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2006/01/23

脳の中の美を求めて -相互作用する個物はいかに再び個物となるか-

Lecture Records
 地中トーク
 茂木健一郎
 脳の中の美を求めて -相互作用する個物はいかに再び個物となるか-
 直島 本村ラウンジ&アーカイブ
 2006年1月21日

 音声ファイル(MP3, 40.9MB, 90分)

1月 23, 2006 at 04:51 午前 |

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受信: 2006/01/25 0:58:38

コメント

音声ファイル、聞かせていただきました。非常に面白かったです。確かに文脈に従って私たちは行動の様相、人格までを変えてますね。芸術の分野においてもこれが欠くことのできない要素であるという話、本当にそうだと思います。
美のことを考えるとき、例えばモーツアルトの性格やその曲を作成した際の逸話などが、自分に与える感動の一旦を担っているのが否定できません。(これは作品の味わい方としては低レベルなのかもしれませんが)。科学者の理論に感動した後に、その人の生い立ちを知りたいとは思うことは少ないのですが・・・。
美=喜びと表現してはだめでしょうか?こんなにも多くの人が美を追求する世界に携わるのはみな喜びを求めてやってることですよね。たとえその作品が醜悪な様相で表現した美であっても、それを多くの人が美と認めている作品では、多くの人がその作品を見たときに脳の中に快楽物質があると考えてよろしいでしょうか?それとも美のなかには頭の中に不快物質(苦)を呼び起こす要素を含んだものがあるのでしょうか?自分は基本的に美は喜びをもたらすものであるとおもうのですが。
そう考えると、人間の脳の「万人が喜ぶ法則」というものがあるのかどうか、という命題が脳の中の美を考える上で必須のような気がしました。よく価値観はそれぞれで、ひとの喜びは千差万別という話を聞きますが、飢餓状態の時に食事をとるのが万人の喜びであるように、ダレもが喜びに感じるように人間に(神によって?進化の過程で必然的に?)勝手にinputされた法則を探し出すことが大切のようにも思えてきました。
小説「夏の砦」のなかで辻邦夫さんは、文脈に支えられていない美を「自ら激しく緊張して持ちこたえている力業」と批判的に捉えていらっしゃるように思います。美をただ感じることは命がけで、大変なら「美=苦」という場合も存在するのでしょうか?
とても刺激的なお話だったのでこんな夜中にいろいろ考えてしまいました。長文失礼しました。先生の著作等、未だ目を通しておりませんので場違いな書込みになったやも知れませんが、お許しください。明日書店行ってみます。

投稿: | 2006/01/25 2:28:17

直島のお話を、音声ファイルで一とおり伺いました。

とても気になるキーワードがたくさんあって
今すぐには、感想をお話できないです・・・

とりあえず、「喪失と獲得」をチェックしてみます。

さて、モーツァルト生誕250年とのこと

私は、単純にモーツァルトを聴いて楽しんだり
リラックスしたりしているだけですが

小林秀雄氏の書かれたものを読むと、ほんとうに、強く惹きつけられて
何とか理解したり表現したりなさりたいという passion のようなものを感じました。

それから、モーツァルトについての記述と
以前に見た、アマデウスの映画の記憶から

とんでもないことを感じてしまいましたが
ここに書くのは、やめておくべきでしょうか・・・

(サヴァンといわれる能力から、モーツァルトを連想するなんて!)

やはり、場違いな発言だと反省しています・・・

うちの子の、ちょっと変わった特技をお話します。

楽器の演奏など、特に習っていない男の子ですが

たとえば、ハリーポッターの劇中の曲などが、別の番組のBGMで流れたりすると
(私たちが聴いて、すぐわかるような有名な部分でなくても)

すぐに言い当てたりすることができます。

まぁ今だけの能力なんでしょうけれど・・・
この先、何かひとつでいいので
彼にとって、これは!というものが見つかるといいと想っています・・・

投稿: | 2006/01/23 15:44:46

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