思想が多々溢れる中、いったい誰の言っていることが「本道」なのか、を見極める我々の心の『眼力』がいま、問われる時代にきたのではないか。

また同じエントリーの中で「薄い本」という記述があったが、ここでいう「薄い本」とは単に本のページの数から繰る厚みではなく、その思想の高い、低い、浅い、深い、という4つの視点から見て「薄い」と断じた本なのだろう(違っていたらすいません)。

そして、そういう本をみんなが買うことによって、タコツボ的な一億総サブカル化が進んで行くのに相違ない。

他者(個々人だけじゃなく、他国、他の生物なども含めて)とコミュニケーション(関係性)をいよいよ高めてゆかなくてはならないこの21世紀に、日本だけ、タコツボのようなサブカル世界の中に閉じこもる(引きこもる)のはいかがなものか。

そう考えさせられざるを得ないきょうこのごろである。

投稿: 銀鏡反応 | 2006/01/29 11:52:23

 部分的に突き詰める事で、全体への見方が変わるということもあるんですけどね。
 サブカルを全体性へと結びつけるのは、受け手側の心構えしだいなのではないかと思ったり。

投稿: cosmosこと岡島義治 | 2006/01/29 11:09:58

現代思想がサブカル系と言ってしまった人は初めて?でしょう。しかしホントにそんな感じもありますね。現実の対話のコンテクスト内の関連から語や言説を切り離してしまえば、無限に多義的に解釈できるし、差延を続けられる。んなものは、話の文脈の中にもどせば、猿にでもその意味を確定できることを、あえて、エクリチュールとやらの自閉空間だけでいじくりまわし、知的に戯れる。エクリチュールオタク系ということかな。

投稿: イガラシシゲル | 2006/01/29 10:35:26

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