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2005/10/11

木枯らしが葉を散らしてしまう前に

一日中雨で、家の中で仕事をしていた。
 この季節、もし晴れれば、一つのイメージがある。

 中学校の時、みんなで河川敷に遠足をした。
臙脂色のジャージを着て、今考えればみっとも
ない格好をして学年の全員でとぼとぼと
歩いていったのだが、
 いったん河川敷に着くと、
そこにはススキがあり、穂に当たる
太陽の光があり、
 トンボが飛んでいて、コスモスの
花が揺れ、 
 とても気分の良いところだった。

 あの時、気の合う仲間とはしゃぎながら、
気になる女の子がどこにいるのか
時折意識しながら、
 なんとなく、「こんなことは人生で
これから何回でもあるんだ」
と思っていたが、
 実際にはそんなことはなく、
あの日と全く同じクオリアは戻って来ない。

 過ぎ去った時、死者の世界は
その気になれば何回でも訪問することが
できるが、
 生きている今この時は、精細に見れば
全てが一期一会であって、
 こんなことは人生であと何回でも
ある、
 などと油断してはいけないのである。
 
 とここまで書いて、そうだ、今日は
新聞が休刊日であった、また間違えて
取りにいってしまうことはないように
しよう、と肝に銘じた。

 それにしても、あの日の楽しさを
もう一度疑似体験することくらいは
できるだろう。
 秋のプライムタイムは桜と違って
案外長い。
 木枯らしが葉を散らしてしまう前に、
ススキやコスモスの中を歩く時が
来ればよいのだけれども。

10月 11, 2005 at 06:00 午前 |

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コメント

一期一会…。長いようでみじかい、みじかいようで長い人生で、「あの日あの時体験したことをもう一度、体験したい、感じていたい」と思っていても、やはり実際にはそんなことはなく、まさに一期一会なんですよね。
あの日感じた時と同じクオリアは、2度と感じることはできない。しかし、
>それにしても、あの日の楽しさをもう一度擬似体験することくらいはできるだろう。
思い出の地に行って、あの日のことを思い返したり、あの時はやっていた音楽なんぞを耳にしたら、「思いかえす」というような形で、「あの日」感じたことを擬似体験できるのかも。
この記事の中で「河川敷」(荒川の河川敷のことなのかな)が出てきたけれど、実はつい最近だが、自分も多摩川の河川敷をブラブラ歩いたことがあります。風が本当に心地よくてこおろぎやキリギリス、馬追いなどの声があちこちから美しい合唱として鳴り響いてくるのです。あの時感じた素晴らしさは深い印象として私の脳髄に刻みこまれています。(わが自宅の近くではだいたい1種類のムシの声しか聞こえてこないのです…何とも貧相であります…)
クローバーのたぐいやモンキチョウ、小さな豆バッタに遭遇できました。あの時出会った彼等にはもう2度と会うことはないけれど、来年の同じ時期に多摩川へ寄った時に、あの時感じた爽やかな風のクオリアと共に、彼等と出会ったささやかな喜びをも「擬似体験」として思い返すのでしょう。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/10/16 8:34:55

木枯らし日記の「クオリア」に深く感銘しました。

いつも不思議に思っていたのは、「自分自身は全く変わらないつもりなのに、なぜか同じ風景や同じ道を歩いていても違ってみえる」ことがあるのがとても不思議でした。


あと、「あの日あの時のあの感覚をもう一度体験したい」と思っても体験できない。
でも、本や映画をみたりすると確かにバーチャルで、そこには字や映像しかないのに、日常とは別のものを感じることができる。

「Aという感覚を感じたい」と思った時に、Aの体験ができる、というような、コトが可能になったらすごいことだと思います.

(上手く表現できてないかも.ごめんなさい)

投稿: み | 2005/10/15 23:05:19

はじめまして。以前テレビでの授業を拝見してから、とりこになっています。
ということでTBさせていただきました。

『過ぎ去った時、死者の世界は
その気になれば何回でも訪問することが
できるが、 生きている今この時は、精細に見れば全てが一期一会であって、 こんなことは人生であと何回でもある などと油断してはいけないのである。』

うーむ、なるほど。
過ぎ去ったとき、死者の世界はなんどでも訪問できる。と言うくだりになにか不思議なものをかんじました。ちょうど今深く考えていることへの鍵になりそうです。

投稿: double face-d | 2005/10/14 13:34:46

モギケンさん、はじめまして!
今日のクオリア日記、ちょっとじーんとしてしまいました。その時感じているクオリアは*本当に*その時だけのものなんですよね。。。また、いつかなんて思わず、毎日の一瞬一瞬を大切にしたくなりました。

ところで、モギケンさんのミクシィの日記、以前はこちらのブログにリンクしていたのに、ミクシィでも更新されているんですね!そちらも楽しみにしています♪

投稿: カワミチ | 2005/10/12 0:37:23

考えてみると、風流というのをみんなが貧乏だった時代にもふつうの家庭でやっていましたよね。戸を開けて、月見団子をつくり柿を供えススキの穂を飾る。この団子をガキどもは家々をまわり隙をねらって釣り針で釣っていく。家の人も警戒はしていましたがうまくやられたら大目に見ていた。このススキを土手に取りに行かされました。明日の飯にあくせくした生活だったと思うのですが、そこだけ異質の空間がありました。
私の記憶で生々しさを失わないクオリアは、トマト畑の並んだ支柱のなかにいる小さい私です。その記憶のなかで、トマト畑のあの青臭い匂いがそれはもうしっかりしっかりいつでも取り出せるのです。そしてその匂いを思い出すということが、生命の元気を呼び戻してくれるものとしていつもあります。そのおかげで、私はあのとき食べた青臭いトマトが、トマトの原イメージとしてすり込まれ、青っぽくてしかし中は身がしっかり熟れているトマトをいまでもまぶたの母ではなかった、永遠に追い求めているのです。我ながらつくづく不思議です。

投稿: イガラシシゲル | 2005/10/11 18:51:30

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