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2005/11/07

blogの更新の時間とれず

神戸から東京に戻り、研究所へ。
取材、その他。
これから島田雅彦さんとの対談なり。

11月 7, 2005 at 05:28 午後 |

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コメント

完成されたクオリアが最初からあって、あとはそれを私たちが見つけるだけだ。
というお話を聞いて、仏師が今から彫ろうとする木の塊には、もう仏様がいて、後はそれを自分が取り出すだけであるというのを思い出しました。

自分の個人や個性を表現していくのではなくて、いかに自分を自分でなくしていくかを考えた時に、否応無しに、今まで自分が生きて来た文脈を引き受けていくんだなぁと思いました。
クオリア発見の為の装置として、自分はいるのだと思いま
す。

まだまだそんな風にはいたらないけれど、自分がそんな存在だと思うと、少し自由になった気がします。

と、シーシュポスの神話の男と同じなんですね。

全然関係ないけど、茂木さんの話し方を最初聞いた時に、宇多田ヒカルと似てるなぁと感じました(笑)
頭や心の表出に、口が追っ付いていかないような、そんな印象です。

良い時間を過ごさせてもらいました。
ありがとうございます。

投稿: 西永 昌代 | 2005/11/09 0:06:28

こんばんわ。初めまして。


今日、一番印象に残った
遇有性→クオリア

私には
個別−普遍
とほぼ同じように聞こえました。


普遍は、多数決で決めるものでないなら
何なのでしょうか。


よいものはよい、と言い切ってしまいたくなるのですが
何なのでしょうか。


私は、デザインをしているものでも
何かを世に生み出そうとしているのでもないですが
話を聞きに行きました。

私の生活は平凡だったり奇妙だったりする小さな「個別」ですが
デザインやクリエイティブ、アインシュタインなどの
話が関係なくないのは、そこに語られている「普遍」が
あるからだと思います。


ゴッホは、別に「みんな」の評価が欲しかったわけでなく
一番に、自分の描きたいものを追求していくことを
していたと思います。


個別を徹すれば普遍に到達する、
そして普遍=大多数 ということではない、ということは
「よい」というのは「美しい」というのは
いったい何でしょうか。


だから
美しいものが、性淘汰につながっているという「説明」では
個人的に納得いきません。(よね?)


好きになれば、あばたもえくぼ
のようなことが実際はほとんどだと思うからです。


人生を活発に動かしているのは、
大多数の決める美よりも
前提となって見えにくい個別
ではないだろうか。


美しい人がいるのでなく
美しいと思う人がいる。

ペタペタと複数の色が塗られた物体を
絵として合成しているのは
こちら側なら、


個別の私に普遍に通じるものがある。

「美しい」と感じたら、他の人がそう感じなくても
普遍でなかろうか。
何とも思わないものは、いくらでもある。


対象と自分の間に生じるもの
それが 茂木さん、脳化学の方が言われる
クオリア なんでしょうか。

私の文脈で考えました。


デザインシンポジウムに来て、
「他の文脈に入っても、楽しみたい」。
私にとって、他の文脈とは
他でもない、他人です。


ちょっと励まされた気がします。


ありがとうございました。


お元気で活躍なさってください。


投稿: tak/ako | 2005/11/08 21:18:27

こんばんは。
昨日は、茂木先生にお会いでき、お話しもたっぷり聞かせていただき楽しい日になりました。
おかげさまで、私の脳に「茂木先生を思い出す→ドーパミン」の回路ができました。
ありがとうございました!

「ミラーニューロン」について、お時間がございましたら、書いていただけるとうれしいです。

とてもお忙しそうです。どうぞお身体にお気をつけてご活躍くださいませ。

投稿: キャトキン | 2005/11/07 17:43:20

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